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田川市は、古代、「高羽」と呼ばれていた。景行天皇と倭建が本陣を構えたと伝わる丘が田川市・伊田の白 鳥神社である。 この地が九州天皇家の都だったからである。景行天皇も 倭建もこの地に住み、ここから遠征に出かけた。
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ちなみに、清日子が当摩(当麻)咩斐(たぎまのめひ)を娶って産んだ由良度美(ゆらどみ)と、伯父の比多訶が結婚して生まれたのが、神功皇后の母、葛城(かつらぎ)の高額比売(たかぬかひめ)だという。
熊本県八代市の印鑰神社には仲哀天皇の時代、武内宿禰の第三子である石川宿禰がこの地で賊を平定中に戦死したと伝えられている。仲哀天皇の在世中の出来事のようであり、熊襲の勢力がこの地にもあったことを意味している。
(日本書紀)
「仲哀2年9月に宮室(みや)を穴門に興(た)てて居(ま)します。是を穴門の豊浦宮と謂う。仲哀8年1月21日に儺県(なのあがた)に到り、橿日(かしひ)宮に居します。」
(古事記)
「帯中日子(たらしなかつひこ)天皇、穴門の豊浦宮、また筑紫の訶志比宮にましまして、天の下治(し)らしめしき。」
古事記の方は「豊浦宮と香椎宮で天下を治められた。」とあるだから、この香椎宮は行宮や仮宮でなく皇居そのものです。天下を治める皇居がある所を都と言います。
仲哀天皇の時代に限って言えば、倭国の朝廷は豊浦朝廷であり、かつ香椎朝廷。
高木の神には思金神(おもいかねのかみ)という御子がいました。諸神の中でいろいろとアイデアを出しています。
思金神は天照大御神が天の岩屋戸に籠もられた時に、八百万の神が相談した折にも、アイデアを出した神です。
高木の神にはもう一人子供がいます。
萬幡豊秋津師比賣の命(よろずはたとよあきつしひめ)です。
この姫と天忍穂耳が結婚して、天の火明命(ほあかりのみこと)(ニギハヤヒ)とニニギノ命が生まれました。
天忍穂耳はニニギノ命が生まれたので、天下りをニニギノ命に譲っています。
オシホミミと高木神の娘と結婚、ニニギの出生などから、古くからの母国であった。
福岡県筑紫郡那珂川町の古代用水路、裂田溝(さくたのうなで)です。
その難工事の様子は日本書紀に「大岩が立ち塞がった」と書かれています。
伝説によると3世紀、神功皇后(じんぐうこうごう)は三韓遠征の際に安徳村に立ち寄り、旅の安全と戦いの勝利を祈り、那珂川から玄界灘へ船出しました。
戦いに勝利し無事に帰ってきた皇后は、神々へお礼のお米を捧げるために新田を開き、溝の建設を命じました。しかし安徳台のあたりまで溝を掘り進むと、硬い岩盤にあたって掘り進めなくなりました。皇后は竹内宿禰という家来に命じて溝を通してくれるように神々に祈りました。すると硬い大岩に雷が落ちて岩が裂けてしまいました。完成した溝は現代まで千数百年もの間、那珂川の村々をうるおし続けています。
十六神社(じゅうろくじんじゃ).
福岡県筑紫郡那珂川町 十六神社. 片縄(女子商前バス停より徒歩5分). 祭神は埴安命で境内には多くの常夜燈があり、 宝暦十二年(1762)が記されている
斉明7年1月14日。御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
3月25日に御船、環りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居す。天皇、これを改めて名を長津とのたまう。(略…ここに東朝が出てくる)
5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮に遷って居す。
娜大津に磐瀬行宮があり、その名を長津と変えた
としていますが、その理由は書かれていません。
長津宮
一方、長津宮に関しての記述は真鍋大覚の本にあります。
昭和57年2月吉日の日付で那珂川町長の大久保福義氏が「発刊にあたって」で「那珂川には上古は神功皇后、下って皇極・斉明天皇、並びに
後の天武天皇、持統天皇、そして安徳天皇の行宮がありました。」
と書いています。
文中の「皇極・斉明天皇、並びに後の天武天皇、持統天皇」の行宮が長津宮を指しています。
著者の真鍋大覚自身もそれは那珂川町の「梶原」にあったと記述しています。
龍頭遺跡群
眼下に安徳南小学校と那珂川南中学校。正面の向こうは博多湾。これからの戦いに相応しい陣地です。
たぶん学校の敷地に長津宮の本体があり、龍頭遺跡群は祭祀や仏事のための聖地だったのではないかと思われました。
出典:ひもろぎ逍遥
https://lunabura.exblog.jp/24930597/
現人神社
筑紫郡那珂川町の仲地区、住宅街の一角にある「現人神社」は、住吉神社の発祥の地と言われ、航海の神・水の神とされる底筒男命中筒男命、表筒男命の住吉三神をお祭りする最古の神社と言われています。
高津神社
ご祭神 高津正一位稲荷(豊宇気毘売神)
原田種直 岩門城主(龍神山)
高津権現 (原田家の守り神である、糸島郡前原町八幡神社の熊野権現様から分配された)
さらにその昔は「伊蘇国」(いそのくに)と呼ばれていたそうです。
一帯を納めていた五十迹手(いとて)は熊鰐(くまわに)に遅れて、
仲哀天皇を三種の神器を船に掲げて出迎えます。
仲哀天皇は五十迹手の勤王ぶりをたたえて「伊蘇志」(いそし)と言ったので伊蘇国と呼ばれるようになったそうです。
熊鰐に遅れて参じた五十迹手を、これほどまでに天皇は褒め称えたのか、
その一つは五十迹手の祖先に理由がありそうです。
五十迹手の祖は「天日槍」(あめのひぼこ)という神で、神功皇后の祖でもあります。