讃岐の古代、語源と伝承 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

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  • 香川氏
    讃岐国西部を本貫地とする武家。

    鎌倉権五郎景政を祖とする。香川直系の家紋は、九曜巴(桓武平氏良茂流)。相模の香川氏(桓武平氏良文流と称する鎌倉党の鎌倉権六郎景秀の後裔)、権六郎景秀(鎌倉権五郎景政の子、または孫(子の景継の子)景政の弟の3説)権六郎景秀の後は、相模介家政が高座郡にあった大庭荘の香川村(現茅ヶ崎市北部の大字)に住み、地名に因み香川権大夫と号した。

    南北朝時代以降細川氏に従い、白峰合戦での戦功により安富氏とともに讃岐国に入部。代々守護代をつとめ、応仁の乱で活躍し、細川四天王の一人に数えられるようになる。その後、讃岐国内で勢力を広げ、戦国時代には讃岐国の西部の大半を支配するほどであった。

    戦国時代の後期の当主香川之景は、毛利元就、織田信長、長宗我部元親と周囲の有力勢力に次々と接近し、織田信長の偏諱を賜り信景と改名。土佐国の長宗我部氏が勢力を拡大してくると長宗我部元親の次男、親和を養子に迎える等、所領の確保に努めたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉が行った四国征伐の際改易となった。
  • September 2019 編集されました
    大庭御厨は、鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進した土地。

     相模国最大の寄進地系荘園。

     相模国高座郡南部(現在の藤沢市から茅ヶ崎市にまたがる広大な土地)は、当時の一等地であったといわれ、古くより大きな集落があったものと考えられている。

     大庭景親の拠点だったという大庭城址からは、古代の遺物が多数発見されていることなどがそれを裏付けている。

     『吾妻鏡』養和2年2月8日条によれば・・・

     景政は自ら開発したこの土地を1117年(永久5年)10月23日に伊勢神宮に寄進している。

     1144年(天養元年)には、源義朝が鎌倉郡内だと称して乱入し、大規模な収奪を行ったという歴史もある。

    平安時代末になると鎌倉権五郎景政の子孫にあたるという大庭氏が御厨の経営を行っていた(この辺の系図は諸説あって不明な点が多い。)。

     大庭氏の祖景忠の子景親は、1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵すると平氏方につき、藤沢市片瀬で処刑された。

     景親の兄景義は、頼朝に従い、鎌倉御家人として仕えている。
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    大庭御厨と大庭氏
    「御厨」(みくりや)とは、有力な神社の荘園のことです。

    鎌倉権五郎景政は、1104年(長治元年)頃、先祖から受け継いだという大庭荘を開発します。
    そして、その土地は伊勢神宮に寄進され相模国最大の御厨となりました。


    ~大庭御厨の下司大庭氏~

    鎌倉権五郎景政の子景継が大庭御厨を領したことから「大庭氏」を名乗ったともいわれていますが、諸説あって定かではないようです。


    ~源義朝の大庭御厨への乱入~

    源義朝は、先祖から伝わる鎌倉を得ていましたが、1144年(天養元年)、俄に鎌倉郡内だと称して大庭御厨の鵠沼郷に侵入し、大規模な収奪を行っています。
    (当時の大庭御厨の現地管理者(下司)は大庭景宗でした。)

    翌年、朝廷は義朝への処分を下していますが、その後の経緯は不明のようです。


    ~大庭景義と景親~

    大庭景義・景親の兄弟は、鎌倉権五郎景政の孫景忠の子、あるいは、景宗の子といわれています。実際がどのような家系なのかは諸説あって定かではありません(参考:相模の武将「大庭氏」)。

    1156年(保元元年)に起こった保元の乱では、大庭景義・景親の兄弟は源義朝に従っています。このとき、兄景義が源為朝(義朝の弟)の矢を足に受けて重傷を負ったことから、家督は弟景親に譲られたものと考えられています(参考:神明大神宮(懐島城址))。

    1159年(平治元年)、平治の乱で源義朝が敗れると、大庭景親は平清盛の家人となります。
    景親は、大庭城を拠点としていたと伝えられています。

    ~源頼朝の挙兵と大庭兄弟~

    1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると兄大庭景義は頼朝に付きます。
    一方、景親は頼朝に敵対し、石橋山の合戦では頼朝を破りますが、その後捕らえられ片瀬で処刑されました。
  • 大庭城跡は、大庭景親の居館跡とされてきた(下記※印参照)。

     景親は、平安時代末に鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の経営を行っていたこの地方の有力豪族。

     1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると平氏方につき、石橋山の戦いで頼朝を撃破したが、頼朝が安房(源頼朝上陸地)に渡り、東国武士団を従えて鎌倉入りを果たすと、平氏軍に合流しようとするが、頼朝軍に阻まれ河村山に逃れた。

     富士川の戦いで平維盛が敗走すると降伏し、上総介広常に預けられ、片瀬で処刑された。 


    ※  大庭城址は長らく大庭氏の居城とされてきたが、発掘調査の結果、室町、戦国時代の城郭跡と判明したという。

    ※  景親の兄・景義は、頼朝に従い、鎌倉御家人として仕えている。
     (参考:懐島城址(神明大神宮))

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    大庭城の本格的な築城は、扇谷上杉家の定正に仕えた太田道灌が行ったとされている。

     その後、北条早雲によって攻略され小田原北条氏の支配下に置かれた。

     (参考:舟地蔵の伝説)。

     小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると廃城となる。

     現在は、大庭城址公園として整備されている。
  • 坂出地方は約5000年前と推定される縄文時代から弥生時代にかけて,城山山系が中讃文化の中心であったことが,この地方の古墳・出土品から考察される。加茂・林田地方の条里の跡から,この地方は奈良時代から農業の盛んな集落地であったと考えられる。
     大化の改新の頃,讃岐国府が府中村におかれ,当時の交通路も東讃から西讃に通じており,この地が文化の中心であったと思われる。
      江戸時代(1600)頃,赤穂から住民が角山付近に移住して半農,半塩業の生活を送り,ここに新浜,内浜の地名が生まれた。
    天明7年(1787)林田の宮武清八が御供所沖に塩田を開き,人も増加し,旧坂出の人口が千人を超えた。その時文政12年(1829)久米氏により東西浜大浜,115町歩釜数75の塩田が開拓され,塩都としての基礎ができた。他方沖湛浦(たんぽ)港も築造され港町としての基も開かれた。
      明治23年 4月町村制実施と共に坂出町となり,商工業の発達により大港湾が必要となり,昭和 3年(1928)工費142万6千円で工事に着手して以来度々改修を加え,昭和23年開港場に指定された。
     昭和17年 7月林田村と合併し,ここに市制を施行,人口 3万 1千を数えるに至る。
  • 散吉神社 葛城諸連峰の中の二上山寄り、平原中の西辺にある古社である。
    散吉はサヌキと読み、古社としては聞こえているが、由緒不明である。
    祭神は散吉大建命、散吉伊能神の男女両神とあり
    オホタケルノミコトとサヌキイの神と思われる。
    社殿、社地のある部落名としては、三吉という文字で記される個所が
    鎮座の場所である。
    三吉の「三」の漢字音はわが奈良朝廷時の読み方ではサヌ、「吉」はキである。
    散吉、三吉がこうしてサヌキと読まれることから、思い出されるのが、
    四国の讃岐もこれと同音のもので、従ってサナギの信仰があったため
    この国名の発生ではないかと疑いが懸かる。
    サナギに縁故のありそうな地名を。
    阿波吉野川の三好郡。十河(ソガハ)は砂鉄の出る河。
    三好は、三吉の変え字で別に美好美吉ともかく。
    讃岐沿岸の小豆島には鐸村があり、この「鐸」はヌデと読む。
    また多度津から西北四五里先に佐柳島がある。これはサナギ島と読む。
  • 承平年間(931~938年)に成立した我が国最初の百科事典である和名類聚抄によると現在のさぬき市の範囲のおおよそは当時寒川郡に属していました。そして寒川郡は難波郷・石田郷・神埼郷・長尾郷・造田郷・鴨部郷・多和郷の7郷から成り立っていました。寒川郡名史料上の初見はさらに200年以上前の『続日本紀』の713(和銅6)年5月12日条になります。
    また、難波郷は平安京右京三条一坊六町の発掘調査で9世紀前半の井戸から「讃岐国寒川郡難波郷秦武成」と墨書された木簡が出土されています。
  • 『 粟井神社(刈田大明神)
    御祭神 天太玉命   相殿 天照大神 月読命 保食神
    由緒
     上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。
     従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、同胞的精神を呼び起こして一致団結をはかりました。
     忌部氏の精神生活の目標になったものは、西讃の南隅に鎮座まします粟井の御社でありました。この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれで如何に御神威の宏大であったかを察することが出来ます。
     社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より31代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。
     古くは現在の鎮座地より南方約600m位の処に祀られていましたが、天火にかかりて今の処に遷座せられたと語り伝えられています。
     古記録で明らかなものをたどれば、『延喜式神名帳』に、「讃岐国刈田郡粟井神 名神大。」とあり、『続日本後紀』に「承和九年十一月乙卯 讃岐国粟井神名神に預る。」とあり、讃岐延喜式内二十四社の一社であり、特に神名・大社として崇められました。
     この神名とは国家の重大事が起きた時、国家の安泰を祈るため国が奉幣して臨時の祭祀を行うわけですが、この臨時祭に預る神のことであります。
     『延喜臨時祭式』の名神祭285座の内に、「粟井神社一座 讃岐国」と載せられて、讃岐には事実名神祭に預らせ給いしは粟井神社一社のみであります。
     『三代実録』に「貞観六年冬十月十五日戊辰 讃岐国正六位上粟井神 従五位下を授く。」とあり、『讃岐官社考証』に「永徳元年には正三位に昇り給う。」と書かれています。
     このように、御神徳いや高く万民に尊崇されていたことがよくわかります
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