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讃岐富士の麓に、鷲住王が住んでいました。高位栄達を好まず鄙賎と交はり、力業を楽しみに暮らしたそうです。 履中6…
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応神天皇の時代
建振熊命の子の建振熊宿禰の時代から丹波の一族は海部(あまべ)と称するようになる。
この神社は、金比羅五街道のひとつ丸亀街道をすすみ与北の茶道、公文山をすぎると見えてくる。
西讃府誌を編纂した秋山惟恭が祠官であった事でも有名で、神社の一角に秋山家廟がある。
神社誌によると、昔は上下櫛梨の産土神。
昔、祭祀は三日間で、總社(櫛梨神社に合祀)の御神霊、櫛梨神社の御神霊、大歳神社の御神霊の順番に御神輿に移御し行列を整えて塩入村(仲南町)の御旅所に向かう、この間には百七の鳥居があったとある。塩入村の神社
神輿渡御の際には、御旅所で一泊し翌日還御するのを例とし、祭儀は厳重を極めたが、安永年間より此の神事は中断し、大歳神社は上櫛の産土神、櫛梨神社は下櫛の産土神になったとある。
塩入までの距離は、直線で12キロ以上あり、かなり大変な神事だと想像できる。
鳥居は距離から計算すると、100メートルごとにあった事になる。
その昔、景行天皇の王子神櫛王が南海に巣くう悪魚の討伐戦勝を神に祈願していた折、1人の翁が現れ王子が「この地に神おわすかや」との問いかけに、翁答えて曰く「この地に二神あり、一に大麻、一は大歳の神なり」と
王子大いに歓び大麻、大歳の社に詣で両者の御神霊を祭神として移御し奉ったと、大麻神社の古記には識されている。
それ程に大歳神社は、旧い創祀と悠久の歴史、格式を有する古社であり、大麻神社とは深い縁でもって結ばれている。
上櫛梨の地名は、神櫛王の御名に、また、大歳のやしろ名は、上櫛梨の産土神である大歳の神に因む由緒を秘めている。
近世に至っては、丸亀藩主の金比羅参詣の途上には、決まって当社への参拝奉幣がなされていたし、また、当社の御旅所が遙か塩入村(現仲南町)八丁谷七曲の在所にあって、その道すがらには他に比類なき百七基のの鳥居が寄進されていたが、それも十八世紀の安永年間の頃には御旅所ともどもその姿を消した。
しかしながら、今なお御輿渡御休みの石積跡が保存されていて往時を偲ぶよすがになっている。
オオクニヌシはスサノオの末娘、スセリビメの婿で
スサノオは義理の父にあたる。
ところが、古事記ではそのように記されてはいません。
一緒に国造りを進めたスクナビコナが去りオオクニヌシが途方に暮れていると
別の神様が海からやって来て、
「私を御諸山に祀れば国造りが完成する」といい
オオクニヌシはその通りにします。
その祀った場所が現在の奈良県桜井市の三輪山で祀られたのが、大物主神です。
大国主神と大物主神が同一神であるはずがありません。
ところが日本書紀には、諸説ある中の一番最後に大国主神の別の名を大物主神と記されているから話がややこしくなっています。
オオクニヌシがスサノオの子というのも同様で諸説ある中の一書にすぎず、
オオクニヌシはスサノオの末娘、スセリビメの婿でスサノオは義理の父にあたるのです。
「スクナビコナが去った後にやって来た神は御諸山に坐す神なり」と記され
次の文の冒頭で「かれ、その大年神は、・・・」と続いています。
「その」は「御諸山に坐す神」にかかり御諸山(三輪山)の神は大年(大歳)ということになります。
大歳とはスサノオとクシナダの5番目の子でスサノオが一番信頼を寄せた
愛媛県松山市北条町の国津比古命神社
国津比古命神社の主祭神は
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコト)です。
隣接する櫛玉比賣命神社にはニギハヤヒの妻、御炊屋姫命(ミカシキヤヒメ)が
祀られています。
一つは、アメノホアカリ=ニギハヤヒであること
もう一つは、櫛玉とは、ニギハヤヒを意味すること
(御由緒に明記)
そしてもう一つは神社の名の通りニギハヤヒは国津神(出雲の神様)であることです。
出雲の神様であることは国津比古命神社の境内摂社がウカノミタマを祀った稲荷社で
櫛玉比賣命神社の境内摂社がスサノオを祀った素鵞社であることからも察せられます。
大神神社。
三輪山の杜(もり)そのものが社(やしろ)であり拝殿のみで、本殿がありません。
主祭神は大物主神
配祀は大己貴神、少彦名神
大物主神と大己貴神(=大国主神)が一緒に祀られていますから
暗に大物主神と大国主神が同一神でないことを示しています。
決定的なのは大物主神の正式名称が
倭大物主櫛
登美ノ長髄彦と兄弟。
天ノ日鷲の孫・由布津主とともに東海道を開拓
「神武天皇は、初めて国の天皇の御世に天富命に東の地に粟忌部を分け、麻・穀木を作ることを命じる。また、天太玉命を立て天富命の御子飯長姫を斎主をもって為す。由布津主は物忌を司ることを命じる。お互いに補佐するように」
と書いてある。
四国阿波忌部神社社伝によれば、
「天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀木を植え、天太玉命社を建てた、これが安房社でありその地は安房郡となり安房国となったと伝えている」
ちなみに阿波忌部系図を見てみると、
天日鷲命―大麻比古命―由布津主命―訶多々主命
となっていて社伝と系図が違っている。
おかしいと思い安房忌部系図を調べてみると、
初代・神武天皇=天富命
二代・綏靖天皇=由布津主命
三代・安寧天皇=訶多々主命
このように、天皇に仕えた名が記されている。
以上、出典
http://blog.goo.ne.jp/logos3/e/cb86bf605c6ab43e68e0224bfb199eb9
この天皇(景行)、針間之伊那毘能大郎女を娶して生みませる御子、櫛角別王、次に大碓命、次に小碓命、次に倭根子命、次に神櫛王なり。
神櫛王は、木国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖なり。 櫛角別王は茨田の下の連らの祖なり。
日本書紀
次の妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生めり。 (記は垂仁皇女の阿邪美都比売り命が稲瀬毘古王に嫁いだとする)
その兄、神櫛皇子は、これ讃岐国造の始祖なり。 弟の稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。(景行紀、四年の条より)
天皇本紀
またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。 [景行天皇の条]より
五十河彦命は、讃岐直、五十河別の祖なり。 大稲背別命は、御杖君の祖なり。櫛角別命は、茨田連の祖なり。
国造本紀
讃岐国造 応神天皇の御世に、景行天皇の子・神櫛王の三世孫、須売保礼命(スメホレ)を讃岐国造に定められた。
姓 氏 録
讃岐公 (右京皇別)大足彦忍代別天皇(景行帝)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
酒部公 (和泉国皇別) 讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。
羽咋公 (右京皇別) 垂仁天皇皇子、磐衝別命の後なり。亦名、神櫛別命なり。続日本紀に合えり。
「五十日足彦命」は垂仁ではなく、その次の大王景行帝の息子だとされる「神櫛皇子=神櫛王=神櫛別命」と同じ人物で「櫛角別王、五十河彦命、五十香足彦」の別名も持っていた四国の讃岐を本拠地とする豪族の祖だったことが明らかになります
ま た 、古 代 に は 都 の 経 済 を支える貢納物資であり、 讃岐国は須恵器貢納国の 8国の一つに数えられる。
須恵器生産の開始
古墳時代から古代にかけての窯業生産には、主 に須恵器生産と瓦生産がある。ともに窖窯とよばれる窯で高温焼成され る。須恵器は、古墳時代中期(5世紀初め)に韓半島から列島に伝わり、 陶邑窯(大阪府堺市)を中心にして列島各地に広まった。讃岐においても、三谷三郎池窯跡(高松市三谷町)など5世紀前半の初期の須恵器窯が確認されているが、その後に継続する窯跡が確認できず、生産の実 態が明確化するのは古墳時代後期の6世紀後半以後である。
「隅」「栗」「鵜」「足」にちなむ、武殻王・神櫛別命の裔が創建
[住所]香川県丸亀市綾歌町栗熊西
宇閇神社(うえじんじゃ)は、香川県丸亀市綾歌町栗熊西にある神社。『延喜式神名帳』にある「宇閉神社(讃岐国・鵜足郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
第19代允恭天皇の時代、酒部益甲黒丸が創祀したと伝わる。御祭神は、鵜茅葺不合尊。
酒部益甲黒丸は、日本武尊の子で、初代讃岐国造である武殻王の六世孫。『新撰姓氏録』によれば、神櫛別命の裔だという。
日本武尊と神櫛別命は、第12代景行天皇を父とする異母兄弟となる。
武殻王であれば、三豊市高瀬町の大水上神社、東かがわ市の白鳥神社、綾歌郡宇多津町の宇夫階神社、塩飽諸島本島の木烏神社などに伝承が残る。
神櫛別命ならば、坂出市の城山神社に、神櫛別命の裔に関してはさぬき市の神前神社に伝承が残る。
城山長者と呼ばれた酒部益甲黒丸だが、自分の家に井戸がないのを悩んでいた。
その家の東北隈に栗の木があり、そこへ鵜が集まり、その足元に清泉が湧いたという。夜には星影が水に映って王の井と言われた。
鵜足郡・粟隈・隈玉の名も当社やその伝承にちなむという。その後、歴代領主に崇敬されたが、いずれかの時期に荒廃。
江戸時代は、鵜井権現・玉井権現・妙見権現・十二社権現と称していたという。明治初年に村社に列した。
平成2年(1990年)、町が西谷・定連線改良のため、神社用地を買収、その資金と氏子崇敬者の協力で、老巧化した拝殿・幣殿の改築、参道の整備、御旅所の拡張などが行われた。
例祭は10月第3日曜日で例大祭。境内社に八幡神社がある。
境内には、宇閇神社古墳がある。6世紀と想定される直径16-17メートル、高さ4メートルの円墳。中心部の玄室は市内最大で、奥行き4.9メートル、高さ2メートル。
盗掘されていたため、棺、副葬品ともに残されていないが、市内にある後期古墳で、ほぼ完全な形の数少ない古墳の一つ。市の史跡に指定されている。
なお、式内社「宇閉神社」の論社は他に、町内岡田下に同名の神社がある。
また、大和国広瀬郡にも同音の式内社「於神社」があり、於神社と廣瀬大社の境内摂社である水分神社が論社。
大和国広瀬郡の式内社には讃岐神社もあり、当社や当地との関わりが指摘される。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、地域振興、地域安全、家内安全
宇閇神社(栗熊西) - 「隅」「栗」「鵜」「足」にちなむ、武殻王・神櫛別命の裔が創建
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創建は不詳。因幡国法美郡に鎮座する因幡国一宮の宇倍神社を勧請し、現社号を称したという。御祭神は武内宿禰命。
平安時代末期の寿永4年(1185年)、相殿に品陀別命を勧請した。
室町時代の永享年間(1429年-1441年)、領主長尾大隈守が社領を寄進したが、応仁の乱後、細川氏に没収されて衰微した。
江戸時代になり、寛永2年(1625年)10月、延宝6年(1678年)3月にそれぞれ社殿が造営された。
江戸時代は、上野八幡・岡田天神と称した。現在も「岡田の天神さん」として親しまれている。
岡田上村廻池の畔にあった天満宮(菅原道真)を、池の改修に際し、当社に合祀されたことによる。
明治4年(1871年)5月に郷社に列した。現在は金山彦命を合祀する。例祭は10月10日。
境内社に、稲荷神社・開耶神社・御魂神社などがある。
なお、式内社「宇閉神社」の論社は他に、町内栗熊西に同名の神社がある。
また、大和国広瀬郡にも同音の式内社「於神社」があり、於神社と廣瀬大社の境内摂社である水分神社が論社。
大和国広瀬郡の式内社には讃岐神社もあり、当社や当地との関わりが指摘される。
【ご利益】
事業成功、金運・財運、健康長寿、学業・受験合格
宇閇神社(岡田下) - もとは因幡国一宮の宇部神社を勧請、今は「岡田の天神さん」
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櫛梨神社(くしなしじんじゃ)は、香川県仲多度郡琴平町にある神社。
『延喜式神名帳』にある「櫛梨神社(讃岐国・那珂郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
社伝によれば、第12代景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚を討つために土佐国から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。
そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。
皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神を祀った。これを般磐大明神という。船磐の地名は今も残り、舟形の大岩がある。
また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神について尋ね、大麻神・大歳神、さらに、山下明神・諏訪明神を祀った。船装束する時に、経津主神・武甕槌神を祀った。これを赤坂大明神という。
当地には、関連して、船の苫を干した苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷などが地名として残る。
その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、讃岐国国造となった。
第14代仲哀天皇8年9月15日に120歳で亡くなった皇子を櫛梨山に葬り、廟を建てて祀ったのが当社の起源となる。
神櫛皇子の伝承は、県内の東かがわ市にある白鳥神社や、坂出市の城山神社、善通寺市の大麻神社(前述の大麻神か?)にも残る。その墓は、高松市牟礼町にある。
往古は皇宮大明神とも、大宮とも称された。もとは標高158メートルの如意山の山頂に鎮座していた。
その後、火災に遭い、現在地の如意山の西南麓に遷座したという。現在は、境内から如意山まで遊歩道になっている。
戦国時代の天正7年(1579年)、長曽我部元親の戦火で焼失。江戸時代になり、元和元年(1615年)、讃岐高松藩4代藩主生駒高俊が社殿を造営した。寛文5年(1665年)には氏子中により、社殿が再建されている。
明治3年(1870年)には随神門を、明治43年(1910年)には本殿を、翌明治44年(1911年)には幣殿をそれぞれ改築。大正6年(1917年)に社務所を新築した。また、明治・大正期に70柱あまりを合祀した。
例祭は10月第2土・日曜日。以前は当社に合祀された總社・大歳神社とともに神幸祭があった。
總社・当社・大歳神社の順に神輿の行列が整えられ、塩入村(仲南町)の御旅所に向かう。この間に、107の鳥居があったという。
江戸時代中期の安永年間(1772年-1781年)にはこの御神幸は中断している。
【ご利益】
事業成功、武運長久・勝運、
櫛梨神社 - 琴平町の如意山南西例に鎮座、神櫛皇子が奉斎し、死後に奉斎された式内社 【関連記事】
景行天皇の頃、香川県沿岸部(大槌島と小槌島の間)に悪魚※1が出没し、大変領民を困らせてい ていたため、天皇はヤマトタケル(日本武尊)の息子タケカイコオウ(武殻王※2)を遣わし※3退 治させることにした。
王は88人※4の軍勢を率い、船に乗り込み悪魚と対峙したが、船もろとも飲み込まれてしまう。 だが王はじめ兵士たちが悪魚の腹の中で火を焚き、武器を振り回したため、悪魚も遂に堪えかね皆 を吐き出し息絶えた。このとき悪魚の腹部が流れ着いた所を福江(ふくえ)、尻尾が流れ着いた所 を江尻(えじり)と呼ぶようになった。
しかし王を含め兵士たちはみな悪魚の毒にあてられ気絶していた。その時どこからともなく児童 がやって来て、持参してきた水を与えられると、みるみる回復していった。この児童は横潮明神の 使いで、水を汲んできた泉は八十場※5の霊泉と呼ばれた。
王はそのまま讃岐国に留まり、サルレオウ(讃留霊王)と呼ばれ讃岐の地を統治した。※6
のちにこの悪魚の祟りが付近の住民を悩ます事態が起きるが、ちょうど説法に訪れていた行基に より、魚御堂(うおのみどう)という社を建て、中に悪魚の骨でつくった薬師如来を安置するとい う供養が行われたため、事件は沈静化する。
※1 ”えい”または”江の魚(えのうお)”などの呼称がある。
※2 武卵王、武鼓王、武貝児王、武養蠶王とも
※3 ヤマトタケル自身としたり(その場合讃岐に留まるのは息子)、景行天皇の子カングシオウ(神櫛王)ともさ
れる。成務天皇皇子とするものもあり。
※4 80人または800人とも
※5 八十八、弥蘇場、八百蘇場(やおそば)とも
※6 「書紀」には時期は違うが神櫛王、武殻王ともに讃岐に遣わされ、国造と綾氏の祖であるとの記事がある。
古事記伝などでは讃王を景行天皇の御子神櫛王としているが、古事記には武貝児王、日本書紀には日本武尊の御子である霊子(武殻王)としている。
伝説
景行天皇の御世、瀬戸内海では悪魚が人々を困らせていた。讃王はこのことを聞きつけたくさんの船をつれて退治に行った。ところが、一人の兵士が悪魚に飲み込まれてしまった。その兵士が悪魚の腹の中で刀を抜いて暴れ出し悪魚は苦しくなって死んでしまった。以後、讃岐の漁師は自由に魚をとってもよくなった。
丸亀市飯山町には、讃王を祭った讃王神社および讃留霊王神社が存在する。また弘憲寺には讃王の肖像画が、綾川町にある北条池の付近には讃留霊王の墓がある。
綾歌郡栗熊村村社宇閇神社の伝によると、武殻王四世の孫『綾真玉』の子『益甲黒丸』という者が、酒を醸造して第十九代允恭天皇(412~453)に賜り酒部という姓を賜るとある。
同郡造田村郷社 天川神社の舊記には、讃岐国造の始祖『神櫛王』の遠裔の『益甲黒丸』が那珂郡神野郷に住み、その女が上手に酒を醸造した。これを、孝謙天皇に奉りて、姓酒部を賜うとあり、神野郷(後の真野郷)の矢原氏家記に、『神櫛王』三十五世の孫『酒部黒麿』とあるのに一致する。
この天川神社舊記、矢原氏家記等は讃岐国官社考証にも引用されている。
-縣神社史より
酒部益甲黒麿は『城山長者』と呼ばれている。
城山長者是なり武殻王四世孫綾の真玉の子也。
名を益甲と称す。初め家に井水なきを憂へ其居の東北の隈に栗樹あり、鵜が之に集まる鵜地を一日跑ると、清水が涌く。夜中星光相照らし玉光如し、因って玉井と名つく。其傍に居る者、皆富めり。
郡を名て鵜足と云い邑を號けて隈玉或いは栗隈と称す。七月七日夜、益甲の夢枕に、神女が現れ井上に瑞現し水精玉(直径五寸)なるを与え、曰く『汝、謹んで祠を建てこの玉を奉ぜよ』是に於いて祠が井上の建つ。星光映射す。ゆえに名を星宮と云い里人是を仰ぐ。この水で益甲が小麦を醸し酒を造ると其の味は甘烈黒して清し、之を名て黒丸酒と云い、允恭帝に献上す。帝之を嘗て大いに喜び、遂に姓字を賜いて酒部益甲黒丸と名乗る。
綾菊、勇心 という酒蔵
章隆は成人して父方の藤原氏を名乗って藤太夫(とうのたいふ)と称し、綾の大領となります。その息子が讃岐藤原氏二代目の資高(すけたか)で、資高は治承年間(1177~81年)に羽床(はゆか)の庄司(しょうじ)となり、下羽床に居を構えて菅原、滝宮、小野、北村、羽床下、羽床上、牛川、西分、東分の9か村を治めます。そして、地名をとってはじめて羽床氏を称します。この羽床氏が讃岐藤家六十三家の嫡流です。
資高には息子が生まれ、次男の有高は香東郡大野郷を本拠とする大野氏の租となります。三男の重高は羽床氏を継ぎ、のちにそこから、豊田氏、柞田(くにた)氏、柴野氏などが分流していきます。四男の資光(すけみつ)は阿野郡新居(にい)郷を本拠とし、新居氏を称します。
資高の息子たちの中でも新居資光は、源平合戦の際、讃岐の藤原・綾両家の一族一千人を率いて源氏につき、寿永2年(1183)の備中水島の合戦で活躍し、さらに京に上って院の警護に当たり、寿永4年(1185)の屋島の戦いでは、義経の陣に加わって戦功を挙げ、頼朝から感状を受けて綾郡を安堵されたといわれています。そして、のちに新居氏から香西氏、福家氏、西隆寺氏が分かれていきます。
藤原家成は藤原家保の三男として1107年に誕生しました。家成の家系は「諸大夫の家」と呼ばれる中~下級貴族でしたが、祖父藤原顕季が白河上皇の側近となり正三位・修理大夫に昇進します。
父 家保も白河上皇の信頼を得て従三位参議にまで出世し、家成もまた主要な国の受領を歴任して豊富な資金力で鳥羽院政を支えました。
ちなみに「諸大夫の家」とは四位までしか昇進出来ない身分の低い貴族の家を指した言葉です。
鳥羽上皇の信任厚く第一の側近として重きをなし、摂関家からも一目置かれるほどの存在となった家成ですが、平清盛の継母である池禅尼とはいとこ(池禅尼の父藤原宗兼と家成の母藤原隆子は兄弟)であることから、池禅尼は清盛を出世させるために家成の邸宅に出入りさせます。
清盛は嫡男家重の正妻に家成の娘を迎え結びつきを強めます。清盛が異例の出世をとげた背景には家成の助力があったことが推測できます。
家成は1154年に病没しますが、平家滅亡後も家成の家系は四条家として存続します。
香川県史編纂委員 草薙 金四郎 選文 斎賀 雅峯 謹書
また、「讃岐国名勝図会」巻之十に、
飯山大明神 西坂本村にあり。社人秋山氏。
祭礼九月十日。同村産土神。
土人、鵜度越神社といへり 祭神 鷲住王。
本地堂 観世音 末社 荒神、境内にあり。この余四座、所々にあり。
社記に曰く、当社は履中天皇御宇、鯽魚賎別親王の御子鷲住王、大勇力にて相撲を好みたまひ、あるとき宮中を忍び出でて摂州住吉に住居したまふ。その妹君天皇の后となりたまひ、御対面ありたきによりて天皇召させられれけば、直ちに阿州肉喰の里に遁れたまひ、鄙賎と交はり、力業を楽しみ高位に登る事を好みたまはず。阿州にて一子を残したまひ、今同国の野根氏これなり。その後当国那珂郡に来り、勇力の人を集め、力業を楽しみたまひ、ここにても一子を生ず。家の辺に喬木多かりしゆゑ、よりてその子孫高木を氏とす。鷲住王没後この地に葬り、社を建てて飯山明神と崇め奉る。その神をいのれば勇力を得るといへり。高木右馬助およびその甥高松弘憲寺宥遍上人、皆この神の末葉にてその勇力世の知る所なり。 康保元年、菅原氏の人修造して軍神とす。その後村民に託宣ありて、我は観音の化身なり、必ず境内に観音を安置し本地となすべしとありしかば、堂を建てて祀れり。
天正二年七月、野根の町にてうら盆の踊をなさせ毎夜男女集りて踊る。其声附城へも聞ゆる処に、同十六日の夜、附城の番兵の内に西内喜兵衛と云ふ者あり。其歳十八なるが傍輩に告て曰く、城兵も町へ出て踊やらん、声高く聞ゆる也。此踊に紛て城へ入り城内を見て帰るべし、其形勢に因て燧を揚ば外より攻入べしと云。各思ふには迚も行べからずとて応諾す。喜兵衛、山下に行て見れば城番の者ども長き刀を指し、頬かむりして踊る。夫れより城へ行て見れば城番四人門戸を開きて門樓の敷居を枕にして月の夜に並伏せり。寝入りたる所へ立寄り四人ともに伐殺す。家にも火を附け焼立しかば敵も喜兵衛一人して此の如しとは知らずして、香曽我部が兵将山寄せ忍入りて乗取たると心得て、野根も下人町人も皆阿波の海部宍咋へ迯去る。附城の兵、即時に走付て城を乗取て相守る。喜兵衛が一心の動(はたらき)を以て速功を得たり。是よりして土佐の国の東方の弓矢治まる。
野根氏の来由を繹(たずね)るに、昔し人皇十八代履中天皇六年に方て鯽魚磯別王(ふなしわかれおう)の女姉妹二女を以て后宮に納て寵せしめ玉ふ。其二姫常に嘆息し玉ふことあり。天皇奇み玉ひて汝たち何をか歎や。対て曰く、妾が兄、鷲住王と云ふ其人となり強力にして軽捷(からわざ)なり、八尋の屋を馳越て遊行し遂に還らず、住吉の邊に居住す。其面会せざることを歎くとなり。天皇其強力を悦んで使を以て是を召す。鷲住王、卑賤に交り強力の者を友とする事を喜み、儀則を正し君長に対する事を喜(この)まず。此故に参来せず。重て使を以て召せども猶参来せず。其後は廃てて召し玉はず。鷲住北(にげ)て阿波国脚咋邑に匿る。脚咋は今の肉咋也。野根邑に相連れり。野根氏は其遠裔也。又鷲住王、讃岐の国に出て那珂郡に居住し強力の者を聚め力競を事とし壮勇の者を友として相嬉(たのし)めり。二姫の希に依て讃岐の国造となし玉ふ。鷲住王卒して後、馴致の豪友、其亡跡を慕ひ社を造つて之を祭る。今の飯山権現是也。其児孫相続いで其所を守る。其邑に喬木の有けるにや、高木を以て氏とす。是より大力の者の出る事今に絶えず。近世の高野山の常菩提院及び高木右馬助などと喚れし大力も其裔也。故に飯山を力山と云ふ。又野根の山邑は土佐の内と云へども阿波に近し。世々阿波に倚て武命を受け独立して爰に至る。時なるかな、時なるかな、今長曽我部氏に遂れて家を失ふ。野根の里人諷て曰く、野根のまねして阿波土佐まねな 身は程々の程を嬉めと也。昔人は野根も阿波土佐に並と思へり。 (東方野根城陥るの記;巻之九)
土佐野根城主。右衛門左。惟宗氏は安田氏とも称した。天正三年、長宗我部元親に攻められ甲浦城に逃れる。甲浦城が長宗我部勢に囲まれると阿波に逃れる。天正三年七月、盆踊り見物に出た隙を狙われ、長宗我部勢に攻められ落城。また、城を離れた理由は浜辺での宴であったとも云う。
惟宗出羽守 (?~?)
土佐甲浦城主。惟宗国長と共に没落。
家系としては朝臣または宿禰の姓をもつもの、また伊統(これむね)と称するものもあるが、中でもよく知られるのは惟宗直宗・直本兄弟らに始まる惟宗朝臣である。彼らは讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)であったが、本貫を京に移し、883年に同族の秦宿禰・秦忌寸とともに惟宗朝臣の姓を賜った。惟宗直本は律集解と令集解の著者として名高い。彼の子孫は明法家あるいは医家として知られ、『本朝月令』を書いた惟宗公方、『政事要略』を書いた惟宗允亮(律令にちなみ「令宗(よしむね)朝臣」を賜った)が有名。 また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。惟宗広言もしくは惟宗忠康の子・忠久は日向国に下って土着し、当地にあった荘園「島津荘」により島津を名乗るようになったとされる。ただし忠久は源頼朝の落胤と後世に称され(伝説)、島津氏は(名目上は)清和源氏ということになっている。 また対馬の宗氏も惟宗氏の子孫とされる(のち桓武平氏を称する)。そのほか神保氏や長宗我部氏、安芸氏などが惟宗氏の出とされる。
惟宗氏
元慶七年、秦氏の裔たる秦宿禰永厚、直宗、永家ら男女19人に惟宗朝臣姓を賜うに始まる。
惟宗氏は代々明法家、典薬として名高い。薩隅の島津氏(清和源氏説、藤原氏説も存す)、市来氏、川原氏、上松(植松)氏、河俣氏、越中の神保氏、対馬の宗氏(平氏説も存す)などは惟宗姓と伝える。
ほか惟宗氏の出自が、醍醐天皇の皇子保明親王後裔との異説も存在する。
惟宗氏
惟宗具瞻(従五位下陰陽頭)―正邦(従五位下陰陽頭)―考親(従五位下能登守)―考言(従四位下伊賀守掃部介)―忠方[忠親](紀中納言若狭守)―友國[知國](宗大納言従二位兵庫太夫)―友兼(筑前先生主典代)―友広(明法得業生)―康友(初代執印)―康兼(執印氏)… 具瞻以前は不詳。
惟宗姓である事から秦氏の後裔であり、忠を通字とする惟宗氏に皇別の聖武天皇説・醍醐天皇説の2流があるが、康友の子孫の執印氏や国分氏は醍醐天皇後裔説の、醍醐天皇―保明親王―慶頼王―惟宗具瞻としている。
陰陽道は渡来文化である。そのため、古来、陰陽師は渡来人によって占められてきた。資料には、数多くの陰陽師が名を連ねているが、なかでも多いのが秦氏である。秦文高(はたのふみたか)など、秦をそのまま名乗っている者のほか、惟宗文元(これむねふみひと)など、直接、秦姓を名乗らない秦氏も少なくない。後に、陰陽道は律令制の中に組み込まれて、内裏(だいり)の中に陰陽寮が設置されるようになるが、そこでも秦氏は大きな勢力を保っていた。
こうした陰陽道の大家としての秦氏一族のいわば象徴ともいえるのが「蘆屋道満(あしやどうまん)」である。浄瑠璃などで演じられる蘆屋道満は、常に悪役。正義の味方の「安倍晴明」の宿敵として位置づけられている。資料によっては、安倍晴明の師匠であるとか、安倍晴明に負けて軍門に下ったとかいわれるが、それだけ力のある陰陽師だったのだろう。
蘆屋道満の「蘆屋」は兵庫県の「芦屋(あしや)」のことで、ここを含む播磨(はりま)一帯は陰陽師集団が存在していたことで知られる。が同時に、播磨には秦氏の首長、秦河勝(はたのかわかつ)の墓やダビデ王を祀る大避神社が数多く存在し、秦氏の一大拠点でもあった。事実、蘆屋遺満の本名は「秦道満」といい、伝説によると人魚の肉を食べて不老不死の体となった「八百比丘尼(やおびくに)」の父親であるとされる。もちろん、こうした物語は歴史的な事実ではないだろうが、そこには秦氏系の陰陽師の勢力がいかに大きいものであったかが反映されているとみていい。
一方、秦氏と並んで陰陽道を牛耳っていたのが、賀茂氏である。『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によると、賀茂氏の祖先は奈良時代に活躍した伝説の陰陽師「吉備真備(きびのまきび)」。彼は右大臣にまで上った大政治家で、孝謙天皇から賀茂姓を賜ったという。が、もちろんこれは史実ではない。下鴨神社の賀茂氏の系図の中に賀茂吉備麻呂がおり、この人物と吉備真備を故意か、もしくは誤って同一人物としたために、こうした伝承ができたのではないだろうか。
とはいえ、だからといって、陰陽道における賀茂氏の地位が揺らぐわけではない。平安時代、賀茂忠行(かものただゆき)が陰陽師として頭角を表し、その息子である賀茂保憲(かものやすのり)が陰陽頭に就任すると、朝廷の陰陽道は賀茂氏によって事実上、支配されるようになる。天皇の行う祭祀や儀式は、すべて陰陽寮の占で決定されていたことを考えると、賀茂氏は朝廷を動かしていたといえなくもない。
しかし、実際に力をもっていたのは、律令制に組み込まれた陰陽師ではない。彼らはあくまでも表の存在。律令に縛られた、いわばお役人のようなものである。これに対して、本当に恐しいのは、律令の外にいる陰陽師である。といっても、漂泊系の遊行者としての法師や陰陽師とは格が違う。歴史の闇に潜み、朝廷を動かしてきた漢波羅である。
漢波羅は天皇を取り巻く影の集団で、彼らは全員、賀茂氏で構成されている。神道の呪術が陰陽道にあるように、漢波羅は神社を呪術的に支配する。当然ながら、神社のトップである下鴨神社も、漢波羅と無関係ではない。彼らは下鴨神社を拠点として、全国の神社を渡り歩いているのである。
讃岐公 右京皇別 大足彦忍代別天皇(景行)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
酒部公 右京皇別 同皇子(五十香足彦) 三世孫の足彦大兄王(タラシヒコオオエ)の後なり。
酒部公 和泉国皇別 讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。
そして姓氏録は、この他にも「山公 和泉国皇別 五十日足彦の後なり」「山守 摂津国皇別 五十日足彦の後なり」とも伝えていますから、垂仁帝の皇子だと記紀の云う「イカタラシヒコ」の実体は、どうやら景行帝の皇子だとされている「神櫛別命」という人物であるらしい事が分かります。
讃岐公 右京皇別 大足彦忍代別天皇(景行)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
酒部公 右京皇別 同皇子(五十香足彦) 三世孫の足彦大兄王(タラシヒコオオエ)の後なり。
酒部公 和泉国皇別 讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。
古 事 記
この天皇(景行)、針間之伊那毘能大郎女を娶して生みませる御子、櫛角別王、次に大碓命、次に小碓命、次に倭根子命、次に神櫛王なり。
神櫛王は、木国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖なり。 櫛角別王は茨田の下の連らの祖なり。
日本書紀
次の妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生めり。
(記は垂仁皇女の阿邪美都比売り命が稲瀬毘古王に嫁いだとする)
その兄、神櫛皇子は、これ讃岐国造の始祖なり。
弟の稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。(景行紀、四年の条より)
天皇本紀
またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。 [景行天皇の条]より
五十河彦命は、讃岐直、五十河別の祖なり。
大稲背別命は、御杖君の祖なり。
櫛角別命は、茨田連の祖なり。
国造本紀
讃岐国造
応神天皇の御世に、景行天皇の子・神櫛王の三世孫、須売保礼命(スメホレ)を讃岐国造に定められた。
「五十日足彦命」は垂仁ではなく、その次の大王景行帝の息子だとされる「神櫛皇子=神櫛王=神櫛別命」と同じ人物で「櫛角別王、五十河彦命、五十香足彦」の別名も持っていた四国の讃岐を本拠地とする豪族の祖だったことが明らかになります
五十建速石別命は丹波道主王の孫なり。薊瓊入媛の子なり。兄を建速石別命という。速石里より貢奉る。弟を五十日足彦尊という。五十日里より貢を奉る。 [丹哥府志]
五十日足彦尊は、垂仁天皇と薊瓊入媛との皇子で、成務天皇の別名である。(中略)膽香足媛の「イカガ」は、今の五十河のことである。 [丹後旧事記]
等の記述もあり「イカタラシヒコ」が丹後地方と大変縁の深い帝室の重要人物だったことが良く分かりますが、筆者は丹後よりも京都府の八幡市(旧山城国久世郡)にある小さな神社に着目しています。苅幡戸辺の父が山背大国不遅という名の人でしたから、その娘が産んだ皇子を祀る社が山城国内にあって当然です。そして、今、五十日足彦命を主祭神とし、大山咋命を配神として鎮座しているのが延喜式内社の石田(イワタ)神社で、同社が建つ周辺の地名も「岩田茶屋の前」と呼ばれているのです。また、そこから、ほぼ東の方角に1.7㎞ほどの距離にも「磐裂神」を祀る石田神社(岩田辻垣内)があり、岩田の字を持った地域全体を支配していた「石田(イワタ)」一族の存在を強く印象付けます。元々、大王家には「姓」そのものがありません。「イワタ」は応神、継体など息長氏の血脈を受け継いだ帝の後裔を象徴した暗号のような文言だったのかも知れません。[註:速石里は与謝郡の拝師周辺一帯を指すものと考えられる。著名な天の橋立でも知られる地域です]
古事記では、垂仁天皇は、 沙本毘古命の妹・佐波遅比売命(沙本毘売命)を娶って、品牟都和気命を生んだ。沙本毘売命は、兄・沙本毘古命の謀反により兄と共に亡くなった。
また、丹波比古多多須美知能宇斯王の娘・氷羽州比売命を娶って、 印色入日子命、大帯日子淤斯呂和気命(のちの第十二代天皇・景行天皇)、大中津日子命、倭比売命、若木入日子命を生んだ。
また、氷羽州比売命の妹・沼羽田之入毘売命を娶って、沼帯別命、伊賀帯日子命を生んだ。
また、沼羽田之入毘売命の妹・阿耶美能伊理毘売命を娶って、伊許婆夜和気命、阿耶美都比売命を生んだ。
また、大筒木垂根王の娘・迦具夜比売命を娶って、袁耶弁王を生んだ。
また、山代の大国之淵の娘・苅羽田刀弁を娶って、落別王、五十日帯日子王、伊登志別王を生んだ。
また、その大国之淵の娘・弟苅羽田刀弁を娶って、石衝別王、石衝毘売命(布多遅能伊理毘売命)を生んだ。
印色入日子命は、血沼池・狭山池・日下の高津池を作り、鳥取の河上宮に坐して河上部を定め剣一千口を作らせて石上神宮に納めた。
大中津日子命は、山辺之別・三枝之別・稲木之別・阿太之別・尾張国の三野別・吉備の石无別・許呂母之別・高巣鹿之別・飛鳥君・牟礼之別等の祖。
倭比売命は、伊勢の斎宮。
伊許婆夜和気命は、沙本の穴太部之別の祖。
阿耶美都比売命は、稲瀬毘古王に嫁いだ。
落別王は、小月之山君・三川之衣君の祖。
五十日帯日子王は、春日山君・高志池君・春日部君の祖。
伊登志別王は、伊登志部を定めた。
石衝別王は、羽咋君・三尾君の祖。 布多遅能伊理毘売命は、倭建命の后となった。
『古事記』では、沙本毘売命の遺言により美知能宇斯王の娘、 比婆須比売命(氷羽州比売命)、弟比売命、歌凝比売命、円野比売命を呼びだし、 比婆須比売命、弟比売命だけを留めて、あとの二人は醜いために送り返したとある。 円野比売命は恥じて、山代国相楽で自害した。
『日本書紀』では、垂仁天皇は、 彦坐王の娘・狭穂姫を皇后とし、誉津別命を生んだ。誉津別命は大きくなっても物を言われなかった。
狭穂姫は、兄・狭穂彦王の謀反により、兄と共に亡くなったので、丹波の五人の女を後宮に入れた。
一番上は日葉酢媛といい、新たに皇后として、五十瓊敷入彦命、大足彦命(のちの第十二代天皇・景行天皇)、大中姫命、倭姫命、稚城瓊入彦命を生んだ。
次は渟葉田瓊入媛といい、鐸石別命、胆香足姫命を生んだ。
第三は真砥野媛といった。
第四は薊瓊入媛といい、池速別命、稚麻津媛命を生んだ。
第五は竹野媛といったが不器量のため里に返され、恥じて葛野で自害した。
また、山城の苅幡戸辺を召されて、祖別命、五十日足彦命、胆武別命を生んだ。五十日足彦命は石田君の祖。
また、綺戸辺を後宮に入れて、磐衝別命を生んだ。磐衝別命は三尾君の祖。
垂仁天皇の皇子五十日足彦の曾孫山守部許々米に始まり、古事記によれば後裔は越後の大族春日山君、高志池君の祖となる。 後世、伊加良志神社(祭神五十日足彦)の社名を五十嵐神社に改める。
黒万呂以降、代々蒲原郡司となり、越後権少掾長成の子長成は五十嵐新太夫を称し、前九年の役に源頼義に従い功は抜きんでる。 後裔は北条氏、新田氏、上杉氏に属し、庶流は後北条氏に仕えたものもある
越後国頸城郡春日山の春日山君
「御名代の春日部+山君」であったのは、その同族すなわち垂仁天皇皇子と称する五十足日子命の後裔に山守(録・摂津)、山守部君、山公(録・和泉皇別)、春日部君がある。
五十日足彦命─忍健別命(弟稚狭久良命─石別之君[高志池祖])─押許呂見命(弟佐太別命[石田祖])─許許米[山守部]─志己夫─意富多─加由(弟乙山[高志池祖])─宇志古─枳波─加知古(春日山、五十嵐の祖)
近江国栗太郡小槻邑に起こり小槻神社を奉斎した小月之山君(小槻山公。後の小槻朝臣)も春日山君の一族である