毛野氏、上毛野氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
image毛野氏、上毛野氏

第10代崇神天皇第1皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族で、「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した。平安…

Read the full story here


タグ付けされた:
«1

コメント

  • 上毛野ノ小熊 (*~534*)上毛野君・おぐま。上毛野姓始祖。上毛野国造家。武蔵国造家・笠原家の内紛に介入。笠原ノ小杵を後援する。大和朝廷軍に敗北する。

    上毛野ノ形名 (*)君・大仁・(刀)。池邉の息とも。637年東国に侵攻。蝦夷に敗れ、逆に包囲され籠城するが撃退した。息に稚子、家麻呂。

    上毛野ノ稚子 (*~663)君・(若古)。赤城神社神職。関東上野の豪族。形名の息。弟に家麻呂。新羅に侵攻。2城を陥落。663年「白村江の合戦」に敗走。

    上毛野ノ三千 (*~681)みつち・大錦下・(蛟)。天武帝に出仕。川島皇子、忍壁皇子と共に「帝紀」の編纂に関わる。<「帝紀」に関東系の解釈入るか。>

    上毛野ノ小足 (*~709)下総守・陸奥守・男足。吉備総領。708年蝦夷に遠征。<蘇我系・下総石川家にも石足・千足・名足・年足など「足」が付きます。何か意味が。>

    上毛野ノ安麻呂 (*)上総守・陸奥守・(安麿)。709年任官。

    上毛野ノ広人 (*~720)按察使。陸奥「蝦夷の反乱」により殺害される。

    上毛野ノ堅身 (*)朝臣・備前介・美作守。713年備前守・百済王南典とともに備前から美作の分割を奏上、美作守に就任し美作国の統治にあたる。

    【上毛野ノ大椅女】 (*)おおはしめ。紀伊伊都郡の豪族、文氏の室。

    上毛野ノ基宗 (*)(元棟)。916年上毛野貞並とともに上野介・藤原厚載を討ち滅ぼした事を奏上、基宗・貞並は武蔵で捕縛される。上野大掾家・藤原連江は中立。<中山道混乱。>
  • 下毛野尼古太の子孫、下野国那須郡大野邑、大野ノ若古が始祖。

    大野ノ狭手 (*)下毛野。息に果安。<名は大伴ノ狭手彦にあやかるか。>

    大野ノ果安 (*)下毛野・直広肆・君・朝臣。毛野一門。大野ノ狭手の息。大津朝の部将。672年「壬申の乱」に大伴吹負の挙兵を鎮圧し撤収。大伴軍は再挙する。息に大野東人。

    ○大野ノ東人 (*~742)下毛野・鎮守将軍(鎮守府将軍)。毛野一門。大野果安の息。724年征東軍に参加。724年多賀城築城。729年鎮守府将軍・陸奥按察使を歴任。733年出羽(秋田)柵再築城。737年比羅保許山遠征。740年「藤原広嗣の乱」に大将軍として出動し鎮圧。
  • 上毛野稚子 かみつけのの-わかこ
    ?-? 飛鳥(あすか)時代の武人。
    天智(てんじ)天皇2年(663)3月に派遣された百済(くだら)救援軍の6将軍のひとり。阿倍比羅夫(あべの-ひらふ),間人大蓋(はしひとの-おおふた)らと2万7000の兵をひきいて新羅(しらぎ)に遠征。沙鼻岐(さびき),奴江(ぬえ)(沙鼻,岐奴江とも)の2城を攻略した。名は「わくご」ともよむ。

    巨勢臣の支族に巨勢神前臣があり、天智紀に巨勢神前臣譯語(おさ)が見える。その起源の地を太田亮博士は近江国神崎郡とするが、肥前国神埼郡との関係が考えられないだろうか。神埼郡には神埼郷のとなりに三根郷もある。

     以上の諸事情を考えると、巨勢臣は筑後の水沼県主、肥前の佐賀県主の一族から出たとみるのが自然のようにみられる。
  • 東国へ移った近江毛野氏は荒河刀辧―豊城入彦命と『日本書紀』に出てくる 系譜は次のようになる。豊城入彦命→八綱田命→彦狭島命→御諸別命→大荒田別命→上毛野君→(分家の車持の君)・・・となる。
    ①太田天神山古墳を中心に上毛野久比の子孫系、②前橋大室古墳を中心に上毛野小熊の子孫系がその地域を支配した。



  • 下野古麻呂とは、大化の改新(645年)のころ下野一の豪族の元に誕生しました。

    中央政権の中で、地方豪族としては最高位の地位に君臨しました。国の最高決定機関の「朝政の議」に参議として名を連ねることになります。本薬師寺建立(680年)と同時期に始まった下野薬師寺建設は、下野古麻呂の手腕が大きかったはずです。下野古麻呂は藤原不比等と共に、大宝律令の編纂を担当しました。「続日本紀」に「東国の6腹朝臣」つまり、東日本の6大豪族の一つとして下野氏がいました。

    栃木県の歴史を知る上で、重要な人物
    下野古麻呂の後も、中央政界に生き続け、薬師寺誘致だけでなく下野の国の発展に大きく貢献したものと考えられます。栃木県でのこの時代の遺跡発見は、下野氏の存在抜きには考えられないでしょう。有力政治家が中央で活躍するということは、地元の発展に大きく貢献することが歴史的に現れている例だと思います。

    下毛野朝臣古麻呂は、天武天皇・持統天皇らに仕え、また藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令制定の重要なメンバーでした。古麻呂の、そのような中央政権とのつながりの深さは、下野薬師寺の重要度を高めることとなります。
    古麻呂は、西暦709年(和銅2年)に、式部卿正四位下(しきぶきょう・しょうしいげ)という、現在でいえば国務大臣級という高い地位で亡くなりました。その翌年、西暦710年(和銅3年)に、都は藤原京から奈良の平城京へと移り、律令国家の制定とともに、国を仏教の力で治める「鎮護国家」の確立が推し進められました。それにともない、都はもちろんのこと、地方でも寺院が整備されていきました。下野薬師寺も、下毛野朝臣古麻呂の功労から国によって整備され、東国における仏教施策の一翼を担う、重要な寺院として位置づけられるようになりました。
  •  上毛野氏は「赤城神社」を奉斎し、下毛野氏は「二荒山(ふたあらやま)神社」(現:宇都宮市)を奉斎してきたとされている。共に祭神は、「豊城入彦命」である。ところがこの2社とも出雲神である「大己貴命」をも祀っているのである。これが古来色々議論されてきたことである。
  • 赤城神社の祭神は、大己貴命・田心姫・味鋤高彦根命・事代主命である。主祭神は大物主神ともいわれている。
     
    ・豊鍬入姫
    ①父:10崇神天皇 母:遠津年魚眼眼妙媛
    ②豊城入彦の同母妹。
    ③初代斎宮
  • 八綱田(やつなだ)
    ①父:豊城入彦 母:不明
    ②子供:彦狭島
    ③紀(垂仁5):狭穂彦を討つ。その功により「倭日向武日向彦八綱田」

    八綱田王(倭日向武日向彦八綱田)

     豊城入彦命の息子で、上毛野君遠祖といわれている。
     叔父にあたる垂仁天皇の命令により、皇后の狭穂姫とその兄の狭穂彦の反乱に際し、二人を春日にあった稲城もろとも焼き殺した将軍として有名である。
     八綱田の前につく長い名前は、その戦功にたいして天皇から賜ったという。
     この王が実際に東国に赴任してきたかどうかは不明であるが、その名が現在も毛野の地に語り継がれている。
     朝廷直属の領地があった栃木県足利市付近に、八綱田王が居住していたので、梁田「ヤナダ」の地名が生まれたといい、また、群馬県前橋市の総社古墳群の愛宕山古墳もこの王の奥津城であるという伝説が残
  • 日本書紀』卷六 垂仁天皇 三九年(庚午 十)十月==> 垂仁29年,
    卅九年 冬十月。五十瓊敷命居於茅渟菟砥川上宮。作劒一千口。因名其劒謂川上部。亦名曰裸伴。〈裸伴。此云阿箇潘娜我等母。〉藏于石上神宮也。是後命五十瓊敷命。俾主石上神宮之神寶。〈一云。五十瓊敷皇子。居于茅渟菟砥河上。而喚鍜名河上。作大刀一千口。是時楯部。倭文部。神弓削部。神矢作部。大穴磯部。泊橿部。玉作部。神刑部。日置部。大刀佩部。幷十箇品部賜五十瓊敷皇子。其一千口大刀者。藏于忍坂邑。然後從忍坂移之。藏于石上神宮。是時神乞之言。春日臣族。名市河令治。因以命市河令治。是今物部首之始祖也。〉

    *<諸国造系譜>で '加志岐弥命'という人物が登場します.
  • July 2017 編集されました
    皇別
    和泉国 登美首 - 豊城入彦命男の倭日向建日向八綱田命の後。
    和泉国 軽部 - 倭日向建日向八綱田命の後。雄略天皇御世、加里の郷を献上し軽部君の姓を賜った。
    未定雑姓
    摂津国 我孫 - 豊城入彦命男の八綱多命の後。
    和泉国 我孫公 - 豊城入彦命男の倭日向建日向八綱田命の後。


    『日本書紀』崇神天皇段には、豊城入彦命が上毛野君・下毛野君の祖であり、三輪山に登って東に向かい槍や刀を振り回す夢を見たと記されている。三輪山の位置する大和国城上郡には式内大社として神坐日向神社が記載されていることから、「倭日向建日向」の名はヤマト王権の東国経営に従った上毛野氏の任務を象徴するものと解されている

    毛野前代の系譜については、世代などから推定して、磯城県主の支流で彦坐王と同祖とみられる多芸志比古命に出て、その孫が豊城入彦命(能登国造の祖・大入杵命にあたるか)、その子に八綱田命(吉備氏族の祖・彦狭島命と同人)であり、これが御諸別命の父ではないかとみられる。また、八綱田命の兄弟が能美津彦命、その子が能登国造となった彦忍島命(大矢命)か。
    なお、彦狭島命とは吉備下道系の祖たる稚武吉備津彦命と同人であり、毛野は吉備の分流であることが分かってきて驚いている。

  • 『常陸国風土記』の筑波の郡の条に「筑波の県は、古、紀の国といひき」とある。筑波の県は茨城県の筑波山の西麓にあたる。風土記はこの筑波の県の西側に「毛の河」が流れているとを再三にわたって記しているが、それは現在の鬼怒川のことである。紀の国が毛野国となり、鬼怒川が「毛の河」すなわち「紀の河」なら、それは紀伊半島を流れる紀ノ川と同じで河名であり、紀伊国がそっくり東の国へ移ったかの様である。

    紀国には別に紀ノ川の河口に名草戸畔なる者がいて、神武東征の折りに殺されたと記紀にある。「紀伊国造系図」には大名草比古命の名があるから、名草戸畔の系譜を引くものと解することができる。そしてこの系が紀伊国造となるのは大名草比古命の曾孫の紀豊布流の代で、このとき初めて紀直という姓と氏族名がついた。つまりそれ以前、紀氏は国造ではなかった。国造荒河刀辧は種々の系譜や系図を照合してみると大名草比古命とほぼ同世代にあたるから、国造の地位は荒河刀辧の系から大名草比古命の系の子孫に移ったと見なすことができる。
    あるいはまた、荒河刀辧と名草戸畔―大名草比古命の系は同族で、単に国造の地位が同族内で移ったのではないかともいうが、、、


    『古事記』崇神段に「木国造、荒河刀辧」とあり、『日本書紀』の崇神紀には荒川戸畔とある。娘の遠津年魚目目徴比売に崇神が娶いて豊木入日子命と豊鋤入日売が生まれた。この豊木入日子命が上毛野・下毛野君等の祖と『古事記』は記し、『日本書紀』には豊城入日子命の子孫の系譜もある。
  • 先代旧事本紀によると、成務朝に伊許保止命が阿波国造(房総半島)に任じられたという。またその孫は、伊甚国造となっている。
    伊許保止命は、出雲臣の東国分派で、新撰姓氏録では穂日命の末裔とされるが、富家の伝承によると穂日命ではなく、大名持命の子孫であると言う。

    伊許保止命は、神名帳考証によると、群馬県渋川市(上野国群馬郡) にある伊香保神であると言う。伊香保神社の祭祀を行ったと考えられるのは、上毛野氏の阿利真毛野氏でその元となる毛野氏は、
    系譜研究家の宝賀寿男氏によると、事代主の後裔である磯城県主の系譜であると言う。その証拠に、上野国の式内社には、磯城県主・事代主の一族を祀った神社が数多くある。
  • 上野には孝霊天皇(太瓊)の子である彦狭嶋命を祀る三島神社も多く、また新川臣(吉備族)の石碑(「上野三碑」と呼ばれる石碑の一つである「山ノ上碑」)もある

    能登国、毛野国、阿波国の開拓者として、神門臣の伊許保止命と磯城県主~吉備族が浮かび上がってくる。
    富家の伝承では、吉備族は孝霊天皇の時代に、物部連が倭に移住してきたため、吉備国に移住し、更に同族であった出雲族に対して出雲国西部(仁多郡と飯石郡)の鉄を欲して攻撃を仕掛けたと言う。
    出雲国西部を支配していた神門臣家は、吉備に破れたが、 東出雲側の戦は膠着状態になり、吉備と出雲は和平を結んだと言う。
    出雲国風土記を見ると、仁多郡には吉備系(丹比部臣)の人が郡司になっており、また神門郡には、式内社の加夜神社があって、
    吉備津神社社家と同族の-賀夜氏の居住が認められる。
    吉備と神門臣は戦の後、和平を結び同化したと見られ、垂仁・景行の時代に朝廷の軍事に協力するようになったと言う。
    その証拠に、神門臣と吉備氏から建部臣の姓が出ている。
  • June 2016 編集されました
    田 道 神 社
    『日本書紀』によれば,仁徳天皇の55年(5世紀前期頃)に,蝦夷の反乱を征伐するため将軍として上毛野田道(かみつけぬのたみち)を伊寺水門に遣わしました。田道は蝦夷の放った矢を受けて戦死したため部下が墓を建てて葬ったところ,蝦夷は墓を堀り返しました。すると,墓から大蛇が出て来て,その蝦夷をかみ殺しました。田道の部下が遺品として持ち帰った腕輪を,田道の妻に渡すと,妻は嘆き悲しんで,やがて死んでしまいました。このような話が掲載さいます。
     田道神社は,田道将軍の墓の伝承地だと言われています。
     「霊蛇田道公墳」石碑の本物は,現在も近くの禅昌寺に大切に保管されています。

    猿賀神社(青森県平川市)
    ご祭神 上毛野田道命(かみつけのたぢ)
    大山祇神/大山積神(おおやまつみ)
    宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたま)
    ご祭神について 上毛野田道命:日本武尊以来の悲願として蝦夷征伐に向かった武将、伊峙水門で戦死、死後墓から大蛇が出て死傷者を出したことから怨霊神として恐れられたという
    大山祇大神:大山を司る神、山の神の総元締の山神、金運の神
    宇迦之御魂神:生産の神、五穀豊穣の神
    ご利益 開拓、金運上昇、五穀豊穣、商売繁盛 他
    参拝形式 二拝二拍一拝
    創建 -----
    由緒 主祭神上毛野田道命は、崇神天皇の皇子豊城入彦命より5代目の子孫にして東北地方の守護神として厚く崇敬せられ、特に延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂が奥羽地方平定に向かわれた時、田道命の神霊の御加護によりてこれを平定することができ、後に今の青森県南津軽郡猿賀山に神霊を勧請して社殿を建立したもので、猿賀神社は当神社の本社に当たる。当地域は東北地方移住者多く、それゆえに故郷の氏神様をお祀りしたものである。さらに当豊平地区は開墾の途上で森林遠く連なり、これが伐採に大山祇神を祀り、開墾進み沃野美田の広がり行くにつれて倉稲魂神(稲荷大神)を合祀して豊平地区の氏神様として奉斎され現在に至った。
  • 「武蔵国造の乱」は安閑天皇の頃の6世紀前半であるが、…遡って仁徳天皇の頃(4世紀後半から5世紀前半)、
    天皇は国力を充実させ、外交でも力を働かせた。朝鮮半島の新羅が朝貢しなくなったので、竹葉瀬(タカハセ)と田道(タジ)の兄弟を派兵して新羅軍を討った。…
    …この中の田道タジとは上毛野田道(カミツケヌノタミチ)である。

    新羅征伐から帰って来て2年後、今度は東北地方の蝦夷が従わなかったので将軍となり征伐に向かう事になる。

    しかし伊寺水門(イジノミナト 秋田県北部か?宮城県石巻か?は不明…)で敗死する。
    言い伝えによれば…仁徳55年(367年?)秋田県鹿角郡に祀られたが、その後、青森県平川市猿賀の地に遷座。
    坂上田村麻呂が延暦4年(793年)祠を祀り、大同2年(807年)に社殿を造営、奥州猿賀深砂大権現として勧請し
  • 茂侶神社
    流山市三輪野山地区の三輪野山の北端にあります。森に囲まれひっそりとしたたたずまいを見せております。最古の神社個別一覧表によると、延喜式神名帳によると延長5年(927年)に記載のある神社です。祭神は、大物主命を祀っています。下毛野君の始祖・豊城命が茂侶神社と名付けたといわれています。境内には庚申塔(元禄44年{1691年}の立像)や大国主命像(平成8年{1996年}に建立)があります
  • June 2016 編集されました
    大阪の垂水神社には、豊城入彦命が最初に向かった意外な開拓地が伝承されています。垂水神社の創建は崇神天皇の時代で、豊城入彦命が垂水神社の地を開拓したことが始まりと伝えられています。

    その社伝によれば、豊城入彦命は東を治めよと命じられ、まず最初に開拓したのが、何を思ったのか、奈良県の西側にある摂津国豊島郡(現大阪府吹田市)の垂水神社の建っている辺りだったという。


    垂水神社 大阪府吹田市垂水町1-24-6 豊城入彦命 豊城入彦命は、崇神天皇の第一皇子でありながら、弟の垂仁天皇に皇位を譲り東国開発の旅に出た。のちに四道将軍の一人に数えられる豊城入彦命が、第一歩を記したのがこの垂水の地であり、子孫が神として祭り社を阿利真公とその末裔に伝えたという。
  • June 2016 編集されました
    彦狭島王
    第10代崇神天皇の第1皇子で上毛野氏の祖である豊城入彦命(トヨイリビコノミコト)の孫になります。父は八綱田命(ヤツナタノミコト)、子供には御諸別命(ミモロワケノミコト)がいます。

    崇神天皇|⇒豊城入彦命⇒八綱田命⇒彦狭島命⇒御諸別命

    日本書紀によれば、景行天皇55年、彦狭島王は東山道15ケ国の都督(トクト)に任じられ、東国に赴任する途中、春日の穴咋邑(アナクイムラ)にて病死します。そして、その死を悲しんだ東国の人々が屍を担いで上野国(現:群馬県)へ運び葬ったとされています。

    元島名将軍塚古墳は、高崎市元島名町にある墳丘全長95mの前方後方墳で、4世紀前半に造られたと推定されています。前方部頂上には島名神社が鎮座しています。
     明治44(1911)年の社殿建築工事の際に前方部が一部掘削され、その時に埋設施設である全長1.8mの粘土槨(ネンドカク)が発見されました。粘土槨からは、鏡、石釧(イシクシロ)、木片、が出土しています。また、頭骨の破片、やりがんな、刀片、粘土の塊などもみつかっています。
    島名神社
     御祭神は彦狭島王(他11柱)で、創立年月は不詳なり。「日本書紀」景行天皇の条に、彦狭島王が東山道15国の都督に任命され、薨去の後は上野国に葬られたとあり、塚の築造時期は4世紀後半と推定さる。是即ち當社の如なり。延喜式神名帳に倣い、上野国司が祀る神社を登録した「上野国14郡緒社 神名帳」は三種の異本があり、何にも「従四位上嶋名明神」とある。元来、島名は「倭名類聚集」にある郷名でありその興りは彦狭島王の社伝より出たもの‥思われる。平成13年2月 撰文  當社宮司 長尾悦治
  • 群馬県は上毛野国(カミツケノクニ)
    昭和10(1935)年の分布調査では、県内8.423基、高崎市約800基の古墳が数えられています。県内で最初の古墳は、4世紀初頭の出現期古墳である「前方後方墳」で、前橋市朝倉町の『八幡山古墳』と、同時期に『元島名将軍塚古墳』が造られましたが、将軍塚古墳の王は後が続かず衰退したようです。
     古墳時代には県内各地に大小の豪族がいて、栄華盛衰を繰り返していたが、勢力を拡大していったのは高崎市南部地域と太田市地域に拠点をもつ豪族だったようです。
     高崎市南部・烏川流域の王の築いた『浅間山古墳』(センゲンヤマコフン)は、一時は東日本最大の古墳でした。一方、太田地域の王は5世紀の初め浅間山古墳に匹敵する『別所茶臼山古墳』を残し、つづく5世紀半ばには古墳時代を通じて東日本最大の『太田天神山古墳』を築きました。この時、太田地域の王は上毛野地域全体を統合する最も巨大な勢力になったと考えられます。
     ちなみに、『太田天神山古墳』と伊勢崎の『お富士山古墳』には、ヤマト王権の大王や皇族・有力豪族と同じ「長持形石棺」の棺が採用されています。
     その後、太田地域の王も、5世紀後半になると急速に衰えます。同じく浅間山古墳を築いた高崎の烏川流域の勢いもなくなってきます。
     入れ替わりに、西群馬の井野川流域の勢力が50年足らずで、綿貫古墳群や保渡田古墳群を築くほど勢力を伸ばしてきました。これは、衰えた従来勢力に代って新しくヤマト王権と関係を結んだためと思われています。
  • June 2016 編集されました
    上毛野朝臣は、祖を同じくすると称する5つの氏族、下毛野朝臣・佐味朝臣・池田朝臣・車持朝臣・大野朝臣とともに『東国六腹の朝臣』と称されてきた(『続日本紀』延暦10年4月5日条)。この6氏は、畿内出身の有勢氏族とともに、684年(天武天皇13)に早々と最高の貴族の位『朝臣』(あそみ)をならんで得ており、7世紀後半から8世紀前半にかけて四位に昇りうる中級貴族の地位にあった


     東国のこの6氏族の共通の始祖は、東国を治めに来た伝承をもっていた。「『日本書紀』に見える上毛野始祖伝承においても同じであって、『(上毛野氏らの祖)豊城命(とよきのみこと)を以って東国を治めしむ』(祟神天皇48年条),『(御諸別王 みもろわけのみこ)其の子孫、今に東国にあり』(景行天皇56年条)などと書かれている。そして、豊城命の孫で御諸別王の父という彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)の屍もまた『東国百姓』により運ばれたと伝わる。もっとも、その中心地域として上毛野国が意識されており、彦狭嶋王の屍が運ばれたのは『上野国』であったと云う(景行天皇55年条)。」(同上)

    五世紀後半頃に、彼らの一員である多奇波世君が百済(勢力圏)との交渉に関与した可能性が高い。『日本書紀』にいう荒田別・鹿我別の朝鮮派遣伝承や荒田別・巫別(かむきわけ)による西文氏の始祖王仁招請伝承も、こうした流れと関わりを持つと言ってよい。

    684年10月天武天皇は八色の姓を制定し、継体天皇以降の皇親族を真人とし、朝臣賜姓した氏族52氏のうち、上毛野氏は6氏を数える。四位相当の中級貴族。それは文武官の両面があり、それぞれ実績を歴史に残している。軍事的には対蝦夷、及び朝鮮半島とのかかわりである。日本書紀の天智天皇2年条には白村江に臨むヤマト政権は3軍を発した。前将軍には上毛野君稚子、間人連大蓋。中将軍には巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂。後将軍には阿部引田臣比羅夫、大宅臣鎌柄が派遣されている。上毛野君稚子が派遣された要因としては東国からの人員の動員の要素とともに、朝鮮交渉や軍事にかかわりの深い氏族からの任用という要素も著者の茜史朗は考えている。壬申の乱における東国六腹の動向としては軍事面で両陣営から尊重されている。大津政権側に立つ田辺史小隅は7月5日伊賀越えの奇襲部隊を率いて倉歴(くらふ)で田中臣足摩侶の軍営を襲い、さらに進んで6日にはたら野の多臣品治を襲ったが遮られて敗走している。同じく大津政権側の大野君果安は奈良方面軍の指揮官であった。7月4日、乃楽山で大伴吹負を破るも、倭古京防衛戦の堅さを見て引き返している。果安は持統朝になると直広肆(従五位)糺職大夫となり、その子東人は蝦夷への征服戦で活躍している。大海人皇子側に立った左味君宿那麻呂は大伴連馬来田、吹負からの誘いに応じて初動の数十人の一人として河内方面から大和に侵入しようとする大津政権軍へ対峙した。彼は「天武天皇14年(685)に山陽使者として巡察、また持統天皇3年(689)には撰善言司に選ばれている。」その後の蝦夷対策では、上毛野朝臣の関係氏族が東国という地域を支配していることから盛んに用いられている。「『壷の石碑』の名で親しまれてきた多賀城碑によれば、神亀元年(724)、『按察使兼鎮守府将軍従四位上勲四等大野朝臣東人』によってつくられたという。この大野朝臣は東国六腹の一氏族である。大野朝臣東人は太平洋岸の多賀城から日本海岸の出羽柵まで蝦夷の拠点男勝村(雄勝)を抜いて直道を通すことを図る。出羽柵から対応したのは同じ上毛野氏族の出羽国守田辺史難波であった。しかし、蝦夷の反発を恐れて直前になって引き返した。その行動は高く朝廷から評価され、その後、藤原広嗣の乱の平定にも用いられ742年 天平14年には参議従三位にまで昇った。」軍事貴族として歴史に現われる大野東人も、東国六腹の一族である。
  • June 2016 編集されました
    美作国は和銅6年(713)、備前守百済王南典と同国の介上毛野朝臣堅身の上申によって新設された国で、その初代国守に、新設を上申した上毛野朝臣堅身が就任している。
    美作国の前身は、『日本書紀』が、欽明天皇16年(555)に置かれたと記す白猪屯倉(しらゐのみやけ)である可能性が高く、鉄生産という特殊な役割を負っていたらしい。

    東国六腹のひとつである下野国の下毛野君の本拠地は西暦500年を前後して足利・安蘇地域から都賀・河内地域へと移す。「大宝律令選定の中心人物、実務統括者であったとしてよいであろう。」(茜史朗)といわれる下毛野朝臣古麻呂が7世紀後半下野薬師寺跡に建てられた下野薬師寺には関与している。やがてここには天平宝字6年(762)には、東大寺、筑紫観世音寺と並ぶ全国三戒壇のひとつが置かれる。宝亀元年(770)には道鏡がここに別当として流される。
  • 多胡郡は、隣接する甘良郡(かむら)とともに古い層の渡来人の定住地であるが、古墳のありようなどから、甘良郡などから押し出されてきた新羅系渡来人を主とする人々によって、7世紀代に開かれた新開地とする考え方が一般的である。また貫前神社(ぬきさき)の祭祀圏をめぐる問題から、多胡郡地域への新羅系渡来人の展開は、碓井郡に本拠を持つ石上部系集団の南下、甘良郡への展開によって引き起こされた後推論されている(尾崎喜左雄前掲論文)
  • June 2016 編集されました
    大神神社 栃木県栃木市惣社町477 倭大物主櫛玉命 崇神天皇四十八年、豊城入彦命東征の折、当室八嶋の地に大和三輪の大物主神を奉斎したと伝えられる。

    白山神社 栃木県河内郡河内町逆面678 菊理姫命 第十代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命は、勅を奉じ、東国治定の為下野国に下向され宇都宮に仮御所を設け毛の国を統治され、従者は各地に分散し農耕を始めた。加賀国から来た人たちは郷里の白山神社を祀って鎮守の社とした。

    二荒山神社 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1 豊城入彦命 主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。

    赤城神社
    福島県伊達郡月舘町大字月舘字宮前6
    崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の末奈良別君の子吉弥侯部広国が伊達郡静郷戸県主(現月舘町細布から栗野付近の古名)に任ぜられた時、古地の地名を移し、細布川の川上山中に霊岩を見いだし殖産興業、衣・食・住等人間生活の全てを守護し給う開発の祖神、氏神として祭り、開拓を始めたと云い伝えられております。
  • 豊城入彦命
    群馬県前橋市粕川町月田の近戸神社の地に移り、暫らく後この地で亡くなったと思われる。
    御陵と伝えられる郷見神社には次のような伝承が伝えられている。

    豊城入彦命が、病を得て薨去されるや、崇神天皇はいたくその死を悲しまれ、せめてその遺体だけでも都へ運び、天皇の側近に葬りたいものと考えられて都から多数の人を遣わせて、命の遺体を都へ運ばした。上野の人民は、この地方開拓の恩人であり、威徳の高い命の遺体をこの地に葬り、長く懇ろにその霊を弔いたいと懇願したが、この切なる願いも入れられず、遺体は都へ運ばれていくので、ついに堪りかねた民衆は遺体を碓氷峠で奪い返し、本街道よりそれ、しかも朝日差し夕日輝く丘を選んで葬った。その地が郷見神社裏山の古墳である。
  • 日本書紀の孝霊天皇の記事や古事記の記事では、この彦狭島王とは別に、孝霊天皇の皇子に彦狭島命(日本書紀の表記で、古事記では日子さし間)がいるので、日本書記や古事記の記事では「彦狭島」は二人いることになる。

    御諸別も、「新撰姓氏録」の系譜では、景行天皇の皇子の稲瀬入彦命の子に御諸別命がいるので、日本書紀と「新撰姓氏録」とで、「御諸別」は二人いることになる。
  • December 2016 編集されました
    最初の前方後円墳」とされる箸墓古墳が築造されたのはAD350年頃の布留1式期、比田井の南関東編年の古墳時代後期Ⅱ段階であると考えられる。だから、高崎市元島名将軍塚古墳や前橋八幡山古墳の築造推定年代は、早くて4世紀後半となる。また、比田井克仁が、比田井論文で、千葉県木更津市の高部30号、32号墳や千葉県市原市の神門3号、4号、5号墳の築造推定年代を、比田井の南関東編年の古墳時代後期Ⅰ段階であるというのは、寺澤薫が「王権と都市の形成史論(吉川弘文館)」で批判したとおり、赤塚編年の誤りに起因するもので、その根拠はない。

    若狭徹によれば、東日本に存在したまとまった数の渡来人は、上毛野(群馬県)、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)、西遠江(静岡県)、東三河(愛知県)であり、渡来人の墓と推定される積石塚は、信濃の4世紀を別として、あとは5世紀後半からスタートしている。また、これらの国のうち、上毛野、信濃、甲斐は、古代を通じた馬匹生産地であり、平安時代の上野国には9か所の御牧(官営の牧場)があった。そして、こうした馬匹生産は渡来人の居住と展開によって発展していったと考えられ、上毛野でも遅くとも5世紀後半には馬匹生産が開始され、6世紀前半には黒井峯遺跡一帯に牧が形成されていた、という。
  • 東国へ移った近江毛野氏は荒河刀辧―豊城入彦命と『日本書紀』に出てくる 系譜は次のようになる。

    豊城入彦命→八綱田命→彦狭島命→御諸別命→大荒田別命→上毛野君→(分家の車持の君)

    ①太田天神山古墳を中心に上毛野久比の子孫系、
    ②前橋大室古墳を中心に上毛野小熊の子孫系がその地域を支配した。上毛野氏族は朝鮮外交で活躍した。
    上毛野氏はヤマト王権の一員として外征に度々参加した。(★『日本書紀』)
    軍編成には上毛野全域に及ぶ支配権があった。(★ウィキペディア)
  • 毛野氏族の分布 毛野は吉備の分流であることが分かってきている。

    茅渟(ちぬ)地方・・・起源地である。和泉(いずみ)国の沿岸の古称。現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯。
    摂津・河内 (磯城・葛城)→近江→北陸道(能登)→信濃→毛野地方(上野・下野)に到る経路をとって、畿内から東国へ勢力広げた。
    大和の御諸山(三輪山)や三輪氏族は両毛地方(上毛野・下毛野)の主要神社の祭神として大己貴命が祀られている。賀茂・三輪神社・・・渡良瀬川流域にある。★旧山田郡大間々~桐生である。(★尾崎喜左雄)毛野氏族の系譜は、三輪氏族を含む海神族の東国での支流分とみられる。旧山田郡大間々地区

    上毛野氏の祖:荒田別(あらたわけ)・・御諸別命の子
    応神紀15年  荒田別は百済の学者:王仁(わに)を招聘し、百済に渡った。
    ※荒田=新田を開墾した。 
    (★尾崎喜佐雄説)荒田別は「あらた」の読みから新田郡と関連づける説である。

    竹葉瀬:荒田別の子
    仁徳紀53年  新羅に渡った。弟:田道だけが渡って苦戦した。(★関口説)
    仁徳紀55年 弟:田道が蝦夷で戦死。(★『日本書紀』)

    竹葉瀬5世:上毛野久比
    上毛野久比は呉(中国)に行き、権(はかり)を渡した。渡来系の上毛野氏は、豊城入彦命(第10代崇神天皇第1皇子)の5世孫:竹葉瀬(たかはせ)を祖と称している。
    「上毛野君(公)」→「上毛野朝臣」姓を称した。
    『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 左京)条には「豊城入彦命5世孫・多奇波世君の後」と注記されている。支配権を象徴する天神山古墳の築造もこの頃と推測されている。
    太田天神山古墳を中心に上毛野久比の子孫系

    上毛野稚子(わくご)
    645年 大化の改新
    中央貴族として奈良に戻って活躍した。★車持の君のよしこいらつめも采女に上がったかも?
    天智天皇2年(663)、上毛野稚子(わくご)は新羅討伐の副将軍として、新羅に渡った。
    前将軍:阿曇比羅夫連・川辺百枝臣・上毛野稚子・間人連
    中将軍:巨勢神前臣・三輪君根麻呂(大間々?)
    後将軍:阿部引田比羅夫臣・物部連球磨・守君大石・大宅臣鎌柄
  • 天武天皇13年(684) 八色の姓
    1)間人・・・13人 2)朝臣・・・50人 3)宿弥・・・50人 4)忌寸・・・11人
    第2ランクに朝臣に
    上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣のいわゆる「東国六腹朝臣」が「朝臣」姓を賜りった。
    中央の中級貴族として活躍した。君姓から朝臣(あそん)姓に改姓された。
    部民は河内,伊賀,上総,近江,越前,越中,播磨,豊前など全国に分布している。(★古事記)

    ほかに、群馬県は、胸方朝臣・綾君・坂本君なども朝臣になった。(★古代上毛野をめぐる人々:関口功一著 P110)
  • 崇神天皇
    豊城命には東国を治めさせることが繰り返し書かれているが,その最後に「是上毛野君・下毛野君之始祖也」とある。これが上毛野 氏に係わる祖先記事の最初であるが,その豊城入彦命は崇神天皇元年2月丙寅条によると天皇と 妃の紀伊国荒河戸畔の女である遠津年魚眼眼妙媛の間に生まれた皇子で,一方の活眼尊は,皇后 の御間城姫との間に生まれた嫡子である。『古事記』(以下『記』と略す)にもこの出生記事は載 せられており,豊木入日子命の母は木国造の荒河刀弁の女である遠津年魚目々微比貢で,「上毛 野君・下毛野君等之祖也」と注記されているが,相夢諌は載せられていない。

    『紀』垂仁天皇5年10月己卯朔条には,狭穂彦の謀反に際して天皇は近県の兵士を派遣すると ともに,「上毛野君遠祖八綱田」に命じてこれを撃たせたことが載せられている。これを討ち滅 ぼした将軍八綱田は,その功により「倭日向武日向彦八綱田」の名号を与えられた。上毛野氏の
    遠祖と表記されているのはこの八綱田のみである。ここでは豊城入彦命との関係が明らかにされ ていないが,同25年2月甲子条に「阿倍臣遠祖武淳川別」とあって,始祖大彦命の子を「遠祖」 と表記していることから,これと同様に始祖の存在が意識された上での表記であることは間違い ない。そうとするならぽ父豊城入彦命が与えられた東国統治に係わる行動に言及されていてもよ さそうであるが,それは見られない。これについては垂仁紀全体を通しても,東国や蝦夷に対す る行動に直接係わる記事がないことから,r紀』撰修上での問題である可能性もある。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。