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朝鮮三国では、日本での譲位の場 合と同じく、前王の崩御の時点で、 次王の元年としている。同 じ年で前王の~年と、新王の元年が 重なるのである。 ただし例外として、前王の崩御が大晦日 かその前日という場合は、新王 の即位が翌年になり翌年が元年となっている。この点は中国式 の王暦の数え方と全く異なってい る。
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新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という
辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民のゆえで、恒久的に馬韓が領土を制している。辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である。新羅は百済の東南に五千余里。東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。三国魏の時代は新盧と言い、宋代では新羅、あるいは斯羅と称した。小国なので、自ら通使を派遣すせることができなかった。
普通二年(521年)、王姓を秦の名から募り、初めての使者は百済の遣使に随伴して方物を献じた。
辰韓の初め六国だったが、十二国に細分した、新羅はその一国なり。あるいは魏の将軍の毋丘儉が高麗を討ち破ると、高句麗は沃沮に奔走、その後、故国に復帰したが、居留する者があり、遂に新羅を立てた、斯盧ともいう
その族人は華夏(漢族)、高麗、百済に属す人々と雑居しており、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねている。その王は元の百済人、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。初めは百済に従属し、百済が高麗に征圧されると、苦役に堪えられず、後に連れ立ってここに帰属、遂には強盛となった。百済を因襲し、迦羅国を臣従させる。伝世三十代の真平(王名=金姓)に到る。
隋の開皇十四年(594年)には遣使を以て方物を貢献する。文帝は真平を開府に上京させて、楽浪郡公、新羅王の爵位を拝受させた。
その王は本の百済人で、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。
温祚(おんそ)から伝世、金真平(王名=金姓)に至り、開皇十四年(594年)に遣使を以て方物を貢献した。高祖は真平を拝謁し、上開府、楽浪郡公、新羅王の爵位を賜る。
その先祖は百済に従属し、後に百済が高句麗を征したが、高句麗人は戎役に堪えられず、相次いで帰国し、遂に強勢となり、百済を襲い迦羅国を従属国とする。
新羅国、昔の弁韓の苗裔である。その国は漢代には楽浪の地に在り、東と南方は大海を限界とし、西は百済と接し、北隣は高句麗である。東西に千里、南北に二千里。城邑や村落があり。王の居城は金城といい、周囲七~八里。衛兵は三千人、獅子隊を設ける。文武官には凡そ十七等級ある。王の金真平、隋の文帝の時代に上開府、楽浪郡公、新羅王を授かる。
武德四年(621年)、遣使が朝貢。高祖は親しく労を問い、通直散騎侍郎の庾文素を答礼使として行かせ、璽書および書画屏風、錦紗三百反を下賜、これより朝貢は絶えなかった。
略
高祖は、海東の三国が古い仇怨に固執し、順番に相手を攻伐、それによって、互いを従属させてきたことを聞き及び、和睦を仲介すべく、その使者に怨念の理由を問うた。応答して曰く「先に百済が高句麗を攻伐に行く、(高句麗は)新羅を訪れて救援を請い、新羅は兵を発して百済国を大破したが、これが仇(あだ)となり、いつも互いを攻伐する。新羅は百済王を捕え、これを殺す、仇怨はここから始まる」
武德七年(624年)、遣使を拝謁し、金真平を柱国、封楽浪郡王、新羅王に冊封する。
新羅の王(中国では長い間、王の呼称は許さず「公」しか許していなかった*。例 594年 隋は新羅の王に対し「上開府楽浪郡公」を名乗ることしか許さなかった。王という呼称を許したのは624年 唐の高祖が「柱国楽浪郡公新羅王」としてからであるが(これについても異論がある)、ここでは「王」と呼ぶことにする)は世襲制ではなかった。朴、昔、金などの中から合議制で王が選ばれた。
日本の推古天皇(593年―628年在位)の直後の632年に第27代として「善徳王」が即位された(632年―647年在位)。
前の「真平王」(572年―632年在位)に男子がなく、他に適当な王の候補がなかったために「真平王」の長女である「善徳王」が選ばれた(姓は「金」(中国の「冊府元亀」では「募」)、名は「曼」)。
「善徳王」は幼いときより聡明であり、なるべくして成ったとはいえるが、歴史上初めての女帝である(高句麗、百済にも女帝はなかった)
この時代が新羅にとっては一番存亡の危機にさらされていたのであるが、「善徳王」は武将「金 ユ信」、宰相「金 春秋(後の「武烈王(654年―661年在位)―日本に人質として差し出されていたこと経歴があった」)」を巧みに使い、唐との交渉し、唐より再び「柱国楽浪郡公新羅王」を賜り、冊封を受け、百済、高句麗との戦争に対処して国を維持した。名君だった。