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香川県は、古くは「讃岐ノ国」と呼ばれていました。この名の起こりは日本書紀では「讃吉」、続日本紀では「紗抜」、播磨国風土記では「讃芸」、正倉院文書では「讃岐」といろいろ表現されています。 古事記、万葉集、古語拾遺などによれば「讃岐」が一般的で、「讃」はホメルということ「岐」は山…
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福岡県遠賀郡岡垣町三吉735
【祭神】大山祇神 天照皇大神 (合祀)豐玉姫命熊鰐命 伊賀彦宿禰
三吉は、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征討のため九州に来られたとき、船を仕立てて防府まで出迎え岡湊(芦屋)まで案内した「県主熊鰐」ゆかりの地といわれ、熊山の中腹には墓があります。
この祭神「伊賀彦宿禰」は、岡湊で天皇の船が立ち往生したとき祈祷をした神様です。三吉は讃岐の古語です。倭宿禰ゆかりの人物か
奈良県広陵町大塚
祭神--天照皇大神・天児屋根命・品陀別命
延喜式神名帳に、『大和国広瀬郡 於神社 鋤』とある式内社。社名は“ウヘ”(又はウエ)と読む。
※由緒大略
・当社は延喜式神名帳に記載される古社であること
・元慶7年に神階が綬叙されたこと
・元禄年間の失火のため由緒不詳となったこと
当社に関する古資料
・大和志(1734・江戸中期)--元慶7年12月従五位下綬叙 大塚村に在り、城宮と称す、社已に廃す
・神社覈録(1870・明治3)--祭神祥ならず、大塚村に在す、城宮と称す、今已に廃す
・大和志料(1914・大正3)
「延喜式神名帳に於神社鋤、大神分身類社抄に於神社大和国広瀬郡木俣神と見ゆ。今馬見村大字大塚の村社を式内・於社と称す。
但し、広瀬社旧記には摂社・水分社を以て式内・於社となせり、是非を知らず。案ずるに、延喜神名帳に讃岐国苅田郡にも同名社ありて、大神分身類社抄(1265)附尾に依るに亦木俣神を祀ると云へり、彼此関係あるべきも事歴詳ならず」
讃岐国苅田郡には於神社(オノ、香川県観音寺市)同鵜足郡には宇閇神社(ウヘ・香川県丸亀市、論社あり)があり式内社であるが、大和国広瀬郡の当地に讃岐・於の2社があることは、両者の間に何らかの関連を推察することができるのではないか。
現在の三柱神を奉齊するに至った経緯は明かでない」
とある。
これらによれば、当社の創建由緒等は不明だが、讃岐国(香川県)に同名の式内社があることから、式内社調査報告は
「讃岐人の移住に伴って於神社も同時に勧請されて、同名社として広羅郡に祀られるようになったのではあるまいか」
という。
※祭神
今の祭神は
天照皇大神(皇大神宮)・天児屋根命(春日社)・品陀別命(八幡社)
という。
延喜式に祭神一座とあることからみて、これら三座は後世の勧請と思われるがその奉祀由緒等は不明。
古資料によれば
・祭神詳ならず--神社覈録
・埴安姫命(ハニヤスヒメ)--特選神名牒--根拠不明
・木俣神(キマタ・又は御井木俣神)--大神分身類社抄・大和志料
これは、類社抄に「於神社大和国広瀬郡木俣神」とあり、この木俣神を広瀬大社の旧摂社・散吉社(サヌキ、讃岐神社からの勧請という)の祭神・御井木俣神と同一神とみるもので、讃岐国の式内・粟井神社から勧請されたという(木俣神は大己貴と八上姫の子で、御井神はその別名)。
・水分神(ミクマリ)--広瀬神社社記--於神社を広瀬大社の摂社・水分神社とするによるものだが、根拠不明
などがある
散吉神社三座 当殿は廊外にて河曲の西北の岡にあり、本は当国当郷散吉郷の讃岐に坐す、俗に南河合神社と云う官社也
御井神 木俣神(御井神の別名)
此の神は大己貴命の子にして母は因幡国の八上姫也、讃岐国より神格をなす、仍りて讃岐神社と云、奴の字を略して散吉と呼ぶ也
大嵩神(オオタカ) 大己貴命
此の神は大己貴命の子にして母は奇稲田姫也
井精神(イセイ) 粟井水神(アハイノミズノカミ)
と見ゆ。
之に依れば、当社は讃岐の御井木俣神を広瀬郷に勧請し、本国名を取りて社名にも及ほせるものにして、所謂讃岐の御井神は、延喜式神名帳に讃岐国苅田郡粟井神社名神大とあるものならん。
大嵩神は三代実録に元慶7年(883)12月2日大和国正六位上散吉大建命神(サヌキオオタケノミコト)に従五位下を授くと云へる大建命神なるべく、
粟井神は上に引ける当社来由記に所謂「赤穂の辺アハキあり」の井精にして、亦讃岐国より勧請せられ、乃ち木俣・大己貴・井精の三神を祭りたるものなり。
奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定 める。御年七才より黒田を出、八才にて讃岐の水主宮内に着き給う。 成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の 神と称へられ奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。
当社は大水主大明神又大内大明神と言われ文武、元明天皇の時代より「洛陽の坤の方なる讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」と言われていました。
創祀は遠く孝霊天皇の御宇にして一説には、宝亀年間の勧請と誤伝していますが、再建の年にして祭神は孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命」で七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く御殿、水主に定め造営せられたとあります。
土地の人は、ここを「大内」と呼び昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源となると言われております。
水主という地名は全国の城下町・港町に所在する地名で、
水主衆(加子衆:水夫のこと)が集住する町」に由来するそうです。
新撰姓氏録には、この辺りの豪族に水主直がおり、
水主氏の祖を祀る氏神として水主神社を創建したとあるそうです。
水主氏は、栗隈大溝(水路)に木津川から水を流入させる
井堰の管理を司る一族とされます。
景行紀五十五年二月壬辰条に豊城命孫彦狭
嶋王を東山道十五国都督に拝したが春日穴咋邑で病死し,五十六年八月条にその子御諸別王が東国に派遣され蝦夷を平定したとある。針間国造の祖と毛野族の祖が同名でともに蝦夷と関わることは,針間国造が毛野放と同祖ということであろう
奴理能美(ぬりのみ)
古事記に記載のある男性。山城の筒木に住んでいた帰化人。
第十六代仁徳天皇の皇后イワノヒメが、仁徳天皇の浮気に激怒して家出した時、身を寄せた家の主人。
表向きの理由は、「珍しい昆虫を飼育しているので、それを見たいため」。仁徳天皇の使者・クチコが妹クチヒメの助力を得て、何とかイワノの態度を軟化させた時、クチコ、クチヒメともに事態の収拾を協議。
やはり、「珍しい昆虫を飼育しているので、見に来ませんか?」というのを口実に、仁徳天皇にお出ましいただき、イワノを迎えに来てもらうことに。こうして前代未聞の皇后の家出騒動は終結する。
磐之媛の子どもは倭五王の大王系譜そのものであることがわかる。
それはつまり葛城襲津彦(沙至比跪)の孫という意味でもある。
この意味から、応神・仁徳とは違う母方という大きな意味をまず読み取っておくべきだろう。倭五王系譜には二度か三度の曲折があったと見ており、その最初が磐之媛の葛城血統がある。そのあとは福井からやってくる三尾氏の母と息長氏の父を持つ継体大王の系譜である。これらが二朝並立説の前提になっている。
韓人・奴理能美(ぬり・の・み)
「調連 百済国、努理使主後也。応神天皇御世、帰化。孫、阿久太男、彌和。次、賀夜。次、麻利。彌和、顕宗天皇御世、蚕織献?絹之様。仍賜調首姓。」
「河内国諸蕃に、「調日佐 同水海連 (百済国人、努理使主之後也)」
「東漢氏の一族の調忌寸とは別氏である。」
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoutorai/tukiobito/afumi.html
難波の都に戻ろうとしない磐之媛に、仁徳天皇が使わした使者は和邇臣口子(わにのおみくちこ)。磐之媛に使えていた侍女(口比売)の兄。
霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨座 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情
かすみたつ ながきはるひの くれにける わづきもしらず むらきもの こころをいたみ ぬえことり うらなげをれば たまだすき かけのよろしく とほつかみ わがおほきみの いでましの やまこすかぜの ひとりをる わがころもでに あさよひに かへらひぬれば ますらをと おもへるわれも くさまくら たびにしあれば おもひやる たづきをしらに あみのうらの あまをとめらが やくしほの おもひぞやくる あがしたごころ
01 0006 反歌
山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
やまごしの かぜをときじみ ぬるよおちず いへなるいもを かけてしのひつ
右撿日本書紀 無幸於讃岐國 亦軍王未詳也 但山上憶良大夫類聚歌林曰 記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊与温湯宮云〃 一書是時宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集 時勅多挂稲穂而養之 乃作歌云〃 若疑従此便幸之歟
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者
國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜憾國曽 蜻嶋 八間跡能國者
やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたつたつ うなはらは かまめたつたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには
01 0003 天皇遊獵内野之時中皇命使間人連老獻歌
八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝獵尓 今立須良思 暮獵尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里
やすみしし わがおほきみの あしたには とりなでたまひ ゆふべには いよりだたしし みとらしの あづさのゆみの なかはずの おとすなり あさがりに いまたたすらし ゆふがりに いまたたすらし みとらしの あづさのゆみの なかはずの おとすなり
01 0004 反歌
玉剋春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
たまきはる うちのおほのに うまなめて あさふますらむ そのくさふかの
続いて、讃岐の歌
1 香川県(約4,900人)
2 大阪府(約1,400人)
3 北海道(約1,000人)
4 兵庫県(約600人)
5 東京都(約500人)
人口 約12,000人 順位 1,376 位
1. 香川県 高松市 (約1500人)
2 香川県 丸亀市(約1,200人)
3 香川県 三豊市(約500人)
4 香川県 善通寺市(約500人)
5 香川県 観音寺市(約300人)
所在地:善通寺市善通寺町野田(大麻山山上)
形式:前方後円墳
築造時期:3世紀後半
大麻山(標高617m)の北西、約405mの高地に所在する盟主的古墳。阿讃特有の積石塚墓・古墳のひとつである。被葬者は、讃岐平野に最初に現れた豪族の首長と考えられている。周辺にも積石塚の塚・古墳が存在し「有岡古墳群」を形成している。香川県でこのような積石塚古墳が集中するのは、当該地域と高松市の「石清尾山積石塚」古墳群(同3世紀)だけである。
その他、県内の積石塚古墳は、前2世紀(弥生中期)の成重遺跡(東かがわ市白鳥)、1世紀の稲木遺跡(善通寺市)、3世紀の鶴尾4号墳(高松市)、丸井古墳(さぬき市前山)がある。
大矢口宿祢は吉備津彦らとともに出雲討伐に活躍したと伝え、その子孫は中世の入沢氏(伯耆国日野郡の楽々福神社祠官)、名沢氏などであって、伯耆西部の日野川流域を中心に美作・因幡など周辺各地に分布が見られる。日野郡あたりの地域の平定には孝霊天皇が吉備津彦とともに活躍したとも伝え、いまも日野川東岸に孝霊山の名が残るが、この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する。吉備系の楽々福神社が古層の製鉄神信仰として存在したという指摘(坂田友宏氏)もある。
「天孫本紀」に兄弟と記される武諸隅命(矢田部造の祖)と大母隅連(矢集連の祖)とは、名前に「モロスミ」を共有しており、『書紀』崇神六〇年条の記事でも割注で同人と記すので、これらの事情から同人としてよい。
越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
伊香色雄・十市根の後裔のみが本来の物部であった。十市根が垂仁朝に朝廷の武器庫でもあった石上神宮の神宝を管掌した
『日本書紀』では、大水口宿禰について穂積臣遠祖としている。
また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
左京神別 天神 穂積臣 – 伊香賀色雄男の大水口宿禰の後。
右京神別 天神 采女朝臣 – 石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫の大水口宿禰の後。
大筒木垂根王(オオツツキタリネ王)、
讃岐垂根王(サヌキタリネ王)
の二王です。このニ王には娘が5人いました。
讃岐垂根王(サヌキタリネノキミ)は皇族。
開化天皇(9代)の孫。
性別は不明。
開化天皇と竹野比売(タカノヒメ)の子の比古由牟須美王(ヒコユムスミ王)
畿内では古墳時代前期、長大なコウヤマキ丸太を刳り抜いた割竹形木棺が普遍的だが讃岐では前期後葉に火山石や鷲ノ山石という安山岩を刳り抜いた石棺が開発され、河内の大王墓にも採用された。
中期に開発された長持形石棺では鷲ノ山石ではなく、高砂市周辺で産する竜山石が使われ後期の横穴式石室の家形石棺では、播磨、近畿地方中心部から西は山口県まで広範囲に広がった。
南北朝時代の細川頼之以来、讃岐は細川宗家である京兆家(けいちょうけ)の本拠地となっていました。勝元は当時、その当主であり、讃岐武士たちは細川家臣団として参陣したというわけです。そして、勝元軍の中でも、安富・香西・奈良・香川氏は細川四天王と呼ばれ、特に主力を構成していました。彼らは、内衆として常に在京し、身近で京兆家を支えていました。
安富氏は雨滝山(さぬき市津田町)に、香西氏は勝賀山(高松市香西地区)に、奈良氏は聖通寺山(宇多津町・坂出市)に、そして香川氏は天霧山(多度津町、三豊市三野町)にそれぞれ城を築き勢力を張っていました。今でもそれらの山に登ると、城の遺構を見ることができます。
応仁の乱の中でも最も激しい戦闘であったといわれる相国寺の戦いでは、香西、安富の2将が、讃岐武士を率いて戦い、安富元綱らが戦死しています。元綱は勝元の寵臣の第一であったといわれ、その死を聞いた勝元の悲嘆は大きかったといいます。
細川勝元の祈願所といわれる巨鼇山地蔵院萩原寺(観音寺市大野原町)。萩の名所
細川勝元の祈願所といわれる巨鼇山地蔵院萩原寺(観音寺市大野原町)。萩の名所
文明9年(1477)、宗全と勝元が相次いで亡くなったことにより、11年間にわたる大乱もここに至りようやく終息します。しかし京兆家は、勝元の跡を継いで当主となった政元が暗殺されたことにより、家督をめぐる内紛が始まり、急速にその勢力を低下させていきます。讃岐が京兆家の本拠地だったという時代も終焉を迎え、その支配を脱した細川家臣団が自立していき、群雄が割拠することとなります。そして、この混乱に乗じて阿波の三好の勢力が及んでくることにより、讃岐も戦国時代に入っていくこととなります。
奈良時代、第45代聖武天皇の天平8年(737年)、川津郷の戸主師の首宮麻呂という人が、その祖である竹内宿禰命を奉祀して川津神社と称したことに始まる。
平安時代、第56代清和天皇の貞観元年(859年)、祭神との縁故もあり、品陀和気命・息長帯比売命の2柱合祀して、八幡神社と改称した。
当時は小山という地に鎮座していたが、戦国時代、第103代後土御門天皇の明応2年(1494年)5月に現在地に移転した。
その当時、殿舎が壮観であったために、「川津の大宮」と称されるようになり、現在の社号が形作られていく。
第106代正親町天皇の永禄11年(1569年)正月、兵火に罹り、社殿・宝器・記録がことごとく焼失した。
江戸時代になり、第108代後水尾天皇の元和2年(1617年)、郷民が社殿を再建した。
明治11年(1879年)、村民が社殿を改築し、これが現在の社殿となっている。
10月に例祭があり、神輿渡御や太鼓台が出る。宮司家は福家氏。
相殿に、闇靇神・櫛磐間戸命・豊磐間戸命を祀る。
境内社に、八百萬荒神・伏見稲荷・天満宮・御年神社・瑜伽神社などがある。
そのうちの瑜伽神社の「夏のよまつり」は有名で、茅の輪くぐりや、川津が蛙(カエル)に通ずることから、持ち寄ったカエルの飛距離を競う行事などがある
飯依比古命は、讃岐国國魂なり。
当国に於いて飯依比古命を祀れる神社は、当社のみにして、夙に延喜の制官社に列せられ、新年国幣にも預らせ給ふ。
社傳によれば、代々の国司崇敬厚く、紀夏井国司たりし時數次奉幣あり。
菅原道真常に参拝し歸任に際しては自作の木像を献納せりと云いひ、現在境内神社菅原社にはこの像を祀るといへり。
神社は飯の山の山麓に鎮座す。
飯山はその山容富士山に類似せるを以て讃岐富士とも称せらる。
往古は山上に鎮座せしと傳へられ、今も不入山と称する地域ありて或いは大和國大神神社の如く山岳を以て神體となせしに非ずやといへり。
中古に至り山腹に遷座志、更に後山麓に奉遷す。
●神殿奉納の讃言(石碑)
人に父母ありて子を育む、神に父なる神坐して伊弉那岐大神と讃え、母なる神坐して伊弉册美大神と讃えまつる。
父母を祭らずしてこの道は通らず、父母を祭る神にして初めて世を守り人々を育み給う神と成り給う。
讃岐大神 飯依比古(飯山の大神)をはじめ阿波の大宜都比売 伊予の愛媛 土佐の建依別は、父母の神を同じくして四国をはじめ日本全土を悉く守ります神なり。
飯山にこそ父母の神殿を築き奉れと神命を拝し神道日垣宮主天栄人恭々しく、飯山の岩戸を開き父母の神殿を新たに捧げまつる。
飯大神は、父神母神の恵みを集めて宇迦之魂を生み給ひ、人を育み万象に天明を与えます食物の神なれば、参拝の人々、この神の前に合唱篤く、神恩を拝謝し奉れ神恵豊かなるべし
等級は上国で、11郡から成る。
郡は、東から西に、大内郡、寒川郡、三木郡、山田郡、香川郡、阿野郡、鵜足郡、那珂郡、多度郡、三野郡、刈田郡(のちに豊田郡)となっている。
国府の所在地は、ちょうど真ん中の、阿野(あや)郡となっている。
余談ながら、現在、綾歌郡という郡名があるが、これは、明治期、、阿野郡と鵜足(うた)郡の郡域をもって、「阿野鵜足(あやうた)郡」を「綾歌郡」としたとのことである。
国府跡近くを流れている川の名は「綾川」で、川の名にも律令時代の「阿野郡」の「あや」が残っている。
江戸時代、国府跡付近は、阿野郡府中村といわれ、のちに、坂出市府中町となった。
「府中」は、各地にある地名で、国府があったことを示す地名であることは申すまでもなきことかと。
現在、仲多度郡もある。
これは、明治期、那珂郡と多度郡の郡域をもって、仲多度郡になったものである。
2006年まで三豊郡もあった。
これは、明治期、三野郡と豊田郡(刈田郡の後身)の郡域をもって、三豊郡となったが、2006年に三豊市となり、消滅。
これらは中讃・西讃エリアのことだが、東讃エリアについては疎いのでそれには触れないこととする。
その昔,土器川河口の入り海だったところで,西に鵜足の洋(宇多津町),東に福江の浦(福江町)がある。
「入り江の川津は船の泊地なり・・・」と,天平年間の古文書にある。
寛永年間に,藤堂高虎の家臣・西島八兵衛が土器川を改修し,河口を丸亀に付け替えたという。
神谷町(かんだにちょう)
昭和31年7月,坂出に合併した旧松山村の字を引き継いだが,上古の祭祀の慣わしから,山岳宗教のメッカ五色台の神が降ってきた谷間があり,その名が由来と伝えられている。
鎌倉時代初期には神谷神社(国宝)が建立され,信仰が広まった。
五色台西ふもとは耕地に恵まれ,綾北穀倉地帯の一角である。
急速に進む開発の中で,自然を保持している。
紀伊・淡路・阿波・讃岐・土佐・伊予六カ国の国府を結ぶ古代の官道。
「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬には、南海道の讃岐国内に各駅伝馬四疋を置く引田(ひけた)松本(まつと)三渓(みたに)河内(かわち)甕井(みかい)柞田(くにた)の六駅を記す。
引田駅は阿波国郡頭駅から讃岐に入った最初の駅で、現大川郡引田町馬宿に比定されている。
松本駅は同郡大川町田面、三渓駅は三谷郷に比定される現高松市三谷町、河内駅は国府所在であった現坂出市府中町に比定される。
甕井駅は現仲多度郡多度津三井、また同地よりやや南方の現善通寺市弘田町永井などになる説がある。
柞田駅は現観音寺市柞田に比定され、同駅から伊予国大岡駅に至る。
紀伊・淡路・阿波・讃岐・土佐・伊予六カ国の国府を結ぶ古代の官道。
柞田町山王の日枝神社境内に「柞田駅跡」の案内標識を建てている。周辺には「馬塚」「くらかけ松」などの地名が残っており、往時を偲ぶことができる。
ーーー
和歌山「加太港」から、「友が島水道」を渡って、
対岸の、淡路島の「由良港」に上がる。
そこから、あわじ市三原の「淡路国府」を経由し、
あわじ市「福良港」から、再び海路で、
徳島「撫養港」に上陸。
徳島、板野町大寺から、「大阪峠」を越えて、
讃岐へ入っていく。
官道には、30里(約16km)毎に、
馬を揃えた「駅」が設置されている。
「南海道」の、讃岐での「駅」は、6つあった。
引田(ひけた)、松本(まつと)、三渓(みたに)、
河内(かわち)、甕井(みかい)、柞田(くにた)。
「引田の駅」は、(「刈田駅」と書かれていたが。)
この地域では阿野郡の開法寺跡および三野郡の妙音寺跡が、出土瓦の年代観からは7世紀中 葉~第3四半期と、もっとも古く造営が開始された寺院とみることができる。開法寺跡は綾氏 の本拠地近くに造営されたとされ、またその後隣接して讃岐国府もおかれる、讃岐の政治的中 枢である。地方においてこの時期最初に造営される寺院については、畿内における7世紀前半 代の寺院造営に倣い、造営氏族の本拠地・居宅に近接して造営される事例が多く、官道隣接型 の立地をとる妙音寺も含めて、その範疇でとらえることができよう。 中讃地域ではその後、中讃一円に分布がみられる素縁の川原寺式や、多度郡を中心に分布す る法隆寺式軒瓦などをもちいて寺院造営が進められる。この地域の寺院選地は、東讃地域と大 きく異なり、山裾や台地上にはほとんど寺院が造営されず、平野部を横断する南海道沿いを中 心とした、沖積低地上に多く展開するという顕著な特徴がみられる(宝幢寺跡・田村廃寺・仲 村廃寺・善通寺跡)。その一方で、南海道からほど遠く、土器川の丘陵部から平野部への流出 点の河川沿いを選地する弘安寺跡では、川原寺式を独自に変形させた細弁蓮華文軒丸瓦を創出 するが、その一部の系列は仲村廃寺など中讃地域に残るものの、よりオリジナルに近い系列 は、極楽寺跡など東讃地域に広く波及していく。西三河地域の北野廃寺式が矢作川沿いに分布 域をもつのと同様、寺院造営において、瓦当文様や瓦工人の系譜と、寺院選地上の特徴は、あ る程度一致して動くように思われる。その背景としては、瓦工人を管掌する在地有力者または 勧進僧等の寺院認知が反映されたものとも考えられよう。 西讃地域においては、妙音寺で採用された高句麗様式の系譜を引く軒丸瓦が、後出諸寺にも 主として採用されていく。その選地傾向は東讃・中讃地域ほど顕著な均質性はみられないもの の、山裾(高屋廃寺)や丘陵斜面(道音寺跡・大興寺跡)などを指向する、東讃地域に近い選 地事例が比較的目立つ。 7世紀末~8世紀前半頃には、中讃地域でも東讃地域と同様、藤原宮式の偏行唐草文軒平瓦 が広く分布するようになるが、下外区に鋸歯文を施さない文様の瓦を、先述の細弁蓮華文系列 の軒丸瓦とセットとして使用する事例が多い(鴨廃寺・醍醐寺跡・仲村廃寺・善通寺跡)な ど、東讃地域とは異なる特徴をもつ。平城宮式の段階においても、中讃・西讃地域では外区鋸 歯文をもつ均整唐草文の軒平瓦が共有されており、東讃地域も含めて、時期ごとにやや括りは 異なるものの、郡を越えたある程度の地域的纏まりをもちつつ、各時期の瓦が展開している様 子がみてとれる。
讃岐の国は寛永元(1624)年ひどい日照りで米が取れず、翌年も百日近く日照りが続き、農民は旱魃で日々の暮らしにも困り、藩も年貢米の徴収が出来ませんでした。このように、讃岐は常に水不足が起こり、旱魃に襲われる土地柄でしたから、その対策が急を要しました。
この対策の為、寛永2(1625)年に土木・水利・経済そして書道にも優れた西島八兵衛を再度来讃を依頼、翌年、江戸に呼ばれましたが、三度も讃岐を訪れました。以後、寛永16(1639)年真での14年間、藩主高俊の下で普請奉行と郡奉行を務めました。
寛永4(1628)年、高松に小田池(川部町)を、寛永5(1628)年には三郎池(三谷町)と満濃池の改修工事を始めました。そして、寛永8(1631)年満濃池の改修を完成、寛永12(1635)年神内池(西植田町)を築き、他にも90余りのため池をつくりました。
池を築く他にも、寛永14(1637)年、高松の松島から新川までの間に堤防を築き、福岡・木太に春日新田、その東に百石新田を開きました。
また、寛永の頃まで香東川は香川郡大野の西で川筋が二股に分かれ、しばしば氾濫を起こしていました。一つの流れは、御坊川の川筋で、もう一つは現在の香東川です。これを、現在の香東川に固定し、寛永8~9(1631~2)年、改修工事の完成を記念し、中国の古い諺に習い『大禹謨』(だいうぼ)の石碑を大野・中津の堤防に建てました。西嶋八兵衛が、『大禹謨』に託した中国の古い諺「夏の国の禹王のように、水を治める者は、国を治める」のように讃岐の水を治めました。
そして、香東川の東の流れの河床に回遊式庭園『栗林荘』を築きます。
その結果、生駒藩初代親正のとき17万石余りであったのが、23万石余りと、6万石も増えました。また、藤堂藩の考えを、生駒藩に伝える重要な役職に就き、二千石の禄と鉄砲30人、新田270石と並外れた生駒藩の家老と同等の扱いを受けていました。
さらに、西嶋八兵衛は「生駒騒動」の前年の寛永16(1639)年に、伊勢の津に帰っています。すでに、生駒藩の内情に通じた動きと考えられます。その後、生駒家の国替えの時には、幕府城受け役人に案内役を命じられ、提出した讃岐の領地の説明書や正確な地図に役人も感心したということです。
-高松市歴史資料館より
『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神天皇の御世に、景行天皇の子の神櫛王の3世孫の須賣保禮命を国造に定められたとされる。
『続日本後紀』延暦10年9月18日条に凡直千継の改姓申請が記されている。これには、凡直氏の祖先は星直氏といい、敏達天皇期に国造として「紗抜大押直」の姓を賜ったが、庚午年籍で「大押」を改め「凡直」となり、奈良時代には「讃岐直」や「凡直」となったとし、申請者の千継らは先祖の業により「讃岐公」への改姓が許可されたとある。
三豊郡の姫郷に住み、
紀伊村村社 千尋神社は命の創建と伝えられ、同社に合祀された木下大明神は命を祀ってあると伝承される
【分 布】
1.大川郡六社
水主神社・布勢神社・多和神社・志太張神社・神前神社・大蓑彦神社
2.木田郡一社
和尓賀波神社
3.香川郡一社
田村神社
4.綾歌郡五社
城山神社・鴨神社・神谷神社・飯神社・宇閇神社
5.仲多度郡四社
櫛無神社・神野神社・大麻神社・雲氣神社
6.三豊郡七社
粟井神社・高屋神社・山田神社・於神社・黒嶋神社・加摩良神社・大水上神社・
◆太字は、名神大社、その他は小社。
梶州神・天川神・宇夫志奈神・賀富良津神・高家神・大水神・松井神・船山神・萬濃神 - (三代実録)
氏太(大)神・刈田神・連岳神・国栄神・飯天神 - (日本紀略)
天津高結槻本地祇 - (符宣抄)
細川清氏が南朝方に就いた時、前記の讃岐南朝方もこれに応じ、一時勢いが強大となったものの、貞治元(1362)年清氏は白峰で細川頼之と戦い敗死し、当国はことごとく頼之が平定することになる。
細川頼之は香川郡由佐村に居城『岡館』を営み四国を平定した。讃岐の史書の多くが北朝の元号を用いているのはこのためで、頼之・頼元・満元・持之・勝元・政元らが永きに渡り当国に勢いを振るった。
ところが、政元の子がなく澄之・高国・澄元の三子を養ったことから、細川氏は内紛を生じ、三好氏が勢力を振るうに至る。
細川頼之は、人物識見共に卓越しており、敬神の念が厚く、讃岐の神社で頼之の崇敬を受けたものは大変多い。
頼之に関係のある神社を挙げると、
国幣中社 田村神社 ・ 高松市 県社石清尾八幡神社
香川郡 県社冠纓神社 ・ 大野村 村社石清水八幡神社
木田郡西植田村 郷社藤尾八幡神社
綾歌郡林田村 郷社総社神社
土器村 郷社田潮八幡神社
三豊郡仁尾町 郷社賀茂神社 などでその他多数に及ぶ。
さらに、香川郡にはその居城『岡館』があったので頼之崇敬の神社が多く、岡館の四方権現、八方荒神等が有名であるが、今その神社が判明しないものが多い。