対馬、壱岐、天照御魂神、瓊瓊杵命、素戔嗚 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

June 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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先代旧事本紀は・天日神命を 対馬縣主等の祖、とする。(阿麻氏留神社)
月神命を 壱岐縣主の祖、としている。(月読神社)

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  • 六御前神社
    (長崎県下県郡豊玉町千尋藻)
    彦火火出見六女神
    「新対馬島誌」(豊玉町役場)火火出見の養育に仕えた乳母、湯母、飯嚼、湯座、穏婆、御守の六女神を祀る。

    住吉神社
    (長崎県下県郡美津島町奚#知けち)
    鵜茅不合豊玉姫 玉依姫 ==(祭神)
    住吉神社は、ふつう筒男三神がまつられるが、ここは、豊玉姫が祭られる。


    和多都美神社
    (長崎県下県郡豊玉町仁位海宮山)
    豊玉姫 彦火火出見 =(祭神)
    海神、豊玉彦の海宮があったと伝えられる。
    「新対馬島誌」(豊玉町役場)海宮わたつみやの古跡である。豊玉彦は、この地に宮殿を造り住み、御子一男二女あり。一男を穂高見、二女を豊玉姫、玉依姫という。
    彦火火出見は海宮に三年滞在して、豊玉姫を娶る。
  • 現在、四社ある天照御魂神社は、
    大和の他田坐(おさだにます)、
    鏡作坐(かがみつくりにます)、
    山城の木嶋坐(このしまにます)、
    摂津の新屋坐(にいやにます)



    ■他田坐天照御魂神社
    奈良県桜井市太田字堂久保
    祭神:天照御魂神
    http://kamnavi.jp/mn/nara/osada.htm

    ■鏡作坐天照御魂神社
    奈良県磯城郡田原本町八尾816
    祭神:天照国照日子火明命、石凝姥命、大糠戸命
    http://kamnavi.jp/mn/nara/kagami.htm

    ■木島坐天照御魂神社
    京都市右京区太秦森ケ東町
    祭神:天之御中主命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命
    http://kamnavi.jp/mn/kinki/konosima.htm

    ■新屋坐天照御魂神社 三座
    大阪府茨木市西福井
    祭神:天照皇御魂大神、天照国照彦天火明大神、天津彦瓊瓊杵大神
    http://kamnavi.jp/mn/osaka/niiya.htm
    大阪府茨木市宿久庄17-1
    祭神:天照皇御魂大御神、天照国照天彦火明大神、天津彦火瓊瓊杵大神
    http://kamnavi.jp/mn/osaka/niiyashuku.htm
    大阪府茨木市西河原3-1-2
    祭神:天照国照彦天火明命、天児屋根命、建御名方命
    http://kamnavi.jp/mn/osaka/niiyanisi.htm
  • 神々が集う神無月の前日、旧9月30日のことをオデフネと称し、村人は参詣したものであった。また、氏神様が帰路につく旧10月30日のことをオツヤと呼び、若者は布団を持ち寄り、氏神様が帰ってくるのをお迎えする行事があった。そして、翌旧11月1日には祭典が執行される。
  • 対馬には宗像神社の祭神が、真星ヶ浜(沖ノ島の中心点から真西に約69km地点)の三つ島と対馬市長 比田勝尚喜氏の出身地である上対馬町大増(上図、沖ノ島の中心点から北西へ朝鮮半島までの145kmの線と、沖ノ島の中心点から77km地点の円線が交わる地点付近)地区の宗像神社にあります。

    上対馬町大増の宗像神社には、田心姫神(たごころひめのかみ)、湍津姫神(たごつひめのかみ)、市杵島姫(いちきほひめのかみ)の三女神が御祭神として祀られています。沖の島の宗像神社と祭神が同一であり、また、大増から舟でしばしば沖ノ島へ渡ったという云い伝えがあります。

    大増の宗像神社ではかつて、出雲に神々が集う神無月の前日、旧9月30日のことをオデフネと称し、村人は参詣したものであった。また、氏神様が帰路につく旧10月30日のことをオツヤと呼び、若者は布団を持ち寄り、氏神様が帰ってくるのをお迎えする行事があった。そして、翌旧11月1日には祭典が執行される。
  • 多賀神社
     【所 在】 松江市朝酌町970番地
     【祭 神】 主祭神:須佐之男命
     【祭 神】 配祀神:伊弉諾命・伊弉冊命・宇津名媛命・事代主命・大己貴命
     【由緒等】
     『出雲国風土記』所載の朝酌下社と考えられている。明治41年に同じく風土記所載社の朝酌上社等が合祀された。

     『神国島根』には次のような当社の縁起が載っている。『日本書紀』一書からの附会が認められるが、当社の信仰が水上交通と関係があったことを感じさせるものだ。また、下の月形神社の縁起と同じく、風雨や波浪を鎮める信仰も感じさせる。
    「当社鎮守の森を月向山と言う。須佐之男命が新羅国より埴土の船に乗り沈香の青木を積み出雲国に渡り、今の多賀の地に来られたとき多賀明神月向山に在りて「この神崎を青木積みて通る日本は我が国なり此岸に船を留めて汝は岸に上るへし我は此に在り」と申された。俄に雨、波風荒くなり、土を盛りかけ、船はついに山となり青木も生つき、故に此の山を唐船山と名付け宮作りされたのが今の宮地である。」

    境内には、この地域でもっとも大きな前方後円墳である魚見塚古墳がある。川に面した台地のへりに築造されているが、おそらくこの付近の交通を支配した古代豪族の奥津城で、大橋川を行き来する船に睨みを効かす意図があったろう。

  • 天照大神の孫で、神武天皇の曾祖父にあたります。
          高産霊神――栲幡千々姫 +火明命
                   ∥――+
     伊邪那岐 +天照大神―天忍穂耳命 +迩迩芸命  +火照命(海幸彦)
       ∥――+              ∥―――+
     伊邪那美 +――――――大山祇神    ∥   +火遠理命(山幸彦)
          |        ∥――+木花開耶姫   ∥―鵜葺屋葺不合命
          +―――――鹿屋野姫神 +木花知流姫  豊玉姫   ∥――神武天皇
                      +石長姫         玉依姫
  • September 2016 編集されました
    宮崎県西都市にある国指定特別史跡の西都原古墳群には、陵墓参考地として特別扱いされている、異常に接近した巨大古墳男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)とがあります。
    この2陵が陵墓参考地に指定された理由は、神話に登場する、初代神武天皇の曽祖父ニニギノミコトと、曽祖母コノハナサクヤヒメの陵墓と言い伝えられていたからです。

    宮内庁は、男狭穂塚を、ニニギの墓、可愛(えの)山陵の参考地と指定すると同時に、薩摩川内市の神亀山上の新田神社を可愛山陵に指定しています。

    ところが、男狭穂塚と女狭穂塚とは、考古学的には、5世紀の倭王讃にあたる仁徳天皇の陵と同時期に築造されたと見なされています。
  • 他田坐天照御魂神社(桜井市)

    他田坐天照御魂神社 A:春日社--桜井市大田字堂久保 B:春日神社--桜井市戒重字城の内
    祭神--A:天照大神荒魂        B:天児屋根命他三柱 
                                                       
    延喜式神名帳に、『大和国城上郡 他田坐天照御魂神社 大 月次相嘗新嘗』とある式内大社

    論社として、桜井市大田に鎮座する旧春日社(以下、大田社というと同戒重にある春日神社(以下、戒重社という)の2社がある。社名は、オサダニマス アマテルミタマと訓む。

    【大田社】
     他田坐天照御魂神社(「式内・他田社と略記)の創建について、神社明細帳(明治24年・1891)には
     「敏達天皇11年(586?)創立、天照御魂と称し、・・・」
    と記すが、資料上での初見は、大倭国正税帳(天平2年・730)の城上郡条の『他田神戸・・・』、新抄格勅符抄(大同2年・807)の『他田神・・・』との記事であり、また三代実録(901)・貞観元年(859)条には「大和国・・・従五位下・・・他田天照御魂神・・・並従五位上」とある。
    近世になっての大和志(1716・江戸中期)に「(式内・他田社は)大田村に在り、今春日と称す」
    とあり、これが現大田社(旧春日社)を式内・他田社とする根拠という。

    ただ、敏達天皇(572--85?)の宮・他田宮(古事記)・訳語田幸玉宮(オサダ サチタマノミヤ・書紀)が大田あるいは戒重の地にあったといわれこと、敏達朝に日神祭祀に関係する日祀部(ヒマツリベ)が設けられたこと、当社がある大田地区の北東部にある草川(クサカ)が太陽信仰に関係する日下(クサカ)の転訛と考えられるなどことから、日神・天照御魂を祀る式内・他田社を旧春日社に比定したのではないか、という(以上。式内社調査報告)。

     当社についても、大田村にあった春日社を式内・他田社とする有力な証拠はみあたらないが、大田社があった大田村が城上郡に属したという点で、戒重説(土市郡に属する)に比べて有力か、という。
    ※祭神
     境内には、祭神名を記した表示・案内がみあたらないが、資料によれば、祭神は、
      “天照大神”(あるいは“天照大神荒魂”)
    という。しかし、下記のような諸説がある。
     ・天照大神荒魂--神祇宝典(1646)
     ・天照国照彦火明命--神名帳考証(1733)・奈良県礒城郡誌(1915)・特選神名牒(1925)
     ・志貴連祖天照饒速日命--神名帳考証(1813)
     ・天日神命--神社覈録(1870)
     ・天照御魂命--神社明細書(1969)・大和国神名帳(1940)
     ・天火明命--アマテラスの誕生(1973)・式内社調査報告(1982)

     社名・天照御魂からみて、祭神は天照御魂神ともいえるが、天照御魂神とはアマテル神とも呼ばれ、大王家および各地の豪族らによって崇敬された日の神(太陽神)をいう。その自然神・アマテル神を人格神としたとき、記紀にいう天火明(アマノホアカリ)となる。

    【戒重社】
     正面鳥居に掲げる神額には“春日神社”とはあるものの、境内に案内など見えず、当社と式内・他田社との関係は不明。ただ、鳥居左脇に「敏達天皇訳語田・幸玉宮推定地」との案内板があり、そこには
     「敏達天皇(572--85?)の訳語田幸玉宮(オサダ サチタマミヤ)について、扶桑略記・帝王編年記ともに磐余訳語田宮とし、磐余の範囲内にあったことが確認できる。
     訳語田幸玉宮の所在地については、従来、桜井市大田とする説と桜井市戒重とする2説があった。しかし、戒重村はかつて他田庄と呼ばれ、また戒重村の小字・和佐田(ワサダ)は明治以前・他田(オサダ)であった。
     そして、この春日神社は古くは他田宮(長田宮)と称したことなどから、この地域が考えられる」(桜井市教育委員会)
    とあり、末尾に記す他田宮(長田宮)とは式内・他田坐天照御魂神社を指すと思われる。
     
    敏達天皇の宮については、書紀・敏達4年6月条に
     「宮を訳語田(オサダ)に造った。これを幸玉宮という」
    とあるが、その所在地は記してなく、一方、扶桑略記(1097頃・平安時代の私撰歴史書)には
     「大和国十市郡磐余訳語田宮に都す。一云、百済大井宮、又云、城上郡幸玉宮」
    と記し、十市郡の磐余にあったとする。
    また、平安末期の地積帳などによると、現春日神社附近に十市郡と城上郡の境界があり、神社の地は十市郡に属するという。
    これらのことからみて、敏達の訳語田宮は当地附近にあったとみることはできるが、延喜式にいう式内・他田社は城上郡に属することから、それを現春日神社に比定することには疑問がある、という(日本の神々4)。

      境内に祭神に関する表示はみあたらないが、資料によれば、天児屋根命他3座(タケミカツチ・フツヌシ・ヒメ神か)という。これは春日神社としての祭神であり、式内・他田社の祭神ではない。
  • 長田神社
    神戸市長田区長田町3-1-1
     主祭神: 事代主神
           (於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神)
           (あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)
     本殿瑞垣内に天照皇大御神社(祭神:天照大御神)と八幡社(祭神:応神天皇)を祀る。
     本殿東側に月読社(祭神:月読神)と松尾社(祭神:大山咋神・春日大神)、
     本殿西側に出雲大社(祭神:大国主神)と蛭子社(祭神:蛭子神)、
     本殿北に楠宮稲荷社(祭神:倉稲魂神)を祀る。
     創建: 伝・201年(神功皇后摂政元年)、本殿:三間社流造
  • 一六、五根緒(ごにょう)
     津島紀事によると、権現縁起に神功皇后が、雷大臣を韓土に遣わし、日本府を鎮めしめ給い、子息を彼の国で誕生し、日本大臣命という。帰朝の時父子は浜久須に到り、磯武良はここ五根緒につかれた。そこでここを「御入浦」と名付けたという。俗に吾爾宇といいこれは訛ではないとある。また或説によれば、五根緒は琴に対する名であるといい、琴(コト)に五つの絃があるためというが、これは当らないとある。新對馬島誌によれば、この地は舟志湾の南岸に現在元五根緒とという所にあったが、村変えして「ウステ」という現在の所に移った。之は明治一二年から一四年までで終わった。海東諸国記に蘊要浦百余戸とあるのは、当時の元五根緒の状況であると。また上對馬町誌によれば百余戸の大集落が、どうして元五根緒の地にできたかという疑問がある。これはおそらく入江に分散していいたと思われる。そして全体を統率し、外に通交した相当な有力者がいたに違いないとある。元来ここは「ごによう」か「おによう」か、それにはそれぞれどんな意味なのかは、いまだ詳かではない。
    『對馬の地名とその由来』上巻 —行政地名編—
    藤井郷石 著 より
  • 対馬の占部

    久須(くす)
     久は旧いという心で、須は洲である。藤仲郷は久須とは社[土+遺]([土+遺]はニハあるいはマガキと読む)の旧い唱で、對馬は昔民家が神霊のまします所の辺にあるのを久須と呼んでいる。例えば洲藻の寺久須、雞知の久須ヶ浜、久須保などがこれである。伝説では雷大臣(いかつおみ)命が、御子日本大臣命と新羅から帰り給うとき、この地に着船されたので、ここに権現の社を建て、この付近の村を久須と名付けたとある。久須郷の地域は現在の浜久須を中心とする一帯と豊崎郷の全域と考えるのが至当ではあるまいか。玖須とは「楠の木が生えた地」という説が、風土記以来延々と続いているが、クスは「崩崖」あるいは「旧洲」と考えるが適当ではあるまいか。

    加志(かし)
     和名類聚抄にものっている古い所である。上古雷大臣命の本拠地であった。厳原町阿連の欄でも述べたように、その子孫は賀志氏を名乗っていた。命は亀卜の祖であり、皇室の大事を占うとき對馬十名、壱岐五名、伊豆五名が招かれる習いで、延喜式にも載っている。後世樫とも書かれたこともあり、第三章6の賀志郷の所でも触れた通りである。地形的には河岸(かし)の意味も考えられる。海東諸国記には可時浦一五〇余戸とある。元禄の頃には一三〇余人、大正十三年には四一戸二三五人、現在は三八戸一八〇人余である。

    賀志(かし)
     賀志は元来賀志氏の本拠地であり、下県西海岸の一帯の地である。雷大臣の子孫橘氏の初めの氏は賀志氏といわれたようである。現在美津島町加志と厳原町阿連及び樫根などの大字にわたって、賀志氏の遺跡が存する。カシの語源はさまざまに考えられる。(1)頭(かしら)の語幹カシ、(2)傾(かし)ぐのカシで傾斜地の意味でケシ、キシにつながる言葉。(3)痩(か)せるを意味する瘦地の意味、(4)カタシ(堅シ)の省略語で植物の樫はカタシが語源という。賀志はこれらの複合した意味とも考えられる。賀志の地名には梶と鍛冶の二つの意味が考へられる。一説には加志、梶、樫などのつく地名は、いずれも地方豪族の本拠地であるといわれる。地名辞典によればカシイな大陸方面から越して来た所で、渡船場の意味であるともいう。

    銘(めい)
     銘の名称については、銘の明嶽神社に関し、神社明細帳の記するところでは「所の総称を神遣浦という。雷大臣命が三韓に赴き給ふとき、この浦に御船を止め給ひしという」とある。また新對馬島誌は星が落ちて石になったので神として祭り、名を明星と改めた。しかしその後はばかる事があって明浦と略して呼ぶことになり、さらに後、銘の字を当てるようになったという。現在一八戸四〇人余の小部落である。

    五根緒(ごにょう)
     津島紀事によると、権現縁起に神功皇后が、雷大臣を韓土に遣わし、日本府を鎮めしめ給い、子息を彼の国で誕生し、日本大臣命という。帰朝の時父子は浜久須に到り、磯武良はここ五根緒につかれた。そこでここを「御入浦」と名付けたという。俗に吾爾宇といいこれは訛ではないとある。また或説によれば、五根緒は琴に対する名であるといい、琴(コト)に五つの絃があるためというが、これは当らないとある。新對馬島誌によれば、この地は舟志湾の南岸に現在元五根緒とという所にあったが、村変えして「ウステ」という現在の所に移った。之は明治一二年から一四年までで終わった。海東諸国記に蘊要浦百余戸とあるのは、当時の元五根緒の状況であると。また上對馬町誌によれば百余戸の大集落が、どうして元五根緒の地にできたかという疑問がある。これはおそらく入江に分散していいたと思われる。そして全体を統率し、外に通交した相当な有力者がいたに違いないとある。元来ここは「ごによう」か「おによう」か、それにはそれぞれどんな意味なのかは、いまだ詳かではない。
  • October 2019 編集されました
    天児屋根命ー天忍雲根命─天種子命─宇佐津臣命─御食津臣命─伊賀津臣命

    ─梨迹臣命─神聞勝命─国摩大鹿島命─臣狭山命─雷大臣ー壱岐真根子

    神功皇后が新羅に兵を出した時、雷大臣がお供していった。(雷大臣は中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)と同一人物とされている)雷大臣の仕事は審神者(さにわ)である。神功皇后が受けたお告げ(ご神託)を判断する役。

    小枚宿祢乃直(おひらのすくねのあたい)
    下県郡阿麻氐留(あまてる)神社
    顕宗天皇(在位485-487)3年、日神を斎祀せしむ
    対馬下県直(つしましもあがたのあたい)祠に侍る
    同本伊伎直、伊伎宿祢の系図を見れば、神八子から三代目押見宿祢(おしみのすくね)の個所には、顕宗3年、天皇が月読神を山背国葛野烏田に祀ったとの記述があって、同時期に中央進出を果たしたという話を裏付けるものと思われる。 小枚宿祢乃直は同年代と思われるから、理屈から言えばこの人物が対馬から中央へ進出したということになるのだが、残念なことに、上記の記述だけでは対馬下県郡の阿麻氐留(あまてる)神社を祀ったという話なのか、奈良の地名が抜けたのか内容が明らかではない。又、他系図によれば、真根子命から押見宿祢までまだ数代あることになっている。
    真根子命――御身足尼命――大田彦命――酒人命――神奴子(神八子)命――忍見(押見)命
  • 日本書紀 壱岐真根子の悲劇

    応神天皇の7年の秋9月に高麗人(こまびと)、百済人(くだらびと)、任那人(みまなびと)・新羅人が並んで来朝しました。
    その時、武内の宿禰(すくね)に命じて、この韓人(からひと)たちを率いて、
    池を作らせました。その池は韓人の池と呼びます。(場所は不明。)

    応神9年の夏、4月に武内の宿禰を筑紫に派遣して、百姓(豪族たち)を監察させました。
    その留守の間、武内の宿禰の異母弟の甘美内(うましうち)宿禰が、
    この兄を落とそうとして、天皇に讒言(ざんげん)しました。

    「武内の宿禰は常に天下を取ろうと思っています。
    今聞いたのですが、筑紫に行って、密かにはかりごとをして、
    『筑紫を分裂させて、三韓の王を呼んで自分に従わせて、天下を取ろう』
    と言っているそうです。」と申し上げました。

    すると、応神天皇はすぐに使者を使わして、武内の宿禰を殺すように命じました。
    武内の宿禰は嘆いて言いました。
    「私はもとより、二心(ふたごころ)は無く、忠義をつくして天皇にお仕えしていた。
    いったい何のわざわいなのか、罪もないのに死ねというのか。」と。

    そこに壱岐直(いきのあたい)真根子(まねこ)という人がいました。
    その人は武内の宿禰と見た目がそっくりでした。
    武内の宿禰が罪もないのに空しく死ぬのを惜しんで、言いました。

    「まさに、大臣は忠義の心で天皇に仕えています。
    はかりごとなど悪い考えがないのは、天下のすべてが知っています。
    願わくは、密かにここを去って、朝廷に参内して、
    自ら罪の無き事を伝えて、それから死んでも遅くはないでしょう。

    また、誰からも『私めの姿かたちが大臣そっくりだ。』と言われます。
    だから、私めが大臣に代わって死んで、大臣の清らかな心を明かしましょう。」
    と言って、即座に剣で自分を刺して亡くなりました。

    武内の宿禰はひとり大変悲しんで、密かに筑紫を去って、船に乗って、
    南海を廻って、紀水門(きのみなと)に泊まりました。
    ようやく帝に面会を許されて、罪のない事を弁明しました。

    応神天皇は武内の宿禰と甘美内の宿禰の言い分の食い違いを尋ねました。
    すると、二人は自分の言い分を変えずに争いました。
    どちらが正しいのか決められませんでした。

    そこで応神天皇は天地の神に誓わせて、探湯(くがたち)をさせました。
    (探湯とは熱湯に手を入れて、ただれた方を邪とする審判法)
    こうして、武内の宿禰と甘美内の宿禰は磯城(しき)川のほとりで、
    探湯をしました。武内の宿禰が勝ちました。

    すると、すぐに太刀を取って、甘美内の宿禰を打ち倒し、ついには殺そうとしました。
    応神天皇は勅命を出して、許させて、
    武内の宿禰の母方の紀の直(あたい)の奴婢にしました
  • 栗田博士は大日本氏の神祇志編纂の事に従い全国に渡り三千一百三十二座の祭神に就いて研究を遂げた篤学の士であり、船曳翁は当社にも仕え且つ古文献の研究や踏査の末、八女郡御側の山中に後征西将軍の御墓、三潴郡高三潴に三沼君として、赴任せられた景行天皇御子国乳別皇子の御墓を発見せしなど、郷土稀に見る史学者である。以て両氏の所論の参考となるべきことは言を俟たない。
    然らば武内宿禰と高良山との関係は如何に見るべきであろうか。
     大善寺玉垂宮の繪縁起に武内大臣が御征西に際し扈従しない筈はなく、皇后が土蜘蛛征伐の途次高良山下の旗崎に駐らせ給うたとすれば、大臣も従い奉って或は山上に登って地方の形勢を察し、或は御営所に侍して軍議に與ったに相違なく、従って大臣の足跡は高良山一帯あまねく印せられたと見るべきである。更に「日本書紀」其他の正史によれば、應神天皇九年(西暦278年)四月、大臣をして筑紫に遣わし百姓を監察せしめられて居る。
    其の筑紫在任中の居所は明らかではないが、往昔に於る筑紫の政治の中心が高良山附近であった事は後に筑紫の国造磐井の居所が高良山下の御井町であった事からでも知られる。大臣は各地も巡視し、又往年の思出深き高良山に足を留めて居、従って地方の百姓は為に安らけき生活を続け得られた其の徳を慕い、大臣帰落の後までも語り継ぎ其の恩を偲んで居たに相違ない。
    斯くて後年玉垂宮の建設せられた後、地方民の熱望は遂に大臣を相殿として祀らしめたものと思われる。
     武内大臣の滞在中一つの哀話がある。それは大臣の弟甘美内宿禰うましうちすくねが野心を抱き、「武内は筑紫に於いて密かに三韓と通じ謀反の企てをする」由を讒したことから起こった。
    天皇は使いを派し大臣を殺させようとされた時、壱岐直真根子いきのあたいなほこと云う者、己の容貌の極めて大臣と相似たるを以って代わりて死せん事を願って自殺した。大臣は其の暇に筑紫より都に出て、朝廷の至って無実の旨を相聞した。
    天皇は兄弟を召され対決せしめられたが互いに譲らず、よって探湯くがたちにより神祇の裁きを受けた結果、大臣は勝って其の無実は明らかになった。「高良山略縁起」「口絵三枚目は此の故事を描けるものであり忠臣真根子の祠は各所にあり、高良神社々地内にも末社として祀られている。

    出典
    http://www.snk.or.jp/cda/kourataisya/8takeuti.html
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