百済人祢軍墓誌

July 2015 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人

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白村江の戦い(663年)の後、唐側の使者として665年に来日した百済人、祢軍の墓誌が中国で見つかり、その中に「…

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コメント

  • 「郭 務悰」は、白村江の戦いの後9年後、唐に帰国したことになっているが、「上柱国」という(中小)国家元首扱いであった(日本書記)のに凱旋帰国した記録は、唐 に残っていない。

    戦勝国の司令官が、わざわざ日本国(これも倭国であると思うが)に来ている

    「郭務悰」の帰国後に壬申の乱が発生し、大海人の率いる軍団が近江朝をせん滅し日本国を名乗ったこと。
  • 日本餘噍據扶桑以逋誅


    顯慶五年、この年(西暦660年)は百済滅亡の年であり、この紀年で「日本餘噍」のところまで読んでいる人もいる
    この読み方では、百済滅亡の年に日本軍が逃げたように書かれるのはおかしいということになる。
    一つの見方ですが、「顯慶五年」は「聖上嘉嘆擢以榮班授右武衛滻川府析衝都尉」までしかかかっていません。「官軍平本藩日見機識變杖劍知歸似由余之出戎如金磾之入漢」と言っていますが、この年に官軍(=唐軍)が本藩(=百済)を平定したことで、(西戎を出て秦に帰順した)由余のように、あるいは(匈奴から漢に入った)金日磾のように、禰軍は唐に帰順したとされるわけです。唐の高宗が禰軍を右武衛滻川府析衝都尉に抜擢したことを書いているところまでがおそらく西暦660年のことです。「于時」のところで年次は飛んでおり、「日本餘噍據扶桑以逋誅」を西暦663年の白村江の戦いの後と読むことも可能になります。

    中国の墓誌の中には紀年を細かく書くものもあるのですが、そうでないものもあります。禰軍墓誌には紀年が5カ所しかなく、明らかに後者です。この手の墓誌や列伝などは、大体時系列で叙述されており、紀年を書かないものは叙事記述で年次を判断するしかありません。年次を切らないと、「左戎衛郎將」の位を受けたのも、「右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府司馬」に転出したのも、西暦660年ということになってしまいますし、そんなことはほぼ間違いなくありえません。
  •  日本餘は夫餘と対比すれば、日本の本流から分かれた同族、分流を指し、となれば、袮氏墓誌の「日本餘は扶桑に據って噍(はむか)い、誅を逋(のが)れた」のである。

    扶桑は王維の詩にあるように倭国の東にあるのであり、梁書に扶桑國の沙門が10人も梁を訪ねたとあり、東北に梁僧によって建立されたとされる寺が廃寺も含め少なからずあるのであり、扶桑國は少なくとも、関東北に足跡は辿られるのであり、青森の「日本中央」と記された碑「壷の碑」の「日本中央」の領域の南、倭の東の扶桑国に日本餘は據ったこととなり、日本餘が據った扶桑國は関東、それも、石製の糸車?も考えると、古代の毛野の領域だったことが考えられようか。
  •  拜根興
     唐代高麗百済移民研究-以西安洛陽出土墓志為中心
     中国社会科学出版


    巻頭に多数の墓碑の写真が掲載されており,巻末に附録として読解が収録されている。

    墓碑の中には既に日本でも知られているものも多数含まれている。

    ,「大唐故右威衛將軍上柱國禰公墓誌銘并序」の冒頭には,「公諱軍 字温 熊津嵎夷人也」とある。その少し後には「于時日夲餘噍 拠扶桑以逋誅」「風谷遺甿 負盤桃而阻固」とあり,白村江の戦直後の様子と推定される状況が示されている。ここに「日本」と「扶桑」の名があることで話題となった。仮に白村江の戦が朝鮮半島のどこかで起きた出来事だとすれば,扶桑国は朝鮮半島にあったこととならざるを得ない。しかし,白村江が通説の考えている場所よりももっと北方にあったと仮定すると,扶桑国は現在の北朝鮮東方の国だったことになるかもしれない。更に,仮に現在の西日本が「日本」であり現在の東日本が「扶桑」だとすれば,何やら天孫降臨の際の幾つかのストーリーとだぶってくるような気がする。

    また,「大周故冠軍大將軍行左豹韜衛翊府中郞將高府君墓誌銘并序」の冒頭には,「君諱玄 字貴主 遼東三韓人也 昔唐家馭曆 幷呑天下 四方合應 啓顙來降 而東夷不賓 據靑海而成國」とある。「大唐勿部將軍功德記」として知られる墓碑中の「勿」とされる部分は,写真で見る限り欠けているようで明瞭ではなく,判読できない。意味深だ。

    三韓国は遼東にあったと考える。三韓国に関する通説は,客観的な根拠がない。

    他の墓誌の記載内容から推定して,百済と扶余とは同一であり,また,高句麗の南には倭があったと考えるのが合理的ではないかと思う。

    ちなみに,「黒歯常之」の墓誌を読んでいると,日本人なのだろうという気がしてくる。「黒歯國」とは日本国のことを指すという説に賛成したい。そして,「黒歯」は,何となく,高向玄理(黒麻呂)を連想させる名だと思った。

    「大唐故冠軍大将軍行右威衛将軍上柱國金城郡開国公李公墓誌銘并序」すなわち「仁徳」の墓誌も興味深い。金城郡は,甘粛省蘭州市近辺または遼寧省金州(大連付近)を指し,前者であれば本草と密接な関連を有する。後者であれば,やはり三韓の地が遼東半島周辺にあったという証拠となり得る。
  • December 2016 編集されました
     『唐書における7世紀の日本の記述の問題:山東省曲阜市 青木英利著』を抜粋・転載


    細かい事になるけれども、日本に関しての「旧唐書」の記述には、空白がある。それを代表的にあらわしているのは、倭人伝と日本伝である。
    ●倭人伝では、貞觀二二年(六四八年)で朝貢が途切れ、
    ●日本伝では、長安三年(七〇三年)に朝貢が新たに開始したことになったいる。
     これは、列伝の記述で、それを、補充説明するような記述は、本紀に勿論無い。本紀は大事を、列伝は小事という水準の違いがあり、
    ●貞觀二二年(六四八年)から長安三年(七〇三年)の間の「五四 五六 年間」の日中の空白を埋める年代的記述は本紀にはない。
     ただし、この「五四 五六 年間」を「説明している」記述が、日本伝の冒頭に書かれている。

    「日本国者は倭国の別種なり」と以下「北の大きな山を限りとして、その外は毛人の国なり」。つまり、この「五四 五六 年間」に、日本を代表する国名が、倭国から日本に変わったという説明がなされて、国土を北に接する毛人の国は独立国だという事も書かれている。
    さて、「唐会要」という、唐代に創作され続けられてきた一連の書がある。宰相・崔鉉が撰した「続会要」が底本になって、北宋の九六一年に完成したものであるが、九六一年と言えば、九四五年の「旧唐書」に遅れて出来ているが、「唐会要」の底本は「続会要」で、これは、八五三年に完成していて、「旧唐書」は「続会要」を種本としている。「旧唐書」に書き漏らした事も、ここには、載っている。


    さらに、この「続会要」は蘇冕の「会要」を引き継いだこととなっている。蘇冕は唐・徳宗朝の人で、「会要」四十巻の編纂者である。
     高祖から徳宗に至る九朝の典章制度・典志類史書の会要の創始者である。その蘇冕の発言としては、資冶通鑑は一〇八四年の編纂である。ちなみに、「旧唐書」には彼の事跡は載っていない。徳宗時代とは、七八〇年から八〇四年の時期である。

    従って、「旧唐書」の倭国伝・日本国伝は、「唐会要」の「倭国伝」・「日本国伝」が種本で、さらに、大本は「会要」に求める事は当然である。
  • (続きです)
    この「会要」の内容で注目すべき事を付記します。

    それは、「倭国伝」の中で、則天の時、自ら国名を日本に変えたといっていることで、従来、だから、大和の旧名が倭国だと則天は認めているとする論がありますが、ここは、大和が主張していると紹介しているに過ぎません。

    「会要」の「日本国伝」の日本は倭国の別種だとの事は、唐の見解である。

    入朝者と書いていることから、この日本国としての入朝者は、七〇三年の朝貢を指し、この入朝者が多くの自慢話をして、実態と違い、唐は此れを疑うとしていて自ら主張しているが、実態がなく、唐は疑っていると、強調しているのです。「会要」の則天時の文字を以って、倭国が単に日本と改名した事を、則天が承認したかのような主張は成り立たない。

    それから、「会要」が蝦夷国を独立国として扱っている事です。「蝦夷国」の項を独自に作っています。つまり、「日本国」や「倭国」と同じく項立てをしています。これは、徳宗代の認識と一致しているはずです。つまり、日本国史の八〇一年の坂上田村麻呂の蝦夷占領までは、蝦夷は独立国で、七二五年の「多賀城」建設も七三三年の「出羽の柵」も疑って掛からなければ成らないし、隼人・蝦夷の蝦夷は、蝦夷国とは区別しておかなければならないと思います。
  • December 2016 編集されました
    多利思北孤は、南朝(陳の滅亡(五八九)後、みずから、代わって「天子」の座にあり、と称した。
    633年「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」

    百済の「壬寅の政変」については、百済の使者(舒明帝崩御に対する弔いの使者)が倭国に来て伝えているが、日本書紀だけに記されている。
    「昨年(641年、舒明13年)11月に、最高官職である大佐平の智積が引退し
    (紀には「卒」とあるが、その後来朝する)、今年(642年、皇極元年、壬寅)の正月に、王母が亡くなると、義慈王の弟の翹岐やその家族をはじめ重臣たち40人が、島流しにされた。」

    660年7月、新羅・唐連合軍の攻撃で百済は滅亡する。
    滅亡後の百済は鬼室福信らが倭国に亡命していた豊璋を擁立して復興を計った。
    倭国に亡命していた人々も多数帰国し、一時は羅唐軍を追い返すほどの復興を果たした。

    天智4年(665年)2月、鬼室集斯、小錦下、学職頭
    同年8月、達率答㶱春初に命じて、長門国に朝鮮式山城を築かせた。
          遣達率憶禮福留・達率四比福夫には、筑紫國に築大野城と椽城を築かせた。

    天武4年正月1日には他の渡来人たちと共に薬や珍しい品々を献上している。
    朱鳥元年9月29日天武帝の殯宮で禅広の代わりに、良虞(禅広の子か孫、続紀では郎虞)が誄を行った。天武帝の葬儀で誄を行った良虞は従四位下まで昇進、伊予守などの地方長官を歴任した。

    のちに、良虞の子敬福は陸奥守の時に、聖武天皇の大仏造立のために黄金900両を献上した。

    持統5年正月7日、百済王禅広、遠宝、良虞、南典に優賜とある。
    持統7年正月15日、禅広に正広参が贈位された。義慈王の子と思われる禅広は舒明朝に入朝し、百済が滅亡したため倭国に残り持統朝に「百済王氏」を拝命した。


    伊予国国司の初見は、『続日本紀』巻三文武天皇条「大宝三年八月百済王良虞りょうぐ伊予守」であり、通説の『日本書紀』持統天皇三年(689)の伊豫総領すべおさ田中朝臣法麻呂のりまろではない。それは、「総領」とは九州王朝の職制であるからである。そこで、『続日本紀』の記事から解ることは、伊予での「大宝律令」の施行は701年ではなく、遅れて703年かも

    大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らである。大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日には大宝律令を諸国に頒布した。 

    開元初年(713)の粟田真人は、完成したばかりの『古事記』の素案を持って唐朝を訪れた。

    百済王敬福
    738年(天平10年)、陸奥介に任ぜられる。翌739年(天平11年)に正六位上から従五位下に昇叙、743年(天平15年)に陸奥守に昇進した。
  • December 2016 編集されました
    大宰府の「紫宸殿」(字・地名)が「七〇一」以前の「俀国の天子」の中枢部の証拠??

    「九州」こそ、東アジア独特の歴史地名としての「天子の直轄領」、それ以外の表示ではありえなかった。

    『旧唐書』の中に、不思議な一節がある。
    「(倭国)四面に小島、五十余国、皆これに付属す」(倭国伝)

    つづく「日本伝」でその形状を、
    「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと」と延べ。

    西日本一帯(日本アルプス以西)の形姿をよく反映させているか


    朝倉(現・今治市)及び西条市一帯の越智国(おちのくに)が比定地であったと考えている。しかも、その越智国に「紫宸殿ししんでん」という畏れ多い地名遺跡(西条市明理川)があった。「紫宸殿」とは天子の御殿のこと。これは、一体何を物語るのか。
    『日本書紀』巻二六「斉明天皇七年七月二十四日に朝倉宮で崩御」とある。通説は九州の朝倉である。暑い盛りであるが、御陵が大和の飛鳥であるならば、亡骸をどのようにして運んだのであろうか。

    ところで、『日本書紀』「巻二十九・天武下」及び『釈日本紀』「巻十五・天武下」に次の記述がある。
     「天皇幸二於越智一。拜二後岡本天皇陵一。」
     即ち、天武天皇が越智に行幸して、後岡本天皇(斉明天皇)陵を拝した、という記事である。
     ところが、斉明天皇陵と言われている所が各所にあるが、そのどれもが未確定となっている。

    平成22年9月10日、マスコミが一斉に奈良県明日香村にある八角形墳の「牽牛子塚けんごしづか古墳」が「斉明天皇陵か」と報道した。そして、八角形墳は天皇陵の形式だと言っているが、事実は違うようである。これについて古田武彦氏は、この形の古墳は地方にも幾つもあり(宝塚市の中山荘園古墳、群馬県の一本杉古墳、広島県の尾市一号墳、奈良の東明神古墳・岩屋山古墳など、河上邦彦著『大和の終末期古墳』より)、地方豪族の墓でもある。

    また「紫宸殿」地名遺跡の存在からも、越智国朝倉にある「伝・斉明天皇陵」(所在地・朝倉上)は真実の陵墓であったのか否かに突き当たる。この越智行幸の記事は、越智国の「伝・斉明天皇陵」を拝したということではないのか、と。そうなると、天武天皇が遠路はるばる越智国に行幸して墓参したことになる。

    ところで、橘新宮神社にある『橘新宮神社由書記』「高外樹城家傳之事」(3) に次の記述がある。
     「天皇当国当熟田津の石湯洲之橘新殿神宮に行宮したまう也。又是より越知朝倉宮に遷座。ここに於いて天皇崩じたまう也。この時先祖が宇摩の津袮宮(長津宮 -- 筆者注)と越智朝倉宮で人馬を奉り公事を勤めた」
    と。
  • 『山海経』

    今から五〇〇〇年程前の東アジアが描かれている。
    荒唐無稽に思われた記述が、暘谷という海峡の存在が明らかになって意味を持ち出す。というのは日本に当たると思われる記述が「海外東経」にある。

     「海外、東南隅より東北隅に至るもの」とあり、「黒歯国」に次の記述がある。

     『下に湯のわく谷あり、湯の谷の上に扶桑あり、ここは十個の太陽が湯浴みするところ』

    ところがさらに「大荒東経」という篇がある。東洋文庫本の解説に『山海経』に序を書き注をつけた「郭璞(かくはく:二七六~三二四年)は大荒経四と後尾の海内経一を合わせた五篇を、後人の述べるところといい、いつの作品ということに言及していない。晋以前のものであろうが、すでに郭自身が明らかにすることができなかった」とある。

    その「大荒東経」は、次のように記述する。
    『東海の外(=かなた)に大きな壑(=たに)があり、そこは少昊(=こう)の国』
    と始まり、三分の二ほどのところに、

     『山の上に扶木(=扶桑の木)がある。高さ三百里、その葉は芥菜(からしな)のよう。谷あり、湯源の谷(=湯谷)といい、その湯の谷の上に扶木があり、一個の太陽がやってくると、一個の太陽が出ていく。(太陽は)みんな鳥を載せている』

     「海外東経」が西日本の記録であり、「大荒東経」が東日本の記録であったのが、日本列島が合体して二〇〇〇年以上経った晋の時代の郭には、暘谷という海峡の存在はもはや知る事が出来なかったのである。もちろん暘谷が日本を指す事は知識として知っていたはずである。

     五〇〇〇年前の暘谷を湯の谷と断崖の上に生えた「扶桑の木」と書いており、深い海溝を挟んだ特殊な形状の海峡が表現される。
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