日本、継体天皇、百済 武寧王

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  • 『書紀』によると、25代武烈に男子の後継ぎがないことから、大伴金村大連、物部麁鹿火(あらかい)大連、巨勢男人(おひと)大臣らが天皇家の子孫をくまなく調べ、「賢者はこの人しかいない」と選んだのが、越の国に住む、15代応神の5世孫・男大迹王(おおどのおう)だった。

    男大迹王の父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は11代垂仁の子孫・振媛(ふるひめ)。
    父の出身地は越の国の三国、母は同じく越の国の高向(たかむこ)とある。

    継体が大和入りした翌527年の磐井の反乱も、すでに大和が列島の中心だったという前提のもとに「反乱」とネーミングされているが、実際は、継体率いる大和軍が新羅に侵攻し、これを迎え撃つために、前述のように同一文化圏内にあった筑紫が新羅と連合して戦ったというのが真相であろう。
     継体がこれに勝利したことこそ、大和が列島を代表する勢力となる第一歩だった
  • 蒙古鉢型兜

    奈良県五條猫塚古墳から出土した5〜6世紀の「四方白鉄地金銅装蒙古鉢型眉庇付兜」略して「蒙古鉢型兜」。
     このタイプは、5世紀の中央アジア(西トルキスタン)に忽然と現れた騎馬民族の大勢力・エフタルの兜と推定され、ヨーロッパでも出土するが、最も数多く出土するのは意外にも朝鮮半島南部、新羅と加羅の領域なのだそうだ。

  • April 2018 編集されました
    継体と同じ時代、新羅に智証麻立干(ちしょうまりつかん、在位500〜513)という王がいた。
     麻立干は「干(カン)」が付くように、騎馬民族系の王の呼称である。

    1220年頃に成立した『二中歴』には、継体の25年(531年)に最初の元号「教到」が立てられたとあり、智証も511年、新羅で最初の元号「延寿」を制定した人として知られている。
    『新羅本紀』には、智証の前の王(炤知(ショウチ)麻立干)は倭人に殺されたとある。
     その倭人が即位して智証になったとはさすがに書かれていないが、文脈的にはそうとしか読めない。
     智証は513年に死んだとされるが、翌514年は継体が山城の綴喜に王城を構えた年である。
  • 継体天皇には、日本書紀によると九人の后妃がいた。その中の第六番目の妃を茨田連小望(まむたのむらじこもち)の娘(あるいは妹)関媛(せきひめ)と記し、茨田大娘(まむたのおおいらつめ)皇女、白坂活日(いくひ)姫皇女、小野稚郎(わかいらつめ)皇女(またの名は長石(ながいわ)姫)の三人の皇女を生んだとしている。ただし、古事記の方は后妃を七人として、関姫の名を欠いているが、これも本来は六番目に記されていたものが、筆写の際に書き落とされたものであると見られている。

     茨田は河内の茨田郡と思われるので、継体天皇が河内に進出した後に妃に加えたものである。

     ところで、茨田連(まむだのむらじ)とはどのような氏族なのか。新撰姓氏録によると、神武天皇の皇子と云うことになっている彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)の後裔で、多朝臣(おおのあそん)と同祖である。多朝臣は云うまでもなく古事記を撰進した太安万侶(おおのやすまろ)を輩出した氏族であり、出雲意宇(おう)郡の名を負う出雲系の古い氏族である。この茨田連は天武十三年に宿祢(すくね)の姓を賜り、一部の者は茨田宿祢(まんだのすくね)と称している。また、仁徳紀が記す茨田連衫子(ころもこ)、茨田堤の築堤にあたって危うく人柱になるべきを、機知をもって免れたこの人物も、この茨田連の出身であり、恐らくは、当時の茨田一族の族長であったと思われる。

  • 仁賢天皇皇女
    尾張連草香の女
    三尾角折君の妹
    坂田大俣王の女
    息長真手王の女
    茨田連小望の女
    三尾君堅威の女
    和珥臣河内の女
    根王の女 手白香皇女
    目子媛
    稚子媛
    広媛
    麻績娘子
    関媛
    倭媛
    夷媛
    広媛 (欽明)
    勾大兄皇子(安閑)、檜隈高田皇子(宣化)
    大郎皇子、出雲皇女
    神前皇女、茨田皇女、馬来田皇女
    荳角皇女
    茨田大娘皇女、白坂活日皇女、小野稚郎皇女
    大娘子皇女,椀子皇子、耳皇子、赤姫皇女
    稚綾姫皇女、円娘皇女、厚皇子
    兎皇子、中皇子
  • 息長真手王(おきながのまてのおおきみ、生没年不詳)は5世紀から6世紀頃の日本の皇族。王女に麻績郎女・広姫。麻績郎女は継体天皇の妃として荳角皇女を産み、広姫は敏達天皇の皇后として押坂彦人大兄皇子・逆登皇女・菟道磯津貝皇女を産んだ。

    王女2人が天皇の妃となった以外、さしたる事蹟の記述はない。意富富杼王の弟にあたる息長沙禰王の子であるとの文献もある。

    娘の一人が「継体天皇」に嫁ぎ、もう一人の娘がその孫「敏達天皇」の皇后・広姫であるというが、記紀などによって「継体」の生年は西暦450年、一方「敏達」の生年は西暦538年であり、娘が二人の大王に輿入れしたとは考えにくい。伝承が混乱しているのか、或は記紀の編集者が意図的に系図に手を加えた可能性が強い。
  • 井上正雄の労作『大阪府全志』が世に出たのは大正11年のこと。かつて「東成郡」に属していた喜連村の項には旧家に伝わる一つの「家記」が紹介されているのですが、書かれている具体的内容は先に見た楯原神社の由緒書や近隣の地で語られる口碑とも奇妙に一致しており、編集者の井上も『其の記する処を見るに、口碑の伝ふる所に符合し、口碑は此の家記より出しにはあらざるかと思はしむ』と述べています。

     ① 皇后摂政11年、皇太子品陀和気命は武内大臣、依羅吾彦などを引きつれ皇后と共に行幸され、息長の姓を与えられた。
      ② 皇后摂政51年、杭俣長日子王の娘・息長真若中女が皇太子妃となり、56年、若沼毛二俣王が産まれた。
      ③ 応神8年、杭俣長日子王の求めに応じ若沼毛二俣王が婿入りし、弟女真若伊呂弁王と息長の家を継いだ。二人の間には、
        大郎子(大々杼王)、忍坂大中女命、沙禰王、琴節郎女(衣通姫)など七人の子宝に恵まれた。
      ④ 長子の大々杼王は仁徳帝の勅命を奉じて淡海の息長氏となり、弟・沙禰王が息長家を相続した。
      ⑤ 允恭帝の頃、沙禰王の娘・真若郎女を淡海の大々杼王の子・彦主人に嫁がせ、同帝39年、大々杼命が河内の産殿で産まれた。
        この王子は、産まれて後も河内で育てられ、8年を経た雄略帝元年、淡海の父親の許に送られた。
      ⑥ ところが実母の真若郎女が早世したため「異母」福井振姫に随い成長し、越前三国の君と号した。この王子は後、天下を治めた。
      ⑦ 継体帝2年春、帝は妃・安部波延女と娘・都夫良郎女を連れて御手洗池で「禊祓」をしていた処、娘が池の荒波に誘われて水中に流された。
        当主・息長真手王の一人息子・息長真戸王が、その姫を助けようと水中に飛び入り、二人とも亡くなってしまった。
        帝は、若い二人の死を大変哀れみ、死後ではあったが姫を真戸王に嫁がせ、垣内の御陵に葬った。
        更に帝は、自らの王子・阿豆王(「紀」では厚皇子)を真手王の娘・黒郎女に配し、息長家を相続せしめた。
      ⑧ 息長真手王は継体の諱名をはばかり、大々杼郷の名を廃し、高祖に因み「杭全(くまた)郷」と称した。
      ⑨ 息長阿豆王の娘・比呂女命(広姫)は敏達帝の皇后となり忍坂彦人太子が産まれた。
  • May 2018 編集されました
    継体天皇はお年を召されて(『日本書紀』によると58歳か)から皇位を継承されたようなので家族関係が複雑だったようである。特に、継体天皇の御代は頻繁な遷都(507年2月、樟葉宮(くすばのみや)で即位、511年10月、筒城宮(つつきのみや)、518年3月、弟国宮(おとくにのみや)、526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)と言う。)を行い、即位後の継体期は外政(朝鮮半島問題)と内政(地方豪族の台頭<例、磐井の乱>)問題に悩まされた。前者は新羅、百済に侵攻される伽耶諸国への対応で、527年6月、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑を奪還すべく近江毛野臣に六万の大軍をつけて討伐に向かわせたが、この無能将軍は何の成果も得ることなく帰還途中に病死した。後者は近江毛野の遠征の途中で起きた磐井の乱(527)である。近江毛野と筑紫国造磐井はかって知り合いだったと見え磐井にしてみると「あんな無能なやつに六万の大軍を任(まか)せるなんて大和朝廷恐るるに足らず」とばかりに毛野に反旗を翻したのであろうが、物部麁鹿火がやって来て一刀両断の元に殺されてしまった。
    そこにやって来たのが、天皇の死で天皇としては後顧の憂いなきよういろいろ思考をめぐらしたであろうが、一番の問題は後継者問題であった。天皇の有力後継者としては後の安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇があったようだが、天皇は当然のことながら当時の政界を主導していた大伴金村に相談したことだろう。天皇と金村が一番心配したのは蘇我氏の存在だろう。

    蘇我氏は多数説では畿内の出身のようになっているが
    天皇はあちこちに遷都を行い、奈良盆地に入ったのは、継体天皇廿年秋九月丁酉朔己酉 遷都磐余玉穗【一本云 七年也】で、崩御は廿五年春二月 天皇病甚 ○丁未 天皇崩于磐余玉穗宮 時年八十二(『日本書紀』による)とあるので天皇が奈良で本格的に政務を執ったのは五年弱かと思われる。しかし、これには上記『日本書紀』引用にもあるように異説が多いようで当てにはならない


    蘇我氏のことを少し見てみると、稲目以後となるが、

    穴穂部皇子暗殺:用明天皇二年六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姫尊、詔佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞嚙曰「汝等、嚴兵速往、誅殺穴穗部皇子與宅部皇子。」(『日本書紀』)
    物部守屋の殺害:用明天皇二年七月蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。
    崇峻天皇の暗殺:崇峻天皇五年十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。
    境部摩理勢の絞殺:推古天皇三十六年、蘇我蝦夷の派遣した来目物部伊区比なる者に絞殺された。
    山背大兄王の殺害:皇極天皇二年十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。・・・終與子弟妃妾一時自經倶死也。

    以上の五件はいくら詔や他の賛同があるからといっても当時も現在も犯罪であろう。
    ほかに、馬子の推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷による天皇をないがしろにする行為、などが挙げられている。また、「用明天皇二年夏四月舍人迹見赤檮、伺勝海連自彥人皇子所退、拔刀而殺。」とあり、『聖徳太子伝暦』では、馬子の命と言う。
  • 三尾氏は、第11代垂仁天皇と、山背大国不遅(山代大国之淵)の娘・綺戸辺(かむはたとべ、弟苅羽田刀弁)との間に生まれた第十皇子である磐衝別命(いわつくわけのみこと)を祖とする。

    『日本書紀』によると、近江国高島郡三尾の別業(なりどころ、別宅)に居た彦主人王は、振姫の美しさを噂に聞き、越前三国(福井県三国市)の坂中井まで使いを遣わし、妃とした。こうして継体天皇が生まれるが、天皇が幼いうちに彦主人王は亡くなってしまう。振姫は継体を連れて越前三国の高向(たかむく、福井県坂井市丸岡町)に帰り、そこで天皇を育てたとある。
    継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)の墓として、「田中大塚古墳」(高島市安曇川町田中)は、宮内庁により陵墓参考地に治定されている


    三尾氏は、継体天皇にも二人の后妃を送っている。
    『日本書紀』によると、継体天皇は9人の妃を迎えているが、そのうち4人が三尾君(みおのきみ)、息長氏(おきながうじ)、坂田氏など近江の豪族の娘であるという。三尾の郷が、継体王朝と深い関係にあった。
  • 高島市で有名な鴨稲荷山古墳は、築造時期は6世紀前半、当地で生まれたとされる継体天皇(第26代)を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定される。
    出土した副葬品は、石棺内から、金銅冠(こんどうかん)・沓(くつ)・魚佩(ぎょはい)・金製耳飾・鏡・玉類・環頭大刀(かんとうたち)・鹿装大刀(ろくそうたち)・刀子(とうす)・鉄斧(てっぷ)などの象豪華絢爛な副葬品が発見される。
    これらの副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることがわかりから朝鮮半島との強い交流が見られる古墳であるという。
  • 百済の武寧ぶねい王碑

     『日本書紀』の中の韓国の公州の、百済系史料の信憑性を立証する貴重な発見が一九七一年七月、(百済の都、熊津)で行なわれた。百済武寧王陵の発掘である。特に重大な発見は、武寧王と王妃の石製墓誌の出現だった。
     今、王碑の全文をかかげる。「寧東大将軍百済斯 麻王年六十二歳癸 卯年五月丙戌朔七 日壬辰崩到乙巳年八月 癸酉朔十二日甲申安暦* 登冠大墓立志如左」。『日本書紀』中の武寧王記事は左の通りである。
     (1) 是の歳、百済の末多王、無道にして百姓に暴虐す。国人、共に除(す)てて嶋王を立つ。是を武寧王とす。〈武烈紀四年、壬午 ーー 五〇二〉
     (2) 『百済新撰』に云はく、末多王、無道にして、百姓に暴虐す。国人、共に除(す)つ。武寧王立つ。諱(いみな)を斯麻(しま)王といふ。〈武烈紀四年、壬午 ーー 五〇二、分注〉
     (3) 夏五月に、百済の王武寧薨(う)せぬ。〈継体紀十七年、癸卯 ーー 五二三〉
      (『日本書紀』は各天皇紀の元年に干支を記してある。それによって各年の干支が判明する。また、(1)(2)は『日本書紀』本文であるが、それぞれ『百済新撰』『百済本記』にもとづいた記事である)。

     右の(3)の示す武寧王の没年は、第一史料である王碑と完全に一致している。また(1)(2)に武寧王の名が「嶋王」「斯麻王」と記されている。これも王碑と一致する。ことに(2)の『百済新撰』の直接引用とは、「斯麻王」という表記漢字まで完全に一致している(この点、朝鮮の史書『三国史記』〔第四章に詳しくのべる〕では、「斯摩王」となっており、武寧王碑という第一史料の示すところと異なっている)。しかも、この名称は「斯麻=島」という“日本風の名前”である。この名は(2)につづく、つぎのような説話と関連している。「是れ[王昆]支こんき王子の子なり。則ち末多王が異母兄なり。[王昆]支、倭に向ふ。時に、筑紫の嶋に至りて、斯麻王を生む。嶋より還し送りて、京に至らずして嶋に産(う)まる。故(かれ)因りて名づく。今、各羅(かから)の海中に主嶋有り。王の産れし嶋なり。故、百済人、号(なづ)けて主嶋とすといふ」〈武烈紀四年、分注〉。このように、一見いかにも物語風の興味に立ってつづられたかに見える説話。それが王碑中に刻まれた「斯麻王」の一句によって、にわかに生き生きとした史実性の血がかよいはじめる。
         [王昆]支こんきの[王昆]は、王編に昆。JIS第3水準ユニコード7428

     それだけではない。この王碑は左のような「梁書」の記事とも相応する。「(梁の武帝、普通二年 ーー 五二一)其の年、高祖詔して曰く『都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王に行せしむ。余隆、藩を守り、海外遠く貢職を脩おさむ。廼すなわち誠款かん到る。朕、嘉よみする有り。宜しく旧章に率したがい、茲この栄命を授く。使持節都督百済諸軍事、寧東大将軍、百済王たる可し』〈梁書五十四、諸夷、百済国〉。この記事につづいて、普通五年(五二四)武寧王(余隆)の死による、子の明の即位と授号のことがのべられているから、武寧王が「寧東大将軍」として死んだことは明らかである。この称号が右の石碑の最初に明記されている。
     このように第一史料、武寧王碑は、一に『日本書紀』内百済系史料と、二に『梁書』の正確さを同時に証明した。と共に、この時の百済が中国南朝の天子の直属下にあったこと、倭との間においても数奇な関係をもっていたこと、それをこの簡潔な石の文字が豊かに立証したのである
  • 仁徳紀13年9月条に「始めて茨田屯倉を立つ。因りて舂米部(つきしねべ)を定む」とあり、樟葉宮近くに大王家の料地があった。舂米部は屯倉に置かれた米を舂くことを職業とする部民で、それを管掌する伴造が舂米連であった。
     宣化紀元(536)年5月条に「河内国の茨田郡の屯倉の穀を運ばしむ」と記録された。
     『新撰姓氏録』によれば、渡来系の茨田村主(すぐり)が居て、同じく渡来系の交野忌寸(いみき)が枚方市から交野氏に辺りに住んでいた。交野市の倉治(くらち)・津田・藤阪などの古墳群からは、秦氏など朝鮮半島南部からの渡来系氏族のものとみられる石室が出土している。倉治には交野郡衙跡とされる郡津(ごうつ)や、その倉跡もあり、付近には条里制遺構も発掘されている。「枚方」の由来が、淀川に連なる平らな潟であったためであれば、樟葉宮は淀川水系の平潟の近くに在った。
  • 継体天皇の子の欽明天皇の政権は、越の海の海岸から高句麗との交易・交流を見据えて、この水系を念頭に置きながら高句麗の使節を迎える相楽館を建てた。相楽郡は、笠置町(かさぎちょう)・和束町(わづかちょう)・精華町(せいかちょう)・南山城村(みなみやましろむら)の3町・1村を含む。

     継体天皇は、京都府長岡京市今里付近の弟国宮(おとくに;乙訓)へ移った。乙訓は、長岡・向日・大山崎地域を指す地名である。
     『日本書紀』は「6年夏4月6日、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を遣わし、百済に使わせしむ。よりて筑紫国の馬40匹(よおぎ)を賜う」とある。
     押山は6年12月条や23年3月条に、任那国の上哆唎(おこしたり)国守・下哆唎(あるしたり)国守とあるから、単なる使者ではなく執政官として派遣されていたことになる。穂積臣は物部氏の氏族で、天武13年11月に、朝臣の姓を授けられた。
      「12(518)年春3月9日、弟国(おとくに)に都を遷す」とある。長岡京市と向日市(むこうし)の全域と京都市西京区および南区・伏見区のそれぞれ一部もかつては山城国乙訓郡に属していた。弟国は、6世紀初めの継体の頃には、まだ川ではなく河内から巨椋池に続く海に臨んでいた。現在の桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる辺り、その古代の海を挟んで、樟葉宮のあった半島状の男山丘陵の対岸にあった。海と川との水運に恵まれていた。
      桂川(葛野川;かどのがわ)以西の西京区と、乙訓郡(向日市・長岡京市を含む)をあわせて、西ヶ岡あるいは西山とよばれる。乙訓郡と呼ばれる地域は、葛野郡から分離して成立したもので、兄国に対する弟国と解するのが正しいとされている。
      その郡域は、東と南に桂川が流れ、西は摂津・丹波と国境を接し、北は大枝(おおえ)から樫原(かたぎはら)の要路である。
     古来、西国街道と山陰街道を結ぶ街道として物集女街道(もずめかいどう)が利用された。京都市西京区(にしきょうく)の樫原で山陰街道から分かれてまっすぐ南下し、京都府向日市物集女町を通って、寺戸(てらど)で西国街道に合流した。
  • 物集女(もずめ)の由来は、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず・現在の大阪府堺市あたり)に勢力をもっていた一族が、この地に移り住んだことによるとされている。
  • 朝日新聞(2011年10月23日)のネット記事。
    「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日 本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は 678 年の作と考えら れるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。 大宝律令( 701 年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼること になる。 ・・・祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
    884 文字あり、 678 年 2 月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、 663 年に白村江(はくそんこう)の戦い で唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘噍據扶桑以逋誅」 と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」とい う意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記し ていると気賀沢教授は説明する。」以上
    気賀沢教授の解釈
    碑文の「日本餘噍據扶桑以逋誅」を原文に従って読めば、「日本の餘噍は、扶桑によって、もって誅からにげる。」となる。
    「扶桑」は、中国神話で東方にある太陽を生む樹と言われ、同じく東方にある日本をも指す。
    「據」は、「依也。引也。援也。拒守也。」(『康煕字典』)。
    「逋」は、「亡(にげる)也」(『説文』)。
    「誅」は、「小國敖、大國襲焉、曰誅。<小国おごり、大国これを襲うことを誅という>」(『晋語』)、「罰也」(『玉篇』)。
    しかし、気賀沢教授の「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり」という解釈はどこから出てくるのか? また「扶桑」を「日本」とすれば、「日本に依って」となり、意味は「日本に守られて」となる。これでいくと語句先頭の「日本」と「国」の意味
    の詞が重複する。気賀沢教授はこの「日本」の文字を「国号」と考えているようです。
  • 男大迹(=オホド=彦太尊ヒコフトノミコト=継体天皇)
    の父は彦主人王(=ヒコウシオウ=汙斯王)。

    そのヒコウシオウは誉田天皇(ホムタノスメラミコト=応神天皇)の五世の孫。
    つまり、ホムタ→○→○→○→ヒコウシ→ヒコフト(オホド)。

    また、ヒコフト(オホド)の母は振姫(フリヒメ=布利比弥)。
    そのフリヒメは、活目天皇(イクメノスメラミコト=垂仁)の七世の孫。
    つまり、イクメ→○→○→○→○→○→○→フリヒメ。

    そして
    父王ヒコウシは、美人の誉れ高いフリヒメを三国(ミクニ)の坂中井(サカナヰ)に迎えて娶って妃とし、ここ三尾の別邸で暮らした。
    そしてオホドが産まれた。
    しかし、オホドが幼少の頃にヒコウシは亡くなった。
    そこでフリヒメは、越前の国高向(タカムコ)にオホドを伴って帰郷した。



    以上の日本書紀の記述が正しいなら、
    天皇から遠い子孫とは言うものの、<高貴>な血筋の男女の間の子がオホドということになります。

    そしてオホドは、
    湖西の三尾から母の実家のある越国の高向に移り住み、
    長じて大伴金村大連(オホトモノカナムラ オオムラジ)が迎えに来て、枚方の樟葉宮で即位するするまで、
    コシの国の王として君臨していた〜というあらすじになります。
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