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伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。
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コメント
草薙剣はスサノオノミコトが、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち。八俣大蛇)を成敗したときに尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名付けられた剣で、「この霊妙な剣は私が使うべき物ではない」と、アマテラスオオミカミに献上したものです。また後代には日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に用いて、その死後から熱田神宮の神体として祀(まつ)られていました。
継体天皇の最初の妃であったとされる目子媛(めのこひめ)の父親で、安閑・宣化両天皇の外祖父にあたる。断夫山古墳が彼の墓であるとの説がある。
草香が登場する
古事記
又娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女
日本書紀卷第十七 男大迹天皇 繼體天皇
元妃、尾張連草香女曰目子媛
先代舊事本紀卷第九 帝皇本紀
元妃尾張連草香女、曰目子媛、生二子矣
異国征伐の時、干珠満珠で国土を守ったことから、
皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた
持統・藤原朝による弾圧・弱体化政策
最初の吉野詣では、天武死後865日目です。
なぜ、この日に最初の吉野詣でがなされたのか?それは1000日に近い数字です。とするならば、起算の原点は天武死去の日ではなく、その135日前であったのではないかとの疑問が浮かびます。それは、天武死去9月9日の135日前、4月22日となります。その近辺を日本書紀記事で見てみます:
日本書紀巻二十九より
朱鳥元年(六八六)四月四月戊子【十九日】新羅進調従筑紫貢上。(中略)別献皇后。皇太子。及諸親王等。之物。各有数。
四月丙申【二十七日】遣多紀皇女。山背姫王。石川夫人於伊勢神宮。
日本書紀引用終わり
該当する4月22日に格別の記事はありません。
4月22日の5日後に「紀皇女、山背姫王、石川夫人」の三人の女性を「伊勢神宮」に遣した
岩波文庫校注者は「天武の病状回復祈願」と書きます。が、この時点では、依然として「伊勢神宮」の存在、宗教的性格は明らかではありません。
天武紀十四年の記事
天武天皇十四年(六八五)壬午【十日】遣軽部朝臣足瀬。高田首新家。荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮。蓋擬幸束間温湯歟。
「軽部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂の三名を信濃に派遣し「行宮」(かりのみや)を造らせた」と。この記事の重大性を隠蔽するために
藤原不比等は、上記記事に以下を書き加えるのです:
「けだし、束の間、温泉にでも行って来ようと思ったのだろう」と。
天武天皇死去の年の正月
朱鳥元年(六八六)正月癸卯【二日】御大極殿、而賜宴於諸王卿。是日。詔曰。朕問王卿、以無端事。仍対言得実、必有賜。於是。高市皇子被問以実対。
「正月、大極殿で臣下と宴を催す。その際、“臣下諸君が、本年も無事に過ごせるよう実を尽くすなら、それは報いられるだろう”と詔った。高市皇子が“実を尽くす”と応えた」と。
「仍対言得実、必有賜。於是。高市皇子被問以実対」???
相殿に櫛 玉 命と穂 雷 命を祭る。若宇加能売命 は,伊勢外宮の豊宇気比売大神と同神とされる。伊 勢外宮は三輪氏の祖により平定された丹波国(丹後・ 但馬)からの勧請とされる。伊勢での内宮外宮,諏 訪の上社下社と同様に,龍田と広瀬がおかれたこと も考えられる。
また若宇加能売命は,稲荷社の宇加之御魂神とも同 うかのみたまのみこと神とされる。書紀では,風の神に続いて,倉 稲 魂 命,すなわち稲の神が生まれたとされる。風の神と稲の神は近縁であることも,龍田と広瀬が祭られることが考えられる。また,若宇加能売命の名は,水をわか,あかということから,稲作に必要な水を示す呼 にぎはやひのみこと称の可能性もある。相殿の櫛玉命は饒 速 日 命であ り,物部氏の祖とされる。穂雷命からは,雷が想定 され,龍田の風神に対して,広瀬は雷神でもある。