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59
一般/歴史書
147
河内、茨田、稲瀬入彦、
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July 2015
December 2018 編集されました
カテゴリ:
河内
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タグ付けされた:
稲瀬入彦
コメント
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July 2015
May 2016 編集されました
安毛建美命
「天孫本紀物部系譜」には、伊香色雄の子で、六人部連祖とすることには疑問があるか?
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek1.htm
六人部連のなかでも、最も著姓である山城国乙訓郡の向日神社(向日市向日町北山) 奉斎の六人部連は海神族系の尾張氏族とするのが妥当である。物部の職掌には「水取」もあり、これが「モヒトリ、モトリ」と訓まれたから、安毛建美命は物部 氏族の水取連の祖であり、真年も水取連・舂米連の祖だと記す。舂米連は、河内北部の茨田・交野両郡にまたがる茨田屯倉に関して定められたと仁徳紀にいう舂 米部を管掌したが、物部氏族には珍しく、北九州にもあり、筑前国糟屋評造の郡領として史料に見える。茨田屯倉の淀川対岸となる摂津国島下郡穂積郷には舂米 寺(『日本霊異記』上巻)もあり、舂米部の分布(河内のほか、美濃国本巣郡、周防国玖珂郡、筑前国志摩郡。因幡にも現若桜町舂米)などの事情も併せて、舂米連は穂積臣や矢田部造に近縁とみられる。
そうすると安毛建美命の系譜は、「天孫本紀」にいう伊香色雄の子ではなく、穂積系の末盧国造祖・矢田稲吉命の子弟という可能性がある。同書で は、大新河命の同母兄とするから、大新河命に相当する大矢口宿祢の兄の同母兄の大水口宿祢が安毛建美に当たるとすれば、上記の諸事情がすべて符合する。
物部氏系統では、天火明命の七世孫に安毛建美命をあげて六人部連等祖とする。
恵解山古墳(いげのやまこふん)
恵解山古墳は、古墳時代中期(今から約1600年前)に造られた前方後円墳です。古墳の大きさは全長128m、後円部の直径約78.6m、前方部の幅約78.6mで、乙訓地域最大の規模を有しています。古墳の周囲には幅約25mの浅い周濠(しゅうごう)があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに及びます。
築かれた当時は斜面全体に石が葺(ふ)かれ、平らなところには埴輪(はにわ)が立て並べられていました。古墳に葬られた人物の名前は記録に残っていませんが、古墳の大きさなどから少なくとも乙訓地域の全域を支配した実力者の墓であったと考えられます。
恵解山古墳では、昭和55年、墓地拡張工事の際に前方部の中央付近からで鉄器が出土し、長岡京市教育委員会が緊急調査を行いました。調査の結果、鉄製の武器(大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点余り、ヤス状鉄製品5点)など総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見されました。古墳からこのように多量の鉄製武器が出土した例は京都府内にはなく、全国的に見ても非常に珍しく貴重であることから、恵解山古墳は昭和56年10月国史跡に指定され、鉄製武器などの出土品は平成11年に府指定文化財に指定されました。
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July 2015
近畿
綾部市物部町須波伎部
古代の物部郷である。物部は物部と須波伎(すわぎ)の2地区からなり、それぞれの地区に延喜式内社が鎮座する。
後者の地区に鎮座する須波伎部神社は貞観11(869)年に従五位下の神階を授与(三代実録)された何鹿郡(いかるがぐん)内唯一の式内社である。斉庭は広く社殿も大きく立派である
郷中の須波伎は須波伎物部氏(須羽直)の故地と推される。
一族の物部麁鹿火は磐井の反乱により倭国が二分される危機に瀕したとき、筑紫の御井郡(久留米市付近)で磐井を斬り反乱を鎮定した英雄。麁鹿火の母は須羽直(すわのあたい)女妹古である。
この須羽直の支配地は丹波・須波伎と思われる。
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July 2015
October 2016 編集されました
杷木神社。
由緒書き
第二十六代継体天皇の御代の筑紫の豪族磐井が反乱を起こした時に朝廷では,鹿鹿火大連(あらかいのおおむらじ)に命じて討伐を命じたが磐井が余りにも強力のため,苦戦に陥った時,この神社の前に幣帛を捧げ祈願されてからは,草木の風になびくが如くに平定することが出来たと言われています。
珍しい行事として,春秋二回行われる鎮祭(ちんざい)があります。日本の神々は十月に出雲大社に神集いがあり行くが,杷木神社の祭神はそれには参加せず一年中氏子の安全と豊作を守って働き続けているので,年二回はゆっくりと休まれることになっています。これが鎮まつりで大きな声を出すことはもちろん歌舞音曲を停止,下肥等のにおいをさせず,生の木や竹を切ることも禁じられています。
杷木町教育委員会・杷木町観光協会 平成元年十一月
社頭掲示由緒
祭神
伊弉諾尊(イザナギ) 伊弉冊尊(イザナミ)
大己貴命(オオナモミノミコト) 武甕槌命(タケミカヅチノミコト)
杷木町教育委員会
杷木町観光協会 平成元年十一月
福岡県神社誌に
出典は
http://lunabura.exblog.jp/22194417/
筑前上座郡杷木大明神は鎮座の始めを知る人はいない。左の殿は伊弉諾尊、伊弉冊尊と伝え、右の殿は大己貴命、武・槌命の四柱の御神を二社に崇め奉る。
そもそも人皇二十七代継体天皇(附記、継体天皇は第二十六代なり)の御宇に筑紫の磐井らが謀叛を企て、異国の御調物を奪い取る。
是により朝廷は勅旨を下し、麁鹿火大連(あらかひのおおむらじ)を将として、官軍は筑石に進発し、筑後国にて大連は磐井と相戦う。御井郡にて官軍は大いに利を得て終に磐井を討ち殺し、麁鹿火は凱陣した。
ところが磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ、心を一つにし、豊前筑前の間に蜂起した。これによって大連は勅旨を下し、豊前国の企救長手、鷹羽金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸、田中男起(或る書に男立と云う)らに官符を伝えた。
件(くだん)の人々は勅を奉り、官兵を引き連れて、両国に発向したが、残党らの勢いは盛んで、官軍は度々利を失った。
しかし、大将鷲丸が言った。
「上座郡には大己貴命、武・槌命が御鎮座と聞く。かの御神の冥助を頼み申すのはどうだろうか、云々」
皆、同じ心だった。
そこに池田の池と云う奇異の池があった。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端で縄を曳き、大幣を捧げ、官軍の勝利を祈った。
是より鷲丸らの勢いが盛んになり、風が草を靡かすが如く、官兵は各々神助を受けた。是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、西国立つるところ、平均す。
天皇、大いに叡感御座し、鷲麿、男起、長手、金田丸に衣服、刀剣を賜り、杷木大明神にうつし、馬二匹、弓箭・幣帛を捧げた。即ち物部宿禰高古を祭主とし、朝敵退治の蟇目の射法を勤めた。尤恒の祭祀、是時より始まった、と云々。
維時大永二年壬午二月穀日
神坂源大夫藤原貞家之を誌す
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July 2015
福岡県久留米市御井町1
筑後国一の宮高良大社
宮司の竹間宗麿氏は、高良大社について次のように述べています。
規模雄大な神籠石の列石に囲まれた、九州地方屈指の古社として、
継体朝の反乱で名高い筑紫君磐井の本拠(山麓に磐井城・磐井川・磐井清水の名が遺る)、或いは邪馬台国女王卑弥呼の治所論まで盛んになって来た昨今である。
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July 2015
凡河内氏(おうしこうちうじ)は主に畿内を中心として勢力があった古代豪族。凡河内忌寸、凡川内国造、河内国造とも書かれる。隅田八幡宮人物画像鏡に見られる「開中費直」の文言を「河内直(かわちのあたい)」と解釈する説がある。
天津彦根命の後裔(息子の天戸間見命、五世孫乎田部連、国造本紀による彦己曾保理命等)と天穂日命の後裔(十三世孫可美乾飯根命)、あるいは渡来系(後漢孝献帝の息子白龍王等)の3系統がある。
上代の凡河内国、すなわち後世の摂津、河内、和泉にわたる広い地域に勢力を持っていた。摂津国菟原郡には河内国魂神社(五毛天神)があり、凡河内氏が奉祀していたと考えられる。天平19年(747年)の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帖」には、会下山の付近に凡河内寺山の名が見られる。記紀には、宣化天皇の妃に大河内稚子媛の名が見える。 続日本紀によると、慶雲3年(706年)10月には摂津国造凡河内忌寸石麻呂を従七位上から位一階進める、の記事があり、摂津の国造も出していた様である。 しかし、奈良時代にはかつての勢力は衰えていたと考えられる。
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February 2016
『姓氏録』右京皇別の佐伯直 : 稲背入彦の後裔
同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。佐伯は針間のほか、安芸や阿波・讃岐・伊予の五国に分散して配置されたとありますので、播磨の支族が四国各地の佐伯を管掌したことが考えられます。
播磨国内では、印南・揖保郡等に佐伯直の分布が見えますが、河内皇別の佐伯直も稲背入彦命の後と『姓氏録』に記されます。
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February 2016
October 2016 編集されました
兵主大社 由緒
湖南の沃野野洲川下流兵主の里に鎮座の当大社は大国主神が天孫の勅に応じて国土を譲られた際に御杖とされた< >矛を宮中に御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威を日代宮域近き大和国穴師に神地を皇子稲背入彦皇子(大和武尊の弟)をしてこれを祀らしめられたのが発祥である。
景行天皇近江の国滋賀郡に遷都される時全皇子献地を穴太(大津市坂本)に求められ遷し祀られた依て今日この地を元兵主と言う。
のち欽明天皇の時代一族が琵琶湖上を渡り東に移住するに際し大神を奉じて今の地に鎮祭し地域住民の守護神として御神徳を仰ぎ当地を開拓した。
兵主大社境内看板より抜粋・再引用 ※< >は判読不能部
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March 2016
「姫路市史第2巻」(1970年姫路市)は、こう書く。
「播磨では、景行皇子稲背入彦命(母は五十河媛)が播磨別の始祖として播磨に下り、子孫は当地方の豪族として有力であった。・・・(中略)・・・・
針間国造の居住した所は、おそらく白国であっただろう。
白国の地名が国造家の子孫である佐伯氏、のちの白国氏による起名であり、この地がその住所であり、付近に、佐伯神社、白国神社があることなどからも想像される」(P211~212)
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April 2016
景行紀四年条には、
次の妃、五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は、これ讃岐国造の始め祖なり。弟稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。
皇子は「播磨」のどこかを支配したはずです。
兵主大社縁起によれば、
当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師に神地を占し兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。
大和の日代宮近くに穴師坐兵主神社を創始したのも稲背入彦皇子だと云うことになります
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April 2016
October 2016 編集されました
崇神・ミマキイリヒコ、垂仁・イクメイリヒコ、五十瓊敷入彦命・イニシキイリヒコ、五百城入彦皇子・イオキイリヒコと連鎖するイリ王朝の輪の只中に在ったのが稲背入彦命・イナセイリヒコです。
景行天皇
(前略)またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。
またの妃、襲武媛は、国乳別皇子、次に国凝別皇子、次に国背別皇子、またの名は宮道別皇子、次に豊戸別皇子を生んだ。
またの妃、美人を御刀媛という。豊国別皇子を生んだ。(中略)
稲背入彦命[播磨別の祖]。
豊国別命[喜備(吉備)別の祖]。
武国皇別命[伊与(伊予)御城別、添御杖君の祖]。
大稲背別命[御杖君の祖]。
豊門別命[三嶋水間君、奄智首、壮子首、粟首、筑紫火別君の祖]。
息前彦人大兄水城命[奄智白幣造の祖]。櫛角別命[茨田連)の祖]。
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April 2016
October 2016 編集されました
姫路市内にある白国神社
その神社が建つ白鷺城の北北東凡そ3㎞の位置は「播磨国風土記」飾磨の郡『新良訓(しらくに)』の条で、新良訓と名づくる所以は、昔、新羅の国の人、来朝ける時、この村に宿をとったから「白国」と名付けられたとある場所で、その祭神は稲背入彦命と阿曾武命(アソタケル)と神吾田津日売命の三柱です。
社伝によれば、
今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子(稲背入命)が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、木花咲耶媛(コノハナサクヤヒメ、神吾田津日売命の別名)が忽然と現れ、願いを聞きとどけてくれた。そこで社を造り大切にお祀りしているという訳ですが、
面白いことに姫路には、もう一か所かつて「白国大明神」と称された神社が指呼の先にあるのです。それが天平五年(733)の創祀とされる広峰神社。その祭神はスサノオと五十猛命親子で、もともと白幣山にあった社を天禄三年(972)に今の社地に移したものらしく、社家は歌人の凡河内躬恒の子・恒寿を祖とする広峰氏なのですが、七代目の勝賀に男子が無かったため『阿曽氏の一族』広瀬家から婿養子三郎を迎えたと社伝にあります。
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May 2016
豊城入彦ー八綱田命ー彦狭島命ー御諸別命ー大荒田別命ー賀表真稚命ー稚彦ー阿利真公
御諸別命の兄弟が、夏花命(後裔が物部公)
大荒田別命の兄弟が市入別(播磨鴨国造)
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May 2016
兵主大社(ひょうずたいしゃ)は、滋賀県野洲市にある神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。正式名称は兵主神社であるが、普段は「兵主大社」を称している。
八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する。
「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載されているが、その中で名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである。
社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。
延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。
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June 2016
June 2016 編集されました
垂仁天皇は、師木の玉垣宮(奈良県桜井市穴師纏向遺跡内)で天下を治めました。
迦具夜比売命(大筒木垂根王の娘)を妃として生まれた阿耶美都比売命は、稲瀬毘古王に嫁ぎました。
古事記
伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)は師木の玉垣宮で天下をお治めになりました。この天皇は、沼羽田之入毘売命の妹の阿耶美能伊理毘売命(アザミノイリビメノミコト)との間に、伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)、阿耶美津比売命(アザミツヒメノミコト)をもうけました。
阿耶美都比売命は、稲瀬毘古王に嫁いだ。
ーーー
此の天皇(景行)、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生みませる御子、櫛角別王、次に大碓命、次に小碓命。
亦の名は倭男具那命。次に倭根子命、次に神櫛王、五柱。(中略)
また伊那毘能大郎女の弟、伊那毘能若郎女を娶して生みませる御子、真若王、次に日子人之大江王。(以下略)[註:この二人は書紀に記載が無い]
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June 2016
日本書記
景行天皇と五十河媛との間に、神櫛皇子と稻背入彥皇子が生まれました。
次の妃の五十河媛(イカワヒメ)は神櫛皇子(カムクシノミコ)・稻背入彥皇子(イナセノイリビコノミコ)を生みました。
兄の神櫛皇子(カムクシノミコ)は讚岐國造(サヌキノクニノミヤツコ)の始祖です。弟の稻背入彥皇子(イナセノイリビコノミコ)は播磨別(ハリマノワケ)の始祖です。
次の妃の阿倍氏木事(アベノウジノコゴト)の娘の高田媛(タカタヒメ)は武國凝別皇子(タケクニコリワケノミコ)を生みました。伊豫國(イヨノクニ)の御村別(ミムラノワケ)の始祖です。
次の妃の日向髮長大田根(ヒムカノカミナガオオタネ)は日向襲津彥皇子(ヒムカノソツビコノミコ)を生みました。阿牟君(アムノキミ)の始祖です。
次の妃の襲武媛(ソノタケヒメ)は國乳別皇子(クニチワケノミコ)と國背別皇子(クニソワケノミコ)
ある伝では宮道別皇子(ミヤジワケノミコ)といいます
と豐戸別皇子(トヨトワケノミコ)を生みました。兄の國乳別皇子(クニチワケノミコ)は水沼別(ミズマノワケ)の始祖です。弟の豐戸別皇子(トヨトワケノミコ)は火國別(ヒノクニノワケ)の始祖です。
ーーー
二年の春三月の丙寅の朔戊辰(三日)に、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)<一に云わく、稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)と云う>を立てて皇后とす。后、二の男を生れます。第一をば大碓皇子と曰す。第二を小碓尊と曰す。[註:小碓尊は日本武尊のこと]
一書に云わく、皇后、三の男を生れます。その第三を稚倭根子皇子と曰すという。[四年二月条では八坂入媛の所生とある] (中略)
次妃、五十河媛、神櫛皇子、稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は是、讃岐国造の始祖なり。弟稲背入彦皇子は是、播磨別の始祖なり。
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June 2016
古事記は 五十日帯日子王は春日の山君、高志の池君、春日部の君の祖。
日本書記は、 垂仁紀34年条=山背の苅幡戸辺が五十日足彦命を生んだ。石田君の祖。
「新撰姓氏録」には『讃岐公=大足彦忍別(景行)天皇、皇子の五十香彦命(亦の名を神櫛別命)の後』(右京皇別)と明記され、更には『酒部公=讃岐公と同祖、神櫛別王の後なり』(和泉国皇別)ともあります。神櫛皇子は五十香彦命(五十日足彦命)と同一人物であって、かつ、稲背入彦命より一つ上の世代に属する人なのです。
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June 2016
宮道天神社
豊川市赤坂町宮路1120番地
宮路山の麓の音羽町には日本武尊の東征のとき、その皇子の建貝児王(たてがいこのおおきみ:第3子)をこの地に封ぜられたといいます。
これが宮道別(みやじわけ)の祖であり、その子宮道宿禰速麿は「穂」の県主になり、その子孫が建貝児王を祭ったのが宮路山の山頂と麓にある宮道天神社の起源です。
宮道別王(参河宝飫郡 宮道氏之祖也)は武卵王の子である
その子、宮道宿弥速麻呂(三河国宝飫郡縣主)が県主となっている
五百木之入日子命は『新撰姓氏録』左京皇別上の御使(みつかい)朝臣条によれば、気入彦命は応神天皇の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえ、その功績によって御使連(みつかいのむらじ)の氏姓を賜ったという。
『新撰姓氏録』右京皇別下にも、御立史(みたちのふひと)が気入彦命の後裔と記されている。
『古事記』・『日本書紀』の双方には、この皇子の名は見られない。名前の類似点から五百城入彦皇子と同一人物と考えられる。
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July 2016
July 2016 編集されました
茨城県常陸大宮市(旧御前山村)に佐伯神社があり、明治29年に祭神を稲背入彦命・景行天皇・五十河媛から忍日命・道臣命・健日命に変更されている。
佐伯神社は、大同元年(806)讃岐僧、玄海(法相宗)により金剛山密蔵院蓮覚寺建立の際に玄海の氏神を祭る為に建てられました。玄海について調べてみましたが、今のところどこからも玄海の名は出てきません。法相宗といえば阿刀氏の玄昉がいますが、つながりがあるかもしれないと考えておりましたが、なかなか難しい。
讃岐の佐伯直氏は、六国史を見ると、平安前期に空海(贈大僧正)のほか、その実弟の真雅(法師大和尚)や道雅(少僧都)、真然(僧正)、守寵(伝灯大法師)、実恵(大法師)、道雄(大法師)などの当時高名な僧を輩出しており、他の系統の佐伯氏とは大きな差異があります。讃岐僧の玄海(法相宗)については、これまで管見に入っておりませんが、上記の僧侶たちに先立つもので、出身地の伝承からいえば、讃岐の佐伯直氏の出としてよいものと考えられます。
そうすると、明治の祭神変更は疑問が大きいところだといえましょう。
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July 2016
播磨の白国神社はもと新羅訓神社(しらくに)と書き、現姫路市白国町、旧地名では枚野里新羅訓村にあります。その由来書によると、祭神は神吾田津日売命(=木花咲耶媛)で、相殿に稲背入彦命、阿曽武命(前者の子で、針間国造の祖)を祀ります。
稲背入彦命は、韓地から渡来した五十猛神(兵主神、八千矛神)の後裔にあたりますので、針間国造家がこの祖神を祀るのは自然だといえます。古代から白国神社を奉斎してきたという白国氏の現存する系図は、後世の偽作でありますので、この家がどのように針間国造家から分岐したのか不明です
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July 2016
吉備津に上陸して足守川をさかのぼると葦守宮に至る。待ってましたとばかりに出てきたのが御友別、兄弟子孫をあげて天皇一行を饗奉った。吉備國を割きて、其の子等に封さす、といふはどういうことか?
吉備は磐余彦尊(神武天皇)が高嶋宮で三年船や兵食を養った地、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の時、四道将軍の一人吉備津彦が派遣された地、吉備津彦は彦五十狹芹彦命、大日本根子彦太瓊天皇(孝靈天皇)と倭國香媛【亦名 糸亙某姉】の子。御間城入彦
五十瓊殖天皇(崇神天皇)の六十年に、出雲大神宮の神寶めぐり、吉備津彦は武渟河別とともに出雲振根を誅している。大足彦忍代別天皇(景行天皇)が皇后に吉備系の播磨稻日大郎姫を迎えたのは熊襲征伐をにらんでのこと、古事記は、若建吉備津日子(稚武彦命)の女(むすめ)とする、稚武彦命は、大日本根子彦太瓊天皇(孝靈天皇)と妃糸亙某弟の子。書紀は、稚武彦命の女(むすめ)、五十河媛と大足彦忍代別天皇(景行天皇)の子、稻背入彦皇子が播磨別の始祖となったとする。日本武尊の東征に従ったのが稚武彦命(吉備武彦)と大伴武日であり、日本武尊の死を天皇に報告する役回りとなったのも吉備武彦であった。先に見たように、その子鴨別は氣長足姫尊(神功皇后)の熊襲國征伐で功を挙げていた。吉備津彦がこの地を平定したのは、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の十年(BC88年)の条の記述であり、突如として、わずか二代目でこの時代に突入してくる。
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July 2016
孝霊天皇
妃:倭国香媛(やまとのくにかひめ、?某姉、蠅伊呂泥、意富夜麻登玖邇阿礼比売命。和知都美命の女)
古事記にては、第3代安寧天皇の子の3番目の子、師木津日子命 に二王が居て、その内の一人和知都美命が淡道之御井宮にいた。とされている。そして、その和知都美命の子に倭国香媛と妹の蝿伊呂杼が居て、どちらも第7代孝霊天皇の妃になっている。
皇女:倭迹迹日百襲媛命。のちの卑弥呼。孝霊39年(167年)生誕
皇子:日子刺肩別命。『古事記』のみ)
皇子:彦五十狭芹彦命。吉備津彦命。卑弥呼の男弟。生誕はAD200年以降で母は別人と思われる。
皇女:倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)
妃:?某弟(はえいろど、?某姉の妹、蠅伊呂杼)
?某弟は
皇子:彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)
皇子:稚武彦命(わかたけひこのみこと) 吉備氏の祖。
の二人の吉備津彦と呼ばれる人物を産んでいる。古事記に記されている吉備津彦兄弟(稚武彦・弟稚武彦と思われる。吉備津彦が活躍するのは、孝安天皇が崩御し孝霊天皇が即位した直後と考えられるので孝霊61年頃のことで孝霊天皇が現年齢計算で30歳ごろのことである。吉備津彦の活躍ぶりから考えてこの両者は成人していると思われ、少なくとも現年齢で15歳以上にはなっていると推定される。この二人が孝霊天皇の皇子だと考えるには孝霊天皇との年齢差が少なすぎる。
このようなことからこの2皇子は兄の大吉備諸進命の子と考える。?某弟は大吉備諸進命の妃であろう。倭国香媛と蝿伊呂杼は姉妹であるが、結婚相手の年齢から、姉と妹が逆ではないかと思われる。
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October 2016
垂仁は阿邪美津比売命(稚浅津姫命と同人?)という娘を稲背入彦命に嫁がせているが、彼が応神の父親だった可能性がある。
九州を地盤とした建緒組命が四国を経て順次吉備方面に進出、吉備および播磨一帯に勢力圏を広げ、吉備氏ひいては帝室とも結びつきを深めた。
稲背入彦命が景行の「御杖」となって各地の資源開発に能力を発揮、それが「兵主神」の原点になったと思われるが、彼が、早くから近畿大和に地盤を築いていたとしても、その家族、取り分け「跡継ぎ」となるホムタワケなど総領息子たちは吉備乃至は播磨の館に置いて私兵に守らせていたのではないか?(播磨の総社は兵主神社)
吉備の国赤磐郡は和気氏の本拠地でもあるが、その祖先は垂仁と丹波道主命の娘・渟葉田瓊入媛の子である鐸石別命(ぬでしわけ)であるとされている。
渟葉田瓊入媛は稲背入彦命に嫁いだ「稚浅津姫命」と伯母姪の間柄なので、二つの氏族は帝室を媒介として姻戚関係にあり、上で見た「素戔嗚尊の天羽羽斬」を祭っていたとされる備前の石上布都魂神社は、正に、その赤磐郡石上に建てられている(時代は離れますが継体妃を出した磐衝別命=三尾氏とも系譜上姻戚になります)。
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July 2017
白国神社
神社で発行している「白国神社略記」に
祭神・神吾田津日売(かみあだつひめの)命またの御名・木花咲耶媛命、稲背入彦命及び阿曽武命(稲背入彦命の孫)の三神と書かれている。主神の神吾田津日売命の別名は木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと)(天照大神(あまてらすおおかみ)の孫の瓊瓊杵(ににぎの)命の妃)である。創立「当神社は今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子稲背入彦命が大和から当地方へ下向された時、この白国の地に住居を構えて播磨地方を支配された。その御孫阿曽(あそ)武命の妃高富媛が難産のため大変苦しまれた時、命は倉谷山の峰に白幣を立て、神吾田津日売命を祀り一心に安産を祈願されたところ女神が忽然と現れ「妾が神吾田津日売である。汝の祈りは天に通じている。妾がこの地に永く留まって婦人を守護し安産させましょう」とお告げになると白幣が高く天に舞い上がり、その白幣と共にお隠れになったので、急いで帰られると難無く男子を出産されました。阿曽武命はその神徳に感謝され早速倉谷山の麓に社殿を設け、神吾田津日売を祀られたのが白国神社の創立である。」と書かれてある。
稲背入彦命はこゝを根拠地として田畑を拓き水割を図り、よく治水の実をあげられて豪族となり、針間(播磨)別命といわれ、現在の宍粟郡あたりを根拠とした伊和大神と並ぶ勢力をもち、ご逝去後、市川を渡り霞野丘に葬られ国別明神と称えられた。今の国分寺東北方の壇場山古墳は、この命を葬ったとの説がある。稲背入彦命の孫に当る阿曽武命(白国家の始祖)の妃高富媛が難産のため大変苦しまれた時、命が倉谷山の峯に白幣を立て、神吾田津日売命(木花咲耶媛命)を祀り一心に安産を祈願され、安産の神徳に感謝した阿曽武命が倉谷山の麓に社殿を設け、神吾田津日売を祀ったのが白国神社の創祀である。この御生まれになった阿良津命が幼時より大変信仰心が厚く、ある日社殿でお祈りをしていると白髪の老人が現れて「吾は汝の先祖国別明神(稲背入彦命)である。汝が毎日神に祈りを捧げる気持ちは感心である。必ず幸福を与えてやろう。」といって、墓のある川向いの方へ飛び去られたので、このことを父の阿曽武命に話されると父も又昨夜夢枕に貴人が現れ、墓にある二面の鏡の中の一面を持ち帰り社殿に祀れとのお告げがあったと言われたので、急いでお墓に詣り鏡を持ち帰り神吾田津日売命の社殿に稲背入彦命を合祀したという。その後、阿良津命は大和朝廷より地方長官である播磨の初代国造に任ぜられその上、「佐伯直(さえきのあたい)」の姓を賜り地方政治を分担されるのであるが第十六代の応神天皇は阿良津命の父・阿曽武命がかつて朝廷で忠勤を励んだ功績を讃え神吾田津日売命の社殿に稲背入彦命と共に、阿曽武命を相殿に配祀させたのでここに三座合祀の白国神社となった。以上の三神合祀の白国神社は白国神、又の名を新羅国国主大明神(白国々主明神)或いは日の宮と称した…元慶元年延喜式制小社に列し…その後考謙天皇の勅命により新羅国を白国に改めたという。」(白国郷土史愛好会編「ふるさと白国」、「播磨鑑」、「峯相記」など)
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October 2018
October 2018 編集されました
何故か?
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October 2018
「阿宗神社」
「阿宗神社」は、息長日子王を祀っている 息長日子王(おきながひこのみこ)は、息長帯比売命(神功皇后)の弟とされています。
宝賀寿男氏の著にこの町の「阿曽」が書かれてありました。
「揖保郡太子町には阿曽の地名が残り当地付近で阿宗君が奉斎した揖保郡の阿宗神社がある。応神巡幸の伝承も『風土記』にみえるが、天皇一族として異例なほど応神が播磨の記事に頻出することに留意される。このように系譜を考え直した場合、息長帯比売と息長日子王の父である息長宿王とは、実態が稲背入彦命にあたるとみられ、これが息長田別命の子に位置づけられる。
針間国造一族(針間直、佐伯直)及び吉備品遅君・播磨阿宗君が稲背入彦命の後裔で、鍛冶氏族の「息長氏」の系統で、応神天皇はその息長氏の出であった。」
といいます
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October 2018
October 2018 編集されました
近江の野洲の兵主大社
社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。
延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。
【由緒】景行天皇58年に高穂の宮居に近き穴太に祀られ
養老2年(718)現在の地に鎮座
貞観4年(862)正五位下
同16年(874)從三位
治承4年(1180)「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額寄進
文治2年(1186)神殿末社炎上
文永の兵火にも炎上
織田信長の佐々木討伐の兵火で焼失
大正4年4月県社
兵主大社は、八千矛神(大国主神・つわものぬし)を景行天皇の時代に高穂の宮居に近い穴太(大津市坂本穴太町元兵主)に祀られ、欽明天皇(531~71)の御代に播磨別等琵琶湖上を渡り大神を奉じて、現在の宮域に遷座されたのである。兵主大明神縁起によると ゛播磨守資頼"の居館と記している。花山天皇の御代の寛和元年(985)に正一位を追授せられた。
また、拝殿の左奥にある庭園は、鎌倉時代の古様を伝える庭園として、昭和28年に名勝に指定されている。この庭園は、神社がこの地に移転してくる以前からあったと考えられており、元々は神社の庭としてではなく、鎌倉時代この地の豪族である播磨守資頼邸の庭園だったと云われている
「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載されているが、その中で名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである
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October 2018
October 2018 編集されました
兵主大社
由緒
当社は景行天皇の御代、皇子稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)に奉斎されたのを創始とする。更に近江高穴穂宮遷都に伴い、宮域近き穴太(大津市坂本)に御遷座になった。その後欽明天皇の御代に琵琶湖上を渡り、現在の地に御鎮座されたと伝える。
延喜式には明神大社に列せられ神階昇叙も著しく、花山天皇より「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を賜っている。中世には、源頼朝・足利尊氏等の武将の崇敬厚く、寄進された武具・甲冑を今に伝えており、更に徳川家よりも社領の寄進を受けるなど、その御神威は広範囲にまで及んであた。
又、当社は古くより旧「兵主十八郷」と呼ぶ周辺地域の総氏神として、住民より心のよりどころと仰がれ、国指定の名勝庭園を始め多くの指定文化財を所有、近年では全国各地よりの参拝者を得て現在に至っている。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
当社は、兵主十八郷(往古は五十四郷)の総鎮守社であり、
野洲郡の中では、御上神社と当社のみが名神大社に指定されている。
「兵主」の名から、「つわものぬし」の神と解釈され、
鎌倉時代以降、武家の崇敬が篤く、隆盛を極めており、
三十番神の中にも、その名を見ることができる。
また、同じく近江にある日吉大社の影響からか、
当社にも、上七社・中七社、下七社の兵主二十一社が存在しており、
例大祭(兵主祭)には、楼門に上七社の神輿が鎮座するという。
『和漢三才図会』には、祭神・大己貴命に七つの名があるので七社だとある。
七つの名は、大己貴命・大国主神・芦原醜男・八千矛神・国作大己貴命・大物主神・顕国玉神。
兵主神社二十一社一覧 (兵主大社サイトより転載)
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October 2018
October 2018 編集されました
穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。
元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説があるj
王弟清日子の妻は大和の女である。日本書紀はその名を当摩咩斐(たぎまのめひ)と伝えている。当摩は、大和盆地の西南、二上山の東の麓の当麻(たいま)である。日本書紀の垂仁七年秋七月の条に出てくる当摩蹶速(たぎまのくえはや)の妹か娘であろう。蹶速は、その頃、大和随一と称せられた猛将でああった。この清日子と咩斐(めひ)とが結ばれたのも、やはり政略による。強国の問に挟まれた小国は、いつの世も、その立場は苦しい。清日子が大和寄りであるのも、また已むを得ぬことであった。
『古事記』では、清日子は當摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶り、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)をもうけています。當摩之咩斐(タギマノメヒ)は當麻の出でしょう。菅竃由良度美は葛城の高額比賣命の母親。即ち息長帶比賣命の祖母と云うことになります。
『古事記』によれば、菅竈由良度美の孫が息長帯比売命(神功皇后)であるとしている(応神天皇の条)。神功皇后の父親に当る息長宿禰王は丹波の高材(たかき)比売の子で、息長氏の始祖に当り、古代近江の豪族の一人である。息長氏は湖東の坂田郡息長村を中心にして勢力をもっていたといわれている。
田道間守{日本書紀}の次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。しかし日本書紀において結婚したのはアメノヒボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている。
継体紀 二十三年夏四月七日 任那王、己能末多干岐が来朝した。
─己能末多というのは、思うに阿利斯等であろう。
─大友大連金村に、「海外の諸国に、応神天皇が宮家を置かれてから、もとの国王にその土地を任せ、統治させられたのは、まことに道理に合ったことです。 … 」
この月、使いを遣わして、己能末多干岐を任那に送らせた。同時に任那にいる近江毛野臣に詔され、「任那王の奏上するところをよく問いただし、任那と新羅が互いに疑い合っているのを和解させるように」といわれた。(この説得に失敗し、新羅の上臣は、)四つの村を掠め、─金官・背伐・安多・委陀の四村。ある本には多々羅・須那羅・和多・費智という─人々を率いて本国に帰った。ある人が言った。「多々羅ら四村が掠められたのは毛野臣の失敗であった」と。
古くには
古事記ではアメノヒボコの話は応神天皇の段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出現する。日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)であるため、古事記と日本書紀では系譜(アメノヒボコが出てくる話の時系列)が逆転している
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January 2020
応神天皇は、針間国造の祖・稲背入彦命と垂仁天皇皇女の阿邪美都比売命との間に生まれたとの説がありますが、
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コメント
「天孫本紀物部系譜」には、伊香色雄の子で、六人部連祖とすることには疑問があるか?
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek1.htm
六人部連のなかでも、最も著姓である山城国乙訓郡の向日神社(向日市向日町北山) 奉斎の六人部連は海神族系の尾張氏族とするのが妥当である。物部の職掌には「水取」もあり、これが「モヒトリ、モトリ」と訓まれたから、安毛建美命は物部 氏族の水取連の祖であり、真年も水取連・舂米連の祖だと記す。舂米連は、河内北部の茨田・交野両郡にまたがる茨田屯倉に関して定められたと仁徳紀にいう舂 米部を管掌したが、物部氏族には珍しく、北九州にもあり、筑前国糟屋評造の郡領として史料に見える。茨田屯倉の淀川対岸となる摂津国島下郡穂積郷には舂米 寺(『日本霊異記』上巻)もあり、舂米部の分布(河内のほか、美濃国本巣郡、周防国玖珂郡、筑前国志摩郡。因幡にも現若桜町舂米)などの事情も併せて、舂米連は穂積臣や矢田部造に近縁とみられる。
そうすると安毛建美命の系譜は、「天孫本紀」にいう伊香色雄の子ではなく、穂積系の末盧国造祖・矢田稲吉命の子弟という可能性がある。同書で は、大新河命の同母兄とするから、大新河命に相当する大矢口宿祢の兄の同母兄の大水口宿祢が安毛建美に当たるとすれば、上記の諸事情がすべて符合する。
物部氏系統では、天火明命の七世孫に安毛建美命をあげて六人部連等祖とする。
恵解山古墳(いげのやまこふん)
恵解山古墳は、古墳時代中期(今から約1600年前)に造られた前方後円墳です。古墳の大きさは全長128m、後円部の直径約78.6m、前方部の幅約78.6mで、乙訓地域最大の規模を有しています。古墳の周囲には幅約25mの浅い周濠(しゅうごう)があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに及びます。
築かれた当時は斜面全体に石が葺(ふ)かれ、平らなところには埴輪(はにわ)が立て並べられていました。古墳に葬られた人物の名前は記録に残っていませんが、古墳の大きさなどから少なくとも乙訓地域の全域を支配した実力者の墓であったと考えられます。
恵解山古墳では、昭和55年、墓地拡張工事の際に前方部の中央付近からで鉄器が出土し、長岡京市教育委員会が緊急調査を行いました。調査の結果、鉄製の武器(大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点余り、ヤス状鉄製品5点)など総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見されました。古墳からこのように多量の鉄製武器が出土した例は京都府内にはなく、全国的に見ても非常に珍しく貴重であることから、恵解山古墳は昭和56年10月国史跡に指定され、鉄製武器などの出土品は平成11年に府指定文化財に指定されました。
綾部市物部町須波伎部
古代の物部郷である。物部は物部と須波伎(すわぎ)の2地区からなり、それぞれの地区に延喜式内社が鎮座する。
後者の地区に鎮座する須波伎部神社は貞観11(869)年に従五位下の神階を授与(三代実録)された何鹿郡(いかるがぐん)内唯一の式内社である。斉庭は広く社殿も大きく立派である
郷中の須波伎は須波伎物部氏(須羽直)の故地と推される。
一族の物部麁鹿火は磐井の反乱により倭国が二分される危機に瀕したとき、筑紫の御井郡(久留米市付近)で磐井を斬り反乱を鎮定した英雄。麁鹿火の母は須羽直(すわのあたい)女妹古である。
この須羽直の支配地は丹波・須波伎と思われる。
由緒書き
第二十六代継体天皇の御代の筑紫の豪族磐井が反乱を起こした時に朝廷では,鹿鹿火大連(あらかいのおおむらじ)に命じて討伐を命じたが磐井が余りにも強力のため,苦戦に陥った時,この神社の前に幣帛を捧げ祈願されてからは,草木の風になびくが如くに平定することが出来たと言われています。
珍しい行事として,春秋二回行われる鎮祭(ちんざい)があります。日本の神々は十月に出雲大社に神集いがあり行くが,杷木神社の祭神はそれには参加せず一年中氏子の安全と豊作を守って働き続けているので,年二回はゆっくりと休まれることになっています。これが鎮まつりで大きな声を出すことはもちろん歌舞音曲を停止,下肥等のにおいをさせず,生の木や竹を切ることも禁じられています。
杷木町教育委員会・杷木町観光協会 平成元年十一月
社頭掲示由緒
祭神
伊弉諾尊(イザナギ) 伊弉冊尊(イザナミ)
大己貴命(オオナモミノミコト) 武甕槌命(タケミカヅチノミコト)
杷木町教育委員会
杷木町観光協会 平成元年十一月
福岡県神社誌に
出典は
http://lunabura.exblog.jp/22194417/
筑前上座郡杷木大明神は鎮座の始めを知る人はいない。左の殿は伊弉諾尊、伊弉冊尊と伝え、右の殿は大己貴命、武・槌命の四柱の御神を二社に崇め奉る。
そもそも人皇二十七代継体天皇(附記、継体天皇は第二十六代なり)の御宇に筑紫の磐井らが謀叛を企て、異国の御調物を奪い取る。
是により朝廷は勅旨を下し、麁鹿火大連(あらかひのおおむらじ)を将として、官軍は筑石に進発し、筑後国にて大連は磐井と相戦う。御井郡にて官軍は大いに利を得て終に磐井を討ち殺し、麁鹿火は凱陣した。
ところが磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ、心を一つにし、豊前筑前の間に蜂起した。これによって大連は勅旨を下し、豊前国の企救長手、鷹羽金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸、田中男起(或る書に男立と云う)らに官符を伝えた。
件(くだん)の人々は勅を奉り、官兵を引き連れて、両国に発向したが、残党らの勢いは盛んで、官軍は度々利を失った。
しかし、大将鷲丸が言った。
「上座郡には大己貴命、武・槌命が御鎮座と聞く。かの御神の冥助を頼み申すのはどうだろうか、云々」
皆、同じ心だった。
そこに池田の池と云う奇異の池があった。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端で縄を曳き、大幣を捧げ、官軍の勝利を祈った。
是より鷲丸らの勢いが盛んになり、風が草を靡かすが如く、官兵は各々神助を受けた。是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、西国立つるところ、平均す。
天皇、大いに叡感御座し、鷲麿、男起、長手、金田丸に衣服、刀剣を賜り、杷木大明神にうつし、馬二匹、弓箭・幣帛を捧げた。即ち物部宿禰高古を祭主とし、朝敵退治の蟇目の射法を勤めた。尤恒の祭祀、是時より始まった、と云々。
維時大永二年壬午二月穀日
神坂源大夫藤原貞家之を誌す
筑後国一の宮高良大社
宮司の竹間宗麿氏は、高良大社について次のように述べています。
規模雄大な神籠石の列石に囲まれた、九州地方屈指の古社として、
継体朝の反乱で名高い筑紫君磐井の本拠(山麓に磐井城・磐井川・磐井清水の名が遺る)、或いは邪馬台国女王卑弥呼の治所論まで盛んになって来た昨今である。
天津彦根命の後裔(息子の天戸間見命、五世孫乎田部連、国造本紀による彦己曾保理命等)と天穂日命の後裔(十三世孫可美乾飯根命)、あるいは渡来系(後漢孝献帝の息子白龍王等)の3系統がある。
上代の凡河内国、すなわち後世の摂津、河内、和泉にわたる広い地域に勢力を持っていた。摂津国菟原郡には河内国魂神社(五毛天神)があり、凡河内氏が奉祀していたと考えられる。天平19年(747年)の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帖」には、会下山の付近に凡河内寺山の名が見られる。記紀には、宣化天皇の妃に大河内稚子媛の名が見える。 続日本紀によると、慶雲3年(706年)10月には摂津国造凡河内忌寸石麻呂を従七位上から位一階進める、の記事があり、摂津の国造も出していた様である。 しかし、奈良時代にはかつての勢力は衰えていたと考えられる。
同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。佐伯は針間のほか、安芸や阿波・讃岐・伊予の五国に分散して配置されたとありますので、播磨の支族が四国各地の佐伯を管掌したことが考えられます。
播磨国内では、印南・揖保郡等に佐伯直の分布が見えますが、河内皇別の佐伯直も稲背入彦命の後と『姓氏録』に記されます。
湖南の沃野野洲川下流兵主の里に鎮座の当大社は大国主神が天孫の勅に応じて国土を譲られた際に御杖とされた< >矛を宮中に御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威を日代宮域近き大和国穴師に神地を皇子稲背入彦皇子(大和武尊の弟)をしてこれを祀らしめられたのが発祥である。
景行天皇近江の国滋賀郡に遷都される時全皇子献地を穴太(大津市坂本)に求められ遷し祀られた依て今日この地を元兵主と言う。
のち欽明天皇の時代一族が琵琶湖上を渡り東に移住するに際し大神を奉じて今の地に鎮祭し地域住民の守護神として御神徳を仰ぎ当地を開拓した。
兵主大社境内看板より抜粋・再引用 ※< >は判読不能部
「播磨では、景行皇子稲背入彦命(母は五十河媛)が播磨別の始祖として播磨に下り、子孫は当地方の豪族として有力であった。・・・(中略)・・・・
針間国造の居住した所は、おそらく白国であっただろう。
白国の地名が国造家の子孫である佐伯氏、のちの白国氏による起名であり、この地がその住所であり、付近に、佐伯神社、白国神社があることなどからも想像される」(P211~212)
次の妃、五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は、これ讃岐国造の始め祖なり。弟稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。
皇子は「播磨」のどこかを支配したはずです。
兵主大社縁起によれば、
当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師に神地を占し兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。
大和の日代宮近くに穴師坐兵主神社を創始したのも稲背入彦皇子だと云うことになります
景行天皇
(前略)またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。
またの妃、襲武媛は、国乳別皇子、次に国凝別皇子、次に国背別皇子、またの名は宮道別皇子、次に豊戸別皇子を生んだ。
またの妃、美人を御刀媛という。豊国別皇子を生んだ。(中略)
稲背入彦命[播磨別の祖]。
豊国別命[喜備(吉備)別の祖]。
武国皇別命[伊与(伊予)御城別、添御杖君の祖]。
大稲背別命[御杖君の祖]。
豊門別命[三嶋水間君、奄智首、壮子首、粟首、筑紫火別君の祖]。
息前彦人大兄水城命[奄智白幣造の祖]。櫛角別命[茨田連)の祖]。
その神社が建つ白鷺城の北北東凡そ3㎞の位置は「播磨国風土記」飾磨の郡『新良訓(しらくに)』の条で、新良訓と名づくる所以は、昔、新羅の国の人、来朝ける時、この村に宿をとったから「白国」と名付けられたとある場所で、その祭神は稲背入彦命と阿曾武命(アソタケル)と神吾田津日売命の三柱です。
社伝によれば、
今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子(稲背入命)が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、木花咲耶媛(コノハナサクヤヒメ、神吾田津日売命の別名)が忽然と現れ、願いを聞きとどけてくれた。そこで社を造り大切にお祀りしているという訳ですが、
面白いことに姫路には、もう一か所かつて「白国大明神」と称された神社が指呼の先にあるのです。それが天平五年(733)の創祀とされる広峰神社。その祭神はスサノオと五十猛命親子で、もともと白幣山にあった社を天禄三年(972)に今の社地に移したものらしく、社家は歌人の凡河内躬恒の子・恒寿を祖とする広峰氏なのですが、七代目の勝賀に男子が無かったため『阿曽氏の一族』広瀬家から婿養子三郎を迎えたと社伝にあります。
御諸別命の兄弟が、夏花命(後裔が物部公)
大荒田別命の兄弟が市入別(播磨鴨国造)
八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する。
「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載されているが、その中で名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである。
社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。
延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。
迦具夜比売命(大筒木垂根王の娘)を妃として生まれた阿耶美都比売命は、稲瀬毘古王に嫁ぎました。
古事記
伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)は師木の玉垣宮で天下をお治めになりました。この天皇は、沼羽田之入毘売命の妹の阿耶美能伊理毘売命(アザミノイリビメノミコト)との間に、伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)、阿耶美津比売命(アザミツヒメノミコト)をもうけました。
阿耶美都比売命は、稲瀬毘古王に嫁いだ。
ーーー
此の天皇(景行)、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生みませる御子、櫛角別王、次に大碓命、次に小碓命。
亦の名は倭男具那命。次に倭根子命、次に神櫛王、五柱。(中略)
また伊那毘能大郎女の弟、伊那毘能若郎女を娶して生みませる御子、真若王、次に日子人之大江王。(以下略)[註:この二人は書紀に記載が無い]
景行天皇と五十河媛との間に、神櫛皇子と稻背入彥皇子が生まれました。
次の妃の五十河媛(イカワヒメ)は神櫛皇子(カムクシノミコ)・稻背入彥皇子(イナセノイリビコノミコ)を生みました。
兄の神櫛皇子(カムクシノミコ)は讚岐國造(サヌキノクニノミヤツコ)の始祖です。弟の稻背入彥皇子(イナセノイリビコノミコ)は播磨別(ハリマノワケ)の始祖です。
次の妃の阿倍氏木事(アベノウジノコゴト)の娘の高田媛(タカタヒメ)は武國凝別皇子(タケクニコリワケノミコ)を生みました。伊豫國(イヨノクニ)の御村別(ミムラノワケ)の始祖です。
次の妃の日向髮長大田根(ヒムカノカミナガオオタネ)は日向襲津彥皇子(ヒムカノソツビコノミコ)を生みました。阿牟君(アムノキミ)の始祖です。
次の妃の襲武媛(ソノタケヒメ)は國乳別皇子(クニチワケノミコ)と國背別皇子(クニソワケノミコ)
ある伝では宮道別皇子(ミヤジワケノミコ)といいます
と豐戸別皇子(トヨトワケノミコ)を生みました。兄の國乳別皇子(クニチワケノミコ)は水沼別(ミズマノワケ)の始祖です。弟の豐戸別皇子(トヨトワケノミコ)は火國別(ヒノクニノワケ)の始祖です。
ーーー
二年の春三月の丙寅の朔戊辰(三日)に、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)<一に云わく、稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)と云う>を立てて皇后とす。后、二の男を生れます。第一をば大碓皇子と曰す。第二を小碓尊と曰す。[註:小碓尊は日本武尊のこと]
一書に云わく、皇后、三の男を生れます。その第三を稚倭根子皇子と曰すという。[四年二月条では八坂入媛の所生とある] (中略)
次妃、五十河媛、神櫛皇子、稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は是、讃岐国造の始祖なり。弟稲背入彦皇子は是、播磨別の始祖なり。
日本書記は、 垂仁紀34年条=山背の苅幡戸辺が五十日足彦命を生んだ。石田君の祖。
「新撰姓氏録」には『讃岐公=大足彦忍別(景行)天皇、皇子の五十香彦命(亦の名を神櫛別命)の後』(右京皇別)と明記され、更には『酒部公=讃岐公と同祖、神櫛別王の後なり』(和泉国皇別)ともあります。神櫛皇子は五十香彦命(五十日足彦命)と同一人物であって、かつ、稲背入彦命より一つ上の世代に属する人なのです。
豊川市赤坂町宮路1120番地
宮路山の麓の音羽町には日本武尊の東征のとき、その皇子の建貝児王(たてがいこのおおきみ:第3子)をこの地に封ぜられたといいます。
これが宮道別(みやじわけ)の祖であり、その子宮道宿禰速麿は「穂」の県主になり、その子孫が建貝児王を祭ったのが宮路山の山頂と麓にある宮道天神社の起源です。
宮道別王(参河宝飫郡 宮道氏之祖也)は武卵王の子である
その子、宮道宿弥速麻呂(三河国宝飫郡縣主)が県主となっている
五百木之入日子命は『新撰姓氏録』左京皇別上の御使(みつかい)朝臣条によれば、気入彦命は応神天皇の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえ、その功績によって御使連(みつかいのむらじ)の氏姓を賜ったという。
『新撰姓氏録』右京皇別下にも、御立史(みたちのふひと)が気入彦命の後裔と記されている。
『古事記』・『日本書紀』の双方には、この皇子の名は見られない。名前の類似点から五百城入彦皇子と同一人物と考えられる。
佐伯神社は、大同元年(806)讃岐僧、玄海(法相宗)により金剛山密蔵院蓮覚寺建立の際に玄海の氏神を祭る為に建てられました。玄海について調べてみましたが、今のところどこからも玄海の名は出てきません。法相宗といえば阿刀氏の玄昉がいますが、つながりがあるかもしれないと考えておりましたが、なかなか難しい。
讃岐の佐伯直氏は、六国史を見ると、平安前期に空海(贈大僧正)のほか、その実弟の真雅(法師大和尚)や道雅(少僧都)、真然(僧正)、守寵(伝灯大法師)、実恵(大法師)、道雄(大法師)などの当時高名な僧を輩出しており、他の系統の佐伯氏とは大きな差異があります。讃岐僧の玄海(法相宗)については、これまで管見に入っておりませんが、上記の僧侶たちに先立つもので、出身地の伝承からいえば、讃岐の佐伯直氏の出としてよいものと考えられます。
そうすると、明治の祭神変更は疑問が大きいところだといえましょう。
稲背入彦命は、韓地から渡来した五十猛神(兵主神、八千矛神)の後裔にあたりますので、針間国造家がこの祖神を祀るのは自然だといえます。古代から白国神社を奉斎してきたという白国氏の現存する系図は、後世の偽作でありますので、この家がどのように針間国造家から分岐したのか不明です
吉備は磐余彦尊(神武天皇)が高嶋宮で三年船や兵食を養った地、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の時、四道将軍の一人吉備津彦が派遣された地、吉備津彦は彦五十狹芹彦命、大日本根子彦太瓊天皇(孝靈天皇)と倭國香媛【亦名 糸亙某姉】の子。御間城入彦
五十瓊殖天皇(崇神天皇)の六十年に、出雲大神宮の神寶めぐり、吉備津彦は武渟河別とともに出雲振根を誅している。大足彦忍代別天皇(景行天皇)が皇后に吉備系の播磨稻日大郎姫を迎えたのは熊襲征伐をにらんでのこと、古事記は、若建吉備津日子(稚武彦命)の女(むすめ)とする、稚武彦命は、大日本根子彦太瓊天皇(孝靈天皇)と妃糸亙某弟の子。書紀は、稚武彦命の女(むすめ)、五十河媛と大足彦忍代別天皇(景行天皇)の子、稻背入彦皇子が播磨別の始祖となったとする。日本武尊の東征に従ったのが稚武彦命(吉備武彦)と大伴武日であり、日本武尊の死を天皇に報告する役回りとなったのも吉備武彦であった。先に見たように、その子鴨別は氣長足姫尊(神功皇后)の熊襲國征伐で功を挙げていた。吉備津彦がこの地を平定したのは、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の十年(BC88年)の条の記述であり、突如として、わずか二代目でこの時代に突入してくる。
妃:倭国香媛(やまとのくにかひめ、?某姉、蠅伊呂泥、意富夜麻登玖邇阿礼比売命。和知都美命の女)
古事記にては、第3代安寧天皇の子の3番目の子、師木津日子命 に二王が居て、その内の一人和知都美命が淡道之御井宮にいた。とされている。そして、その和知都美命の子に倭国香媛と妹の蝿伊呂杼が居て、どちらも第7代孝霊天皇の妃になっている。
皇女:倭迹迹日百襲媛命。のちの卑弥呼。孝霊39年(167年)生誕
皇子:日子刺肩別命。『古事記』のみ)
皇子:彦五十狭芹彦命。吉備津彦命。卑弥呼の男弟。生誕はAD200年以降で母は別人と思われる。
皇女:倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)
妃:?某弟(はえいろど、?某姉の妹、蠅伊呂杼)
?某弟は
皇子:彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)
皇子:稚武彦命(わかたけひこのみこと) 吉備氏の祖。
の二人の吉備津彦と呼ばれる人物を産んでいる。古事記に記されている吉備津彦兄弟(稚武彦・弟稚武彦と思われる。吉備津彦が活躍するのは、孝安天皇が崩御し孝霊天皇が即位した直後と考えられるので孝霊61年頃のことで孝霊天皇が現年齢計算で30歳ごろのことである。吉備津彦の活躍ぶりから考えてこの両者は成人していると思われ、少なくとも現年齢で15歳以上にはなっていると推定される。この二人が孝霊天皇の皇子だと考えるには孝霊天皇との年齢差が少なすぎる。
このようなことからこの2皇子は兄の大吉備諸進命の子と考える。?某弟は大吉備諸進命の妃であろう。倭国香媛と蝿伊呂杼は姉妹であるが、結婚相手の年齢から、姉と妹が逆ではないかと思われる。
九州を地盤とした建緒組命が四国を経て順次吉備方面に進出、吉備および播磨一帯に勢力圏を広げ、吉備氏ひいては帝室とも結びつきを深めた。
稲背入彦命が景行の「御杖」となって各地の資源開発に能力を発揮、それが「兵主神」の原点になったと思われるが、彼が、早くから近畿大和に地盤を築いていたとしても、その家族、取り分け「跡継ぎ」となるホムタワケなど総領息子たちは吉備乃至は播磨の館に置いて私兵に守らせていたのではないか?(播磨の総社は兵主神社)
吉備の国赤磐郡は和気氏の本拠地でもあるが、その祖先は垂仁と丹波道主命の娘・渟葉田瓊入媛の子である鐸石別命(ぬでしわけ)であるとされている。
渟葉田瓊入媛は稲背入彦命に嫁いだ「稚浅津姫命」と伯母姪の間柄なので、二つの氏族は帝室を媒介として姻戚関係にあり、上で見た「素戔嗚尊の天羽羽斬」を祭っていたとされる備前の石上布都魂神社は、正に、その赤磐郡石上に建てられている(時代は離れますが継体妃を出した磐衝別命=三尾氏とも系譜上姻戚になります)。
神社で発行している「白国神社略記」に
祭神・神吾田津日売(かみあだつひめの)命またの御名・木花咲耶媛命、稲背入彦命及び阿曽武命(稲背入彦命の孫)の三神と書かれている。主神の神吾田津日売命の別名は木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと)(天照大神(あまてらすおおかみ)の孫の瓊瓊杵(ににぎの)命の妃)である。創立「当神社は今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子稲背入彦命が大和から当地方へ下向された時、この白国の地に住居を構えて播磨地方を支配された。その御孫阿曽(あそ)武命の妃高富媛が難産のため大変苦しまれた時、命は倉谷山の峰に白幣を立て、神吾田津日売命を祀り一心に安産を祈願されたところ女神が忽然と現れ「妾が神吾田津日売である。汝の祈りは天に通じている。妾がこの地に永く留まって婦人を守護し安産させましょう」とお告げになると白幣が高く天に舞い上がり、その白幣と共にお隠れになったので、急いで帰られると難無く男子を出産されました。阿曽武命はその神徳に感謝され早速倉谷山の麓に社殿を設け、神吾田津日売を祀られたのが白国神社の創立である。」と書かれてある。
稲背入彦命はこゝを根拠地として田畑を拓き水割を図り、よく治水の実をあげられて豪族となり、針間(播磨)別命といわれ、現在の宍粟郡あたりを根拠とした伊和大神と並ぶ勢力をもち、ご逝去後、市川を渡り霞野丘に葬られ国別明神と称えられた。今の国分寺東北方の壇場山古墳は、この命を葬ったとの説がある。稲背入彦命の孫に当る阿曽武命(白国家の始祖)の妃高富媛が難産のため大変苦しまれた時、命が倉谷山の峯に白幣を立て、神吾田津日売命(木花咲耶媛命)を祀り一心に安産を祈願され、安産の神徳に感謝した阿曽武命が倉谷山の麓に社殿を設け、神吾田津日売を祀ったのが白国神社の創祀である。この御生まれになった阿良津命が幼時より大変信仰心が厚く、ある日社殿でお祈りをしていると白髪の老人が現れて「吾は汝の先祖国別明神(稲背入彦命)である。汝が毎日神に祈りを捧げる気持ちは感心である。必ず幸福を与えてやろう。」といって、墓のある川向いの方へ飛び去られたので、このことを父の阿曽武命に話されると父も又昨夜夢枕に貴人が現れ、墓にある二面の鏡の中の一面を持ち帰り社殿に祀れとのお告げがあったと言われたので、急いでお墓に詣り鏡を持ち帰り神吾田津日売命の社殿に稲背入彦命を合祀したという。その後、阿良津命は大和朝廷より地方長官である播磨の初代国造に任ぜられその上、「佐伯直(さえきのあたい)」の姓を賜り地方政治を分担されるのであるが第十六代の応神天皇は阿良津命の父・阿曽武命がかつて朝廷で忠勤を励んだ功績を讃え神吾田津日売命の社殿に稲背入彦命と共に、阿曽武命を相殿に配祀させたのでここに三座合祀の白国神社となった。以上の三神合祀の白国神社は白国神、又の名を新羅国国主大明神(白国々主明神)或いは日の宮と称した…元慶元年延喜式制小社に列し…その後考謙天皇の勅命により新羅国を白国に改めたという。」(白国郷土史愛好会編「ふるさと白国」、「播磨鑑」、「峯相記」など)
「阿宗神社」は、息長日子王を祀っている 息長日子王(おきながひこのみこ)は、息長帯比売命(神功皇后)の弟とされています。
宝賀寿男氏の著にこの町の「阿曽」が書かれてありました。
「揖保郡太子町には阿曽の地名が残り当地付近で阿宗君が奉斎した揖保郡の阿宗神社がある。応神巡幸の伝承も『風土記』にみえるが、天皇一族として異例なほど応神が播磨の記事に頻出することに留意される。このように系譜を考え直した場合、息長帯比売と息長日子王の父である息長宿王とは、実態が稲背入彦命にあたるとみられ、これが息長田別命の子に位置づけられる。
針間国造一族(針間直、佐伯直)及び吉備品遅君・播磨阿宗君が稲背入彦命の後裔で、鍛冶氏族の「息長氏」の系統で、応神天皇はその息長氏の出であった。」
といいます
社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。
延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。
【由緒】景行天皇58年に高穂の宮居に近き穴太に祀られ
養老2年(718)現在の地に鎮座
貞観4年(862)正五位下
同16年(874)從三位
治承4年(1180)「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額寄進
文治2年(1186)神殿末社炎上
文永の兵火にも炎上
織田信長の佐々木討伐の兵火で焼失
大正4年4月県社
兵主大社は、八千矛神(大国主神・つわものぬし)を景行天皇の時代に高穂の宮居に近い穴太(大津市坂本穴太町元兵主)に祀られ、欽明天皇(531~71)の御代に播磨別等琵琶湖上を渡り大神を奉じて、現在の宮域に遷座されたのである。兵主大明神縁起によると ゛播磨守資頼"の居館と記している。花山天皇の御代の寛和元年(985)に正一位を追授せられた。
また、拝殿の左奥にある庭園は、鎌倉時代の古様を伝える庭園として、昭和28年に名勝に指定されている。この庭園は、神社がこの地に移転してくる以前からあったと考えられており、元々は神社の庭としてではなく、鎌倉時代この地の豪族である播磨守資頼邸の庭園だったと云われている
「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載されているが、その中で名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである
由緒
当社は景行天皇の御代、皇子稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)に奉斎されたのを創始とする。更に近江高穴穂宮遷都に伴い、宮域近き穴太(大津市坂本)に御遷座になった。その後欽明天皇の御代に琵琶湖上を渡り、現在の地に御鎮座されたと伝える。
延喜式には明神大社に列せられ神階昇叙も著しく、花山天皇より「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を賜っている。中世には、源頼朝・足利尊氏等の武将の崇敬厚く、寄進された武具・甲冑を今に伝えており、更に徳川家よりも社領の寄進を受けるなど、その御神威は広範囲にまで及んであた。
又、当社は古くより旧「兵主十八郷」と呼ぶ周辺地域の総氏神として、住民より心のよりどころと仰がれ、国指定の名勝庭園を始め多くの指定文化財を所有、近年では全国各地よりの参拝者を得て現在に至っている。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
当社は、兵主十八郷(往古は五十四郷)の総鎮守社であり、
野洲郡の中では、御上神社と当社のみが名神大社に指定されている。
「兵主」の名から、「つわものぬし」の神と解釈され、
鎌倉時代以降、武家の崇敬が篤く、隆盛を極めており、
三十番神の中にも、その名を見ることができる。
また、同じく近江にある日吉大社の影響からか、
当社にも、上七社・中七社、下七社の兵主二十一社が存在しており、
例大祭(兵主祭)には、楼門に上七社の神輿が鎮座するという。
『和漢三才図会』には、祭神・大己貴命に七つの名があるので七社だとある。
七つの名は、大己貴命・大国主神・芦原醜男・八千矛神・国作大己貴命・大物主神・顕国玉神。
兵主神社二十一社一覧 (兵主大社サイトより転載)
元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説があるj
王弟清日子の妻は大和の女である。日本書紀はその名を当摩咩斐(たぎまのめひ)と伝えている。当摩は、大和盆地の西南、二上山の東の麓の当麻(たいま)である。日本書紀の垂仁七年秋七月の条に出てくる当摩蹶速(たぎまのくえはや)の妹か娘であろう。蹶速は、その頃、大和随一と称せられた猛将でああった。この清日子と咩斐(めひ)とが結ばれたのも、やはり政略による。強国の問に挟まれた小国は、いつの世も、その立場は苦しい。清日子が大和寄りであるのも、また已むを得ぬことであった。
『古事記』では、清日子は當摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶り、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)をもうけています。當摩之咩斐(タギマノメヒ)は當麻の出でしょう。菅竃由良度美は葛城の高額比賣命の母親。即ち息長帶比賣命の祖母と云うことになります。
『古事記』によれば、菅竈由良度美の孫が息長帯比売命(神功皇后)であるとしている(応神天皇の条)。神功皇后の父親に当る息長宿禰王は丹波の高材(たかき)比売の子で、息長氏の始祖に当り、古代近江の豪族の一人である。息長氏は湖東の坂田郡息長村を中心にして勢力をもっていたといわれている。
田道間守{日本書紀}の次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。しかし日本書紀において結婚したのはアメノヒボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている。
継体紀 二十三年夏四月七日 任那王、己能末多干岐が来朝した。
─己能末多というのは、思うに阿利斯等であろう。
─大友大連金村に、「海外の諸国に、応神天皇が宮家を置かれてから、もとの国王にその土地を任せ、統治させられたのは、まことに道理に合ったことです。 … 」
この月、使いを遣わして、己能末多干岐を任那に送らせた。同時に任那にいる近江毛野臣に詔され、「任那王の奏上するところをよく問いただし、任那と新羅が互いに疑い合っているのを和解させるように」といわれた。(この説得に失敗し、新羅の上臣は、)四つの村を掠め、─金官・背伐・安多・委陀の四村。ある本には多々羅・須那羅・和多・費智という─人々を率いて本国に帰った。ある人が言った。「多々羅ら四村が掠められたのは毛野臣の失敗であった」と。
古くには
古事記ではアメノヒボコの話は応神天皇の段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出現する。日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)であるため、古事記と日本書紀では系譜(アメノヒボコが出てくる話の時系列)が逆転している