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彦狭嶋命、越智氏
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July 2015
December 2018 編集されました
カテゴリ:
古代氏族
彦狭嶋命、越智氏
彦狭嶋命 ひこさしまのみこと 日子寤間命:ひこさめまのみこと第七代天皇・孝…
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越智氏
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July 2015
人皇第7代孝霊天皇の第三皇子が鎮護国家のために伊予の地に来られ、伊予郡神崎庄に住んだことに始まる。この皇子が彦狭島皇子で、伊予皇子と号した。母の皇后は磯城県主大目の女細姫命である。やがて、皇子と当地の海童女(わたつみのひめ)和気姫との間に三つ子が生まれ、これを棚なし小舟で流すと、一の御子は伊豆の浦に着いて諸山大明神になった。二の御子は備前の児島に着き、三宅氏(児島氏)の祖となった。そして、三の御子が当国和気郡三津の浦に着いた。この御子は天性がすぐれていたので、その名が京師にも知られ、7歳にして帝都に上り34年の間天恩に浴したが、その後は旧国・伊予の国司に任ぜられ、小千郡の地に住んだ。そのためこれを小千御子と称した。
その上で、以下のような系譜を載せている。
細姫命……彦狭島命(孝霊第三の皇子、伊予皇子。伊予郡神崎の庄に居住)……小千御子(三子のひとり天狭貫。伊予国司にして宗廟の神。和気郡三津の浦から帝都に上り、還って小千郡に居住)……天狭介……粟鹿……三並……熊武……伊但馬……喜多守……高縄……高箕……勝海……久米丸……百里……百男……益躬……武男……玉男……諸飽……万躬……守興……玉興……玉澄……
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July 2015
庵原国造の末裔という庵原氏は、現在草ヶ谷姓を名乗っております。
庵原国造家の古墳とも伝わる、三池平古墳の直下にある砥鹿神社は明治七年に砥神神社と名
を改めたが、元々は庵原氏の氏神であったと言われます。
寛永諸家系図伝によれば、庵原氏は彦狭島命を祖とする越智姓です。
越智氏が氏神として砥鹿神を祀る事を考えるとき、系譜に現れる「粟鹿」と「伊但馬」いう名が特徴的で
但馬の粟鹿神=砥鹿神を祀る一族であった事が系譜の名からも伺えます。
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July 2015
但馬国には、大伴氏の道臣命を祀ったと言われる(国司文書 但馬神社系譜伝)、但馬国朝来郡佐嚢神社(三代実録:左長神)が鎮座しています。
祭祀氏族の同一性、神社名の同一性から、粟鹿神を、但馬から三河に移した際に、猿投神も移動したと見られます。
祭祀氏族である大伴氏は、富家の伝承では八代目大名持である八千矛神の末裔である神門臣の分家であり、猿投神を但馬から三河に移す以前は、出雲で祀られていたことが考えられます。
更に興味深い事に、式内社調査報告によると、但馬国朝来郡の
佐嚢神(さなが)と、足鹿神(あしか)は
出雲国飯石郡の同名社(狭長社と葦鹿社)との関係性があると指摘されています。
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July 2015
尾張 大隅(おわり の おおすみ、生没年不詳)
氏は尾治とも書く。姓は連、後に宿禰。尾張多々見の子とする系図がある[位階は贈従五位上。 672年の壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)に私宅を提供した。
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July 2015
大隅は、既に系図からも推測できましょうが、熱田大宮司職となり、その子 稲置からは、代々宮司職を引き継ぎ、平安期頃に、藤原不比等の末裔一族と尾張氏の娘が婚姻し、藤原氏に熱田神社の職を譲ったとあります。大隅以前までの宮司職はどのようになっていたのでありましょうか。
或いは、大隅が、熱田宮司の初代と推測できましょうか。
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March 2016
越智氏発祥の地
今治市大浜町3丁目に鎮座する大浜八幡神社
『日本三代実録』仁和元年二月十日条に、正六位上から従五位下の神階に叙せられたと見える「門嶋神」が、この神社に祀られる神ともいわれます。
目の前に本州と四国を結ぶしまなみ海道の来島海峡大橋、そして美しい瀬戸内の海と島々を望む位置にあります。
主祭神は、国造本紀に「軽嶋豊明朝の御世に、物部連の同祖大新川命の孫小到命を国造に定賜ふ」とある、小市国造の祖・乎到命(小到命)です。
孝霊天皇の皇子彦狭島命の子とする説もあって、ややこしいですが。
応神朝に国造に任じられた乎到命は当地に上陸し、館を造り、東予地方の開拓にあたったと伝えます。
海沿いの道に、「越智氏族発祥之地」との案内が出ています。
相殿神に、饒速日命と天道日女命。
ほかに貞観元年に宇佐八幡宮より勧請したという八幡神など(応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰)が祀られています。
創建は乎到命の九代の後裔、乎到足尼高縄によるといいます。
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March 2016
愛媛県松山市八反地に鎮座する、国津比古命神社
『延喜式』神名帳の伊予国風早郡に、「国津比古命神社」があります。
八脚門は県指定有形文化財で、もと阿沼美神社にあったものを、元禄年間に移築したと伝えられます。
祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
宇麻志麻治命、物部阿佐利命、誉田別命が配祀されています。
火事祭りとも呼ばれる秋祭りは、石段の上から神輿を落とす「あばれ神輿」で有名です。
国造本紀に、風速国造は応神朝に伊香色男命の四世孫の阿佐利を任じたといい、『続日本後紀』承和六年十一月癸未条には、善友朝臣の姓を賜った伊予国人の風早直豊宗らは天神饒速日命の後裔であるとされています。
当地の国造が、物部氏族を称していたことがわかります。
国津比古命神社は、この国造一族によって奉斎されたものでしょう。
末社の金比羅宮の前に、真名井の井戸があります。
阿佐利命が国造に任ぜられて、祖神の饒速日尊と宇麻志麻治命を祀ったことに始まり、古くは櫛玉饒速日命神社と称したと伝えます。
中古、阿佐利命を合祀して国津比古命神社に改称。のち、応神天皇を合祀して頭日八幡宮とも称しました。
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May 2016
大浜八幡神社は、越智氏族の祖神である小千国造(おちのくにのみやつこ)乎致命(おちのみこと)のほか、八柱の神さんをお祭りした由緒ある神社です。大浜八幡神社という社名は乎致命から九代目の子孫に当たる乎致高縄が大浜(御浜、王浜とも書いていたことがありました。)に大浜大神を創建し、更に貞観元年(859)-延長二年(924)という説もあります。-国司河野大夫興村等が、宇佐八幡宮より八幡宮を勧請したことによるといわれています。この神社は、江戸時代には今治藩主が、今治越智郡の総氏神としてあがめ尊ばれ、念に一度は参詣されました。また、毎年大祭にはみこしが登城して、今治の町々を回ってにぎわいを呈したということです。
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May 2016
大井八幡神社【大西町宮脇】
・祭神:阿佐利命(あさりのみこと)、若弥尾命(わかみおのみこと)、品陀和気命(ほんだわけのみこと)、帯仲津日子命(たらしなかつひこのみこと)、息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)、三筒之男命(さんづつのおのみこと)、武内宿禰(たけうちのすくね)、玉依比賣命(たまよりひめのみこと)、尊真親王(たかざねしんのう)
・社伝によれば、文武天皇の詔勅によって大宝2年、乎智宿祢玉純(おちのすくねたまずみ)が奉行となって神殿を建営し、風速野間の国造であった阿佐利命、怒麻国造若弥尾命の2柱を崇祀して大井宮と称した。
・後に清和天皇の貞観元年に宇佐八幡大神を山城国男山に勧請の時、航路にあたる当郷の弓津恵島(ゆづえじま)に船泊した時。八幡神の神託があり、河野深躬が垂迹の智に八幡宮を勧請し仮神殿を建立奉斎した。
・寛平2年後醍醐天皇の皇子尊真親王がこの郷で崩御され、その霊を当社に合祀した。
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July 2017
伊予 西条市の前期古墳
初頭から前期は、松ノ元遺跡(29)と大久保遺跡(27)を挙げることができる。松ノ元遺跡では2基 の土器棺墓と円形周溝墓が検出され、大久保遺跡では出現期の前方後円墳である大久保1号墳と 円墳である大久保2号墳が検出されている。いずれも弥生時代終末から古墳時代初頭にかけての 墳墓であると考えられ、当該地域の出現期古墳の様相と墓域構成を知る好資料である。
中期になると丘陵部に墓域が形成される。大日裏山の南東に下る丘陵には1~5号墳の5基で構 成された大日裏山古墳群(30)が立地している。崩壊によって墳形が不明である3号墳以外はいず れも円墳であり、1号墳と2号墳は竪穴式石槨を内部主体に持っている。1号墳からは内行花文鏡 が、4号墳では乳文鏡が出土している。この古墳群は、当該地域における中期首長墓域として評 価することができる。
後期になると、今は失われたものも多いが、小円墳で構成される群集墳が多く分布する。低地 には石根古墳群(西条市小松町大頭)が、独立低丘陵には舟山古墳群(35)が存在する。舟山古墳群 では20数基といわれる古墳から、大刀・甲冑などの武具、鐙・轡などの馬具、玉類などが出土し ている。総じて後期後半の古墳が多い。
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October 2018
穂積氏はニギハヤヒを祖とする物部氏の同族であり、いずれにせよ物部氏系の娘だとなるが、母の高屋阿波良姫が気にかかる。安倍氏の氏神は「高屋安倍神社」で、安倍氏族の高橋氏が奉ったのも「高家神社」。高橋氏との関係が考えられる。
大矢口宿祢は吉備津彦らとともに出雲討伐に活躍したと伝え、その子孫は中世の入沢氏(伯耆国日野郡の楽々福神社祠官)、名沢氏などであって、伯耆西部の日野川流域を中心に美作・因幡など周辺各地に分布が見られる。日野郡あたりの地域の平定には孝霊天皇が吉備津彦とともに活躍したとも伝え、いまも日野川東岸に孝霊山の名が残るが、この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する。吉備系の楽々福神社が古層の製鉄神信仰として存在したという指摘(坂田友宏氏)もある。
「天孫本紀」に兄弟と記される武諸隅命(矢田部造の祖)と大母隅連(矢集連の祖)とは、名前に「モロスミ」を共有しており、『書紀』崇神六〇年条の記事でも割注で同人と記すので、これらの事情から同人としてよい。
越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
伊香色雄・十市根の後裔のみが本来の物部であった。十市根が垂仁朝に朝廷の武器庫でもあった石上神宮の神宝を管掌した
『日本書紀』では、大水口宿禰について穂積臣遠祖としている。
また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
左京神別 天神 穂積臣 – 伊香賀色雄男の大水口宿禰の後。
右京神別 天神 采女朝臣 – 石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫の大水口宿禰の後。
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October 2019
彦狭嶋王の祖父、豊城入彦命は御諸山(三輪山)から東に向って、槍と刀を8回ずつ振った。という夢占によって東国統治の任を得て上毛野朝日の原(群馬県榛名町)に居城を築いた。
命の事業の中に車川から水を引く堰造りがある。その堰は、くの字に折れ三角地を形成していると『榛名町誌』に記されていたので確かめに行ってみた。
S字形の地形は三角地帯といって、砂鉄が多く溜る場所である。確かにそれらしき地形は認められた。推測どおり堰跡の砂鉄量も多かったのである。
群馬県の古代の製鉄遺跡は赤城山方面にあるが、命は鉄塊の元になる砂鉄集めに力を注ぎ鉄処を治めた人物ではなかったろうか。
命の墳墓と伝承されるものは朝日の原を始め郷見区の諏訪や前橋市とあちこちにある。命が生きたとされる時代と伝承墳墓の時代差は『記紀』に登場する天皇が、重複して記された可能性があると見られている。遠い時代のことで推測の域を出ないが、伝承地に立ちその風景の中に身を置いてみると、伝承の真実性がそこはかとなく伝わってくるから不思議である。
また、榛名町には役行者が開山とされる通称白岩観音がある。
寺伝によると、行者は文武天皇の御代の人。大和葛城の生れで、藤の皮を身にまとい松の葉を食し葛城山の洞穴に籠って修行をして神通力を得、多くの鬼を使い水を汲ませたり薪を拾わせていた。ある年、諸国の峯々をめぐっていた時、上野国神州(からす・現烏)川の上空にさしかかると多くの天狗が出迎え、白岩山が優れた修行の適地であることを告げたという。
前出の藤、松、水、薪は製鉄には欠かせない物であるし、鬼や天狗もまたしかりである。寺伝から、鉄との深い関わりが見えてくる。
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その上で、以下のような系譜を載せている。
細姫命……彦狭島命(孝霊第三の皇子、伊予皇子。伊予郡神崎の庄に居住)……小千御子(三子のひとり天狭貫。伊予国司にして宗廟の神。和気郡三津の浦から帝都に上り、還って小千郡に居住)……天狭介……粟鹿……三並……熊武……伊但馬……喜多守……高縄……高箕……勝海……久米丸……百里……百男……益躬……武男……玉男……諸飽……万躬……守興……玉興……玉澄……
庵原国造家の古墳とも伝わる、三池平古墳の直下にある砥鹿神社は明治七年に砥神神社と名
を改めたが、元々は庵原氏の氏神であったと言われます。
寛永諸家系図伝によれば、庵原氏は彦狭島命を祖とする越智姓です。
越智氏が氏神として砥鹿神を祀る事を考えるとき、系譜に現れる「粟鹿」と「伊但馬」いう名が特徴的で
但馬の粟鹿神=砥鹿神を祀る一族であった事が系譜の名からも伺えます。
祭祀氏族の同一性、神社名の同一性から、粟鹿神を、但馬から三河に移した際に、猿投神も移動したと見られます。
祭祀氏族である大伴氏は、富家の伝承では八代目大名持である八千矛神の末裔である神門臣の分家であり、猿投神を但馬から三河に移す以前は、出雲で祀られていたことが考えられます。
更に興味深い事に、式内社調査報告によると、但馬国朝来郡の
佐嚢神(さなが)と、足鹿神(あしか)は
出雲国飯石郡の同名社(狭長社と葦鹿社)との関係性があると指摘されています。
氏は尾治とも書く。姓は連、後に宿禰。尾張多々見の子とする系図がある[位階は贈従五位上。 672年の壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)に私宅を提供した。
或いは、大隅が、熱田宮司の初代と推測できましょうか。
今治市大浜町3丁目に鎮座する大浜八幡神社
『日本三代実録』仁和元年二月十日条に、正六位上から従五位下の神階に叙せられたと見える「門嶋神」が、この神社に祀られる神ともいわれます。
目の前に本州と四国を結ぶしまなみ海道の来島海峡大橋、そして美しい瀬戸内の海と島々を望む位置にあります。
主祭神は、国造本紀に「軽嶋豊明朝の御世に、物部連の同祖大新川命の孫小到命を国造に定賜ふ」とある、小市国造の祖・乎到命(小到命)です。
孝霊天皇の皇子彦狭島命の子とする説もあって、ややこしいですが。
応神朝に国造に任じられた乎到命は当地に上陸し、館を造り、東予地方の開拓にあたったと伝えます。
海沿いの道に、「越智氏族発祥之地」との案内が出ています。
相殿神に、饒速日命と天道日女命。
ほかに貞観元年に宇佐八幡宮より勧請したという八幡神など(応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰)が祀られています。
創建は乎到命の九代の後裔、乎到足尼高縄によるといいます。
『延喜式』神名帳の伊予国風早郡に、「国津比古命神社」があります。
八脚門は県指定有形文化財で、もと阿沼美神社にあったものを、元禄年間に移築したと伝えられます。
祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
宇麻志麻治命、物部阿佐利命、誉田別命が配祀されています。
火事祭りとも呼ばれる秋祭りは、石段の上から神輿を落とす「あばれ神輿」で有名です。
国造本紀に、風速国造は応神朝に伊香色男命の四世孫の阿佐利を任じたといい、『続日本後紀』承和六年十一月癸未条には、善友朝臣の姓を賜った伊予国人の風早直豊宗らは天神饒速日命の後裔であるとされています。
当地の国造が、物部氏族を称していたことがわかります。
国津比古命神社は、この国造一族によって奉斎されたものでしょう。
末社の金比羅宮の前に、真名井の井戸があります。
阿佐利命が国造に任ぜられて、祖神の饒速日尊と宇麻志麻治命を祀ったことに始まり、古くは櫛玉饒速日命神社と称したと伝えます。
中古、阿佐利命を合祀して国津比古命神社に改称。のち、応神天皇を合祀して頭日八幡宮とも称しました。
・祭神:阿佐利命(あさりのみこと)、若弥尾命(わかみおのみこと)、品陀和気命(ほんだわけのみこと)、帯仲津日子命(たらしなかつひこのみこと)、息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)、三筒之男命(さんづつのおのみこと)、武内宿禰(たけうちのすくね)、玉依比賣命(たまよりひめのみこと)、尊真親王(たかざねしんのう)
・社伝によれば、文武天皇の詔勅によって大宝2年、乎智宿祢玉純(おちのすくねたまずみ)が奉行となって神殿を建営し、風速野間の国造であった阿佐利命、怒麻国造若弥尾命の2柱を崇祀して大井宮と称した。
・後に清和天皇の貞観元年に宇佐八幡大神を山城国男山に勧請の時、航路にあたる当郷の弓津恵島(ゆづえじま)に船泊した時。八幡神の神託があり、河野深躬が垂迹の智に八幡宮を勧請し仮神殿を建立奉斎した。
・寛平2年後醍醐天皇の皇子尊真親王がこの郷で崩御され、その霊を当社に合祀した。
初頭から前期は、松ノ元遺跡(29)と大久保遺跡(27)を挙げることができる。松ノ元遺跡では2基 の土器棺墓と円形周溝墓が検出され、大久保遺跡では出現期の前方後円墳である大久保1号墳と 円墳である大久保2号墳が検出されている。いずれも弥生時代終末から古墳時代初頭にかけての 墳墓であると考えられ、当該地域の出現期古墳の様相と墓域構成を知る好資料である。
中期になると丘陵部に墓域が形成される。大日裏山の南東に下る丘陵には1~5号墳の5基で構 成された大日裏山古墳群(30)が立地している。崩壊によって墳形が不明である3号墳以外はいず れも円墳であり、1号墳と2号墳は竪穴式石槨を内部主体に持っている。1号墳からは内行花文鏡 が、4号墳では乳文鏡が出土している。この古墳群は、当該地域における中期首長墓域として評 価することができる。
後期になると、今は失われたものも多いが、小円墳で構成される群集墳が多く分布する。低地 には石根古墳群(西条市小松町大頭)が、独立低丘陵には舟山古墳群(35)が存在する。舟山古墳群 では20数基といわれる古墳から、大刀・甲冑などの武具、鐙・轡などの馬具、玉類などが出土し ている。総じて後期後半の古墳が多い。
大矢口宿祢は吉備津彦らとともに出雲討伐に活躍したと伝え、その子孫は中世の入沢氏(伯耆国日野郡の楽々福神社祠官)、名沢氏などであって、伯耆西部の日野川流域を中心に美作・因幡など周辺各地に分布が見られる。日野郡あたりの地域の平定には孝霊天皇が吉備津彦とともに活躍したとも伝え、いまも日野川東岸に孝霊山の名が残るが、この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する。吉備系の楽々福神社が古層の製鉄神信仰として存在したという指摘(坂田友宏氏)もある。
「天孫本紀」に兄弟と記される武諸隅命(矢田部造の祖)と大母隅連(矢集連の祖)とは、名前に「モロスミ」を共有しており、『書紀』崇神六〇年条の記事でも割注で同人と記すので、これらの事情から同人としてよい。
越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
伊香色雄・十市根の後裔のみが本来の物部であった。十市根が垂仁朝に朝廷の武器庫でもあった石上神宮の神宝を管掌した
『日本書紀』では、大水口宿禰について穂積臣遠祖としている。
また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
左京神別 天神 穂積臣 – 伊香賀色雄男の大水口宿禰の後。
右京神別 天神 采女朝臣 – 石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫の大水口宿禰の後。
命の事業の中に車川から水を引く堰造りがある。その堰は、くの字に折れ三角地を形成していると『榛名町誌』に記されていたので確かめに行ってみた。
S字形の地形は三角地帯といって、砂鉄が多く溜る場所である。確かにそれらしき地形は認められた。推測どおり堰跡の砂鉄量も多かったのである。
群馬県の古代の製鉄遺跡は赤城山方面にあるが、命は鉄塊の元になる砂鉄集めに力を注ぎ鉄処を治めた人物ではなかったろうか。
命の墳墓と伝承されるものは朝日の原を始め郷見区の諏訪や前橋市とあちこちにある。命が生きたとされる時代と伝承墳墓の時代差は『記紀』に登場する天皇が、重複して記された可能性があると見られている。遠い時代のことで推測の域を出ないが、伝承地に立ちその風景の中に身を置いてみると、伝承の真実性がそこはかとなく伝わってくるから不思議である。
また、榛名町には役行者が開山とされる通称白岩観音がある。
寺伝によると、行者は文武天皇の御代の人。大和葛城の生れで、藤の皮を身にまとい松の葉を食し葛城山の洞穴に籠って修行をして神通力を得、多くの鬼を使い水を汲ませたり薪を拾わせていた。ある年、諸国の峯々をめぐっていた時、上野国神州(からす・現烏)川の上空にさしかかると多くの天狗が出迎え、白岩山が優れた修行の適地であることを告げたという。
前出の藤、松、水、薪は製鉄には欠かせない物であるし、鬼や天狗もまたしかりである。寺伝から、鉄との深い関わりが見えてくる。