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第11代垂仁天皇皇子を祖とする皇別氏族。氏祖を息速別命と於知別命とする2流があり、ともに阿保朝臣姓を称した。
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大和国三条坊門の南高倉の西・磯上筒井筒の地より、承和1(834)この地に館を移した。神社の位置はその西端になるという。親王は仏に帰依し非田、施楽の院を建て飢人を救い、また池、橋をつくり在地の氏神と称せられるようになった。承和9年10月崩御。
親王の墓は松原の大塚、大和打出、の他に*芦屋市翠ヶ丘町11にもある。
讃岐の鵜足郡は北上し、海辺まで続き、その先端は「宇多津」、「宇多」の「津」です。
「鵜足郡は、宇足郡、宇多郡ともいう」、という通り、まさに「宇陀」なのです。
三重県の西部に位置し、四方を山で囲まれており、中央部には上野盆地が広がり、周辺から発した服部川・柘植川・名張川などが合して木津川となって大阪湾に注ぐ。国名の由来について古く当国を領した猿田彦命の女吾娥津姫命にちなみ、吾娥が伊賀に転訛したという説、成務天皇の代に霊仁天皇の子の曾孫武伊賀都別命を伊賀国造に任じたという「国造本紀」に拠る説、『日本書紀』宣化天皇2年に見える伊賀臣の居住地であったことにちなむという説、地勢にちなむ巌・怒や栗の伊賀の語に起源するという説、アイヌ後のイカ(山を越えるの意)に語源を求める説など諸説がある。
伊賀の名の初見は『古事記』では、安寧天皇の条で師木津日子命の2子の中「一人は伊賀の須知、那婆理、三野の三稲置の祖なり」という。この3か所はいずれも現在の名張市で、東国への要路にあたり、朝廷の直轄領として早くから開けていたことを示す。『日本書紀』では孝元天皇の条に天皇の長子大彦命は阿部臣・阿閇臣・伊賀臣など7族の始祖と記すが、この三氏はともに伊賀国の古代豪族である。
愛知県一宮市今伊勢町本神戸にある酒見神社は、尾張国中嶋郡の同名の式内社に比定されている。
当神社は其の名のとおり酒に最も縁の深い神社であり、日本に於いては清酒の醸造が最初に行われた所であります。その際に使われた甕が今も本殿裏の両側に埋められております。これは当神社第一の宝物であります。時は紀元1514年、今から1138年前、第五十五代文徳天皇、斉衡3年9月、大邑刃自、小邑刃自、の酒造師が勅命を受け伊勢皇太神宮より当宮山に遣わされ伊勢神宮にお供えする御神酒を造らせになりました。その際に持ってこられた、大甕2個が地下1メ−トルに埋められております。日本は地球の温帯に位置し春夏秋冬の区別がはっきりしているので、良い季節に醸造を行えば良いのですが、支那(中国)では大陸気候なので寒暖の差が激しく朝晩では夏と冬程度違います。そこで地熱を利用できる方法が取られ、地下1メ−トルの所に甕をいけ、そこで醸造が行われたのであります。即ち、支那式醸造法で行われた甕が此処にあるのです。
祭神&祖神 高倉下命、倭得玉彦命
社家 尾張氏
創建は阿倍氏系11代垂仁天皇の御代、高倉下命の七世の孫である倭得玉彦命がこの地に住し、先祖を祀り、その氏神としたことに始まる。倉庫守護神として近隣の人々に崇敬されている。
直ぐ近くには、阿倍氏の祖・大彦命を祀る、伊賀国一の宮・敢国神社(三重県上野市一之宮)があるのも興味深い。伊賀上野といえば、阿倍氏の支族である伊賀氏の本拠地だ。
伊賀の國の風土記。伊賀の國は、往昔、伊勢の國に屬(つ)きき。大日本根子彦太瓊(おほやまとねこひこふとに)の天皇(孝靈天皇)の御宇(みよ)、癸酉のとし、分ちて伊賀の國と為しき。本、此の號(な)は、伊賀津姫の領(し)る所の郡なりければ、仍りて郡の名と為し、亦、國の名と為せり。
(今井似閑採択)
伊賀國號(二) (風土記殘篇:參考)
伊賀の國の風土記。伊賀の郡。猿田彦の神、始め此の國を伊勢の加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に屬けき。時に二十餘萬歳此の國を知れり。猿田彦の神の女、吾娥津媛命(あがつひめのみこと)、日神之御神(ひのみかみ)の天上より投げ降し給ひし三種(みくさ)の寶器(たから)の内、金の鈴を知りて守り給ひき。其の知り守り給ひし御齋(いつき)の處を加志の和都賀野(わつかの)と謂ひき。今時、手柏野と云ふは、此れ其の言の謬(あやま)れるなり。又、此の神の知り守れる國なるに依りて、吾娥の郡と謂ひき。其の後、淸見原の天皇(天武天皇)の御宇、吾娥の郡を以ちて、分ちて國の名と為しき。其の國の名の定まらぬこと十餘歳なりき。之を加羅具似(からくに)と謂ふは虚國(むなしくに)の義なり。後、伊賀と改む。吾娥の音(こゑ)の轉(うつ)れるなり。
山代の大国之淵(おほくにのふち)の娘、苅羽田刀弁(かりはたとべ)を娶っ てお生みになった御子は、落別(おちわけ)の王、次に、五十日帯日子(いかたらしひ こ)の王、次に伊登志別(いとしわけ)の王、また、その大国之淵の娘、弟苅羽田刀弁 (おとかりばたとべ)を娶ってお生みになった御子は、石衝別(いはつくわけ)の王、 次に石衝毘売(いはつくびめ)の命、亦の名は布多遅能伊理毘売(ふたぢのいりびめ) の命である(二柱)
旦波の比古多多須美知の宇斯王の娘、氷羽州比売(ひばすひめ)の命を娶って お生みになった御子は、印色之入日子(いにしきのいりびこ)の命、次に大帯日子淤斯 呂和気(おほたらしひこおしろわけ)の命、次に大中津日子(おほなかつひこ)の命、 次に倭比売(やまとひめ)の命、次に若木入日子(わかきいりひこ)の命である
大中津日子命は、山辺の別、三枝(さきくさ)の別、稲木の別、阿太(あだ) の別、尾張国の三野(みぬ)の別、吉備の石无(いはなし)の別、許呂母(ころも)の 別、高巣鹿(たかすか)の別、飛鳥の君、牟礼(むれ)の別らの祖先である。
次に、五十日帯日子王は、春日の山君、高志の池君、春日部(かすがべ)の君の祖先 である。
次に、伊登志和気王は、御子なきにより、子代(みこしろ)として伊登志部(いとし べ)を定めた。
次に、石衝別王は、羽咋(はぐひ)の君、三尾(みを)の君の祖先である。
次に、布多遅能伊理毘売命は、倭建(やまとたける)の命の后となられた
祭神 於知別命
大己貴命
主神於知別命は垂仁天皇の皇子で小月山君の祖である
日本武尊の御祖父にあたり近江国湖南地方を統治されその後裔 の小槻山公は連綿として本邦を領治し開発した名族である この氏 族は小槻山公及び小槻臣あり何れも当郡に住し続日本紀 正倉院文書 三代実録等にその氏人の記事が所載され 小槻宿 称家壬生官務家もその後裔である
配祀神大己貴命は大国主命とも申し殖産療病禁厭 の法を定め給うた神でその徳を敬慕して当社に併せ祀られたものである
小槻大社は小杖大明神と称し延喜式所載の祈年の奉幣に預った 栗太八座の一つで貞観五年十二月(八六三)に従五位下貞観十七年 十二月には従五位上に隆り元慶六年十月(八八二)さらに 正五位下に進み醍醐天皇の延喜十一年二月(九一一)には 詔して従四位下を加へ奉られている中園太政大臣の日記「園太暦」 には康永三年八月(一三四四)正一位の極位に昇叙された ことが記録されておりまた本殿の棟札写にもこのことが見え代々 綸旨院宣異国降伏の勲功少なからずとも記されている
中世には青地庄の領主青地家の尊崇を篤くし本殿内陣 安置宮殿両側壁には弘安四年十月(一二八一)の年記のもとに 青地氏一族の名を墨書し永正十六年建立の現本殿は青地元真 が造替している戦国末期に及んでは青地氏もその勢力昔日の如くな らず慶長十三年膳所藩主戸田左衛門は田三反歩納米五斗を寄進 し尓後代々の藩主は先規に任せてこれを安堵した明治九年社格制 定に際して村社に列し明治十四年十二月には郷社に加列された
『日本書紀』によると、垂仁妃・苅幡戸辺の子。
兄:祖別命
本人:五十日足彦命
弟:胆武別命
『古事記』によると、垂仁妃・苅羽田刀弁の子。
兄:落別王
本人:五十日帯日子王
弟:伊登志別王
『先代旧事本紀』によると、垂仁妃・薊瓊入媛の子。
五十日足彦の子孫で丹波国与謝の長者。三重長者。市辺押磐皇子の子の億計・弘計の二王子を匿った人物で、現在の京丹後市大宮町五十河(いかが)に居住したとされる
当社は延喜式神明帳所載の古社で祭神は大村の神。古来の本祀は伊賀国阿保村を本貫とした阿保朝臣の氏族がその始祖におわします。お鎮まりになる阿保村は伊賀国東南部の西は名張川に及ぶ、上津、中津、下津、阿保村が占める大村で第十一代垂仁天皇の皇子息速別命(いこはやわけのみこと)の為に宮室を此の地に築かれ、命及び御子孫が代々居住し、文化の移入、土地・産業の開発に尽くされ地名に因って阿保朝臣の姓氏を賜った。阿保氏族は始祖息速別命を氏神として大村神社を創祀し地域の諸部族、遠近の庶民が亦開発開運の神として厚く崇敬をあつめた。
武甕槌命、経津主命は鹿嶋・香取から神護景雲元年奈良三笠山御遷幸の途次、御休息の際奉斎した要石は地震斎護の信仰あつく又大山祗神は岡田の山の神は岡田の山神で安産授乳を祈る賽者があとを絶たない。
社頭掲示板
当社は延喜式神名帳所載国史現在の古社。祭神大村の神は、阿保村の神の転約なるにより、古来の本祀は、伊賀国阿保村を本貫とした阿保朝臣の氏族が、その始祖に在す垂仁天皇の皇子息速別の命(いこはやわけのみこと)を奉祀した氏社で、社域は、父帝が皇子の為に築かれた宮室跡であろう。命及びその御子孫代々この宮室に住まわれ大和文化の移入と土地開発尽くされ、上津中津、下津、阿保の部族の崇敬する総社として社領二百五十石を領した。
相殿奉祀の武甕槌の神、経津主の神は、神護景雲元年常総から御迂御鎮斎、地震除災の御霊験あらたかで要石を神石と崇める。又、岡田山の神(大山祗命)は安産授乳の守護神。
-『平成祭データ』-
要石
一、 創祀 神護景雲元年武甕槌命経津主命は常総から御宇の際御鎮祭申し上げ地震除災の御霊験あらたかで要石を神石と崇められた
-境内案内板-
「皇子・大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・・・・伊賀臣等すべて七族の先祖なり」
新撰姓氏録に
「右京皇別 阿閉臣 大彦命男彦背立大稲輿命(オオイネコシ)之後也」
とある氏族で、伊賀国阿拜郡(現伊賀市り)を中心とする一帯に盤踞した古代豪族を指すが、その阿部七族の中に多賀氏の名は見えない。
なお、略記によれば、多賀連の前に“伊賀国造”(他資料では国造)とある。
この伊賀国造について、先代旧事本紀(国造本紀)には
「伊賀国造 成務朝の御世 (垂仁天皇)皇子・意知別命(オチワケ・落別命とも記す)三世の孫・彦伊賀津別命(ヒコイガツワケ)を国造と定めた」
とあるが、姓氏録以外に武伊賀津別命の名は見えず、この命と多賀連あるいは当地との関係は不明。
ただ、伊賀国造の先祖は、意知別王の異母兄弟・息速別命であり、この命は病弱だったので皇位継承者から外され伊賀に宮を造って住んだ。その4世孫・須珍都斗王が阿保の姓を賜り(允恭朝)、その一族が伊賀国造を継承したとの説がある。
伊賀国は始め伊勢国に属していたが、天武朝に至って分割されて伊賀国として独立したというから、このとき伊賀地方に蟠踞していた阿保氏が伊賀国造に任じられたのかもしれない(大化改新以前の国造は在地の有力豪族が任じられたという)。
ただ、この阿保氏と伊賀氏あるいは阿閉氏との関係は不詳。遠祖が異母兄弟ということから、何時の頃かに一体化したのかもしれない。