新撰姓氏録、天皇、大臣、大連、将軍

December 2018 編集されました カテゴリ: 大和王朝
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天皇別に歴代の氏族、有力者を俯瞰してみると 仁徳天皇から武烈天皇まで、後継の氏族がいない。 後継氏族が多いのは…

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コメント

  • 『書紀』崇神紀には、物部一族は大水口宿祢や武諸隅、伊香色男が見え、『旧事本紀』天皇本紀の崇神段には、武諸隅のみを同朝の大連としたこと を記す。武諸隅が大水口宿祢の兄弟の大矢口宿祢と同人であれば、これは当時の穂積・物部一族内の勢力関係事情と符合する
  • 物部十千根は伊香色雄命の子で、母親は天津彦根命の後裔、山代縣主の祖・長溝の娘、玉手姫です
  • 倭の五王

    史書には、413年から413年の間に倭の五王の事績が記されている。これは、仁徳の次の世代から雄略天皇の時代と言われているが、新撰姓氏録に現れる氏族が、記録されていない期間に一致しているが、何故か。

    413年 讃 東晋・安帝に貢物を献ずる
    502年 梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。

    『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説がある

  • (1)讃
     ①履中説
        去来穂別の第二音「サ」を「讃」と表記した。(見林)(賛同者:志村幹・新井白石・白鳥清・藤間生大・島礼二)
     ②仁徳説
       大鷦鷯の第三、四音の「サ」(または「ササ」)を「讃」と表記した。(吉田東伍)(賛同者:星野恒・菅政友・久米邦武・那珂通世・岩大慧・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野裕)

     ③履中もしくは仁徳説(賛同者:津田左右吉・井上光貞・上田正昭(やや②に近い))
     ④応神(第十五代)説(前田直典)

    (2)珍
     ①瑞歯別(反正)説
     第一字「瑞」を中国側がまちがえて「珍」と書いてしまった。(見林)(前田直典以外全員)
     ②仁徳説(前田直典)

    (3)済―雄朝津間稚子(允恭)(異説なし)
     理屈1
      第三字「津」を中国側でまちがえて「済」と書いてしまった。(見林)
     理屈2説
      第三、四音の「津間」は「妻(ツマ)」であり、この音「サイ」が「済」と記せられた。(志水正司)

    (4)興
     ①穴穂(安康)説(水野裕以外全員)
     理屈1
      穴穂がまちがえられて「興」と記せられた。(見林)〈この理屈は私には理解できない〉
     理屈2
      「穂」を「興」(ホン)とあやまった。(新井白石)〈中国では「興」に「ホン」という読みがあるのだろうか? この理屈も私には理解できない。近現代の学者による理屈がないようだが、お手上げなんだろうな。〉
     ②木梨軽皇子説(水野裕)

    (5)武―大泊瀬幼武(雄略)(異説なし)
     第五字(最終字)「武」をとった。(見林)
  • 倭の五王の中国風一字名「讃・珍・済・興・武」は対外的に外交用として使われたもので、国内的には倭風の名前を使っていたと思われる。その中国風一字名そのものを記した系図が国立国会図書館と静嘉堂文庫の2ヵ所に所蔵されているという。
    『太宰府は…』には国会図書館所蔵の系図の写真が掲載されている。
    その系図の表題には「松野連 姫氏」とあり、系図は「呉王夫差(ふさ)」から始まっている。松野連は平安時代に編集された「新撰姓氏録」の「右京諸蕃上」(諸蕃=渡来系の氏族)にも次のように記載されている。

    松野連(まつののむらじ) 呉王夫差より出づ

    呉王夫差とは「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」などの成句のもとになっている春秋時代の故事に出てくる呉の王である

    〔十八史略・呉〕

    墓前に剣を献じる

    呉は周と同じ姫(き)姓の国で、周の文王の伯父にあたる太伯(たいはく)、仲雍(ちゅよう)が封せられて創建された。十九代目の寿夢(じゅぼう)のときになって、はじめて王と称した。
    (注:兄太伯が周から南方に奔って呉を建てたが、子どもがなかったので、弟の仲雍がそのあとを継いだ。)

    寿夢には4人の男の子があり、末子を季札(きさつ)といった。季札は人並みすぐれた人物だった。

     寿夢はなんとかして季札に国を継がせたいと考えた。そこで、男の子の上のほうから順に継がせ、ゆくゆくは季札に継がせようとした。しかし、季札はそれでは義にそむくとして、したがおうとはしなかった。結局、季札は延陵(えんりょう)の地に封ぜられ、廷陵の季子と呼ばれた。

     あるとき、季札は王命を受けて他の中原の諸侯に挨拶まわりに出かけた。その途中、徐(じょ)の国に立ち寄ったときのこと、徐の君が季札の佩(お)びていた宝剣に格別の関心を示し、いかにもほしそうな顔を見せた。それと察した季札は、すぐにも宝剣を贈ろうと思ったが、なにぶんにもまだ使命をはたしていない。そこで、使命をはたしてから贈るつもりでいったん徐の国を離れた。

     しかし、使命をはたしたのち、ふたたび徐の国を訪れたときは、すでに徐君はこの世にいなかった。そこで季札は、宝剣を徐君の墓前に献じて帰途についた。

    臥薪嘗胆

     寿夢ののち、四代を経て、闔廬(こうりょ)にいたる。闔廬は伍員(ごいん)を顧問に取り立てて国政の相談相手にした。

     伍員は楚の人伍奢(ごしゃ)の子であり、字を子胥(ししょ)といった。伍奢が楚の平(へい)王に殺されたので、子胥は復讐を誓いつつ、呉に亡命していたのだった。

     子胥は、闔廬に引き立てられると、呉軍を率いて楚都郢(えい)に攻め入り、念願をはたした。

     その後、呉がふたたび越を攻めたとき、闔廬は傷を負い、それがもとで死んだ。

     闔廬が死ぬと、その子夫差が王位を継いだ。子胥はひきつづき夫差(ふさ)に仕えることになった。

     夫差は父の仇を討とうと心に誓い、朝晩たきぎのなかに寝起きしてはわが身を苦しめ、出入りのさいには、臣下に、
    「夫差よ、父が越王に殺されたことを忘れたのか」
    といわせては、復讐の念を新たにした。

     周の敬(けい)王の26年、夫差は夫椒(ふしょう)の戦いでついに越を破った。越王句践(こうせん)は残兵を率いて会稽(かいけい)山に逃げこみ、夫差にこう申し出た。
    「どうかわたしを大王の臣にし、妻を大王の妾にしていただきたい」


     子胥はこの和議を受諾しないよう主張したが、越から賄賂を贈られた呉の太宰(たいさい)の伯嚭(はくひ)は、句践をたすけるよう夫差に説いた。夫差は伯嚭の言を入れて、句践を許してしまった。

     こんどは句践が復讐を誓う番となった。帰国するや、句践は自分の部屋に干した獣のキモを吊りさげておき、いつもそれを口にして苦さを味わっては、
    「会稽の恥を忘れはすまいな」
    と自分自身にいいきかせた。そして国政はすべて大夫の文種(ぶんしょう)にまかせ、自分は賢臣范蠡(はんれい)とともに軍を鍛え、呉への復讐だけに専念した。

    (注:〈臥薪嘗胆〉…夫差が."臥薪"―たきぎの中で寝る―し、句践が"嘗胆"―キモをなめる―して、ともに復讐を誓ったことから「臥薪嘗胆」の成語が生まれた。辛苦に耐えて将来を期す意味である。)

    子胥に会わせる顔がない

     太宰の伯嚭は、子胥を失脚させようとして夫差に讒言(ざんげん)した。
    「子胥は、自分の意見が取り入れられなかったことを根に持って、大王を怨んでおります」

     怒った夫差は、属鏤(しょくる)という剣を子胥にあたえた。この剣で自殺せよ、という意味である。

     死に臨んで、子胥は家族の者にこう告げた。
    「おれの墓には檟(ひさぎ)の木を植えてくれ。呉王の棺桶がつくれよう。また、おれの眼をえぐり取って東門にかけてくれ。越軍が攻めて来て、呉を滅ぼすのを見とどけたい」

     そして、みずから首をはねて死んだ。このことを伝え聞いた夫差は、子胥の屍を取りあげて馬の革でつくった袋につめ、揚子江に投げ捨てた。

     呉の人びとは、子胥をあわれんで揚子江のほとりに祠(ほこら)を建てて子胥を祀り、「胥山」と名づけた。

     さて、復讐を誓った越は、最初の10年を民生の回復にあて、つぎの10年を兵の訓練にあてた。かくして、周の元(げん)王の4年、越はついに呉を攻めた。

     呉は越と三度戦いを交えたが、三度とも敗れた。夫差は姑蘇(こそ)山に逃れ、越に和議を請うた。だが、范蠡が断固として反対したため、越王はこれを受け入れなかった。

     もはやこれまで、と悟った夫差は、「子胥に会わせる顔がない」といって、自分の顔を布で覆い、自殺した。

  • 「水沼」という地名

    日本書紀に出てくる。
    ① 神代紀上(素戔嗚尊の誓約、一書第三)
    此筑紫の水沼の君等が祭る神、是なり。

    ② 景行紀(景行の九州大遠征、景行18年7月)
    時に水沼県主猿大海(さるおほみ)、奏して言(もう)さく。「女神(ひめかみ)有(ま)します。名を八女津媛(やめつひめ)と曰(もう)す。常に山の中に居(ま)します」ともうす。故、八女国の名、此に由(よ)りて起れり。

    ③ 雄略紀(月夜の埴輪馬、10年9月)
    身狭村主青(むさのすぐりあを)等、呉(くれ)の献(たてまつれる)二(ふたつ)の鵝(が)を将も)て、筑紫に到る。是の鵝、水間君(みぬまのきみ)の犬の為に齧(く)はれて死ぬ。

    水沼は筑紫にあることが明らかで、②の頭注は「水沼県は筑後国三潴郡。今、三潴郡・大川市。和名抄に美無万と詠む。」と、その現在地まで明らかにしている
    。三潴は現在では「みずま」と読んでいるが、もとは「美無万」=「みぬま」であることがわかる。
  • December 2016 編集されました
    水沼(みぬま、水沼県は筑後国三潴郡)は 皇都になった

    作者不詳の万葉集巻19の4261番歌

    定説(岩波「日本古典文学大系」)の訳を転載。
    4261番
    (原文)
    大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通

    (読み下し文)
    大君は神にし坐(ま)せば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を都(みやこ)と成しつ

    (大意)
    天皇は神でいらせられるから、水鳥の多く集まっている沼地を、たちまちのうちに立派な都となさった。
  •  神武  宇摩志麻治命 足尼
    (元年正月庚辰朔)
    食国の政を申す大夫
    (二年二月甲辰朔乙巳) 天孫本紀に同じ。
     綏靖  彦湯支命 食国の政を申す大夫
    (三年正月) 天孫本紀に同じ。
     安寧  出雲色命 食国の政を申す大夫
    (四年四月) 天孫本紀は懿徳朝に食国の政を申す大夫になり、のち大臣に転じたという。
     大祢命 侍臣
    (四年四月) 天孫本紀に同じ。
     懿徳  出雲色命 大臣
    (二年三月) 天孫本紀に同じ。
     孝照  出石心命 大臣
    (元年七月) 天孫本紀に同じ。
     孝安  六見命 足尼
    (三年八月) 天孫本紀は初め足尼となり、のち宿祢に転じたという。
     三見命 足尼
    (三年八月) 同上。
     孝霊  大水口命 宿祢
    (三年正月) 天孫本紀に同じ。
     大矢口命 宿祢
    (三年正月) 天孫本紀に同じ。
     孝元  欝色雄命 大臣
    (八年正月) 天孫本紀に同じ。
     大綜杵命 大祢
    (八年正月) 天孫本紀に同じ。
     開化  大綜杵命 大臣
    (八年正月) 天孫本紀に同じ。
     武建命 大祢
    (八年正月) 天孫本紀に同じ。
     大峯命 大祢
    (八年正月) 天孫本紀に同じ。
     伊香色雄命 大臣
    (八年二月) 天孫本紀に崇神朝も大臣という。
     崇神  建胆心命 大祢
    (四年二月甲子朔丁卯) 天孫本紀に同じ。
     多弁命 宿祢
    (四年二月甲子朔丁卯) 天孫本紀に同じ。
     安毛建美命 侍臣
    (四年二月甲子朔丁卯) 天孫本紀に同じ。
     武諸隅命 大連
    (六十五年正月) 天孫本紀に同じ。
     垂仁  大新河命 大臣
    (二十三年八月丙申朔己亥)
    大連
    (二十三年八月丙申朔丁巳) 天孫本紀に同じ。
    連賜姓により大連に転じたという。
     十市根命 五大夫の一人
    (四年二月甲子朔丁卯)
    大連
    (八十一年二月壬午朔) 天孫本紀には、ほかに建新川命と大咩布命が侍臣という。
     景行     大臣物部胆咋宿祢の娘・五十琴姫命の入内記事あり。
    天孫本紀に物部多遅麻連公が大連、物部竺志連公、物部竹古連公、物部椋垣連公が侍臣という。
     成務  物部胆咋宿祢 大臣
    (元年正月甲申朔戊子) 天孫本紀には、ほかに物部大小市連公、物部大小木連公、物部大母隅連公、物部止志奈連公、物部片堅石連公、物部印岐美連公、物部金弓連公が侍臣という。
     仲哀     物部胆咋連ら書紀の四大夫に加え、物部多遅麻連も大夫。任官記事は無し。
     神功皇后  物部多遅麻連公 大連
    (元年十月丁巳朔辛巳) 天孫本紀に景行朝に大連という。
     物部五十琴宿祢 大連
    (三年正月丙戌朔戊子) 天孫本紀に初め大連となり、のち宿祢に転じたという。
    ■ 神皇本紀
     応神  物部印葉連公 大臣
    (四十年正月辛丑朔戊申) 天孫本紀に大連という。
     仁徳     侍臣の物部大別連公を矢田部の伴造に任じる記事あり。
    天孫本紀に、大別連公のほか物部伊与連公、物部小神連公も侍臣という。
     履中  物部伊莒弗連 大連
    (元年二月壬午朔) 物部伊莒弗大連は書紀にも見えるが、任官記事は無い。
    天孫本紀に反正朝も引き続き大連という。
     反正      
     允恭  物部麦入宿祢 大連
    (二十三年三月甲午朔庚子) 天孫本紀に初め大連となり、のち宿祢に転じたという。
     物部大前宿祢 大連
    (二十三年三月甲午朔庚子) 天孫本紀に、安康朝に初め大連となり、のち宿祢に転じたという。
     安康  物部木蓮子連公 大連
    (元年十二月己巳朔壬午) 天孫本紀に仁賢朝に大連という。安康朝の大連は物部大前宿祢連公。
     雄略  物部布都久留連公 大連
    (二十二年正月己酉朔)
    書紀の文を引いて物部連目も大連という。
    物部布都久留連公を大連とすることは天孫本紀に同じ。

     清寧     天孫本紀に物部目大連公(第十一世孫)が大連という。
     顕宗  物部小前宿祢 大連
    (元年正月己巳朔) 天孫本紀に初め大連となり、のち大宿祢に転じたという。
     仁賢     天孫本紀に物部木蓮子連公が大連という。
     武烈  物部麻佐良連公 大連
    (二年三月丁丑朔戊寅) 天孫本紀に同じ。
    ■ 帝皇本紀
     継体     書紀を引いた文のなかに物部麁鹿火大連あり。
    天孫本紀に物部目連公(第十三世孫)が大連という。
     安閑     妃に物部木蓮子大連の娘・宅媛のあることは書紀と同じ。
    天孫本紀に物部麁鹿火連公が大連という。
     宣化     天孫本紀に物部荒山連公、物部押甲連公が大連という。
     欽明  物部尾輿連公 大連
    (元年十二月庚辰朔甲申) 天孫本紀に同じ。
     物部目連公 大臣
    (元年十二月庚辰朔甲申) 天孫本紀に第十五世孫の物部目連公が大連というほか、物部呉足尼連公が宿尼という。
     敏達  物部大市御狩連公 大連
    (元年四月壬申朔甲戌) 天孫本紀に同じ。
     用明  物部弓削守屋連公 大連・大臣
    (敏達十四年九月甲寅朔戊午) なぜか兼任。天孫本紀は大連のみ。
     崇峻      
     推古  物部鎌姫大刀自連公 参政
    (十六年九月辛未朔辛巳) 天孫本紀に同じ。
     物部恵佐古連公 大連
    (二十二年六月丁卯朔己卯)
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