物部胆咋、九州の物部氏

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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筑紫君 磐井より以前の九州の物部氏を探る。 太田亮博士などのいうように、物部氏の淵源をなす地が筑後川中下流域の…

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コメント

  • 宇麻志麻治命2 ー彦湯支命3 ー意富祢命4ー出石心大臣命5ー 鬱色雄命6 ー大水口宿禰7 ー建忍山垂根8[兄弟に末羅国造 矢田稲吉] ー 大木別垂根9[兄弟に弟橘媛 弟財郎女]ー穂積真津10 ー阿米11[兄弟に采女氏、采女宮手] ー十能寸12ー鎌子13 ー押山14 ー磐弓15 ー祖足16 ー咋 [兄弟に古閉] ー百足
  • 穂積氏は、饒速日命の後裔・大水口宿禰を遠祖とする。大水口宿禰の子と伝わる建忍山垂根は『古事記』に穂積氏祖と記され、娘の弟橘姫は日本武尊の妃となった。また、『日本書紀』に記される穂積忍山宿禰も建忍山垂根と同一人物とされ、娘の弟財郎女は成務天皇の妃となり和謌奴気王を生んだとされる。

    建忍山垂根の子・大木別垂根の子である穂積真津の代に穂積姓を賜ったという伝承を持ち、姓は臣であった。天武13年(684年)11月には、八色の姓制定に伴い52氏のひとつとして穂積朝臣姓を賜った。

    鈴木眞年の『史略名称訓義』では、饒速日命の子・宇摩志麻遅命は大和国十市郡に居て天皇に天瑞宝を献じ、この正統は同郡穂積里に居て穂積の姓を負いそれより物部氏などが分かれたとし、物部氏族の正統は穂積氏としている。
  • June 2017 編集されました
    鏡神社 松浦三社の一位

    現在は松浦総鎮守鏡神社と呼ばれ、旧称は鏡尊廟宮、鏡宮、松浦宮、板櫃社、久里大明神。古来、鏡神社は松浦国の総社として尊崇され、松浦三社の一位に列せられていた。

    本殿が2棟あり、一ノ宮に息長足姫命(神功皇后)、二ノ宮に藤原広嗣を祀る。『源氏物語』玉鬘の巻で肥後の豪族大夫監が玉鬘に宛てた歌に「松浦なる鏡の神」と詠まれている。

    社伝では、三韓征伐の際、神功皇后が鏡山山頂に戦勝を祈願して鏡を納めたが、その後この鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が自らの生霊を鏡に込めて祀ったのに始まると伝える。

    また、三韓征伐の帰途、神功皇后は当地で陣痛に襲われたが、里人が差し出した湧き水を飲むと陣痛が治まり、宇美の地にて無事に応神天皇を産んだという。このことから安産の霊験もあるとされる。

    藤原広嗣の乱により藤原広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝2年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備により、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。広嗣処刑の後、玄昉が筑紫に左遷されそこで歿したことから、これは広嗣の怨霊のせいであるとされ、それを慰めるためであった。

    元は松浦宮・松浦廟宮と呼ばれ、空海(弘法大師)が鏡神社に改称したと伝える。

    大伴狭手彦は欽明天皇の時にも再び渡海していますが、松浦郡では松浦佐用姫を娶りました。
    しかし狭手彦は出兵しなくてはならず、佐用姫はその船が出港するのを慕って、この鏡山の山頂から領布(ひれ)を振って、悲しみのあまりに岩になり、
    鏡山を領布振山(ひれふりやま)とも言うようになったと

    日本書紀に
    宣化天皇の2年の冬、10月の1日に天皇は新羅が任那を攻撃している件で、大伴の金村大連に命じて、その子の磐(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那を助けた。この時に、磐は筑紫に留まって、その国に政治をつかさどり、三韓に備えた。狭手彦は朝鮮半島に出撃して、任那を鎮め、また百済を救った。
  • June 2017 編集されました
    狭手彦は高句麗に勝って、宮殿の豪華な品々を持ち帰り、二人の美女を連れて帰って、蘇我の稲目に貢いでいる。


    物部氏と争った中臣氏

    筑前に早良なる郡が置かれたのは曽我稲目(467~570)の世からであった。「ささのはら」の略の名であった。「ささ」とは紫微の倭名であった。

    稲目星は立冬の暁方に見られる獅子座流星群の古名であり、一説には含水炭化物の宇宙塵を隕石と共に降らせる彗星の別名でもあった。

    稲目は伊儺面(いなめ)と書き、怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた業績を讃えられたのであって、継体帝21(527)年に出る筑紫国造磐井と共に雄略帝17(473)年の洪水を修めたのであるが、神埼の物部氏と那珂中臣氏の間に水利の紛争が昂じて欽明帝13(552)年の仏像を巡っての対立に及んだのである。『儺の国の星拾遺』p134

    「神埼」(かんざき)とは吉野ヶ里遺跡のある地名です。脊振(せぶり)山の南にあります。
  • June 2017 編集されました
    高良の鏡山神社

    筑後国一の宮 【高良大社】 の長い長い参道石段を登っていくと、参道途中の孟宗金明竹の竹林に寄り添うように鏡山神社が鎮座している。かつては山麓の字 賀輪に鎮座していたが、九州自動車道の建設に伴いこの地に遷座したようである。

    鏡山神社(久留米市御井町)

    案内板の文字がかすれて由緒などは良く分からなかったが、かつて高良玉垂宮の神職に丹波・物部・安曇部・草壁・百済と5つの姓があり、そのうちの物部氏から分かれた諸氏の中に鏡山家があるので、当社は鏡山家、ひいては物部氏に関わりのある社であろうか。この鏡山家は大祝も勤め、戦国期に鏡山家が記した『高良玉垂宮神秘書』(高良記)は、公私にわたる祭祀・修法・法義とその由来などが記され、当時の祭祀を知る上で大変貴重な資料である。
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