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石上神宮 古事記 中巻 神武天皇 「天照らす大神・高木の神二柱の神の命もちて、建御雷の神を召(よ)びて詔りた…
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物部首の始祖
原文
卅九年冬十月、五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部、亦名曰裸伴(裸伴、此云阿箇播娜我等母)、藏于石上神宮也。是後、命五十瓊敷命、俾主石上神宮之神寶。
一云、五十瓊敷皇子、居于茅渟菟砥河上、而喚鍛名河上、作大刀一千口。是時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷十箇品部、賜五十瓊敷皇子。其一千口大刀者、藏于忍坂邑。然後、從忍坂移之、藏于石上神宮。是時、神乞之言「春日臣族名市河、令治。」因以命市河令治、是今物部首之始祖也。
現代語訳
即位39年冬10月。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥川上宮(ウトノカワカミノミヤ)いて、剣一千口を作りました。それでその剣を名付けて、川上部といいます。またの名は裸伴(アカハダガトモ)といいます。
裸伴は阿箇播娜我等母(アカハダガトモ)と読みます。
石上神宮(イソノカミカムミヤ)に蔵(オサ)めました。
こののちに垂仁天皇は五十瓊敷命(イニシキノミコト)に命じて石上神宮の神宝を管理させました。
ある伝によると・・・
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥河上(ウトノカワカミ)に居ました。鍛名(カヌチナ)は川上を呼び寄せて、太刀一千口を作らせました。この時に、楯部(タテヌイベ)、倭文部(シトリベ)、神弓削部(カムユゲベ)、神矢作部(カムヤハギベ)、大穴磯部(オオアナシベ)、泊橿部(ハッカシベ)、玉作部(タマツクリベ)、神刑部(カムオサカベ)、日置部(ヒオキベ)、太刀佩部(タチハカベ)…併せて、十の品部(トモノミヤツコ)を五十瓊敷命(イニシキノミコト)に与えました。
その一千口の太刀を忍坂邑(オシサカノヘキ)に蔵(オサ)めました。それで後に忍坂から移して石上神宮に蔵(オサ)めました。この時に神は尋ねると神は言いました。
「春日臣(カスガノオミ)の族(ヤカラ)の市河(イチカワ)に治めさせなさい」
それで市河に命じて治めさせました。
これが今の物部首(モノノベノオビト)の始祖です。
渟葉田瓊入媛は稲背入彦命に嫁いだ「稚浅津姫命」と伯母姪の間柄なので、二つの氏族は帝室を媒介として姻戚関係にあり、上で見た「素戔嗚尊の天羽羽斬」を祭っていたとされる備前の石上布都魂神社は、正に、その赤磐郡石上に建てられている
「山門」には「夜万止」(やまと)、
「太神」には「於保美和」(おほみわ)と読み仮名がついています。
ですから、「太神」の読みは「おおみわ」から「おおかみ」「おおが」と変化しているのが分かります。
「こうやの宮」は正式には「磯上物部神社」と言い、高良山と関係の深い宮だそうです。
元年 宇摩志麻治命、 十種神宝を以て天皇・皇后の無窮を祈らる (鎮魂祭の始まり)。 天皇、韴霊と十種神宝とを宮中に祀らしめらる。
崇神 7年 物部氏の祖伊香色雄命、 勅により韴霊・十種神宝を大和国山辺郡石上邑に遷し、 石上神宮を創祀す。
神功皇后摂政 52年 百済国の使者久氐らが七枝刀・七子鏡等の重宝を献ずる。
仁徳 (御 代)市川臣命、 布都努斯神社を石上郷の布瑠村の高庭の地に祀り、 神主となる。
履中 即 位 前 年 天皇、 皇太子の時、 乱により石上振神宮に避難せらる。
雄略 3年 阿閇臣国見、 石上神宮に逃げ隠る。
天武 3年 674 忍壁皇子、 膏油にて神宝を瑩かる。 その折勅により諸氏族献納の宝物をその子孫に返還せらる。
(御 代) 布留川上の日谷に草薙剣の御霊天降らる。 出雲建雄神と称えて石上神宮の前の岡の上に祀る (出雲建雄神社の創祀)。
天智七年、本宮神劍、依外賊之難、出邊境、竟奉移帝都、至天武朱鳥元年還座、造-建別殿、比草薙劍徳、祝八洲安國、稱八劍宮祭之、或曰、縁日本武尊東征、神劍留於尾張國、亦嘗撃熊襲國、東西太平所向無前、崇、其神威、拝-祭八劍宮」
その内容は、「天智天皇7年に熱田神宮の草薙剣が賊による盗難を受けたが、天武天皇の朱鳥元年に返還された。その際、草薙剣に比すべき徳をもつ剣を別殿に祀り八劒宮と称した。八劒宮とは八洲(日本)安国にちなむ名前ともいう。(〝或曰〟として)日本武尊は東征の際、東の鎮のために草薙剣を尾張国に留めておいた。しかし、日本武尊は西の熊襲も討っており、その事跡にちなみ、西の鎮として八劒宮を祀ったと推定する。」というものです。
「元明天皇の和銅元年(708年)九月に朝廷より熱田神宮に勅使が差遣され<中略>その際、新造の宝剣が奉納せられ、この時に八剣宮が奉斎されたという」のもとになったのは、『尾張志』にある次の記事でしょう。
「大宮の南に坐す延喜神名式に愛智ノ郡八劒ノ神本國帳貞治元亀二本ともに正一位八剣名神とあるこれ也元明天皇の御代和銅元年九月九日勅命によりてあらたに寶劒を齋蔵奉りて多治比眞人池守安部ノ朝臣宿奈麻呂等勅使として参向てことさらにかく八劒神とたこへり祭り給へり」
朱鳥元年(686年)6月10日、天武天皇の病が神剣の祟りと見なされ、神剣は熱田社に移されたとしている
社伝によると、別宮八剣宮は飛鳥時代末期の和銅元年(708年)、元明天皇の勅命により新しく神剣を作って奉納するために創建されたというが、延喜式神名帳には「愛智郡八剣神社」の小社と記されているだけで、社格の急上昇は平安末期になってからのこと。各時代を通じて武将の信仰が篤かったという。特に鎌倉時代末期の正応四年(1291年)の熱田神宮火災の際に八剣宮に納めて守護したことにより重要性は更に上昇した。
祭神の日本武尊は豊日別神社に祭祀してあったのを明治時代に合併しています。その社説にこう書いてありました。
日本武尊が熊襲ご征伐の時、当国を経歴されました。酋長の今朝麿(けさまろ)は皇子が来られたのを聞き伝えて、手厚くお迎えしました。
日本武尊は広野の石に腰かけて、この国の風俗や地理などをお尋ねになりました。今朝麿はつぶさにお答えしたので、尊(みこと)は大変喜ばれました。
程なく熊襲を平定して、都に帰る時、再びこの地に留まられたので、今朝麿は仮宮を建てて守護し奉りました。
尊は剣岳に登って、よくよく四方の風景をご覧になって、言いました。
「この山は他の山より勝れている。
私が今熊襲を平定して国民が帰服して、おのずから静かになった世の中山かな。」
(世の中・中山…掛けことば)
と。ここから中山の名が起こりました。
いよいよ都に戻ろうとして、この山を降りた時に、雷雨が激しかったので、尊は御供の人たちと木の陰に休み、八つの雷の神を祀ると、雷雨がたちまちに止みました。
(この場所を八雷社と言います。)
雷雨が晴れたので尊は神前原を通って、しばらく(滞在して)休息したしるしを残そうと、今の日吉神社のある所から三町ほどの所に、弟彦公に松の木を植えさせたので、ここを植木の森と言って、その邑(むら)を植木の里と言うと伝え聞いています。
それから月日が経って、安閑天皇の御代に,今朝麿の遠孫の人麿に神託が降りて、この剣山上に創立して奉斎しています。
備前国一宮の石上布都魂神社(いそのかみふつみたま神社)
祭神はスサノオですが、本来の祭神はスサノオがヤマタノオロチを斬った剣であり、その剣の
名が布都御魂だと伝えられています。
大和の石上神宮も布都御魂を祭神としますが、こちらの布都御魂はタケミカヅチの分身とも
言える剣のことです。
しかし、伝承では吉備の石上布都魂神社の布都御魂は大和の石上神宮に遷されたとあり
ますし、『日本書紀』の一書には、
「オロチを斬った剣は、名付けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)という。今は石上にある」
と、記し、別の一書では、
「オロチを斬った剣は、今は吉備の神部の許にあり」
と、記されている。
スサノオがヤマタノオロチを斬った剣が、石上神社にあるという伝承と吉備にあるという、それぞれの伝承を載せているのです。
言うまでもないことですが、『日本書紀』の一書にある吉備の神部は、旧赤坂郡の石上布都魂神社(いそのかみふつみたま神社)に比定されています。
ここに和邇氏が関係するというのは、赤坂の地名が和爾坐赤坂比古神社の赤坂比古命に通じるからです。しかも、石上神宮の祭祀族である物部首が春日氏の一族で、和邇氏と春日氏の結びつきを考えた時に赤坂の一致は偶然で片づけるわけにはいかなくなるわけです。
『先代旧辞本紀』は高倉下を尾張氏の祖天香語山命のこととしているから、布都御魂は尾張
とも関わりを持つことになります。
それがオオタタネコの「系譜」で、帝に「汝は誰の子か?」と問われた彼が『僕は、大物主の大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕、意富多多泥古ぞ』と答えて、他の資料には見えない独自の神統譜が存在していた事を暗示しています。
(書紀は「火神軻遇突智の条・出雲の国譲り条では武甕槌神」そして「神剣授受の条では武甕雷神」と書き分け、他方、古事記は「火神の段と出雲の国譲り段、そして神剣授受の段の何れも建御雷之男神(或いは建御雷神)」で統一されており、見方によっては二柱の神様が異なる存在として捉えられていた可能性も出てきます)
崇神朝において物部氏が「神班物者」に選ばれ、群神を祀ったとある訳ですが、肝心の「神剣」を石上神宮で祀ることになったとは明記されていません。
それでも、物部氏による祭祀が崇神の頃に創始されたと考えられているのは、次の垂仁朝において、皇子の五十瓊敷入彦命が「剱一千口」を石上神宮に「蔵めた」後、皇子自身が社の神宝を「主(つかさど)った」と記録され、続く註文には次の文言も並んでいるからに他なりません。
一に云わく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は河上を召して、太刀一千口を作らしむ。(中略)
その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。しこうして後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。この時に、神、乞わして言わく、
『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』とのたまう。これ、今の、物部首らが始祖なり。
「春日臣」の族「名は市河」とは明らかに米餅搗大使主命(たがねつきのおみ)の子を指していると思われますから、この註文の「一に云」は和爾氏の伝承(主張)を取り入れた(編集の過程で書き加えた)ものだと考えられます。書紀は続く「八十七年春二月」条に於いて初めて物部氏による神宮の祭祀を語ります(註:文中に出てくる物部十千根は伊香色雄命の子で、母親は天津彦根命の後裔、山代縣主の祖・長溝の娘、玉手姫です)。
五十瓊敷命、妹、大中姫に謂りて曰く「我は老いたり。神宝を掌ること能わず。今より以後は、必ず汝主れ」と言う。大中姫辞びて曰さく「吾は手弱女なり。何ぞ能く天神庫に登らん」と申す。
五十瓊敷命の曰く「神庫高しといえども、我能く神庫のために梯子を造てん。あに庫に登るに煩わんや」と言う。(中略)
然して遂に、大中姫、物部十千根大連に授けて治めしむ。
故、物部連等、今に至るまで、石上の神宝を治むるは、是この縁なり。
「新撰姓氏録」が採録した物部首の伝承を見るまでもなく、八世紀の当時、既に物部氏「だけの」主張を国史に反映することが不可能となっており、壬申の乱を経て大宝律令の編纂が進められた七世紀末頃から藤原氏の台頭が取り分け顕著となり、それに反比例して物部氏が廟堂に占める重みは失われて行かざるを得ませんでした。
布留宿禰の伝承(「新撰姓氏録」大和国、皇別。上右の画像)では、
布留宿禰 柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男、木事命、男、市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、布都努斯神社を石上御布瑠村高庭の地に賀ひたまう。市川臣を以て神主と為す。四世孫、額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首、ならびに神主首と号う。これによりて臣姓を失ひ、物部首と為る。男、正五位上日向、天武天皇の御世、社地の名に依りて、布瑠宿禰姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。
のように記されています。「木事命(こごとみこと)」を雄略朝の物部氏である布都久留大連(ふつくる)の息子・小事連に擬す研究者もあるようですが、姓氏録は明確に「米餅搗大使主命の後」の「男(子)、木事命」と「男(子)、市川臣」を並べて挙げているのですから、この「小事」は和爾氏の系譜に現れる大宅氏の祖・八腹小事であり、その兄弟の「市川」が「布都努斯神社」を布留の地に「賀」ったと読むべきでしょう。
従がって、和爾氏の一門である物部首(実体は春日市川氏)が「フツヌシ」神社を創始したと述べている事になります。そして、更に問題なのが『大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り』の短い文言が含む意味合いです。
「布都志魂(ふつしみたま)」については神宮側にも次の言い伝えが残されています。
素戔嗚尊の蛇を斬りたまいし十握剱の名を天羽羽斬(あめのははぎり)と申す。また、蛇之麁正(おろちのあらまさ)と申す。その神気を称えて布都斯魂神(ふつしみたまのかみ)と申す。天羽羽斬は神代の昔より難波高津宮の御宇の五十六年に至るまで、吉備神部の許に在り、今の備前国石上の地、是なり。
五十六年孟冬己巳朔己酉、物部首市川臣(布留連の祖)勅を奉じて、布都斯魂神社を石上振神宮高庭の地に遷し加う。
高庭の地の底の石窟の内に天羽羽斬を以て布都御魂横刀の左坐に加え蔵む(東方となす)。
布留宿禰 柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男、木事命、男、市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、布都努斯神社を石上御布瑠村高庭の地に賀ひたまう。市川臣を以て神主と為す。四世孫、額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首、ならびに神主首と号う。これによりて臣姓を失ひ、物部首と為る。男、正五位上日向、天武天皇の御世、社地の名に依りて、布瑠宿禰姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。