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百済 沙宅氏、白村江まで « 古代史&フォーラム by tokyoblog
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June 2015
December 2018 編集されました
カテゴリ:
韓半島
百済 沙宅氏、白村江まで « 古代史&フォーラム by tokyoblog
【大姓八族】『隋書』百済伝 参考
行宋元嘉暦、以…
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コメント
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June 2015
辛嶋氏は五十猛を祖神としていた
紀氏も同じであった。竹内宿禰の子に波多宿禰と木角宿禰があったが、波多宿禰の子孫が辛嶋氏であり、木角宿禰の子孫が木氏(紀氏)
木氏は百済八大姓の一つでもあった
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July 2015
日本書紀によれば、白村江の戦いの663年から666年にかけて
「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。
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July 2015
鬼室福信
鬼室神社
蒲生郡日野町小野
祭神として祀られている人物、それは近江朝廷が大津に都を定めた頃、現在の韓国、時の百済(くだら)から我が国へ渡来した多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官である。鬼室集斯の墓碑は、神社の本殿裏の石祠に祀られている。そのため神社の社名も鬼室神社とされている。古くは不動堂と呼ばれ、小野(この)村の西の宮として江戸期まで崇敬されてきた社であるという
『日本書紀』の天智8年(669)に有名な一節がある。
”この年、佐平(さへい)余自信(よじしん)・佐平鬼室集斯ら男女700余人を近江国蒲生郡に移住させた”
佐平とは百済国の十六品の官位の最高位である。その百済の最高位にいた亡命貴族2人を筆頭に700余人を蒲生郡に移住させたというのである。今から1335年前のことである。
鬼室集斯は、660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)を復興すべく、ゲリラ軍を組織して戦った鬼室福信(きしつふくしん)の子供である。おそらく父と共に山城に立てこもり、唐軍を悩ましたこともあったであろう。だが、天智2年(663)8月、我が国が派遣した水軍が唐の水軍と白村江で戦い大敗を喫したことで、百済復興運動は終始符を打った。
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July 2015
このとき蒲生野で、大海人皇子と額田女王が交わした恋の歌はあまりにも有名だ。一説には、 酒の席でのざれ歌だといわれる。額田女王は、最初は大海人皇子の妃で十市皇女をもうけた。相 思相愛の二人だった。その彼女を、大海人の兄である中大兄皇子が横取りした。歌を交わしたと き彼女は、すでに中大兄皇子の妃である。
額田女王の歌。
あかねさす紫野行きしめの行き野守は見ずや君が袖ふる(巻 1・20)
大海人皇子の答歌。
紫のにほへる妹(いも)を憎しあらば人妻ゆゑに我(あれ)恋めやも(巻1・21)
大海人皇子と額田女王がもうけた十市皇女はその時、天智天皇の皇太子・大友皇子の 正妃である。いとこ同士の結婚ということ
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紀氏も同じであった。竹内宿禰の子に波多宿禰と木角宿禰があったが、波多宿禰の子孫が辛嶋氏であり、木角宿禰の子孫が木氏(紀氏)
木氏は百済八大姓の一つでもあった
「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。
鬼室神社
蒲生郡日野町小野
祭神として祀られている人物、それは近江朝廷が大津に都を定めた頃、現在の韓国、時の百済(くだら)から我が国へ渡来した多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官である。鬼室集斯の墓碑は、神社の本殿裏の石祠に祀られている。そのため神社の社名も鬼室神社とされている。古くは不動堂と呼ばれ、小野(この)村の西の宮として江戸期まで崇敬されてきた社であるという
『日本書紀』の天智8年(669)に有名な一節がある。
”この年、佐平(さへい)余自信(よじしん)・佐平鬼室集斯ら男女700余人を近江国蒲生郡に移住させた”
佐平とは百済国の十六品の官位の最高位である。その百済の最高位にいた亡命貴族2人を筆頭に700余人を蒲生郡に移住させたというのである。今から1335年前のことである。
鬼室集斯は、660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)を復興すべく、ゲリラ軍を組織して戦った鬼室福信(きしつふくしん)の子供である。おそらく父と共に山城に立てこもり、唐軍を悩ましたこともあったであろう。だが、天智2年(663)8月、我が国が派遣した水軍が唐の水軍と白村江で戦い大敗を喫したことで、百済復興運動は終始符を打った。
額田女王の歌。
あかねさす紫野行きしめの行き野守は見ずや君が袖ふる(巻 1・20)
大海人皇子の答歌。
紫のにほへる妹(いも)を憎しあらば人妻ゆゑに我(あれ)恋めやも(巻1・21)
大海人皇子と額田女王がもうけた十市皇女はその時、天智天皇の皇太子・大友皇子の 正妃である。いとこ同士の結婚ということ