関東の吉備、伊許保止命、伊香保、毛野の有馬公 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 関東
関東の吉備、伊許保止命、伊香保、毛野の有馬公 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

吉備一族で国造として残ったものには、本国吉備地方の下道国造(備中国下道郡)、上道国造(備前国上道郡)、加夜国造(備中国賀夜郡)、三野国造(備前国御野郡)、笠国造(備中国小田郡)のほか、盧原国造(駿河国盧原郡。系譜に疑問あり,和邇氏族の出かその影響がある)、角鹿国造(越前国敦賀郡)、伊弥頭国造(越中国射水郡)である。吉備地方の国造は本来、吉備国造一つ(ないし吉備上道・吉備下道の二つ)であったのが、数次の叛乱などで分割されたのではないかとみられる。盧原・角鹿・伊弥頭の諸国造など東国の吉備一族は、日本武尊の東国遠征に随従した吉備武彦の子弟が遠征路上に置かれて始められたと伝える。
九州の国前国造(豊後国国埼郡)、葦分国造(肥後国葦北郡)も吉備一族とされる…

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  • February 2017 編集されました
    555年、朝廷は、大臣稲目、穂積臣磐弓を遣わして、吉備の五地域に屯倉(みやけ)を設けさせる。
    屯倉は、ヤマト王権の支配制度の一つで、全国に設置したのは直轄地だという事を表してもいる。後の地方の行政組織の先駆けとなっている。

    屯倉の周りの低湿地を開発して田地として、倭屯倉を造ったりした。5世紀頃よりと考えられている。

    562年1月、任那(みまな)日本府の衰退と滅亡。任那(伽耶)の宮家(日本府)が、新羅の真興王(新羅の第24代王)に滅ぼされた。
      朝鮮半島の新羅は、加羅諸国を支配下に押さえた。朝鮮半島の南東部は、すべて新羅の領域となった。
  • 『舟津神社』福井県鯖江市舟津町
     祭神は大彦命、崇神天皇の十年(前87年)、勅を奉じて、北陸道に下向し給い百姓を鎮撫して功あり。成務天皇四年(134年)、命の五世孫市入命に詔して、高志舟津郷に勅祭したまい、土地の郷名により社郷を船津神社と称す。
    相殿の「大山御板(オオヤマミイタ)神社」の祭神、猿田彦大神は大彦命進軍の節に神勅あり、大山の峰に楯を三方に建て、社形としてここに猿田彦大神を祭り、副将軍忍男彦を神主に定む。社司橋本家の祖先、すなわちこれなり。

    舟津神社は式内社として北陸最古の歴史を持つ古社だが、鯖江市の観光紹介では「崇神天皇の頃、北陸平定のために遣わされた大彦命を祀り、その折、賊に向って放った矢が「さばの尾」に似ていたことから鯖矢、そこから鯖江の地名が生まれたといわれています」と記している。
    『日本書紀』雄略紀に「高句麗に攻められた新羅の王が、倭国へ援軍の派遣を求めてきたので、膳臣斑鳩(カシワデノオミイカルガ)、吉備臣小梨(ヲナシ)、難波吉士(キシ)赤目子を勧めて、行きて新羅を救はしむ」とあるが、膳臣斑鳩の墓と想定されるのが福井県の5世紀末の前方後円墳「西塚古墳」である。
    副葬品は、位の高さを象徴する中国製の鏡、武将であることを示す甲冑(カッチュウ)、馬具、そして朝鮮半島製の金の耳飾り。墳丘には吉備(岡山)で作られた埴輪(ハニワ)が出土しており、副葬品から将軍として半島と関係を持ったこと、埴輪から吉備氏族と僚友関係があったことを示している。
  • 伊勢の坂本神社
    『新選姓氏禄』左京皇別下に「上毛野坂本朝臣 上毛野同祖。豊城入彦命十世紀孫佐太公之後他」とあり、一説に当地に来た佐太公の子孫である坂本朝臣の氏人等が自らの氏号を以て村名とし、ここに自身の祖とされる豊城入彦命(崇神天皇の皇子)の神霊を奉斎、産土神として祀ったのが始まりという。尚、当村の北に佐田村があり、また当社地は坂本朝臣の古墳であったとの伝承も残されている。ただし、豊城入彦命は『神社明細書』(昭和27年)に登載されておらず、一考を要する。江戸時代には天王社と呼称し、氏子の崇い崇敬を集めた。明治5年、村名に因んで佐賀茂登神社と改称。
    明治45年3月16日、当社は境内社の天雨拝現神社(または天瓊鉾社ともいう。<天一神、天白神>)、田中神社、八柱神社の3社とともに式内社とされる中麻績神社(現麻績神社。明和町大字中海鎮座)に合祀された。昭和43年11月3日、再び分祀、旧鎮座地に復し、今日に至っている。

    若麻績部君氏の先祖がどのように上毛野君から分れたのかは不明であり(毛野氏族の系譜の中でどのように位置づけるのかは不明)、諏訪氏や科野国造一族との関係も不明である。ただ、上毛野君氏の実系は、崇神天皇の後裔という皇別ではなく、海神族系の三輪氏族からの分岐であるから、諏訪氏族に通じるものがあり、『善光寺縁起』によると、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣して、そのままこの地に止まったということで、当地を三輪と称したとも伝える事情にもある。
  • 天佐自能和氣神社 があって日子刺肩別尊(彦狭嶋命)を祀る。 毛野氏後裔の佐自努公に関わる神社と見るのが自然で、吉備氏の 彦狭嶋命が神社で祀られるのは、毛野氏と吉備氏が同族である事 が理由と考えられる。またこの神社の近傍には、多祁御奈刀弥神社 があって、出雲国大原郡から移住した神門臣が当初は祀ったと 考えられる。
    吉備氏と神門臣族が四国(粟)から東国(阿波)へ移住したという事になる。
    佐自能神社は、新治国であった茨城にもあり、ここでも磯城県主と関係する神
    が祀られている。新治国内には、吉備氏の後裔の加茂部氏が神主を務める
    鴨大神御子神主玉神社があって、磯城県主の有名人太田田根子命を祀る。
  • 无邪志  武蔵 成務 出雲臣の祖の二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄多毛比命を国造に定めた
    胸刺   武蔵    岐閉国造の祖の兄多毛比命の子の伊狭知直を国造に定めた
    菊麻   上総 成務 无邪志国造の祖の兄多毛比命の子の大鹿国直を国造に定めた
    相武   相模 成務 武刺国造の祖の伊勢都彦命の三世孫の弟武彦命を国造に定めた

    上海上  上総 成務 天穂日命の八世孫の忍立化多比命を国造に定めた
    下海上  下総 応神 上海上国造の祖の孫の久都伎直を国造に定めた

    阿波   安房 成務 天穂日命の八世孫の弥都侶岐命の孫の大伴直大瀧を国造に定めた
    伊甚   上総 成務 安房国造の祖の伊許保止命の孫の伊己侶止直を国造に定めた
    新治   常陸 成務 美都呂岐命の子の比奈羅布命を国造に定めた
    高    常陸 成務 弥都侶岐命の孫の弥佐比命を国造に定めた

    茨城   常陸 応神 天津彦根命の孫の筑紫刀祢を国造に定めた
    師長   相模 成務 茨城国造の祖の建許呂命の子の意富鷲意弥命を国造に定めた
    須恵   上総 成務 茨城国造の祖の建許侶命の子の大布日意弥命を国造に定めた
    馬来田  上総 成務 茨城国造の祖の建許侶命の子の深河意弥命を国造に定めた
    道口岐閉 常陸 応神 建許侶命の子の宇佐比刀祢を国造に定めた
    筑波   常陸 成務 忍凝見命の孫の阿閉色命を国造に定めた

    上毛野  上野    崇神天皇の皇子の豊城入彦命の孫の彦狭嶋命は、東の十二国を平らげ国造に封ぜられた
    下毛野  下野 仁徳 毛野国を分けて上毛野・下毛野とし、豊城命の四世孫の奈良別を国造に定めた
    那須   下野 景行 建沼河命の孫の大臣命を国造に定めた
    久自   常陸 成務 物部連の祖の伊香色雄命の三世孫の船瀬足尼を国造に定めた

    武社   上総 成務 和邇臣の祖の彦意祁都命の孫の彦忍人命を国造に定めた
    印波   下総 応神 神八井耳命の八世孫の伊都許利命を国造に定めた
    仲    常陸 成務 伊予国造と同祖の建借馬命を国造に定めた(伊余国造は印幡国造と同祖とある)
    知々夫  武蔵 崇神 八意思金命の十世孫の知々夫命を国造に定め、大神をお祀りした

    関東以外でも、兄多毛比の子孫は「波伯(伯耆)・大嶋」で国造になっている。
    同様に、建許呂自身が「石城」で、建許呂の子孫が「道奥菊多・石背・周防」で、国造になっている。

  • 新撰姓氏録には30代敏達天皇と百済を結びつける記述は「大原真人 出自謚敏達孫百済王也」 という一文しかない。
    訳は「大原真人は、敏達天皇の孫の百済王の子孫」である。
    韓国人は 新撰姓氏録に敏達天皇の孫が百済王という名前の為、「敏達天皇も百済王族に違いない!」 と言っているけどまったくの別物。
    敏達天皇の孫の「百済王」は「百済宮」という宮の名前 から名づけられた単なる個人名。

    その証拠に彼には「春日王」と「難波王」という二人の兄弟がおり、彼らの名もそれぞれ 百済宮の近隣に存在した、春日宮と難波宮から名づけられた。
    同じ兄弟である百済王が百済宮 から名づけられた名である事は明白である。
    百済宮という宮殿がある。
    春日宮という宮殿がある 。
    難波宮という宮殿があったと云うだけの話。
  • 『新撰姓氏録』左京皇別に敏達天皇の孫として見える「百済王 (皇族)(くたらのみこ)」も彦人大兄皇子の子であることは確実だが、『古事記』に掲げられた系譜には見えないため、多良王(久多良王の久が脱落)や茅渟王と同一人に考える説がある。

    押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄とも。敏達天皇の第一皇子で、母は広姫。子に舒明天皇、茅渟王がいる。

    押坂彦人大兄皇子は
    蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた。用明天皇の崩御(587年)後に王位継承者として候補に挙がったとされるが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。ただし、『一代要記』や『紹運録』を基に逆算される舒明の生年(593年)とその弟の存在を考えると、592年の推古天皇即位後も暫く生存していたはずで、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。607年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ)が設置されているので、これ以前には亡くなっていたらしい。『延喜式』諸陵寮によれば、成相墓(ならいのはか、奈良県広陵町の牧野古墳か)に葬られた。
  • 『日本の古代2』によれば、

    毛野氏は三輪山の神を奉じて関東に来たという。毛野氏と三輪山の関係は、崇神天皇が後継者として豊城命と活目尊の見た夢で選ぼうとしたとき、両者とも御諸山に登った夢を見た事が日本書紀にあり、群馬県前橋市朝倉天神山古墳は古式古墳に属すが、大和の古式古墳は三輪山山麓地帯に集中しており、とくに注目されるのは、天神山古墳の後円部に墳頂に底部に孔をうがった土師器の壺がめぐっており、三輪山山麓の桜井市外山にある茶臼山古墳と同じ様相を伝えていることで、この事実は副葬品や墳丘の形態、さらに祭祀様式が三輪山麓から直接に毛野の地に伝えられたことを示し、それは在地の豪族が大和の文化を受容したというよりも、大和からの大豪族の移住を考えた方が理解しやすいし、毛野氏の祖が御諸山の神を奉じて東国統治のために毛野の地に赴任した、という伝承と一致するという。近年までの考古学的知見では、天神山古墳と類似の様相を持つ山梨県東八代郡銚子塚古墳、福島県会津若松市大塚山古墳の分布から四世紀後半の段階で、大和朝廷の勢力が中部・関東を経て東北南部まで達し、朝廷と密接に結びついた強力な地方政治勢力が出現したと考えられているという
  • 毛野氏は前方後円墳で那須国造は前方後方墳という違いはどこからくるのであろうか。

    前方後方墳について最近になって明らかになってきたことは、濃尾平野以東の東日本各地においては、古墳時代前期前半に営まれた古墳は、そのほとんど大部分が前方後方墳であり、少なくとも古墳時代前期前半の段階では、西日本の前方後円墳の世界に対し、東日本は前方後方墳の世界であったことが明確になってきたという
  • 下野の大神神社
    栃木県栃木市惣社町
    □祭神
    ヤマトオオモノヌシクシtマノミコト 倭大物主櫛玉命
    コノハナサクヤヒメノミコト 木花咲耶姫命
    ニニギノミコト 瓊々杵命
    オオヤマツミノミコト 大山祇命
    ヒコホホデミノミコト 彦火々出見命

     大神神社の創祀は崇神天皇四十八年(紀元前四九)といわれるが、不明。
     下野國では最古の神社といわれる。下野惣社大明神、惣社六所大明神、八島大明神などと称されている。延喜式神名帳の旧都賀郡に惣社大神神社とあるのが当社と推定されている。オオモノヌシノミコトを祖神とする古代出雲系氏族によって祀られた神だろうと推定する。オオモノヌシノミコトとオオナムチノミコトを同一神とする考え方があるが、安易に受け入れがたい。寧ろ、当地が大和(奈良県桜井市)に開かれた古代出雲とおなじ氏族の氏地だったと考えるほうが自然ではなかろうか。
     境内には、室の八嶋とよぶ八つの島があり、かつては池から煙が立ち上ったといわれる。それぞれの島に、筑波、天満、鹿嶋、雷電、浅間、熊野、二荒山、香取の八神を祀る小祠がある
  • 仁徳天皇の時代

    毛野地域の比定地である北関東では、古墳時代に数多くの古墳が築かれたことが知られる。特に群馬県内では、東日本最大の太田天神山古墳(群馬県太田市、墳丘長210メートルで全国26位)を始めとして、墳丘長が80メートルを越す大型古墳が45基、総数では約1万基もの古墳が築かれた。古墳時代の主な勢力には畿内のほかに毛野、尾張・美濃、吉備、出雲、筑紫、日向が挙げられるが、墳丘長200メートル以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、毛野のみであった。加えて畿内王墓に特有の長持形石棺の使用が見られることにも、毛野の特筆性が指摘される。

    また『日本書紀』には、崇神天皇(第10代)皇子の豊城入彦命に始まる上毛野氏(かみつけのうじ/かみつけのし)の伝承が記されている。その中で各人物は対蝦夷・対朝鮮の軍事・外交に携わっており、毛野の豪族がヤマト王権に組み込まれた後も王権内で重要な役割を担っていたことが指摘されている。

    鬼怒川
    川名は「毛野河」の転訛といわれ、毛野の境界線にあたるとされる。
    「毛野」の範囲は、一般には群馬県全域と栃木県南部と想定されている[1]。これは上毛野国(上野国)・下毛野国(下野国)の領域から那須地域(栃木県北部)を除いた地域にあたる。

    那須地域はのちの下野国には含まれたが、「毛野」からは除かれて議論される場合が多い。『常陸国風土記』には新治郡・筑波郡・信太郡条に郡境として「毛野河」の記載があり、これを鬼怒川(「毛野川」の転訛とされ)とその支流の小貝川を指すとして「毛野と那須との境」を表した名称とされる。一方『先代旧事本紀』「国造本紀」には、景行天皇(第12代)の時期に那須国造が設けられたと記されている。これは仁徳天皇(第16代)の時期に設けられたとも記す下毛野国造に先行することから、那須国造の領域は毛野に含まれなかったと解されている。そしてのちの令制国設置にあたり、下毛野と那須は新しい「下毛野国」としてまとめられたとされる。ただし、那須国造の存在を疑い、那須地域も含めて下毛野であったとする考えもある。

    一方古墳の様相からは、埼玉県北西部・栃木県南部は群馬県のものに類似しており、それら一帯が同一文化圏にあったと見られている。

    また、筑波の西は毛野川(鬼怒川)と連なり下毛野とも近接しており、毛野はある時期には那須地域の他にも常陸国の新治・白壁・筑波の一帯を含む地域であった可能性が指摘されている。4世紀後半から5世紀初め、この地域の前方後円墳は栃木県の小川・湯津上一帯と茨城県の筑波・柿岡一帯に分布しており、茨城県石岡市の丸山古墳と、栃木県那須郡那珂川町の那須八幡塚古墳は、墳丘の形や内部構造までが一致している。
  • 笠臣国造 ( 吉備 )
    かさのおみのみやつこ・かさのみやつこ【国造】
    [笠臣国造 ( 吉備 )]

    笠臣国造(笠国造)とは笠臣国(現・岡山県西部~広島県東部、笠岡市中心)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ)を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の皇子・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の後裔氏族であり、笠臣は鴨別命の後裔氏族として書かれている。また日本書紀には鴨別命が熊襲征伐の勲功により応神天皇より波区芸県主に封じられたとされているが、波区芸(はくぎ)がどこかは不明である
  • June 2016 編集されました
    上毛野(カミツケヌ) 国造
    豊城入彦命の孫の彦狭島命とあるが、豊城入彦命は崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクワシヒメ) の皇子で、日本書紀には母親は紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘、古事記は木の国の造の荒河刃弁(アラカワトベ)の娘と記している。
     また、彦狭島命は孝霊天皇の皇子(伊予皇子)で吉備氏だが、豊城入彦命の孫にも同名の彦狭島命がおり、もし同一人物であれば、孝霊と崇神も同一人物になるが、いずれにせよ、豊城入彦命も彦狭島命も安倍氏ではない。
    毛野国(ケヌノクニ)が上毛野国と下毛野(シモツケヌ) 国に分かれたが、上毛野国は現在の群馬県全域で、和銅六年(713年)「畿内七道諸国郡郷名は好字を着けよ」との命により『上野(コウヅケ)国』と表記を改めたが、後の『上野国造』壬生公は壬生古志で、新選姓氏録には「吉志は難波忌寸と同祖、大彦命の後なり」とある。
    国造本紀は上毛野と上野を混同しているのかもしれない。


    『上毛野国造』 豊城入彦(トヨキイリヒコ) 命の孫の彦狭島(ヒコサシマ) 命
    『那須国造』 建沼河 (タケヌマカワ) 命の孫の大臣命
    『筑波国造』 忍凝見(オシコリミ) 命の孫の阿閇色(アヘシコ) 命
    『高志国造』 阿閇臣(アヘノオミ)の先祖の屋主男心(ヤヌシオココロ)命。
    『高志深江国造』 道臣(ミチノオミ)と同祖の素都乃奈美留(ソツノナミル)命。
    『加宜国造』 能登国造と同祖の素都乃奈美留(ソツノナミル)命。
    『若狭国造』 膳臣(カシワデノオミ)の先祖の佐白米(サシロメ)命の子・荒礪 (アラト) 命。
    『能登国造』 垂仁天皇の皇子の大入来 (オオイリキ) 命の孫の彦狭島(ヒコサシマ) 命
    『針間国造』 稲背入彦(イナセイリヒコ)命の孫の伊許自別(イコジワケ)命
    『針間鴨国造』上毛野国造と同祖の御穂別(ミホワケ)命の子の市入別(イチイリワケ)命
    『筑志国造』 阿倍臣と同祖の大彦(オオヒコ)命の五世の孫の田道(タミチノ) 命

    上毛野国造と同祖の御穂別(ミホワケ)命の子の市入別命とあるが、『新撰姓氏録』は、景行天皇の皇子の稲背入彦 (イナセイリヒコ) 命の後。御諸別 (ミモロワケ) 命は成務天皇の代に針間国の半ばを賜り、針間別(ハリマノワケ)と号す。
    阿良都 (アラツ)命、一名は伊許自別(イコジワケ)命。応神天皇の代に針間別佐伯直を賜うと記している。
    御穂別命は御諸別命、市入別命は伊許自別命の誤記だと思われるが、安倍氏族にも市入別命に類似した市入命がいる。ただ、兵庫県と石川県と地域が異なる。
  • 上毛野国造と同祖の御穂別(ミホワケ)命の子の市入別命とあるが、『新撰姓氏録』は、景行天皇の皇子の稲背入彦 (イナセイリヒコ) 命の後。御諸別 (ミモロワケ) 命は成務天皇の代に針間国の半ばを賜り、針間別(ハリマノワケ)と号す。阿良都 (アラツ)命、一名は伊許自別(イコジワケ)命。応神天皇の代に針間別佐伯直を賜うと記している。
    御穂別命は御諸別命、市入別命は伊許自別命の誤記だと思われるが、安倍氏族にも市入別命に類似した市入命がいる。ただ、兵庫県と石川県と地域が異なる。
  • December 2016 編集されました
    [古代史俯瞰](http://tokyox.matrix.jp/wordpress)]
  • <○ 毛野氏族はその分布からみて、大阪湾岸の茅渟地方にその起源をもち、血沼之別の流れとみられる。御諸別命より以前の系譜は難解であるが、三輪君一族との同質性がかなり濃く見られる。
    毛野前代の系譜については、世代などから推定して、磯城県主の支流で彦坐王と同祖とみられる多芸志比古命に出て、その孫が豊城入彦命(能登国造の祖・大入杵命にあたるか)、その子に八綱田命(吉備氏族の祖・彦狭島命と同人)であり、これが御諸別命の父ではないかとみられる。また、八綱田命の兄弟が能美津彦命、その子が能登国造となった彦忍島命(大矢命)か。
    なお、彦狭島命とは吉備下道系の祖たる稚武吉備津彦命と同人であり、毛野は吉備の分流であることが分かってきて驚いている。

    ○ 毛野氏族の分布は、起源地の茅渟地方を出て摂津・河内に入り、近江から北陸道(特に能登)、信濃を経て毛野地方(上野、下野の両国)に到る経路をとって、畿内から東国へと続いていたとみられる。
    東国では、両毛に限らず、隣接する常陸西部や信濃における一族の分布も濃く、さらに下総にも分布が及んでいた。毛野では鈴鏡・鈴杏葉など鈴をつけた祭祀具が用いられ、古墳の埋葬品や埴輪にみられるが、この鈴文化圏は両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部にも及んでいたことがしられる
  • May 2018 編集されました
    伊許保止命は、新撰姓氏録では穂日命の末裔とされる。伊許保止命は、神名帳考証によると、群馬県渋川市(上野国群馬郡)にある伊香保神であると言う。伊香保神社の祭祀を行ったと考えられるのは、上毛野氏の阿利真毛野氏でその元となる毛野氏は、系譜研究家の宝賀寿男氏によると、事代主の後裔である磯城県主の系譜であると言う。

    その証拠に、上野国の式内社には、磯城県主・事代主の一族を祀った神社が数多くある。


    先代旧事本紀によると、成務朝に伊許保止命が阿波国造(房総半島)に任じられたという。またその孫は、伊甚国造となっている。

    伊許保止命は、出雲臣の東国分派で、新撰姓氏録では穂日命の末裔とされるが、富家の伝承によると穂日命ではなく、大名持命の子孫であると言う。

    伊許保止命は、神名帳考証によると、群馬県渋川市(上野国群馬郡)にある伊香保神であると言う。伊香保神社の祭祀を行ったと考えられるのは、上毛野氏の阿利真毛野氏でその元となる毛野氏は、
    系譜研究家の宝賀寿男氏によると、事代主の後裔である磯城県主の系譜であると言う。
    その証拠に、上野国の式内社には、磯城県主・事代主の一族を祀った神社が数多くある。宝賀寿男氏は、吉備族や能登国造もルーツは磯城県主であるとする。

    吉備族は、私は磯城県主と倭直の混合であると見ますが。上野には孝霊天皇(太瓊)の子である彦狭嶋命を祀る三島神社も多く、また新川臣(吉備族)の石碑(「上野三碑」と呼ばれる石碑の一つ
    である「山ノ上碑」)もある。

    実は、能登にも阿波国造の祖である伊許保止命が祀られている。

    現在七尾市にある大地主神社には地主神として伊許保止命が祀られている。
  • 伊甚国造(いじむのくにのみやつこ・いじみのくにのみやつこ・いじむこくぞう・いじみこくぞう)
    上総国東部を支配した国造。伊自牟国造とも。
    祖先
    建比良鳥命。成務朝に阿波国造の祖伊許保止命の孫の伊己侶止命が伊甚国造に任じられたという。
    氏族
    春部(春日部)氏か。出雲国造・遠淡海国造・上菟上国造・下菟上国造・无邪志国造・阿波国造などと同系。
    後裔
    伊甚稚子・・・・古墳時代の豪族。安閑朝の伊甚国造。
             過失のため伊甚屯倉を春日山田皇女皇后に献上したという。

    伊甚国造は安房国造祖伊許保止命孫 伊己侶止直
    上総国東部 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に安房国造(やすふさのくにのみやつこ)の先祖の伊許保止命(いこほとのみこと)の孫の伊己侶止直を国造に定められた。
  • 宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』―
     夏四月一日、内膳卿膳臣大麻呂(かしわでのつかさのきみかしわでのおみおおまろ)が勅命をうけて使を遣わし、真珠を上総の夷隅(いすみ)にもとめさせた。夷隅の国造らは、京に出てくることが遅く、長らくたてまつることがなかった。膳臣大麻呂は大変怒って、国造らを捕え縛ってそのわけを質した。国造稚子直(わくごのあたい)らは恐れかしこまって、後宮の寝殿に逃げかくれた。春日皇后は、知らない者にだしぬけにはいって来られて驚き、息をはずませて倒れてしまわれた。そしてひどく恥ずかしく思われた。稚子直らはみだりに宮中にまぎれ入った罪で、罪科は重大であった。恐れつつしんで、もっぱら皇后のために、夷隅の屯倉(みやけ)を献上し、乱入の罪を償いたいとお願いした。それによって夷隅の屯倉が設けられた。いま、これを分けて郡とし、上総国に属している。

    これによって時の夷隅国造―伊甚國造―の名が「稚子直」なる人物であったこと、真珠が夷隅の献上品であったこと、27代安閑天皇の御世に屯倉が設置されたこと、言い換えればこの時期に事実上ヤマトの直轄地になったことがわかります。
     ちなみに、「真珠」の部分は、原文に「珠(たま)」とのみあります。一応岩波文庫版の注釈でも「真珠」とありますが、もしかしたら夷隅国造家の神宝を意味するものであったかもしれず、ゆえに献上を躊躇していたのかもしれません。神宝であれば、献上は服属を意味するものであるからです。
     ところで安閑天皇といえば、出雲神族直系を称する富家では「出雲系の天皇」と伝えられているようです。もっと言えば前代の継体から次代の宣化までの三代が出雲系なのだそうです―吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』―。
  • May 2018 編集されました
    伊甚神社(いじむじんじゃ)
    出雲国の伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)に祀られている伊甚神社
    ●所在地 島根県松江市宍道町伊志見
    ●創建 天平5年(733)以前
    ●主祭神 大歳神(おおとしかみ)
          稲倉魂命(うがのみたまのみこと)
          武御名方命(たけみなかたのみこと)

    ●境内合祀 美濃神社
    ●通称 三社大明神
    『出雲風土記』に、伊自美社、『延喜式』神名帳では伊甚神社と記録されている。

     『出雲風土記』が編纂されたのは、天平5年(奈良時代・733年)であるから、伊甚神社が創建されたのはこれよりさかのぼった時期と考えられる。推測だが、元明天皇の和銅年間、すなわち第一回目の平城京遷都(710)ごろではないだろうか。創建・造営の主体者は、伊志見(伊甚)国造(くにのみやつこ)とされている

    鎌倉時代になると、当然ながら出雲国においても、幕府御家人関係の諸族が当地に下向し、いわゆる地頭職として主だった地域を支配下に治めることになる。
     具体的には伊志見郷に隣接する佐々布郷は、佐々布左衛門入道子(佐々布氏・佐々布要害山城(島根県松江市宍道町佐々布)その1参照)、来待荘は別府左衛門妻、宍道郷は成田四郎某(『千家文書』)などとなっている。このうち、別府氏や成田氏はともに武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県東部)を本拠とするいわゆる東国御家人である。


    志見郷は杵築大社領(国造・出雲氏)とされ、所領支配者が大幅に変わった承久の乱(1221年)後も、以下のように記録されている。

     康元元年(1256)、国造・出雲義孝と惣検注使・証恵、杵築大社領(下記)を注進する
    遙堪郷・高浜郷・稲岡郷・鳥屋郷・武志郷(新田郷・別名村)
    出西本郷・求院村・北島村・富郷
    伊志見村・千家村・石墓村
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