近江毛野臣、継体天皇 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
近江毛野臣、継体天皇 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

継体天皇の三年には百済が任那領域のうち西半分のオコシタリ、アルシタリ、サダ、ムロ四県の割譲を要求してきた。日本が四県のうちのタリに派遣している国守の穂積臣押山(ホズミオミオシヤマ)が間に立って四県は日本から遠すぎるから百済に与えることで百済との関係が好転するはずと割譲を進言してきた。朝廷は結局これを許したが逆に任那諸国の日本への不信感を助長してしまった。翌年には任那の代表勢力、ハヒ国が日本の命も聞かず百済にすでに割譲していたコモンを奪取した。これには百済が激怒し日本に訴えてきたので日本は百済、新羅、任那の将軍と会盟しコモンばかりかタサまでを百済に割譲してしまった…

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コメント

  • 毛野と物部氏は密接な関係にある。物部私印が群馬県、毛野国から発見されていたり石田川式土器という東海系の土器が、上毛野地方に大量に出土することから推測できる。「弥生時代の上毛野には樽式土器を持つ先住民がいたが彼らはしだいに淘汰され、石田川式土器という東海系の移住者たちが毛野の王者にのしあがった。」(古代東国物語)永岡治
    桜井古墳から発見された土器なども東海系だから毛野の国を支配した物部氏系の首長級の人物が祀られたことは間違いないだろう。前方後方墳というのも大和王権系の前方後円墳に対抗して作られたものであり東海、関東、東北に多く残された。
  • 毛野は継体24年に任那から召還され、帰る途中病死した。毛野をケナと訓むのは、24年是歳条に毛野臣の妻がケナノワクゴと歌っているのによる。』

    『枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る』
    原文では『毛野の若子い』は『JIS+7A2A那能倭倶吾伊』で「毛野」は「JIS+7A2A那」となっています。

    新羅に破られた南加羅・喙己呑を回
    復するために、六万の大軍を率いる近江毛野を朝鮮半島南部に派遣しようとして、これが磐井の決起の原因となったという。六万の軍勢をヤマトから連れて行ったはずはなく、大部分は九州で徴発する予定であったろうから、これが筑紫の豪族の不満を爆発に導いたことは理解できる。しかし、五二七年には南加羅(金官国)はまだ滅びてはおらず、金官国の滅亡は五三二年とされている。継体天皇はまだ滅亡していない南加羅のために派兵しようとしたのであろうか。
  • 金太郎は、下毛野公時(しもつけぬきんとき)という、
    京都府長岡京市調子(旧山城国乙訓郡調子村)出身の相撲使であることが分かりました。


    今昔物語集 巻二十八第二 (1120年代以降の成立)
    今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等に、平貞道・平季武・坂田公時という三人の兵があった。
    古今著聞集 巻第九 武勇十二 (1254年頃に一旦成立し、後年増補)
    《源頼光、鬼同丸を誅する事》
    源頼光朝臣、寒夜に物へありきて帰りけるに、源頼信の家近くよりたれば、
    坂田金時を使にて「只今こそ罷り過ぎ侍れ。この寒さこそはしたなけれ。美酒侍りや」
    といひやりたりければ・・・
    出典は
    http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_203.html
  • 長岡京市の毛野氏

    『調子家由緒書』が記す「調子村」「丹波之石 田庄」「近江ニ而穴尾庄」は、中世において実際に下毛野氏の所領であっ たことが確認できる。

    飛鳥・奈良朝の豪族として知られた下毛野氏は、平安時代になると近 衛府の官人の職掌を世襲し、摂関家の随身として家人化していった。 下毛野氏は、たとえば、『江次第鈔』第二に見られるように、摂関家の大臣大饗において「鷹飼渡」を勤めた鷹飼の家としても知られている。 『続古事談』巻第五には下毛野公久が参入した鷹飼渡の説話が収められ ている。また、『古今著聞集』巻一六にも鳥柴を携えた下野武正が藤原 家成秘蔵の黒馬を下賜された説話が見える。あるいは、『徒然草』第 六六段には下野武勝が近衛家平に鳥柴の作法を申し述べるくだりも見ら れる。こうしたことは鷹飼としての下毛野氏が広く認知されていたこと
    を示す。

    ところで、中世以来、山城国乙訓郡において調子庄を支配した調子氏 は下毛野氏の直系を称し、摂関家の随身として近衛官人の官途を受け継いでいた。
  • 滋賀県高島町に宇伎多神社

    石岡市で発見された漆塗文書に久慈郡□伎郷は宇伎であり宇伎田でありこの元は滋賀県高島町に宇伎多神社にある。上野国の甘楽郡に宗(宇)伎郷というのがある。上野国の物部氏からの移動した郷ではなかろうか。浮田国造が志賀であることもそれを示している。つまりこれは滋賀県高島町に宇伎多神社を基として物部氏が上野国に移り常陸の久慈郡に移り陸奥の浮田国造となったという経路が推測されるのだ。この高島町には継体天皇と縁が深く金銅双魚佩が発見された。継体天皇と関係して真野にもたらされたとする説はやはり確率が高いのである。つまり桜井古墳は物部系の首長で金銅双魚佩が発見された真野の前方後円墳は大和王権の進出によってもたらされた。それは継体天皇を擁立した大伴氏であるから
    大伴氏が押す首長である。継体天皇の時代各地の有力者に配られたことは間違いないだろう。

    この毛野の祖の豊城命が三輪山に誓いをたて東国の蝦夷征服に出た。その三輪山は大物主命であり出雲の神なのだ。宇伎多神社も大国主だから出雲系の物部氏の奉ずるものかもしれない
  • 真野明神は祭神は草野姫命(カヤノヒメ)ですがこの姫神は比売許曾神社(ヒコソ)の祭神と同一神 コソが朝鮮語の社である。草野姫命とは焼き畑関係の神でもあった。あの辺でもともとは焼き畑が行われていたのかもしれない。唐神といいこれも韓国系の神社かもしれない。ここに帰化人の匂いを感じるのである。真野明神は前方後円墳に近くそこから金銅双魚佩が発見された、そこに韓国系の神社?があるとしたらそしてそこに笛一管を阪上田村麻呂が収めたという伝説も帰化人の関わりが感じられるのである。

    またなべかんむり山は日立に「かんぶり穴古墳」があり装飾古墳がある。イカツチとかんぶりと読むと「東国の古代」産鉄族オオ氏の軌跡という本で言っている。なべかんむり山オオ氏一族が移動して名づけたのである。そんなに古いのかとなるとなべかんむり山と伝承されてきた名前はそれだけの歴史が古さがあるということになる。最初はかんぶり山だったのがナベがあとからつけられたのか近江になべかんむり祭りがあり文字通りナベを頭にかぶる祭りなのだ。産鉄族が関係していたのである。烏崎(からすざき)も岩松氏の伝説でここに船で上陸した時ヤタ烏が導いたとあるがもともと烏崎という名がすでにあり烏崎だからわざわざ神武天皇の故事をここに利用したのである。地名はこのように古いものなのだ。地名が先にあって伝説があとから付け加えられたのだ。烏浜というのは多い。それは神武天皇が大和に導いたヤタ烏にちなんで名づけられたとすると古代に由来しオオ氏の進出と関係している。ここの烏浜もオオ氏の一団が名づけたものかもしれない
  • 身狭村主青(むさのすぐりあお)

    身狭=武射(むさ)国造がをり上総にその一族の残したらしい古墳群がある。武射郡もある。牡鹿の道嶋氏も武射氏系統である。「続日本記」に牡鹿郡の春日部が武射臣を賜姓したとある。この一族は房総半島から移住したらしい。桃生郡の横穴古墳群が東北地方では異質なもので房総半島にあるものとにている。それから東北に丸子部とのかかわりが深い、丸子は和邇氏の別名でもある。和邇氏は海人族であり丸子とは旗に○印を使っていたためともある。この丸子は牡鹿郡に集中しここからさらに東北に広がった。房総半島か常陸国の久慈郡辺から丸子部は海上を通って移住してきた。継体王朝-和邇氏-丸子部-真野と関係して石巻に真野の地名が伝播したかもしれぬ。真野の萱原というのは二つあっても不思議ではない。氏族の移動とともに郷名は伝播しているからだ。何故なら房総半島には小野真野なる人が国司として派遣されていたからだ。その移動もまたありうる。行方郡(相馬郡)の真野郷から移動したのかもしれぬ
  • 笛吹若宮神社 北葛城郡新庄町南花内24

    祭神 天香山命

     葛木坐火雷神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置き大彦命を北陸に差向けた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)がこの軍にしたがって都をたって寧楽山(奈良山)に着いた時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返えし天皇にこのことを報告した。建埴安彦は大彦命軍に属していたぞくしていた櫂子の射放つた矢で建埴安彦は討ち取られ、その妻の吾田姫は五十挟芹彦命によって討伐された。
     天皇は大いに櫂子の戦効を賞して天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を与えたと言う。
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