伽耶 (任那、加羅)

December 2018 編集されました カテゴリ: 韓半島
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『三国史記』『三国遺事』などの韓国史書文は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えている。 「中国の三国志には…

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コメント

  • 1.高句麗広開土王碑
    (永樂)十年庚子〔400〕教遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵

    2.『三国史記』列伝第六 強首
    及太宗大王即位〔654〕、唐使者至傳詔書。其中有難讀處。王召問之、在王前一見説釋無疑滯。王驚喜、恨相見之晩、問其姓名、對曰、臣本任那加良人、名字頭。
      (真鏡大師宝月凌空塔碑 924年)

    大師は諱は審希で、俗姓は新金氏である。
    その祖先は任那王族で、・・わが国に投じた。遠祖の興武大王は・・・武略を携えて王室をたすけついに二敵(百済・高句麗)をたいらげた。(田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』による)

     1.は同時代史料の金石文であり、政治目的があるとはいえ、その内容の信頼性はかなり高い。任那加羅は五十年後に倭王済が宋の皇帝から除授された号
    「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍」にあり、
    広開土王碑文にある「任那加羅」が「任那」と「加羅」であることを示している。
  • 『日本書紀』の任那
      『日本書紀』の「任那」の出現頻度は219個ある。その内訳は

    欽明天皇の時代における任那は133個もあり、全体の約60%を占めている。意外なのは推古天皇時代である。任那はこの時代すでに滅んで存在していないはずなのに(正確には、滅んだのは任那の宮家)、その出現頻度は何と2番目である。
  • 任那の日本県

    継体天皇○三年〔509〕春二月、遣使于百濟。
    【百濟本記云、久羅麻致支彌、從日本來。未詳也。】括出在任那日本縣邑、百濟百姓、浮逃絶貫、三四世者、並遷百濟附貫也。

    任那日本縣邑は、任那に日本という県邑があったことを示している。
  • 継体天皇○六年〔512〕

    (中略)冬十二月、百濟遣使貢調。別表請任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰、此四縣、近連百濟、遠隔日本。旦暮易通、鷄犬難別。今賜百濟、合爲同國、固存之策、無以過此。然縱賜合國、後世猶危。況爲異場、幾年能守。(中略)物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客。其妻固要曰、夫住吉大神、初以海表金銀之國、高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故太后息長足姫尊、與大臣武内宿禰、毎國初置官家、爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉。縱削賜他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。大連報曰、敎示合理、恐背天勅。其妻切諫云、稱疾莫宣。大連依諫。由是、改使而宣勅。付賜物并制旨、依表賜任那四縣。

     有名な四県割譲記事である。任那には百済の近くに上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁という県があり、哆唎には国守穗積臣押山がいた。国守自ら、任那から百済への領地替えを進言したことになる。
  • 帰化人

    そこで帰化人一覧の原文を確認してみた。
    すると日本書紀は「帰化」という言葉を使っていなかった。

    日本書紀の「投下」「化来」は倭人ではない人の倭への移民だろうが「復以」は「戻ってきた」の意味ではないか。

    実際、任那を支配していたのは倭人であり、また、660年以降、多くの倭人が百済再興のために半島に渡っている。
    665年に百済から「復以」した男女四百餘人は百済で倭語を使っていた倭人だったのではないか。


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    1)継体3年(509) 
     百済に使いを遣わし、任那県邑に住む百済人百姓の子孫を百済に遷す 
      括出在任那日本縣邑、百濟百姓、浮逃絶貫、三四世者、並遷百濟附貫也。

    2)欽明元年(540)
     秦人・漢人の戸籍を作る
      召集秦人・漢人等、諸蕃投化者、安置國郡、編貫戸籍。
      秦人戸數、總七千五十三戸。以大藏掾、爲秦伴造。

    3)天智4年(665)
     2月、百済の民、男女400人あまりを、近江国の神崎郡に住まわせた。
      復以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡。
     →「復以」とは「戻ってきた」の意味ではないか?

    4)天智5年(666)
     この冬、百済の男女2000余人を東国に住まわせた。
      以百濟男女二千餘人、居于東國。

    5)天智8年(669)
     この年、左平余自信(よじしん)、左平鬼室集斯(きしつしゅうし)ら
     百済の男女700余人を近江国蒲生郡に移住させた。
      又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等、男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。

    6)天武13年(684)
     5月、帰化を望んできた百済の僧尼および俗人の男女合わせて23人を、
     武蔵国に住まわせた。
      五月辛亥朔甲子、化來百濟僧尼及俗、男女幷廿三人、皆安置于武藏國。

    7)持統元年(687)
     3月、自ら帰化してきた高句麗人56人を常陸國に、
     また新羅人14人を下野國に居(はべ)らせ、土地と食料を賜り、生活できるようにした。
     4月、自ら帰化してきた新羅の僧尼と百姓の男女22人を武蔵国に居(はべ)らせ、
     土地と食料を賜り、生活できるようにした。

      三月乙丑朔己卯、以投化高麗五十六人、居于常陸國。賦田受稟、使安生業。甲申、以花縵進于殯宮。此曰御蔭。是日、丹比眞人麻呂誄之。禮也。丙戌、以投化新羅人十四人、居于下毛野國。賦田受稟、使安生業。夏四月甲午朔癸卯、筑紫大宰獻投化新羅僧尼及百姓男女廿二人。居于武藏國。賦田受稟、使安生業。

    8)霊亀2年(716))
     5月、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、上総・下総(千葉県)、
     常陸(茨城県)、下野(栃木県)の7カ国の高句麗遺民1、799人を武蔵国に移して
     高麗(こま)郡を置いた。
      以駿河。甲斐。相摸。上総。下総。常陸。下野七国高麗人千七百九十九人。遷于武蔵国。始置高麗郡焉。

    9)天平宝字2年(758)
     日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵國に移して、
     新羅(しらぎ)郡を置いた。
     帰化新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。移武蔵国閑地。於是。始置新羅郡焉。

    10)天平宝字4年(760)
      新羅人131人を武蔵の地へ移り住まわせた。
     置帰化新羅一百卅一人於武蔵国。
  • 金官伽耶国王系図 
    首露王42-199
    居登王199-259
    麻品王259-291
    居叱弥王291-346
    伊尸品王346-407
    坐知王407-421
    吹希王421-451
    銍知王451-492
    鉗知王492-521
    仇衡王521-532 
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