蘇我氏、蘇我大臣、歴代の大臣

November 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ) 千葉県千葉市中央区蘇我町1-88 式内社で、旧社格は郷社。 蘇我比咩大神と千…

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コメント

  • 竹内宿禰の後裔 子供たち

    子に関して、『日本書紀』[原 5]では平群木菟宿禰のみ親子関係が明示されている。一方『古事記』では、次の7男2女と後裔27氏を掲載する(括弧内は日本書紀の名称)

    羽田矢代宿禰(波多八代宿禰)  → [波多氏]

    許勢小柄宿禰(日本書紀なし)  → [巨勢氏]

    石川宿禰(蘇賀石河宿禰)  → [蘇我氏]

    平群木菟宿禰(平群都久宿禰)  → [平群氏]

    紀角宿禰(木角宿禰)  → [紀氏]

    久米能摩伊刀比売
    (日本書紀なし)

    怒能伊呂比売(日本書紀なし)

    葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)  → [葛城氏]

    若子宿禰(日本書紀なし)
  • 神部直(みわべのあたい)の系図には、伊佐那伎(イザナギ)・伊佐那美(イザナミ)の下に大日神、月神、素佐乃乎命、さらに素佐乃乎命の下に、蘇我の名をもつ蘇我能由夜麻奴斯。その4代後に大国主命。さらに10代後に大田田祢乎命の名が見えます。

    この「蘇我能由夜麻奴斬」を、出雲王朝の系図では、清湯山主・八島士奴美命とする。


    素佐乃乎命-蘇我能由夜麻奴斯-布波能母知汗那須奴-意禰都奴→-天布由伎奴-大国主命-久斯比賀多命-阿麻能比賀大命→-櫛?戸忍速栖浦浦稚日命-櫛?戸忍勝速日命・・略・・太田々禰古命

    建速須佐之男命が高天原から追放されて足名椎、手名椎と出会う。
    この足名椎は大山津見神の子であるが、
    建速須佐之男命により稲田宮主須賀之八耳神(いなだみやぬしすがのやつみみのかみ)
    と名付けられている。
    ここで須賀と八耳という言葉が出てくるが、
    この足名椎の子供の櫛名田比売命と建速須佐之男命の間の子である八島野命は
    清之湯山主三名狭漏彦八島野命=蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴
    (すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬみこと)という。
    つまり須賀=清=蘇我(読みはsuga)となっていて建速須佐之男命が
    蘇我の養子となったように受け取られる
  • 古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」のような和風の寺号と、「法興寺」「浄土寺」「龍蓋寺」のような漢風寺号(法号)とがあるが

    福山敏男は、法号の使用は天武天皇8年(679年)の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている

    「法興」とは「仏法興隆」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている
  • 飛鳥寺

    天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」(587年)とし、発願の年自体は『書紀』と同じ。

    内容の異なる記載がある。『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)は百済に渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。そこで用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。
    当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。

    『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。
    このうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる。同じ崇峻天皇元年、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。

    『書紀』の崇峻天皇3年(590年)10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年(592年)10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。この「起つ」の語義については、かつては「(金堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている。

    『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建つ」とある。

    『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。
    『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。

    しかし、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年(605年)、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる
  • May 2018 編集されました
    『二中歴』「都督歴」に見える次の記事

    「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

    鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。
    九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任じていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。
     蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場しますが、『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。また、

    『日本書紀』皇極紀によれば、中大兄皇子との婚約が進められていた蘇我倉山田麻呂の長女を身狭臣(蘇我日向のこととされる)が盗んだとありますが、これも『日本書紀』編纂時に大義名分を入れ替えた記事の可能性があります。

    九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。
    出典:http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/wi-empire-kyushu-dynasty/第1579話%E3%80%802018-01-18/
  • May 2018 編集されました
    初代の大宰帥(長官)は、飛鳥朝蘇我氏の蘇我日向(そがのひむか)であった。日向は蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子で、異母兄に右大臣蘇我倉山田石川麻呂がいた。
     大化改新後の大化5年(649)、日向は当時孝徳天皇の皇太子だった中大兄皇子(後の天智天皇)に「あなたを石川麻呂が殺そうとした」と讒言したため、孝徳は兵を向けた。石川麻呂は逃亡したものの翌日自害し、妻子ら8人もともに自害に及んだ。
     ところが、孝徳天皇が真相究明のために石川麻呂の自宅を捜索するとその無実がわかった。中大兄皇子は石川麻呂の死を悔み、後日初代太宰帥にする方法で日向を筑紫に左遷した。当時はまだ「那ノ津」の那津官家の時代であった。これを現在の地に移したのが日向だった。

    観世音寺復元模型
     観世音寺は、百済支援の目的でこの大宰府まで来て没してしまった斉明天皇の菩提のために天智天皇が発願し、天平18年(746)に完成した勅願寺で、南都の官大寺に匹敵する大伽藍を誇る西国一の寺であった。
     その周囲には、大宰帥蘇我日向が造ったという般若寺や、大宰府の鎮護のために建立された竈門神社(かまどじんじゃ)や、その神宮寺である竈門山寺(かまどさんじ)、さらには筑前の国分寺、後にここに流された菅原道真が約2年間を暮らしたとされる榎寺(えのきでら)などがあったといわれている。

    http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat35/post-136.html
  • 蘇我氏の祖が日本書紀に現れるのは、応神紀(15代天皇)の武内宿禰からです。
    『尊卑分脈』の出自を見ましょう。
    孝元天皇(8代)の皇子・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)から蘇我氏は始まります。彦太忍信命の母は、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。孝元天皇の妃ですから皇后に次ぐ身分の女性です。

    *伊香色謎(いかがしこめ)命は、崇神天皇(10代)即位前期に『物部氏が遠祖・大綜麻杵(おほへそき)が女(むすめ)」とあり、古事記では『内色許男(うつしこを)の女』ですが、饒速日の五世孫・伊香色雄の後と書かれているのです。物部氏とも関係が深い女性なのです。

    *孝元天皇(8代)の妃・伊香色謎命は、開化6年正月に開化天皇(9代)の皇后になりました。開化天皇は父を墓に納めた後に、継母(父の妃)を皇后にしたのです。皇后となった伊香色謎命は、崇神天皇(10代)・御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにゑ)天皇を生みました。
  • 歴代大臣(おほおみ)を記しますと、

    武内宿禰(紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏の祖先。成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇治世)
    和邇日触(応神天皇治世)
    物部小前(大前小前宿禰大臣、允恭天皇治世)
    葛城円(武内宿禰曾孫。履中天皇・安康天皇治世)
    平群真鳥(雄略天皇・清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇治世)
    巨勢男人(継体天皇治世)
    蘇我稲目(宣化天皇、欽明天皇治世)
    蘇我馬子(嶋大臣、蘇我稲目の息子。敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇治世)
    蘇我蝦夷(豊浦大臣、蘇我馬子の息子。舒明天皇・皇極天皇治世)
    蘇我入鹿

    これをみると、和邇日触と物部小前を例外として、武内宿禰の系統が大臣を務めています。

    留意すべきは、大伴金村を失脚に追い込んだのは同じ大連の物部麁鹿火、以降は本貫(本籍)の摂津国住吉郡に引き籠ります。
  • 朝臣 あそみ (新撰姓氏録より)

    神武天皇出自の氏族・・・多臣
    孝昭天皇・・・・・・・・大春日臣、大宅おおやけ臣、粟田臣、小野臣、櫟井いちい臣、柿本臣、
    孝霊天皇・・・・・・・・下道臣、笠臣
    孝元天皇・・・・・・・・阿倍臣、巨勢こせ臣、膳かしわで臣、伊賀臣、阿閇あへ臣、紀臣、波多臣、平群臣、雀部さざきべ臣、石川臣、桜井臣、田中臣、小墾田おわりだ臣、川辺臣、若桜部臣、岸田臣、高向たかむこ臣、宍人臣、来目臣、角つの臣、星川臣、林臣、波禰はみ臣、坂本臣、玉手臣
    開花天皇・・・・・・・・道守ちもり臣
    崇神天皇・・・・・・・・上毛野かみつけの君、池田君、車持君、下毛野君、佐味君、大野君、軽部臣、
    景行天皇・・・・・・・・犬上君、綾君、
    三輪氏・・・・・・・・・大三輪君、鴨君、胸(異字)方君、
    物部氏・・・・・・・・・物部連、釆女臣、穂積臣
    中臣氏・・・・・・・・・中臣連、山背臣
  •  【氏族名称】            【推定分布地域】

    ①上毛野君(かみつけのきみ)......前橋北部、旧勢多郡、旧新田郡、旧大間々、大田
    ②車持君(くらもちのきみ)..........旧群馬町、旧榛名町
    ③佐味君(さみのきみ).................佐波郡玉村、多野郡緑野
    ④池田君(いけだのきみ)............高崎東部?、玉村町
    ⑤大野君(おおののきみ).............旧山田郡、桐生(埼玉北部説もあり)

    ⑥有馬君(ありまのきみ)..............渋川市、伊香保
    ⑦石上部君(いそのかみべのきみ)..碓氷郡、松井田、安中、高崎西部
    ⑧檜前部君(ひのくまべのきみ)....伊勢崎市
    ⑨朝倉君(あさくらのきみ)........前橋市南部
    ⑩佐野三家

    ※①~⑤に栃木地方の下毛野君を加えた氏族を東国六腹朝臣と呼びます。
    ※⑩佐野三家は朝廷直轄地の屯倉(みやけ)管理者ですので朝廷から派遣された官吏と思いますが、
  • October 2018 編集されました
    《日本書紀》履中5年条によると車持君が筑紫国の車持部をほしいままに検校し,さらに宗像神社に割き充てた車持部も奪った罪で筑紫の車持部を没収されたとあり,《新撰姓氏録》には雄略天皇のとき,乗輿を供進し車持公の姓を賜ったという話を伝える。

    河内王朝時代に筑紫の三神(宗像三女神)の祟りを受けるような悪事を行ったと記録がある。(『日本書紀』履中天皇5年)。簡単に言うと車持部の者が、献上の品を持ち寄った地元民を車持君が査察した上で、いくらかくすねたということらしい。

    『日本三代実録』元慶六年(882)12月25日条に、「職令を検すに、殿守四十人は日置、子部、車持、笠取、鴨の五姓の人をもって、これとなす」とあるから、車持朝臣は車のついた輿?関係者であろう。

    日置は「引き」で牛車を引く係り、子部は湯沐(ゆえ)で天皇家の乳母家を指す。稚児?従者か?笠取は蓋(きぬがさ)をささげる係り、鴨は露払い=ナビ?かと考えられるか?
    日置は熊本県にも凝灰岩などの切り出し石を引いた氏族で日置氏が中世玉名郡にあるから意味は「引く」であろう。(かわかつ)
  • October 2018 編集されました
    蘇我稲目が宣化天皇の即位に際し、初めて大臣に任命された。当時、大伴金村と物部麁鹿火あらかいが大和政権の執政官たる大連の地位にあったが、これとならぶ地位に稲目が新たに加わった。これが、蘇我氏躍進の始まりである。とくに蘇我馬子は敏達・用明・崇峻・推古と四朝に大臣として仕えた。

    蘇我氏が台頭した契機のひとつに、彼等が朝廷の財政を担当し、大きな功績をあげていた。『古語拾遺』雄略天皇段には、蘇我麻智宿禰まちすくねが三蔵みつのくら(斎蔵いみくら・内蔵うちつくら・大蔵)の検校(管理・監督)を任されたという伝承が記されている。斎蔵いみくらとは神宝や祭器を収めた倉、内蔵うちつくらとは朝鮮諸国からの貢納物を収めた倉、大蔵とは国内からの貢納物を納めた倉とされている。雄略朝に、蘇我氏がこれら三種類の倉の管理を任されたというのである。

     蘇我氏は配下の渡来人を駆使して全国の屯倉を拡大するのに大きな働きがあり、これによって大和政権の勢力拡大に多大なる貢献を果たした。蘇我氏の配下にいた渡来人のなかでも代表的なのが、倭漢氏やまとのあやうじ、鞍作氏くらつくりし、それに王仁わに(漢高祖の末裔、四世紀末、百済から渡来し漢字と儒教を伝えた)や王辰爾おうじんに(六世紀中ごろの百済からの今来いまきの渡来人、船氏 の祖)の後裔を称する中・南河内諸豪族(西文氏かわちのふみうじ、葛井氏ふじいし、船氏ふなし、津氏つし)であった。倭漢氏やまとのあやうじ氏は軍事と土木・建築、鞍作氏くらつくりしは仏教と仏像製作、王仁わに後裔氏族は実務官僚に能力を発揮した。彼らの多くは文字(漢字)を使いこなすことによって、同時期の倭人の豪族たちにはとうてい望みえない、高度な行政実務能力を発揮することができた。また彼らは仏教受容に積極的であったし、仏教以外の大陸諸文明の導入にも主導的な役割を果たした。蘇我氏はこれといった軍事的な基盤が存在しない
  • 蘇我稲目の時代、娘の小姉君おあねのきみと堅塩媛きたしひめを欽明天皇に嫁がせた。その結果、小姉君おあねのきみが五人、堅塩媛きたしひめが十三人の子どもを産み、稲目を外祖父にもつ皇子・皇女は全部で十八人生まれた

    きっかけは、仏教か。それとも屯倉の品か?
  • October 2018 編集されました
    真名野長者とは蘇我稲目のことだった!
    『御伽草子』のなかに収蔵された『烏帽子折』には、「用命天皇と真名野長者の娘との間に生まれた子が聖徳太子である」と書かれています。
    【原典】https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013179/explanation/otogi_03

    もしこの記述が本当ならば、真名野長者とは、聖徳太子の祖父にあたる「蘇我稲目」のことになります

    真名の長者と般若姫
    都に、顔に醜い痣のある姫がいたが、仏のお告げに従って豊後国深田に住む炭焼き小五郎の許へ行き夫婦になる。
    2人は数々の奇跡により富を得て長者となり、1人の娘が生まれた。般若姫と名付けられた娘は都にまで伝わるほどの美女に成長し、1人の男と結婚するが、実はその男は都より忍びで来ていた皇子(後の用明天皇)であった。
    皇子は天皇の崩御により都へと帰ることになったが、姫は既に身重であった為、「男の子が産まれたなら、跡継ぎとして都まで一緒に、女の子であったなら長者夫婦の跡継ぎとして残し、姫1人で来なさい」と告げて帰京してしまう。
    産まれた子供は女の子であった為、姫は1人で船に乗り都を目指すが、途中嵐に会い周防国大畠に漂着する。村人による介抱も虚しく数日後に姫は逝去してしまう。
    姫の死を悲しんだ長者は中国の寺に黄金を送ると共に、深田の岩崖に仏像を彫らせた。その仏像が現在も残る国宝臼杵石仏である。

    という物語である

    伝説中に出てくる「用明天皇が皇子の時に九州大分まで旅して来ていた」との伝については疑問視する声も多いが、大分市坂ノ市にある万弘寺は用明天皇の創建であることが伝えられており、近年の調査によっても法隆寺と同等の伽藍配置を持っていた可能性が指摘され、地元民俗学者の肯定材料となっている
  • October 2018 編集されました
    真名野長者夫婦の墓(大分県臼杵市)
    般若姫像(大分県豊後大野市)
    般若寺(山口県熊毛郡平生町)- 「般若寺」と大書した用明天皇御親筆の額がある。
    万弘寺(大分県大分市坂ノ市) - 用明天皇の創建。般若姫に縁のある品が残されている。


    『御伽草子』に収録された『烏帽子折草子』という物語では、「用明天皇の御子は女の子ではなく、男の子であり、聖徳太子と呼ばれた。」と伝えているが、真偽のほどは不明。
  • このような説もある。
    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou76/kai07603.html

    二人は金亀ヶ淵の水で身を洗ったり、飲んだりして玉津姫は、顔のあざが治り、小五郎は美男子になり、知恵のある聡明な若者に変わったという。鶴見山上にあった三つの淵池の水は今の別府温泉と同様の成分を有し、皮膚病や傷跡を治す効能があり、姫のあざを治したと考えられる。また同温泉には炭酸泉もあり、おそらく小五郎は、この淵の炭酸ミネラル水を飲んで気分爽快、頭脳明晰となったのだろう。(炭酸水は、現代でも「スカッとさわやか・・・」と宣伝されている)これを元に火男火売神社の御利益は「頭脳明晰・学業成就」となっているのだろう。こうして長者は鶴見山=三重山の麓、に御殿を建て真名野長者となった。
     では、なぜ長者は別府から遠く離れた所(豊後大野市)に蓮城寺を建てたのか。
    もちろん、玉田が長者の故郷だから老いて生地近くに戻り、そこに三重・内山の地名を付けて隠居した。これは黄金を発見した「三重・内山」を永久に記念するために地名を移したと推理できる。 
     小五郎は三重、臼杵を含む広い土地を領有し豊後の豪族となり、天皇の要求や攻め寄せる守屋大臣の大軍を何度も撃退し勝利を収めている。この伝承は何を物語るか。それは豊後だけでなく、九州自体が強大な九州倭国だった。つまり、長者の後ろ盾に九州王朝があったと推理できる。当時の大和・飛鳥の勢力は豊後一国以下か、同程度の勢力だったと言えるのではないだろうか。こうして長者の子孫は、その後代々、小五郎名を受継ぎ、やがてその財力で臼杵石仏を造立したと推理する。
  • 継体のあと、天皇家の系図上では安閑、宣化、欽明の順で王位が継承されたことになっているが、むしろ尾張氏を母に持つ越前時代の継体の子である安閑と宣化の兄弟が、応神朝(大和旧勢力)の血をひく母を持つ欽明によって倒されたと考える方が無理がない。この争いの中で、継体の即位に力を貸し、朝鮮半島の任那経営に失敗した大伴金村は、政権中枢から追われ、欽明を推した蘇我稲目が台頭してきたと考えられる。
  • 皇極天皇は弟の孝徳天皇の死後、いわくつきの飛鳥宮(飛鳥板蓋宮)で斉明天皇として再び即位。『書紀』はこの時に、葛城山の方から“油を塗った青い絹の笠(雨具)をかぶった唐人風の者”が空を駆ける龍に乗って現れた、という奇妙な一文を記している。
     それが不吉な兆しとなったのか飛鳥宮は火災にあい、宮を転々と移すことになる。
     青き衣の異人は斉明天皇の葬儀にも現れ、じっと視線を注いだという。
     葛城地方は蘇我氏の本貫地とされており、唐人風という特徴も大陸と結びつきの強かった蘇我氏を彷彿させる。平安末期に著された『扶桑略記』は先の一文を引用し、その正体を蘇我豊浦大臣、つまり入鹿が討たれた際に自害した父親・蝦夷の霊だと言及している
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