衣通郎女

December 2014 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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応神天皇の皇子の 稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)「記」では若沼毛二俣王とある。 応神帝の皇子で母は、…

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コメント

  • 日本書紀が書き留めて、残されている衣通姫の歌二首
    「わが背子(せこ)が来べき宵なり 小竹(ささ)が根の蜘蛛(くも)の行い 今宵(こよい)著(しる)しも」
    「常(とこ)しえに 君に遇えやも いなさとり 海の浜藻の寄る時々を」

    和歌の神様?
  • 奴理能美
    聖徳太子の弟、麻呂子親王=当麻皇子の母親は、葛城広子。
    蘇我馬子も推古大王に、
    「葛城の県は私の元の本拠であり、
    その県にちなんで姓名を名乗っている(葛城臣馬子と言っている)」

    『日本書紀「垂仁天皇7年」条には、相撲で「当麻蹶速」を蹴飛ばした「野見宿禰」が載せられ、宇佐天満宮の放生会の相撲では、小男の「住吉神」が「牛頭天皇」を初め、並み居る神々をやっつける』


    『菅原氏は、当麻蹴速を相撲で倒した野見宿禰を祖とする「土師氏」の氏族です。桓武天皇の時代に、「大江」、「菅原」、「秋篠」の姓を賜り、そこから三氏族に分かれていきます。』
    ※野見=能美=のみの星=金星≠当麻

    改)『山城国綴喜郡の有力者は、古事記の仁徳天皇の記事に出てくる「筒木韓人」の「奴理能美」であり、その後裔は「新撰姓氏録」によると調氏〜調氏が奉斎した祖神が朱智天神であり、迦迩米雷はその倭名であると考えられる。』
    奴理能美裔調氏祖神=朱智天神=迦迩米雷?


    再)菟道稚郎子(応神天皇の子と入れ替わって大雀命になった)の妹、八田皇女に嫉妬した磐姫/磐之媛命(葛城襲津彦の娘)は亡くなるまで奴理能美のところに滞在。


    『多遅麻(但馬)の俣尾の娘前津見を娶して生める子、多遅摩母呂須玖〜次に清日子。この清日子、当麻の当摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶して生める子、
    須鹿之諸男(スガノモロオ)。次に妹、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)。』
  • November 2016 編集されました
    衣通姫尊(そとおりひめのみこと)とは

    衣通姫尊は第19代允恭天皇の后で、和歌の道に秀でた絶世の美女、とする。『古事記』に登場する允恭天皇皇女とは別人、となる。第58代光孝天皇の夢枕に衣通姫が現れて和歌の浦の歌を詠まれたため、光孝天皇により当社に合祀された。

    玉津島神社は、住吉大社、柿本神社と並ぶ「和歌三神(わかさんじん)」の社として、古来より天皇や上皇、公家、歌人、藩主など、和歌の上達を願う人々の崇敬を集めてきました。
    和歌三神とは和歌の守護神で、玉津島明神と住吉明神、柿本人麻呂の三柱の神をさします。この玉津島明神が、玉津島神社祭神の一柱「衣通姫尊(そとおりひめのみこと)」です。
    衣通姫は第19代允恭(いんぎょう)天皇の后で和歌の名手。さらに絶世の美女でした。その麗しさは、その名のとおり「衣を通して光り輝いた」といわれます。また美しいだけでなく大変心優しい女性でしたので、允恭天皇の寵愛を受け、次のような歌を詠んでいます。

    我が夫子(せこ)が 来(く)べき夕(よひ)なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕(こよひ)著(しる)しも

    とこしへに 君も偶(あ)へやも 漁(いさな)取り 海の浜藻の 寄る時々は(『日本書紀』)
    衣通姫を玉津島社にお祀りしたのは第58代光孝(こうこう)天皇です。天皇の夢枕に姫が現れ、次の歌を詠んだからといわれています。

    立ちかえり またもこの世に 跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波
    (『古今集序註』)
    (和歌三神を、玉津島明神と住吉明神と天満天神、または衣通姫と柿本人麻呂と山部赤人、とする説もあります)
    物語や能・狂言にも

    「小野小町(おののこまち)は、いにしへの衣通姫(そとおりひめ)の流(りゅう)なり」
    美女として名高い歌人・小野小町を、紀貫之(きのつらゆき)は『古今集仮名序(こきんしゅうかなじょ)』でこのように評しました。
    玉津島神社境内には、歌の上達を願う小野小町が同社に参詣した折、袖を掛けて和歌を詠んだという「小野小町袖掛けの塀」がありますが、和歌の神であり、たおやかな美女でもある衣通姫尊(玉津島明神)は能・狂言などで大きな役割を果たしてきました。
    能「鸚鵡(おうむ)小町」では、在原業平(ありわらのなりひら)が玉津島社で法楽の舞を舞ったことを知った小野小町が「われも」と玉津島社に参詣し、「草子洗(そうしあらい)小町」や「関寺(せきでら)小町」では衣通姫について語られます。
    「和歌の心を種として、和歌の心を種として、玉津島詣で急がん」と謡うのは、狂言『業平餅』の在原業平。謡曲『蟻通(ありどおし)』では紀貫之が、「我、和歌の道に交はるとは申せども、いまだ玉津島の明神へ参らず候ほどに」と玉津島社を目指します。
    さらに『源氏物語』や『宇津保物語』『平家物語』『源平盛衰記』『明徳記』などにも登場しています。『平家物語』では平維盛(たいらのこれもり)が、「衣通り姫の神とあらはれたまえる玉津島の明神」と語り、『源氏物語』で紫式部は、紫の上を和歌の浦・玉津島と関わりの深い女性として描きました。紫の上を衣通姫に喩えたのでしょうか。
    また樋口一葉は小説『十三夜』の中で、衣通姫と小町、西施(せいし)を美女の代名詞として扱いました。与謝野晶子も、美女が舞う「衣通姫」と題した詩を書いています。
  • 允恭天皇


    皇后の忍坂大中姫,子の木梨軽皇子、安康天皇、雄略天皇
    それぞれ個性的な人たちです

    允恭天皇は法・戒律を重んじ倫理面での厳しさがあります。
    兄の反正が崩御し皇位を継ぐ時、反正天皇の殯をさぼって酒宴をしていた玉田宿禰を誅殺しました。

    玉田宿禰は葛城襲津彦の孫でしたが、この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したと思われます。

    <允恭天皇陵>
    形状   :前方後円墳
    サイズ  :墳丘長227m、高さ23m
    築造時期:5世紀後半
    出土品 :埴輪
    被葬者 :允恭天皇

    允恭天皇は中国南北朝時代の「宋書」などの史書に記載される倭の五王の一人で、
    讚・珍・済・興・武の五人の済に比定されています。

    朝鮮半島の新羅への進行を重ね、王都を10日間包囲したり、宋に二度も朝貢し、倭国の朝鮮半島支配を認めさせています。

    允恭天皇の皇居は遠飛鳥宮と忍坂宮と考えられています。
    允恭天皇はそれらの皇居で司法の充実を図り、内政面での業績になっています。

    允恭天皇は皇后の忍坂大中姫の故郷・忍阪に宮を置いたときは、
    皇后のために刑部(おさかべ)を設置しました。

    刑部は忍坂部とも書き、皇居となった忍坂の宮で生活する皇后の雑用などに奉仕したり、
    訴訟・軍事の任に当たる武人などから構成されました。

    忍坂大中姫にとって刑部を得たことは、
    自分個人の軍隊を持ったも同然で、
    刑部を使って都祁直(闘鶏国造)を懲らしめ昔の個人的恨みを晴らしています。
  • 日本書紀が書き留めて、残されている衣通姫の歌は僅かに二首である。
    「わが背子(せこ)が来べき宵なり 小竹(ささ)が根の蜘蛛(くも)の行い 今宵(こよい)著(しる)しも」
    「常(とこ)しえに 君に遇えやも いなさとり 海の浜藻の寄る時々を」
    これらは、たしかに叙情性の豊かな歌であり、それなりに見事なものではある。しかし、神業と云わねばならぬまでのものとは考え難い。和歌の神様とされるほどの歌ではない。
  • November 2016 編集されました
    衣通郎女は允恭天皇の妃。
    出自は息長(おきなが)氏、父は稚野毛二派(わかぬけふたまた)王(若野毛二俣王)、母は息長真若中(おきながまわか)比売(母母思己麻和加中比売(ももしきまわかなかひめ))、姉が允恭天皇の大后忍坂大中姫(おっさかのおおなかつひめ)(踐坂大中比弥王)である。(括弧内は上宮記逸文の表記)

     允恭は反正亡き後、平穏に後を継いでいるいるのではない。書紀はこの時後継候補者として他にもう一人、仁徳と日向の髪長媛との間の子、大草香皇子が存在したことを述べ、允恭は再三にわたって皇位継承を辞退したが、群臣の推挙、后大中姫の決死の懇願を拒むことがてぜきず、遂に皇位を継いだと述べている。
     これは単に、彼を謙譲の人として描くものではなく、皇位は順当には日向系の大草香皇子に継がれるべきものであったが、その順位を覆して、本来は継承権のない允恭が継いだことを暗示するものである。

    息長氏が、わが娘婿の擁立に奔走することは当然である。そして、近隣の諸族、阿倍、大伴、物部、多、和邇などのを結集して允恭擁立を謀ったか???
  •  和歌山県隅田八幡宮所蔵の、かの有名な人物画像鏡の銘文「癸未年八月日十男弟王在意柴沙加宮時」云々は、「允恭天皇がその男弟とともに皇后の忍坂宮にいた時」(水野祐氏)あるいは「大草香王がその男弟とともに允恭皇后の忍坂宮にいた時」(神田秀夫氏)と解釈されているが、それらは、いずれにせよ、允恭の大草香に対する融和政策を暗示するものである。
     なお、允恭の後を継いだ安康天皇に至ると、彼は父允恭のこのような穏和な融和政策を歯がゆいものと考えて、一転して強行策に転ずる。すなわち、大草香皇子に云われもない濡れ衣の罪を着せて攻め殺してしまい、その妻を奪って自分の妻にすると云う荒技に出る。更に、安康天皇の後の雄略天皇は、大草香皇子が残した男児眉輪(まよわ)王(目弱王)をも殺害し、遂に髪長媛以来の隼人系を殲滅してしまうが、それは後日の話である。
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