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言代主命は出雲の神である。 味耜高彦根命・下照姫命・事代主命・高照姫命はオオクニヌシと素盞嗚尊・ムカツヒメの娘である三穂津姫との間にできた子である。
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コメント
=天村雲命。天五田根(あめのいたね)、 天五多手(あまのいたて)とも。
タカクラシタとユリ姫 (イスキヨリ姫) の子。
アメオシヲの父。
新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦、彌彦神社摂社、武呉 (タケクレ) 神社。
香川県高松市一宮町、田村 (タムラ) 神社。
徳島県吉野川市山川町村雲、天村雲 (アメノムラクモ) 神社。
京都府城陽市水主宮馬場、水主 (ミズシ) 神社。
『旧事』この命は、阿俾良依姫(アヒラヨリヒメ) を妻とし二男一女を生む。天忍人命、天忍男命、忍日姫命。
式内社、駿河国三宮で、旧社格は県社。
三保の松原の「羽衣の松」に関係する神社として知られる。「みほ」の字は、「御穂」のほか「御廬」「三穂」「三保」にも作る。
神社境内と参道(神の道)は世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つ「三保の松原」の範囲に含まれている。
祭神2柱
大己貴命 (おおあなむちのみこと、大国主) - 別名を「三穂津彦命(みほつひこのみこと)」とする。
三穂津姫命 (みほつひめのみこと)
祭神は『延喜式』神名帳では1座。また『駿河雑志』では、「御穂津彦」「御穂津姫」の2柱とする。
創建は不詳。『駿河雑志』では、日本武尊が勅により官幣を奉じ社領を寄進したとも、出雲国の御穂埼(現・島根県松江市美保関町)から遷座した神であるとも伝えるが明らかではない
国史では神名を「御廬神」として、貞観7年(865年)に従五位下から従五位上へ、のち元慶3年(879年)に正五位下へ神階が昇叙されたという記事が見える。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では駿河国廬原郡(庵原郡)に「御穂神社」と記載され、式内社に列している。
寛文年間(1661年-1673年)頃の偽書とされる『駿河国風土記』では、「日本武尊奉勅供官幣、始献圭田五百畝、為国之三宮」と記載されていることから、当社は駿河国において富士山本宮浅間大社(一宮)、豊積神社(二宮)に次ぐ三宮の地位にあったと推測されている[6]。ただし、同記でそのように記す根拠は明らかとなっていない。
中世の史料としては文保3年(1319年)の飯室乃神社蔵の鰐口がある。この鰐口では「三保大明神」と見え、神主の息長氏女から施入されたという。また、応安3年(1370年)には神木の伐採禁止と違反者捜索が伊達景宗に命じられているほか、弘治3年(1557年)には山科言継が今川義元の勧めで「三浦之大明神」と記される当社に参詣し、禰宜の大田氏(太田氏)に礼を遣わしている。
久佐奈岐神社
【住所】静岡県静岡市清水区山切 101
【祭神】日本武尊 (配祀)弟橘姫命 吉備武彦命 大伴武日連命 膳夫七掬脛命
【例祭】10月17日 例大祭
【社格】旧郷社
【由緒】景行天皇御世の創建
成務天皇元年官幣
貞観元年(859)従二位
永享4年(1432)足利義教富士御覧で参詣
明治6年3月郷社
由緒
庵原川流域は古代には廬原の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原古墳群の立地する丘陵に囲まれたこの平野であります。当社は人皇第十二代景行天皇の時代(西暦110年、約1884年前)に詔勅により皇子日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けたとされる旧蹟の地にあります。
創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が後に其の功績により廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し日本武尊を祀ったのが創祀とされ、其の後お供として東征に随行した姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。
文献上の記録では風土記に第13代雅足彦(成務天皇)の元年(西暦133年、約1861年前)に官幣を奉るとあり、異本類聚六国史に清和天皇、貞観元年(西暦859年、1135年前)久佐奈岐神社従二位を授くとある。延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施工細則)神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記載されており、式内社であります。昔は有度の草薙神社に対し、東久佐奈岐神社、或いは東久佐奈岐大明神等と称えられたこともありましたが、明治6年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。
御神体
本殿に四柱の御神像が鎮座されており、これは朝廷より賜った貴重なもので開披してはならないとの言伝があります。
境内社
稲荷社 宇迦之御魂命
白髭社 武内宿弥
天満宮 菅原道真
雨之宮 天之水分神 国之水分神
津島社 須佐之男命 稲田比女命
金刀比羅社 金山彦命 大国主命
今宮社 素嗚命 稲田比女命
九万八千霊社 東征軍の御供の諸神
事比羅社 金山彦命 大物主命 少彦名命
雨之宮 志那都比古命 志那都比賣命
豊由氣(とよゆけ)神社(清水区庵原町)。
延喜式神名帳にのる神社で、由緒に「謹テ舊記ヲ按スルニ今ヨリ凡一千八百六十三年ノ昔、人皇第十二代景行天皇ノ御宇皇子日本武尊御東征ノ砌、廬原郷ニ豐積神社或ハ止由氣神社トシテ豐受大社ヲ祭ラセ給ヒ、同時ニ安倍郡神部神社ニ天照大神ヲ祭ラセ給ヒ即両宮ヲ廬原安倍ノ國ニ祭リ給ヒシヲ以ツテ二ノ宮と稱セリ相殿一ノ宮ハ後ニ至リ勧請セシモノナリ」とあります。
庵原小学校の北西に鎮座する郷社です。入口に神明鳥居が立ち階段を登ると境内で、正面に拝殿があり拝殿の後方に一段高く垣に囲まれて流造の本殿があります。創祀年代は不詳ですが、社伝によりますと景行天皇の御代、日本武尊東征のおりに安倍郡神部神社に天照大神を祀り、当地に、豊受大神を祀ったとされています
庵原のトガジンジャ
事代主命~阿太賀田須命-和仁古-姥津媛命-日子坐王(粟鹿神社社家)-丹波道主王-朝廷別王(砥鹿神社社家/草鹿砥家祖)
砥鹿神は、静岡県清水市と愛知県豊川市、愛媛県今治市菊間町において祀られています。
静岡県清水市の砥鹿神社
砥鹿神社の鎮座地は律令制以前は、庵原国と呼ばれていました。
庵原国造の末裔という庵原氏は、現在草ヶ谷姓を名乗っております。
庵原国造家の古墳とも伝わる、三池平古墳の直下にある砥鹿神社は明治七年に砥神神社と名を改めたが、元々は庵原氏の氏神であったと言われます。
寛永諸家系図伝によれば、庵原氏は彦狭島命を祖とする越智姓です。
越智氏が氏神として砥鹿神を祀る事を考えるとき、系譜に現れる「粟鹿」と「伊但馬」いう名が特徴的で但馬の粟鹿神=砥鹿神を祀る一族であった事が系譜の名からも伺えます。
美保神社(みほじんじゃ)は、島根県松江市にある神社である。式内社で、旧社格は国幣中社。
事代主神系えびす社3千余社の総本社であると自称
右殿に大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫命を祀る。
(三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である「大物主神」の后神。事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので義理の母親にあたる)
『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。
元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる
本殿2棟の間に末社・大后社があり、3社5神(大后社 神屋楯比売命,沼河比売命、姫子社 媛蹈鞴五十鈴媛命,五十鈴依媛命、神使社 稲脊脛命)を祀る。
祭事
青柴垣(あおふしがき)神事・諸手船(もろたぶね)神事は国譲り神話に因むものである
12月の諸手船神事は、大国主命が国譲りの是非を相談するため息子の言代主神に使者を送ったという故事を再現、4月の青柴垣神事は、国譲りを決めた言代主神が船を青柴垣に変えてその中に身を隠すが、再び神として甦る様子を再現している。1年間鶏肉鶏卵を避け、毎日海で身を清めた2人の当屋が前日から断食し、青柴垣を飾った2隻の船に乗り、港内を一周後、美保神社に参拝、奉幣する。
ヌナカワヒメ
『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。
『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。
『出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。
越後国頸城郡の式内社に沼河比売を祀る奴奈川神社がある。天津神社境内社・奴奈川神社をはじめ、新潟県糸魚川市内に論社が3社ある。
ある人が「事代主の神、三島の溝橛耳の神の娘・玉櫛媛に共ひて生める児、号を媛蹈鞴五十鈴媛命と日ふ。 こは国色秀ぐれたる者なり』と勧め、王妃としたとある。
別名
富登多多良伊須須岐比売命:ほとたたらいすすぎひめのみこと
比売多多良伊須気余理比売命:ひめたたらいすけよりひめのみこと
伊須気余理比売命:いすけよりひめのみこと
……
神武天皇の妃。日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命(のちの第二代・綏靖天皇)の母。 『日本書紀』では、神八井命、神渟名川耳尊(のちの第二代・綏靖天皇)の母。
神武天皇は橿原宮で即位されたあと、新たに皇后とする娘を捜されていた。 そこで、大久米命が富登多多良伊須須岐比売(比売多多良伊須気余理比売命)をすすめた。
三島溝咋の娘に、勢夜陀多良比売と呼ぶ大変美しい比売がいたが、この比売を三輪の神(大物主神)が見染めて結婚した。 そして生れた子神が富登多多良伊須須岐比売である。
甘奈備の飛鳥の社とも。『延喜式』に「飛鳥坐神社四座並名神大。月次。相嘗。新嘗。」とある。祭神四座には諸説がある。出雲国造神賀詞に「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天」とみえ、『日本紀略』に天長六年(八二九)、神託により、もとの雷丘から今の鳥形山へ遷祀したと。貞観元年(八五九)正四位下を授けられる。二月第一日曜日におんだ祭(お田植神事)があり、予祝儀礼と夫婦和合の所作がある。
-『神社辞典』-
国のまほろば大和の国に古代より皇室の守護神と して鎮まります当神社の主神、事代主神は恵美須神 の御名で世に広く知られております。大国主神の第 一子で父神とともに力を合わせ、この国土を拓き民 の衣、食、住は勿論、その他万物の生きるための基 礎作りをされた大神であります。
古典によりますと、神代の昔皇祖天照大神が皇国 の基を定めようとされ、大国主神のもとに国土を天 の神に奉るよう御使を遣わされました。大国主神は その事を事代主神に相談され、そのすすめによって 国土を捧げられました。そうして大国主神は、わが 子事代主神を数多くの神々の先頭に立たせ皇祖に仕 えさせたならぱ、皇祖の国づくりに逆らう神は無い であろうと、皇室の近き守護神として事代主神とそ の娘神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈留美神)の神 霊を奉斎なされたのが当神社の創建であって、実に 神代から続いている大社であります。
前述のごとく、この飛鳥の地に永く郡のあったことと神代に当社がこの地に創建されたとする伝承とは決 して偶然ではなく、すでに神代の昔から大和の国は将来都と定めるべき美地なることを父神の大国主神は予 知されていたのであります。以来事代主神、飛鳥神奈備三日女神を始め四柱の神々は協力して皇室の守護を はじめ、日本人に生活のあるべき道を教え、農業、工業、商業など、産業振輿の神として、その由緒の顕著 なことは多くの古書に記述されているところであります。特に子宝、緑結ぴ、厄除、治病、製薬、交通安全、 商売繁昌、家内安全、夫婦和合等、専ら国利民福の増進を図られ、その御神徳は著しいものであります。
当社は、天武天皇朱鳥元年七月に天皇の御病気の平癒を祈る奉幣があったことにも示されるように、皇室 の近き守り神として奉祀され、天長六年に神託により神奈備山より現今の鳥形山へ遷祀されました。延喜式 によれば名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨等の奉幣に預かり、祈年祭には特に馬一匹を加え られました。正平元年八月後村上天皇より金五十枚を賜わり中ノ社が再建されております。このように朝廷 でも一般でも広く尊崇せられたことが察せられます。
降って寛永十七年(一六四○)に植村家政が高取城主として封ぜられると、当社がその城の鬼門にあたる ため、特に深く信仰されました。元緑頃には境内に末社五十余社が存したが、享保十年(一七二五)に本社、 末社ともに火災に会い、社殿の大部分が焼失したので、安永十年(一七八一)城主植村出羽守家利が再建し、 天明元年(一七八一)正遷宮が行なわれました。これが現存の社殿であります。このように古代から数々の 変遷を経て今に至っています。
※相嘗祭……朝廷の特別に尊崇された大社に新米を奉られる祭である。名神社三、一三二座中僅に七一座に 限られている。
-由緒書きより-
鎮座地:奈良県高市郡明日香村大字栢森字堂ノ上358
御祭神:加夜奈留美命。加夜奈留美は、高照姫の一名だという。
[注]高照比賣命:
旧事本紀によれば、大己貴神の御子で、母は宗像の邊津宮に坐す高津姫神。
古事記には、大國主神と多紀理毘賣命との間に生まれた高比賣、またの名下光比賣命がある。
この下照姫命と高照姫命とは同一女神に坐すとする説がある。
これは日本書紀の神代上、第八段「第六の一書」にある文章ですが、神武帝の即位前紀にも同様の文言があり、古事記は娘の名前を勢夜陀多良比売とし、児の名は比売多多良伊須気余理比売と伝え、父親は事代主命ではなく「美和の大物主神」そのものだったとしています。
神武と大物主神では余りにも「時間差」があり過ぎて、その分だけ信憑性も損なわれると言えますが、要は、
神武帝の倭入りの先導役を果たした八咫烏(賀茂建角身命)は、天孫一族天津彦根命の子陶津耳命と同神であり、
天日鷲(翔矢)命あるいは少彦名命更には三嶋溝杭命も同じ神の別名に過ぎない。
つまり、倭の先住勢力を代表する事代主命が妻とした女性は、天孫族(天照大神~天津彦根命~少彦名命)の血を受け継ぐ貴種の一人だったのです。
大物主命を大国主命の「幸魂奇魂」と見做す(別名)ことによって二柱の神々を融合させたお蔭で、古事記が語る「国譲り」の場面でオオクニヌシに代わって事代主命が天孫側との交渉役(行事)を演じることも可能になった訳です
(婚姻譚が事実であれば、事代主は少彦名=天日鷲=八咫烏の娘婿になったのです)。
伝承では事代主命が「八尋熊鰐に化」したとありますから、この二神は同体のはずなのですが社では別神として祀られています。
すなわち大穴持命の申したまわく『皇御孫の命の静まりまさん大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り付けて、
倭の大物主櫛甕玉の命と名を称えて、大御和の神なびに坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根の御魂を、葛木の鴨の神なびに坐せ、
事代主の命の御魂を宇奈提(うなて)に坐せ、賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて、皇孫の命の近き守神と貢り置きて、、、、
古事記が伝える「大国主の神裔」を参考にすると、彼が八島牟遅能神の娘で鳥耳神(鳥取神)を娶って産まれた神様に鳥鳴海神がいます。賀夜奈流美との類似点は「ナルミ」の部分だけなのですが、事代主命と同世代の神であり、かつ古事記が阿遅須伎高日子根神、事代主神に次ぐ三番目の児として上げている重要な存在でもあって、大国主の系譜そのものが鳥鳴海神の子・国忍富神の血統を通して遠津山岬多良斯神まで伝えられています。社伝にある「ゑびす」神云々の言い伝えは事代主命と、彼の義父・少彦名命のいずれもが「ゑびす」神として信仰されてきた経緯を示すものではないのか、と思えてなりません。神田明神が今も「ゑびす」として少彦名命を祭っているのは何よりの証ではないでしょうか。この推理を支える傍証としては、①少彦名命(三嶋溝杭と同神)が事代主命の舅であること、②少彦名命の父である天津彦根命(天若日子と同神)の妻は、三輪族の頂点に在った阿遅須伎高日子根神の妹(高姫、下照姫)であり、彼自身にも倭家の血が流れていたこと、③出雲国造家が伝えた祝詞にある「飛鳥」の聖地に天香久山神社が建てられ少彦名命が祀られていること、④大国主命の神裔だとされる鳥鳴海命および国忍富命の神名が、少彦名命の兄・天目一箇命の子孫である三上祝家の系譜の中に取り込まれ混在していること、等々を挙げることが出来ます。
オオクニヌシ神(オオナムヂ神)は稲羽のヤガミヒメ命(前述)と、さきの約束のとおり結婚した。それで稲羽国からヤガミヒメ神を連れてきたが、ヤガミヒメ神は正妻のスセリビメ神を畏れ、生まれた子供を木の三又の枝に挟んで故郷の稲羽国に帰ってしまった。
木俣神(御井神)
・オオクニヌシ神とヤガミヒメ命の御子
・木俣は木の神、御井は泉の神、山の泉の神
八千矛神(やちほこのかみ=オオクニヌシの別名)が越の国の沼河比売命(ぬまかわひめのみこと)と結婚するため、越の国に出向き、家の外で互いに歌を歌いあったが、その日は会わずに、次の日に会い、結婚したといわれている。この結婚に対しても正妻のスセリビメ神は嫉妬し、こちらもオオクニヌシ神と問答歌で歌いあったという。
沼河比売命
・オオクニヌシ神の妻
・建御名方神の母神という
オオクニヌシ神は多紀理比売命(たきりびめ=スサノヲ神の子、宗像三神の一神、前述)や神屋楯比売(かむやたてひめ)、八島牟遅能神(やしまむぢ=スサノヲ神・イナダヒメの御子、前述)の娘である鳥耳神(とりみみのかみ)を妻として次々と御子をお生みになった。
阿遅耜高日子根神、阿遅志貴高日子根神(迦毛大神)
・オオクニヌシ神とタキリビメ命の御子
・後にアメノワカヒコの喪に登場する
・都都古別神社(国中、福島棚倉)とされている(ただし祭神名は都都古和気神)
高比売命(下光比売命)
・阿遅耜高日子根神の妻
・高鴨神社(県社、奈良御所)
神屋楯比売命
・オオクニヌシ神の妻
・事代主命の母神
事代主神
・オオクニヌシ神とカムヤタテヒメ命の御子
・神意(出雲の大地母神カミムスビ神の意志)を伺う託宣の神として国譲りの際に活躍(後述)
・海の神、商業の神、託宣の神、事を知る神
・恵比寿さまになぞらえられている
・三島大社(官大、静岡三島)長田神社(官中、兵庫神戸)美保神社(国中、島根美保関)
大国主神・多鳥耳神系統(須佐之男神・櫛稲田比売命直系)
鳥耳神
・八島牟遅能神(須佐之男神・櫛稲田比売命の御子)の娘
・オオクニヌシ神の妻
鳥鳴海神
・オオクニヌシ神と鳥耳神の御子
日名額田毘道男伊許知邇神
・鳥鳴海神の妻
国忍富神
・鳥鳴海神と日名額田毘道男伊許知邇神の御子
葦那陀迦神(八河江比売)
・国忍富神の妻
速甕之多気佐波夜遅奴美神
・国忍富神と葦那陀迦神の御子
前玉比売神
・天之甕主神の娘
・速甕之多気佐波夜遅奴美神の妻
甕主日子神
・速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売の御子
比那良志毘売神 ひならしびめのかみ
・淤加美神の娘
・甕主日子神の妻
多比理岐志麻流美神 たひりきしまるみのかみ
・甕主日子神と比那良志毘売の御子
活玉前比売神 いくたまさきひめのかみ
・比比羅木之其花麻豆美神の娘
・多比理岐志麻流美神の妻
美呂浪神 みろなみのかみ
・多比理岐志麻流美神と活玉前比売神の御子
青沼馬沼押比売 あおぬまうまぬまおしひめ
・敷山主神の娘
・美呂浪神の妻
布忍富鳥鳴海神 ぬのおしとみとりなるみのかみ
・美呂浪神と青沼馬沼押比売の御子
若尽女神 わかつくしめのかみ
・布忍富鳥鳴海神の妻
天日腹大斜度美神 あめのひばらおおしなどみのかみ
・布忍富鳥鳴海神と若尽女神の御子
遠津待根神 とおつまちねのかみ
・天狭霧神の娘
・天日腹大斜度美神の妻
遠津山岬多良斯神 とおつやまさきたらしのかみ
・天日腹大斜度美神と遠津待根神の御子
諏訪神
・オオクニヌシ神と越の沼河比売神(前述)の子という(旧事記)
・こちらも藤原氏のタケノミカヅチ神の武威を高めるためにおとしめられた神とされている
・もともとは有力な軍神、武神であり東日本を中心にその武威、神威がとどろいている
・諏訪大社二社四宮、上社・・・本宮、前宮、下社・・・春宮、秋宮(官大、長野諏訪)他、全国各地の諏訪神社
八坂刀売神 やさかとめのかみ
・タケミナカタ神の妻
少名毘古那神(小彦名神)
・カミムスビ神(前述)の御子、小さき小神
・農耕神、温泉神、酒神、医療や禁厭の法を制定した神
・大神神社(官大、奈良桜井)札幌神社(官大)台湾神社(官大)樺太神社(官大)酒列磯前神社(国中)他
オオクニヌシ神とともに仕事をしたスクナビコナ神は淡島(島根米子とも瀬戸内ともいうが場所不明)で粟の茎にのぼり、その弾力ではじき飛ばされるように常世の国に渡ったとも、熊野の御碕から常世の国に帰ったともいう。
オオクニヌシ神はスクナビコナ神が常世の国に帰ってしまうと、これを愁えて「私一人がどのようにしてこの国をつくることができようか。これからは誰と力を合わせてこの国を作ろうか。」と仰せられた。するとこの時に、海を照らしてやってくる神様がいた。その神様がおいでになった。
その神様は「私をよく祭れば、ともに国を作ろう。さもなければ国造りは難しいだろう。」と仰せられた。
オオクニヌシ神は「それではどのようにお祭り申し上げればよいか。」と尋ねると「大和の青垣なす東の山の上に斎き祭れ。」とお答えになった。これは三諸山の上にお出でになる神様であるという。
* この神は大蛇でオオクニヌシ神の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)であるという(日本書記一書)。つまりオオクニヌシ神の外来神であり、「和魂」である。さらに同書には「大三輪の神」であるとも記されている。
* この神は「大物主神(おおものぬしのかみ)」であり、「和魂」、「大国主神」が「荒魂」の名であるともいわれている
丹塗矢伝説
『古事記』に記されている伝説で、大物主大神が美しいセヤダタラヒメを見初めて、姫が厠に入った時に丹塗矢になって溝から流れ下り、姫のほとを突きました。驚いた姫がその矢をもってきて床のそばに置いたところ、矢はたちまちに麗しい男性となり、姫はその男性と結婚しました。そして生まれた子の名はヒメタタライスケヨリヒメと言います。この姫が成長して三輪山の麓で七媛女の一人として遊んでいるのを初代神武天皇に見初められ、結婚することになります
御祭神 玉 櫛 姫 命 右殿(御母神)
媛蹈鞴五十鈴姫命 中央(御子神)
狭 井 大 神 左殿(御父神)
御例祭 六月一七日午前十時 三枝祭(ゆりまつり)
当神社は、推古天皇元年(五九三年)に 大神君白堤がお祀り申上げた奈良市に 於ける最古の神社であります。
三枝祭とは白酒、黒酒の酒樽に、本社 三輪山でとれた笹百合の花(古名さいくさ)を 飾ってお祭りするところから起こった名前。 文武天皇、大宝年間(七〇一年)から伝わる 古式の神事で、お供えの百合の花は 疫病除けとして参拝者きそって乞い受 けるものであります。
尚当社は古来(子守明神さん)安産、育児の 神として篤い信仰をあつめております。
阿波神社(えびすさん)
御祭神 事代主神(奈良最古のえびすさん)
御例祭 六月一七日
初 戎 正月五日
主祭神 大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
配祠神
大物主神(おおものぬしのかみ)
姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
当神社は、第十一代垂仁天皇の御世(約二千年前)に創祠せられ、ご本社大神神社で大物主神「和魂」をお祀りしているのに対して「荒魂」をお祀りしています。
狭井神社は、現在でこそ大神神社の摂社ですが、もともとは天理市の大和神社(おおやまと じんじゃ)の別宮(わけみや)でした。
大和神社は、「倭大国魂大神」(やまとの おおくにたまの おおかみ、別記:日本大国魂大神)をご祭神とします。
大物主大神が倭大物主櫛甕魂命で、大国主神の和魂であることから、大和神社のご祭神の倭大国魂大神とは、類似性が考えられます。
というか、いずれも「最初に国を治め霊となった神」を意味します
大神神社の場合、参道をまっすぐ進んで、そのまま拝殿で参拝をすることになりますが、そのとき、後ろに三輪山が控えているとはいえ、山頂の「奥津磐座」からは、約600メートルほどもズレてしまいます。
なぜかといえば、三輪山を参拝するだけではなく、実は「伊勢神宮」をもあわせて遥拝していると考えられるからです。
理由は後述いたします。
一方、狭井神社は、摂社にしては立派すぎることもそうなのですが、山頂への登拝口があることをはじめ、狭井神社の参道や鳥居からみたとき、ほぼまっすぐに三輪山の山頂に向かっているためです。
そのため、狭井神社こそが三輪山を「ご神体」とする本来の拝殿か
水光姫ミヒカ(水光)はイヒカ(井光)の転訛と思われ(井→水)井の神・水神であろう。姓氏録にいう豊御富(トヨミホ)のホを稲穂と解すれば、豊かな稲の神即ち豊穣神とも解され、豊穣神は水神でもあることから、水光・井光・豊御富いずれも豊穣を司る水神であろう
加宜社、祭神天御蔭命、丹波道主王之祭給所也
この命、大和國に遷坐(うつりいます)の時、白雲別(しらくもわけ)神の女、豐水富命(とよみずほのみこと)を娶り、笠水彦命を生、笠水訓宇介美都(かさみずよむうけみず)』
丹後風土記残欠
『笠水訓字宇介美都 一名、真名井、白雲山の北郊にあり(中略)傍に、祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と 称す。西は、笠水神即ち、笠水彦命笠水姫命、の二神。これは、即ち 海部直たちの斎きまつる祖神である』お
『『勘注系図』が、倭宿禰の妻を、白雲別神の娘、豊水富(とよみずほ)命とする
豊水富を白雲別の娘という伝承は『新撰姓氏録』にもある。』
#神話とか @hawako
posted at 00:51:43
『『新撰姓氏録』
『神武天皇、吉野に行幸(い)でまして、神瀬(かみのせ)に到りて、人を遣して、水を汲ましめたまひしに、使者還りていはく、「井に光る女あり」といふ。 天皇、召して問ひたまはく、「汝は誰人ぞ」とのたまふ。…』
『海部氏の倭宿禰は、神武が大和王権を樹立した時、大和に赴き神宝を献じて神武に仕えたとする。大和に居たとき娶ったのが、白雲別の娘、豊水富または豊御富である。』
そして『勘注系図』の注記は、豊水富の亦の名を井比鹿(いひか)とする。これは『日本書紀』神武記で、神武が吉野で名を問 うた時答えた「井光(いひか)」と同じである。』
『記紀の神武天皇の段で、天皇が吉野に巡幸された時に出会った「井光・井氷鹿(いひか)」という吉野首の祖を思い出す。現在も吉野郡川上村に「井光」の地名が残っているが、まさにそここそ、丹生川上神社上社の鎮座地なのである。』