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天の幾重にもたなびく雲を押し分けて、威勢よく道をかき分けかき分けて、天浮橋を宇岐士麻理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)、竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降った。 中略このようなわけで、「この地は韓国に向かい、笠沙の岬に真来通て、朝日のまっすぐ射…
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コメント
「高良山(高牟礼山と呼ばれていた)は、元来、高皇産霊神(高牟礼神)が祭られており、
高良玉垂命が一晩貸してほしいと言ってやってきた。そこで、高木神が譲ったところ、
高良玉垂命に結界を張られ居座わられた。」という逸話がある。
高木神社は英彦山の神領地だったようだ。
英彦山界隈、田川郡から南の英彦山にかけて多い。
<高木神社の数>
田川郡 5社
嘉麻市 5社
久留米市 1社
宮若市 1社
築上郡 1社
筑紫野市 2社
朝倉郡 3社
朝倉市 9社
葛城氏は、高皇産霊神を信仰している。
高天彦神社(奈良県御所市高天)。
祭神は高皇産霊神(別名:高天彦神 たかまひこじん)。もともとは葛城山の土地の神、高天彦を祭っていた。
神体は社殿の後ろの白雲峯(別名:高天山。金剛山は古来は高天山や葛城山と呼ばれていた)。江戸時代まで、「高天原」と言えば、葛城地域のことらしかった。
葛城氏は、葛城山に移住した。眼下には鴨一族(高鴨神社)がいた。高尾張氏(笛吹神社)一族もいた。
このようなわけで、「この地は韓国に向かい、笠沙の岬に真来通て、朝日のまっすぐ射す国、夕日の日が照る国である。なので、この地はとても良い地だ」と言って、底津石根に宮柱布斗斯理、高天原に氷椽多迦斯理て居住した。
「射す国」とは刺す国=「刺国」のことです。「照る国」とは下照姫=若姫と若彦の国です。笠沙岬=草崎から沖ノ島を通り、真北(魏志倭人伝方位)に韓国に一直線です。
根雨神社 日野郡根雨町根雨 祭神 刺国若比売命、蛤貝比売命 蚶貝比売命外を作った可能性もありますが、肝腎の古事記は、完全に消去したはずで、その後、400年は世の中に現れませんでした。
大国主神の母は刺国大神だと書いてあります。刺国がどこかわかりません。
大神と書いてありますから、
兄弟の八十神(やそがみ)の陰謀で命を失った大穴牟遅神(オオナムジノカミ:大国主神の別称)。
オオナムジの死を知った母神の刺国若比売(サシクニワカヒメ)は、嘆き悲しみました。
兄弟に殺されてしまったのですから、その悲しみはさぞ深かったと思います。
そこでサシクニワカヒメは天に昇り、神産巣日之命(カムムスヒノミコト)に、我が子を助けてくれるように頼みました。
『播磨国風土記』には大己貴が伊和(いわ)大神として表記されることが多いが、穴禾(しさわ)郡雲箇(うる か )の里の条に「(伊和)大神の妻、木花開耶姫(このはなのさくやびめ)はその容姿が美麗(うるわ)しかった。だからウルカという」とする地名伝承を載せている。『書紀』によれば、木花開耶姫の夫はニニギであって、従って、大己貴=ニニギが土地によっては伝承されていたことがこれからもわかる
刺国若姫の父は「刺国大神」である。また、刺国若姫の若とは和歌に通じるから和歌姫である。和歌姫と名がついた人は一人しか知らない。伊邪那岐命伊邪那美命の子であるスサノオ尊の姉の昼子姫(長じて下照姫、和歌姫と名を変えた)である。
別に調査したところ、ホツマツタエには昼子姫が生まれた場所として、北九州東海岸と博多の中間辺りに宮を建ててそこで産まれたとあるから正にこの刺国の場所である。和歌姫の宮は玉津宮である。小野小町も唱えた呪文の「出雲住吉玉津嶋」の玉津である。呪文とは鬼道であるから昼子は鬼道の元祖でもある。津屋崎の「対馬見山」=珠見=魂見が、玉津宮のあった場所であろう。
ニニギ尊の宮が名児山とすると、お隣同士である。どちらも高台にあり、付近一帯は「高天原」と呼ばれていた。
ちなみにスサノオ尊は「蘇刺の立花」で生まれたと、ホツマツタエに記述されている
① 高千穂宮
② 高屋宮
③ 磐余稚桜宮
④ 大分宮
がある
『十一月に至る 仮宮は 日向高屋ぞ』38文
『"筑紫 平けん" と 六年まで 高屋の宮に 御座します ミハカセ姫を 内添に トヨクニワケの 親王 生む 母子 留まり 国造や』38文
景行天皇の12年7月、熊襲が背いて貢ぎ物を差し出さなかったので、天皇は筑紫(九州)に下り、その年の11月、日向に入り、高屋に行宮(あんぐう)を建て、住まいとした。
同13年5月、ことごとく熊襲の国を平定。すでに高屋の宮に居ること6年となり、日向に美人の聞こえ高い御刀媛(みはかしひめ)を召して、妃(きさき)とした。妃は日向国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子を産んだ。
景行天皇は 竹田で土蜘蛛を征伐した後熊襲の国 襲国の高屋に行宮(あんぐう)を建て住んだようです
日向に美人の聞こえ高い御刀媛(みはかしひめ)を召して、妃(きさき)とした。妃は日向国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子を産んだ。
とあり息子の名前を豊国別(とよくにわけ) つまり豊国の分家と名付けたようです
日本書紀によると景行12年(82年)、熊襲が背いたので、これを征伐すべく景行天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、現・山口県防府市)で誅殺した後、筑紫(九州)に入られた。豊前国京都郡(福岡県行橋市)、豊後国の碩田(おおきた)、日向高屋宮(宮崎県西都市か)、熊県(熊本県球磨郡)、葦北(芦北郡)、高来県(長崎県諫早市)、阿蘇国(熊本県阿蘇郡)、的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、景行19年(89年)9月に還御した。なお、天皇の九州巡幸ついては古事記には一切記されていない。
大分郡(おおいたのこおり)
景行天皇が巡幸した際に、地形を見て、広く大きいので碩田国(おほきたのくに)と名付けたのが訛った。
速見郡(はやみのこおり)
景行天皇が巡幸した際に、この地で女王の速津媛(はやつひめ)に迎えられたことから名付けられた。
日向の国では高屋宮を建4年すごされ、襲国(鹿児島県曾於郡)を平定されている。日向では御刀媛を妃として、日向国造の先祖にあたる豊国別皇子が生れている。
景行天皇は313年に日向も訪れている。
その道筋は、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から、豊前国の長狭県(福岡県行橋市長尾)を通り、碩田国の速見邑(大分県速水郡・別府市)に至り、日向に向かっている。日向の国では高屋宮を建4年すごされ、襲国(鹿児島県曾於郡)を平定されている。日向では御刀媛を妃として、日向国造の先祖にあたる豊国別皇子が生れている。
景行天皇は「みやこ」に向かわれようとして、筑紫の国を巡幸されている。その道筋は日向国子湯県(宮崎県児湯郡・西都市)を出発し夷守(宮崎県小林市)から熊県(熊本県球磨郡・人吉市)に至り、葦北(熊本県芦北郡)から船に乗り、火国の八代県(熊本県八代市)を通り、高来県(長崎県南高来郡)より、阿蘇国の玉杵名邑(熊本県玉名市)に至っている。そして、筑紫後国の三毛(福岡県三池郡。大牟田市)に高田の行宮を作られ、八女県(福岡県八女郡・女女市)から的(いくは)邑(福岡県浮羽郡)に行き、その後日向に帰っている
時に彼處(そこ)に一(ひとり)の神有り。名は事勝國勝長狹と日ふ。
故、天孫、其の神に問ひて曰(のたま)はく、「國在りや」とのたまふ。對(こた)へて日さく、「在り」とまうす。因りて日さく、「勅(みことのり)の随(まま)に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼処に留住(とどま)りたまふ。
其の事勝國勝神は、是伊奘諾(いざなぎ)尊の子なり。亦の名は塩土老翁(しほつつのをぢ)』(紀上 156頁)
によれば
「笠沙」は「今宿」説
天孫降臨地を確認するとき、わたしは高祖山の北の山裾にある大塚古墳付近に「笠掛池」と「笠掛」の地名を見つけ、古事記の「笠沙」とは、この「笠掛」でないかと思った。
しかし、古田先生は天孫降臨時の古事記の「笠沙」を御笠郡とし、日本書紀の「笠狭の岬」を御笠川の博多湾河口付近に推定されており、この思いは無駄と思われた。ただ、今宿町の今山は弥生時代の石斧の産地で、石斧は糸島、博多湾、御笠郡周辺に色濃く分布しており、この時代の筑前西部地帯の中心地を今宿と考えることもできる。 そこで、笠沙=今宿と仮定し、記紀の原文を解読してみると、従来説では不思議と思われた箇所が次々と解消したので、その結果を皆様にご報告してご批判を請うものである。
今宿町の中心地は、この頃には海であったので、今山を中心に今津、今宿などの周辺を含めて今宿と呼び、また、天孫降臨地は、古田武彦先生の「福岡糸島の高祖山を中心とする連山」、つまり「椚(くぬぎ)村」の裏山の「くしふる山」を前提として検討した。
降臨後のニニギノ命の行動は
「既にして皇孫の遊行す状は、?日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、膂宍の空國を頓丘より覓國ぎ行去り吾田の長屋の笠狹の碕に到ります。」
時に彼處(そこ)に一(ひとり)の神有り。名は事勝國勝長狹と日ふ。
故、天孫、其の神に問ひて曰(のたま)はく、「國在りや」とのたまふ。對(こた)へて日さく、「在り」とまうす。因りて日さく、「勅(みことのり)の随(まま)に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼処に留住(とどま)りたまふ。
其の事勝國勝神は、是伊奘諾(いざなぎ)尊の子なり。亦の名は塩土老翁(しほつつのをぢ)』(紀上 156頁)
「日本書紀」だけに載せられるものであったが、『伊奘諾尊の子』として亦の名を『塩土老翁』とも言う『事勝國勝長狭』が、『吾田の長屋の笠狹の御碕』の『国主』として『天孫瓊瓊杵尊』に国を提供した、とかたられる
「西暦930年」ごろの『和名抄』に『阿多郡』と記録される
そこに命自らの『居を構える次第となった』については、
古事記に
『此地は韓国に向ひ、笠紗の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」と詔りたまひて、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽(ひぎ)たかしりて坐す』(記 130頁)
『八重事代主神を徴(め)し来て、問い賜ひし時、其の父の大神に語りて言はく、「恐(かしこ)し。此の国は 天神之(あまつかみの)御子 に立奉(たてまつ)らむ」』(記 122頁)と、
「大国主命」に呼び出された『事代主神』はその「筋書き」のまま「建御雷神」に対してではなく、『其の父、つまり、自分の父である大国主』に答えた、とある。
『我が子八重言代主神(やえことしろぬしのかみ)、是(こ)れ白すべし』(記 121頁)
『八重言代主神』の表記は、「古事記」にだけ、ここの「一回」だけ見えるのであるが、「事代主神」の「母」についても、「古事記」にだけ「一回」、
『大国主神、亦神屋楯比売命(かむやたてひめ)を娶ひて生みませる子、事代主神』(記 107頁)とある。
祭神 木花之開耶姫
付近には、有名な西都原古墳群がある。瓊瓊杵尊が天孫降臨して木花之開耶媛命にであったという、「吾田の笠沙の碕」の比定地の一つでもある。また、吾田の笠沙は沖合いに海神宮(龍宮)があったとされる地だ。
ただし、時代が合わない
大山祇神(おおやまづみのかみ)・和多志大神(わたしのおおかみ)
伊弉諾尊&伊弉冉尊の子神。山の精霊が神格化されたものという。邇邇芸命(ににぎのみこと)に娘二人を奉ったが、美しい妹の木花之開耶媛命(このはなさくやひめ)だけを娶り、姉の石長比売(いわながひめ)は醜いので帰されて来た。そこで、大山祇神は「石のように永久に命があるようにと奉った石長比売を帰したからには、天津神の御子は、木の花のように栄えるが、はかないものとなろう」と予言した。
「伊予国風土記・逸文」には、16代仁徳朝に、百済から渡来した神であるとされる。娘の木花之開耶媛命が無事出産したのを祝って、狭名田の茂穂で天甜酒(あめのたむざけ)を造ったので、これが穀物から酒を造った始まりであるといい、この神を酒解神(さかどきのかみ)というが、百済からの渡来だというのは、須須許理と混同されているのではないかと思われる。因みに娘の木花之開耶媛命は、酒解子神(さかどきこがみ)という。
ニニギ命が言った「笠砂の御前」とは北条砂丘全体
http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201407130000/
によれば
この当時、天神川は今の河口ではなくて、東に迂回して東郷池に流込んでいた。また今の海岸線の砂は波によって高くなったものだから省略した。2200年の間に海岸線がボロボロになっているが、農業等の造成によるものと思われる。
これを見る限り、茶臼山を中心にした柄のある、大きな傘が出現する。西園・東園の高い砂丘が笠形になっていたのだろうと推測していたが、これほど大きな笠形が現れるとは想像していなかった。
「笠砂の御前」とは、鳥取県で2番目に大きい北条砂丘のほぼ全体を占める大きな御前であった。
「笠砂の御前」の左下が葦原中津国である。葦原中津国は外洋を通る船には「笠砂の御前」が垣になって見えない。この小さな湾に入るには、「笠砂の御前」を巻き通らければならない。
延喜式神名帳に、『伯耆国川村郡 波波伎神社』とある式内社。
社名は“ハハキ”と読む。
山陰本線・倉吉駅の北、太平山(H=191m)の北西麓に鎮座する。
※由緒
当社境内に由緒などを記した案内板など見当たらず詳細不明だが、神社明細帳(編纂時期不明・明治以降であろう)には、
「事代主大神、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」
とあるという(式内社調査報告・1983)。
この文意は判読しにくいが、“オオクニヌシの国譲りの後、コトシロヌシが一ツ木の神玖四浮根(美保之碕のことか)から福庭の地に移り、福庭の青柴籬(アオシバカキ、神霊が宿る神籬)が何時までも青々と茂っているように、皇孫の御代も栄えるであろうと予祝し、己は皇孫の近き護り神となろうとおっしゃって、天逆手(アメノサカテ・呪的な拍手)を打って青柴籬の内に鎮まられた天栄手(アメノサカテ)の宮が当社である”ということか。
全国神社祭祀祭礼総合調査(1995)によれば、
「八重事代主命は大国主命の御子神で、国土経営のために此の地を巡事の時、当社西方ワタラカヒの地に上陸され、当地方の開拓殖産に務められ、天孫降臨に当たっては父神に薦めて恭順潔く国土を奉献して誠忠を盡され、父神に対して孝道を全うせられ、献国後も永く皇室の護り神となられました。その荒御魂は青柴の巻籬内(今槇ケ木の字を充てる)に鎮まりました。之が当社御鎮座の根元である」
とあり、ここでは、コトシロヌシは国譲り以前から当地にかかわっていたという。
祭神
今の主祭神は八重事代主命(ヤヘ コトシロヌシ、以下・コトシロヌシという)となっているが、古くは“伯耆神”(ホウキノカミ・ハハキノカミともいう)と呼ばれていたようで、正史における神階叙位記録に
・承和4年(837)--伯耆国河村郡无位(無位)伯耆神、曾見郡・大山神、久米郡国坂神に従五位下を授け奉る(続日本後紀・869)
・斉衡3年(856)--伯耆国伯耆神・大山神・国坂神並びに正五位下を加う(文徳実録・879)
・貞観9年(867)--伯耆国正五位下伯耆神・訓坂神(国坂神か)・大山神並びに正五位上に叙す(三代実録・901)
とあるように、常に伯耆国の筆頭に掲げられており、伯耆国の一ノ宮(総氏神)であったという(10世紀に入ると、その地位が倭文神-シトリ神-へ代わっている-倭文神は、日本略記・天慶3年-940-正三位に叙せられているが、伯耆神の昇階記録はみえない)。
この伯耆神を波波伎神(ハハキノカミ)とも呼ぶのは、神社覈録(1870・明治初年)に
「波波伎は假字(仮の字・当て字)也 国名(伯耆)に同じ」
とあるように、伯耆国が古くは波波伎国(ハハキの国)と呼ばれていたことからで、伯耆国風土記・逸文には
「手摩乳(テナヅチ)・足摩乳(アシナヅチ)の娘・稲田姫は、八頭の蛇が呑もうとするので山中に逃げて入った。そのとき母が遅く来るので、“母来(キ)ませ、母来ませ”といった。それ故に母来(ハハキ)の国と名づけた。後に伯耆国と改めた(ハハキ→ホウキ)」とある
住所 西臼杵郡高千穂町三田井713番地
御祭神 瓊瓊杵命
当社には記紀に記されたところの「久士布流多気」、「槵觸二上峯」に鎮座し、この地は古来天孫瓊瓊杵尊御降臨の地と伝えられている。
江戸時代に三浦候が延岡城主となるや、十社宮(高千穂神社)の大宮司、田尻乗信の要請を容れ、元禄七年六月十五日に社殿が建立された。しかしこの地は、社殿建立以前から久士布流(くしふる)峰そのものが神山と崇められ、高千穂八十八社の一社に数えられていたから、その信仰はさらに上代にまでさかのぼるであろう。
元禄時代、延岡城主三浦直次の家臣岡田定賢の著した『串振記』には、「ここに槵觸大明神の来歴を稽ふるに、日向国高千穂二上槵觸嶽は日本秋津州神道流布根源の地なり・・・天児屋根命即ち槵觸大明神の御事、春日大明神と同一体の御神なり」と書き記されている。
従って創建当時の祭神は天児屋根命を槵觸大明神として祀ったのであり、それゆえに天孫降臨の地として久士布流多気を日本神道発祥の地として理解し、神官職の宗源神ともいうべき天児屋根命を主神として祀ったのである。
明治六年五月二十五日、旧称槵觸大明神は二上神社と改称せられ県社に列したが、明治四十年二月神饌幣帛供進指定神社となっている。そして明治四十三年十一月十九日に旧社名に復し、槵觸神社と改められた。
槵觸神社の鎮座する槵觸嶽の裾には、樹齢約三千年とも云われるケヤキの神木に囲まれた天真名井があり、その下を神代川(くましろがわ)が流れている。その創建の由来からして、槵觸の峰は高千穂宮縁由の聖地であり、高千穂宮は高千穂宮は高千穂皇神神号の淵源であって、槵觸の社殿が高千穂神社の分祠として建立された事跡を思えば、まさに両社は一体不離の関係にあり、ともに天孫降臨の聖地高千穂を代表する重要な神社といえよう。
当神社は、昭和五十八年十二月に約三百年ぶりの御造営が行われ、本殿拝殿や社務所などの造営が完成している。
古事記 大山津見神の娘、名は神阿多都比賣、亦の名は木花佐久夜毘賣、姉、石長比賣、
日本書紀本文 天神と大山祇神の子、鹿葦津姫、亦の名、神吾田津姫、亦の名、木花開耶姫、
一書第二 大山祇神の子、神吾田鹿葦津姫、亦の名、木花開耶姫、姉、磐長姫、
一書第三 神吾田鹿葦津姫、
一書第五 大山祇神の女子、吾田鹿葦津姫、
一書第六 大山祇神の女等、木花開耶姫、亦の名、豊吾田津姫、
一書第七 吾田津姫、
一書第八 大山祇神の女子、木花開耶姫、
○これまで、いろいろと木花開耶姫について検証を加えて来た。木花開耶姫の御名は、
①神阿多都比賣・神吾田津姫・神吾田鹿葦津姫・豊吾田津姫
②木花佐久夜毘賣・木花開耶姫
③鹿葦津姫・神吾田鹿葦津姫
の三つに分類されよう。このうち、『①神阿多都比賣・神吾田津姫・神吾田鹿葦津姫・豊吾田津姫』は、地名『阿多』からの御名であろう。次に、『②木花佐久夜毘賣・木花開耶姫』は美称であると思われる。
○問題は、『③鹿葦津姫・神吾田鹿葦津姫』である。このうち、『吾田』は①の地名と同じであろう。普通に、大地名小地名と続けて案内することが多い。例えば、(大地名)鹿児島県(小地名)枕崎市と言うふうに。だから、『吾田』が大地名で、『鹿葦』が小地名となるものと思われる。
祭神:木花開耶姫命
説明:境内案内板を引用します
「御創建の年代は定かではないが。当神社のが始めて史書にみえるのは『続日本紀』で、仁明天皇承和四年(八三七年)八月の条に『日向国子湯郡妻神、官社に預かる』とあり、また、『三代実録』の天安二年(八五八年)の条にも神階昇格の記載がある。 更に平安時代初期に編纂された延喜式神名帳には、日向国四座の内児湯郡二座として、都農神社とともに都萬神社が記載されており、当神社が、式内社といわれる所以である。中世から近世にかけ、当地方を治めた伊東氏、島津氏ともに供田を献じ、社領を安堵するなど尊崇の誠を示している。その後、明治六年県社に列せられ、明治四十年神饌幣帛料供進指定を受けるなど古来からの尊崇は明治以降も衰えることはなかった」
日本酒発祥の地の由来
「西暦七二〇年に編纂された『日本書紀』の中で、木花開耶姫の三皇子出産の部分に次のような件があります。
『神吾田鹿葦津姫(木花開耶姫)卜定田を以て号(なづ)けて狭名田と曰ふ、其の田の稲を以て天甜酒を醸みて嘗(にはなひ)す、又渟浪田の稲を用て飯に為して嘗す』つまり、当神社の御祭神木花開耶姫が占いによって定められた田を開き、収穫された稲で酒と飯(ご飯)を造られ、天照大神にお供えになり自らも召し上がられたということです。
お米を原料にして造った酒の最古の伝承で、現に神社近くに『酒元(さかもと)』という地名の集落もあります。
また、木花開耶姫が三皇子を出産された時、母乳かわりに甘酒でお育てになったという言い伝えもあります」
お乳の神様のいわれ
「都萬神社の御祭神、木花開耶姫の大神は、三つ子の皇子を無戸室の産室でおうみになり母乳だけでは足りないので、狭田の稲で甘酒をお造りになり、これをお乳代わりとして御養育されたと伝えられ、今尚、秋の例大祭には甘酒を造って奉献する習慣がのこっています。婦人がお産されて母乳の足りない方はこの神社にお参りしてお参りして祈願され、お乳が出るようになったら甘酒を持ってお参りされることになっていす。
昭和四三年三月三日 都萬神社社務所
「妊産婦の方は産気づかれると御符とお石を枕もとにおいて、先に御符をお水でのんでお産の重いような時は、お石をしっかり握りしめ、手の熱がお石に伝わり、あたたかくなるころ、無事出産すると伝えられています」
住 所:宮崎県西都市大字妻1番地
電話番号:0983-43-1238
ひとこと:都萬神社のそばには、木花開耶姫に関連するたくさんの史跡が点在しています。
まず、木花開耶姫が水を汲んでいて、瓊瓊杵に見初められたという逢初川。二人が新婚生活を送ったという八尋殿。そして姫が火を懸けて出産したという無戸室(うつむろ)。そして、姫が未婚時代、彼女に懸想した鬼にまつわる石貫神社。木花開耶姫の御陵とも伝わる女狭穂塚。