筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原、ミソギと神産みの地 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

June 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原、ミソギと神産みの地 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原でイザナギの大神が禊祓いをされた時に生まれた大神たちよ。いろいろな災難や罪や穢れを祓ってください、清めて下さい。

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コメント

  • 伊都国(現在の福岡県糸島市近辺)の高祖山(たかすやま・福岡県福岡市と糸島市の境に位置する標高416mの山)
    「高祖山連峰」である

    実は、その高祖山の南側にもう一つの峰があり、これを「くしふる山」と呼んでいたという伝承がある。

    その「くしふる山」こそ、「古事記」の天孫降臨の段において、ニニギ命の降臨地が「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)」と記された、その「クシフルタケ」ではないかと推考する古代九州の歴史研究家がいる。
  • 高祖山連峯が天孫降臨の土地

    本居宣長がこれを宮崎県の高千穂山に持っていった。

    『古事記』に「竺紫の日向の高千穂のくしふる峯に天降りましき」と書いてあるのに、筑紫というのは九州全土を指すのだろう、で、日向の国だろう、高千穂が高千穂山だろう、くしふる山はなくなったんだろうと、こういう処理をしたわけです。

    無茶をやった理由は、神武天皇が日向の国を出発しているので、その神武天皇を天孫降臨と結びつけるために、ニニギに日向に降りてもらわうことにしたわけです。強引に日向に降ろしてしまった。明治政府が、本居宣長の弟子の平田篤胤、そのお弟子さんたちが教務省、後の文部省を握るわけです。それでその説を教科書に書いたおかげで、普及してしまった。
    戦後は墨で消され、歴史事実ではないと戦後の人は覚えさせられたが、場所としては日向だと思っている人が多い。

    筑紫とあれば福岡県のとみるのが当たり前で、そこに日向(ひなた)峠、日向(ひなた)山、日向(ひなた)川とあるわけですから、高祖山連峯は日向と呼ばれる地帯であると。高千穂というのは連峯ということです。高千穂をなしている所に、くしふる山がちゃんとあるようになった。
  • 古事記 (天孫降臨)

    筑紫の日向の高千穂のくじふるたけに天降り座す。
    この地は韓国に向ひ、笠紗の御前を真来通りて・・・いと吉き地。

    日本書紀 (天孫降臨)

    本文: 日向の襲の高千穂峯に天降ります。背穴の空国を頓丘から国まぎ行去りて・・
    吾田の長屋の笠狭碕に到ります。


    一書: 筑紫の日向の高千穂のくじふる峯に到りますべし。皇孫をば筑紫の日向の高千穂のくじふる峯に到します。


    一書: 日向のくし日の高千穂峯に降到りまして、背穴の胸副国を、頓丘から国まぎ行去りて・・・


    一書: 日向の襲の高千穂のくし日の二上峯の・・・背穴の空国を頓丘から国まぎ行去りて、吾田の長屋の笠狭の御碕に到ります。


    一書: 日向の襲の高千穂の添山峯・・・吾田の笠狭の御碕に到ります。

    (彦火火出見尊)
    一書: 彦火火出見尊が崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる。


    一書: 日向の吾平山上陵に葬りまつる。

    (神武天皇)
    本文: 日向の吾田邑の吾平津媛を娶りて・・・。
  • 続日本紀 続日本紀には日田を日向と書かれている。

    景行天皇 『豊後国風土記』の久津媛の箇所
    景行天皇が浮羽から日向へといきなり飛んでしまう話は矛盾。景行天皇は浮羽から日田へ向かったという『豊後国風土記』の記述は無視されている。
  • 天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)と月読尊(つ きよみのみこと)が筑紫の日向(ひむか・ひなた・ひこ)で生まれた記述があって、景行天皇の九州 遠征前のずっと前に九州のどこかに日向という場所が存在していた
  • 日本書紀での「天孫降臨」:
     「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」(本文:随伴神の記述なし)
    一書:「高皇産霊尊は、真床覆衾で瓊瓊杵尊を包み、天の岩戸をひきあけ、天の八重の雲をおしわけて、降し奉った。この時、大伴連の遠祖である天忍日命は、来目部の遠祖の天?津大来目をひきいて、天の磐靫(いわゆき:頑丈な矢入れ)を背負い、威力のある高鞆を肘につけ、天の梔(はじ)弓、天の羽羽矢を手に取り、穴の多い鳴り鏑を持ちそえ、また頭槌(かぶつち)剣を身に帯び、天孫の前に立ち、移動して降り来て、日向の襲の高千穂の?日の二上峯の天浮き橋について、平地にある浮洲におりたち、膂宍(そしし)の空国(宗像)を目ざし丘つづきから、国土をもとめて通っていき、阿田の長屋の笠狭の御崎についた。ーーー」久米氏は大伴氏の家来扱い。
  • 『古事記』の、「神代・古代の巻」

    『是に天津日高日子番能邇々芸能命、 笠紗の御前に麗しき美人に遇ひたまひき。爾に「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へて白さく、「大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをしき。
     《「笠紗・阿多」の初見》

    瓊瓊杵尊と阿多津姫の間に生まれた火照命
    『其の火の盛(さかり)に燒(も)ゆる時に生める子の名は、火照命(ほでりのみこと)〔此は隼人の阿多君の祖〕
     《「隼人」も「阿多君」も、共に初見》

    阿多の小椅君の妹、阿比良比売の子、多芸志美美
    『日向に坐しし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売に娶ひて生みませる子、多芸志美美命』云々(古事記 162頁) 
    《「阿多の小椅君」の初見》


    『笠紗の御前の麗しき美人・阿多都比売』
    『阿多君の祖・火照命』
    『阿多の小椅君』
    『妹の阿比良比売』等

    「日本書記 白雉4(653)年7月」
    『大唐に遣さるる使人高田根麻呂等、薩麻の曲・竹嶋の間に、船合(こぞ)りて没死(おち)りぬ。唯五人のみ有りて、胸に一板を繋(か)けて、竹嶋に流れ遇れり』(紀下 320頁)

    「日本書記 神代下 第9段(一書第6)
    「瓊瓊杵尊」が「日向の襲の高千穗の添山の峯に降到(あまくだり)まして」云々と『高千穂降臨』があって後、

    『吾田の笠狹の御碕に到ります。遂に長屋の竹嶋に登ります。乃ち其の地を巡り覽(み)ませば、彼に人有り。名けて事勝國勝長狹と曰ふ』(紀上 161頁)

  • 一説

    古事記では高千穂の地名は3ヶ所に出てくる。
    天孫降臨の時には、筑紫の日向の高千穂の「クシフルタケ」となっている。
     これは珍しい丘と考えたい。しかも古事記では韓国に面していて、「カササノミサキ」が正面にあると書かれている。
     「カササ」とは「笠砂」で、砂丘を指していると考えたい。実際には、北条砂丘が、近くに拡がっている。
     ヒコホホテミの命は、天孫すなはち、ニニギの命の子であるが、この方は高千穂の山の西葬ったとある。ここは別稿で述べたが、大山の西の、溝口町にある御墓原のことだ。
     神武天皇は高千穂の宮で東征を決意された。又東征の時に久米の活躍をたたえる歌が古事記に出てくる。
     この歌の中に伊勢の海が出てくるが、この伊勢は高千穂の西北にある地名だった。日向の国から東征前に伊勢の国に行った解説位矛盾する話はない。
     古事記に現われた3ヶ所の高千穂は全て、現在の西伯郡大栄町で相応しかった。
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