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記紀神話は、イザナギ、イザナミノミコトからまずアマテラスオウノカミが生まれ次にツキヨミノミコトが生まれたと説く。
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韓国の軍は、おそらく7月3日頃に、大津・丹比の両道から東進した。財らは高安城からこの様子を遠望して、衛我河の西に出撃して戦った。韓国はこの敵を破ったが、そのとき、河内国司守来目塩籠が大海人皇子側に加わろうとして兵を集めていることが露見した。韓国は計画を知って塩籠を殺そうとした。塩籠は自殺した。韓国の軍はおそらく5日に前進を再開し、財らの部隊は戦わずに退却した。韓国は大坂道で山を越え、奈良盆地に進入した。
一方、大野果安は北の及楽山(ならやま。今の奈良)で4日に吹負の本隊を撃破した。果安は南に進んで倭京を遠望できる地点に達したが、その様子から守りが堅いと考えて軍を引き上げた。美濃からの増援を得て再結集した吹負の軍は、韓国の軍を迎撃に向かった。
両軍の戦いは、葦池のほとりで起こった。このとき、吹負軍の騎兵が勇士来目を先頭にして進み、韓国の軍勢の中に突入した。韓国の兵は逃げ出し、韓国もまた軍から離れて独り逃げた。吹負は来目に命じて韓国を射させたが、当たらなかった。韓国は逃げおおせることができたが、軍を再興することはできなかった。その後の壱伎韓国については記録にない。
日本書紀には、顕宗天皇(けんぞうてんのう)の時(450-487)、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が任那に使いをした。そのとき月神が降りて、月神に民地を奉るようにとの託宣を受け、山背国葛野郡(かづのこほり)歌荒樔田(うたあらすだ)を奉った。又この時に、壱伎県主が奉斎していた月神を山背国葛野郡(かづのこほり)に移し、押見宿祢(おしみのすくね)に祭祀させたとある。歌荒樔田(うたあらすだ)の月読神社は葛野坐月読神社の根源であるという。(月読神社=京都府京都市西京区:歌荒樔田の比定地は諸説あるが、水害を避けて松尾山麓に遷座され現在に至るという。今は松尾大社の摂社となっている。)月神は天月神命(あめのつきがみのみこと)のことで、壱岐には月読神社があるが、現在の箱崎八幡神社(壱岐)がそれに当たるとする説もある。
押見宿祢(忍見宿祢)は雷大臣命・真根子(まねこ)親子の後孫である。つまり、押見宿祢(忍見宿祢)の時に壱岐から山背に移ってきたのである。押見宿祢より代々卜部を名乗り月読神社の神職を務めた。
占部氏系伝記
占部氏は元 天兒屋根命(あめのこやねのみこと)12代の孫雷大臣命(いかつおおみのみこと) 始めて仲哀天皇の御時卜部姓を賜ふ。雷大臣命から6代の孫常磐大連(ときわのおおむらじ)卜部姓を改めて中臣姓とす。 常磐大連の曽大職冠鎌足(たいしょかんかまたり)其の従弟(いとこ)右大臣清丸をして神道中臣姓を継がしめ 其の身は藤原姓となる。清丸 は意美丸の子なり。清丸の曽孫平丸 大中臣(おおなかとみ)を改め、又卜部となる。爾来(=以来)世々詞部を掌(つかさど)り、今山城国吉田を以って正嫡とす。又同国松尾筑前国胸肩大神に従ひまつるあり。 然れども今、我が占部家においては平姓を用ふ。系図記及び宗像大神の旧記等も又しかり。享保14年2月3日大災に罹(かか)り宝物什器(じゅうき)(=日常使用する器具・家具類等)殆ど灰埃に帰せしむ。
天香山坐櫛真智命神社
大和三山の内、この天香久山だけが「天」の冠がついている。天から降ってきたとの伝承があったのであろう。 伊予国風土記や阿波国には、山が天から下るとき、二つに別れて片端が倭の国で天加具山となったとする伝承があった事が記されている。お国自慢と言われている。
記紀神話での高天原の出来事の内、天岩戸から天照大神を招き出す際に、この山の木々や金を利用する話がある。日矛がつくられこれは和歌山の国縣神宮の御神体とされている。日矛は兵主神とも見られ、半島から来た天日槍ともつながる。日矛は古代日本の王権にもかかわるキイワードである。
御祭神
(右)月読命
読むというのは月齢を数える事であり、日を数えることは暦(太陰暦)である。したがって月読と、稲作、潮の満ち引きとは大変深い係がある。
(中)月夜見命
月夜というのは単につきのことである。月は夜出るわけであるから月夜といった。見は心霊を表す。従ってこの見は月を神格化した。
(左)月弓命
三日月は弓の形をしている。そこから月読が月弓に音が変化するのに伴って漢字も弓が当てられた。
鎮座
鎮座年数は不詳であるが、顕宗天皇3年(487年)にはすでに存在していた。
御神徳 (暦・潮の干満など月にまつわる全ての行い)
・生命の誕生(安産、健康、病気平癒)
・漁業の繁栄(航海安全、大漁)
・農業の誕生(自然界では旧暦の暦と共にある)
・商売繁盛
古事記
古事記によれば、イザナギの命が黄泉の国から帰られた時、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において、禊祓いされ左目を洗われた時に天照大神、右目を洗われた時に月読命、鼻を洗われた時にスサノオがお生まれになった。
この3柱の神を三貴神と呼び他の大神とは別格と記されている。
この資料は明治8年ごろの月読神社の絵になります
月読神社縁起
顕宗天皇3年(487年)阿閉臣事代という官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那に使いにでる。
その際に人に月の神が神がかりしまして「土地を月の神に奉納せよ、そうすればよい事があろう」という託宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐の県主の押見宿禰に命じて壱岐の月読神社から分霊させ京都に祀らせた。
舒明天皇二年壱岐の公乙等を筑紫の伊都に遣わし神石を求め、一つを京都の月読神社に納める。この石はその昔、神功皇后が月神の教えによりお産を延ばされたことで「月延べ石」と名づけられた。その石は今伊都の鎮懐石八幡宮と壱岐の月読神社にあると言われている。
文武天皇大宝元年初めて行幸あり、神石をご覧になられ、壱岐古麻呂に命じて弊帛を奉納し神税を古麻呂に支払う。
宝亀33年、暴風雨で木や家が倒れた。これを占うと月読神の祟りであった、そこで忌部正美が奏じ、神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月読神社に遣わして神の怒りを鎮めた。
國分郷古木村清月の社在り、延宝4年(1692年)6月朔日建立拝殿の内に石の御殿あり、拝殿は西北西向きで茅葺梁行2間、桁行2間半である。境内は、東西25間余り、南北31間余り、周囲1町17間余り、山中参道16間。祀管榊原主藤原正益、定祭9月23日云々。
式内大社の例により、神階を進められる。
霊元天皇延宝4年6月朔日、松浦肥前守従伍位下源朝臣鎮保、石祀及び木鏡を寄進。(木鏡の銘)には「奉ル備24座ノ内月読神社御正體木鏡1面」とあり。
壱岐氏の居館跡
月読神社の御祭神「月読命」の子孫押見宿禰は壱岐氏(壱岐県主)の遠祖である。下の鳥居から西方面(湯之本方面)約500mの所にある国片主神社(拝殿が壱岐氏の居館跡と言われている)、がある。
壱岐7大神社、五大天神として多くの信仰がある。
島のほぼ中央部にあって少彦名命を祀っており、別名は国分(くにわけ)神社で、今も「国分神社」の印を使用しています。延喜式内小社ですが「由緒沿革」によれば、国分の名前の所縁は、昔、大己貴神〔大国主神の別名)と少彦名神が、国土を半分ずつ領有、支配していたことによると記されています。古事記も『大穴牟遅(大国主神)と少名毘古神と、二柱の神相並ばして、この国を作り固めたまひき。然(さ)て後は、少名毘古那の神は、常世の国に度ましき』と伝えています。
少彦名神の国は「常世の国」と呼ばれ、後の神功皇后の御世にも存続していたことが、摂政即位13年の歌で確認出来ますが、一方の大国主神の方は、遍遍芸命に国を譲り渡しました。
月読尊の子孫であるという伝承を持ち、外宮と内宮の神である祓戸神を祀ります。
同様に、出雲国出雲郡伊努郷の来坂(来阪)神社には、祓戸社が大切に祀られており、
伊努神社、同社神魂伊豆乃賣神社は、祓戸神の伊豆乃賣尊の御名を社名に持つ唯一の式内社です。
むかしむかし,あるところに,浦島太郎という若い漁師が母と二人で暮らしていました。ある日,浦島太郎が浜を歩いていると,子供たちが亀をいじめているのを見ました。かわいそうに思い,逃がしてやるように子供たちに言いましたが,いっこうにやめてはくれません。そこで,持っていたわずかばかりのお金を渡して亀を助けてやりました。それから数日経って,浦島太郎が海で釣りをしていると,亀が声をかけてきました。その亀は,先日助けてくれたお礼に浦島太郎を乗せて竜宮城に連れて行くと言います。浦島太郎はそこに行ってみたくなり,亀の背中にまたがりました。亀はしばらく海を泳ぐと,すぐに海の底に向かって潜りました。そして,あっという間に立派な門がある竜宮城に着きました。奧に案内されると乙姫様が出迎えてくれました。浦島太郎は歓待され,鯛やヒラメの舞いや踊りを見ながらたくさんのご馳走を食べてしばらく楽しい時を過ごしました。何日か過ぎると,故郷が恋しくなり,帰りたいと乙姫様に言いました。乙姫様はたいそう残念がっていましたが,浦島太郎の思いを理解して見送ることにしました。別れる時,乙姫様は「決して開けてはなりません」と言いながら玉手箱を土産にくれました。そして,来た時のように亀の背中に乗ると,あっという間に故郷の浜に着きました。しかし,そこは以前の村とは違っているように思えました。付近を歩いてみたのですが,誰も知っている者がいないのです。それどころか,自分の家があった辺りには草が生えていて,家もなく,母の姿も見えません。出会った人に尋ねても誰も母のことを知らないのです。だんだん不安になって,海岸に出て座っていた浦島太郎ですが,玉手箱のことを思い出しました。この箱を開けるともとに戻るかもしれないと思って,ふたを開けてしまいました。すると,箱の中から白い煙が出てきて,たちまち白髪白髭のお爺さんになってしまいました。
巌谷小波は『日本昔噺』の中で,
「むかしむかし,丹後の国,水の江という所に浦島太郎という一人の漁師がおりました。」と書き始めています。ここでは浦島太郎が丹後(現在の京都府北部の半島)の人と明言しています。
浦嶋神社
浦島神社(宇良神社)(京都府伊根町本庄浜191)
淳和(じゅんな)天皇は浦嶋子の話を聞き,小野篁を勅使として天長2年(825年)に浦嶋神社を創建し「筒川大明神」として嶋子を祀っています。
別名 宇良神社 浦島大明神 筒川大明神
主祭神 浦嶋子 相殿神 月読命
現在この神社がある付近までが本庄浜の入り江が入り込んでいました。浦嶋子は筒川庄の豪族の浦嶋子という名の人の息子で,父の名を継いでいました。
『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」
「春,霞がかかる日に住吉の海で釣り船を見ていると,はるか昔のことが思い出される。水江の浦の嶋子が鰹や鯛を釣って7日,この世と常世の境を越えてしまいました。そこで,海の神の娘である亀姫と会いました。二人は常世で結婚し,暮らしました。3年ほど経って,嶋子が「しばらく故郷に帰って,父母に今の生活を話してきたい。」と妻に言ったところ,「またここで暮らしたいのなら,決してこれを開けてはいけません」と櫛笥(くしげ:玉手箱)を渡された。こうして水江にもどった浦嶋の子だったが,3年の間に故郷はなくなり見る影もなくなっていた。箱を開ければ元に戻るかもしれないと思って開けたところ,常世の国に向かって白い雲が立ちのぼり,浦島の子は白髪の老人になってしまいました。そして,息絶えて死んでしまいました。」
春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得〈乎〉良布見者〈古〉之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝T 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人〈乃〉 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡〈宅〉毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓〈垣〉毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯〈如〉本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 □[4]袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴〈由〉奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見」
与謝郡、日置ひおきの里に筒川という村があった。その村に日下の部首おびとの先祖で、嶼子しまこという容姿端麗でたいへん洗練された男性がいた。彼は水の江の浦嶼子しまことしても知られている。
雄略天皇の治世に、嶼子しまこはひとり船に乗り、海へ釣りに出かけた。しかし、三日間魚は釣れず、あきらめようとした時、五色の亀がかかった。不思議なこともあるものだと思い、それを船に引き揚げて眺めているうちに、嶼子しまこは眠ってしまう。
しばらくして眠りからさめると、目の前にはたいそう美しい乙女がいた。その乙女が言うには、自分は天上にある仙ひじりの家のもので、遠くからずっと嶼子しまこのことを思っていたとのこと。
嶼子しまこもこの乙女の思いを受け入れ、この亀比売ひめに連れられて海に浮かぶ大きな島の蓬莱に出向く。そこは、地面はまるで真珠をしきつめたようであり、大きな御殿は日を覆い隠すほど高くそびえ、楼閣はきらきらと照り輝いていた。
やがて、二人は大きな門の前に到着すると、乙女は嶼子しまこを残して中に入っていく。すると、子供が七人やってきて、「こちらが亀姫さまの旦那さまになられる方だ」と口々に言った。次に、八人の子供たちがやってきて「亀姫さまの旦那さまはこのお方だ」と言った。それで嶼子しまこは乙女の名前が亀姫というのを知った。
乙女が戻ってきたので子供たちのことを尋ねると、乙女は「七人の子供たちはすばる星、八人の子供たちは雨降り星」と答え、嶼子しまこを家の中に案内した。
乙女の父と母はそろって嶼子しまこを迎え、席をすすめた。卓には数えきれないほどのご馳走が並び、兄弟姉妹もそろって杯を交わした。仙歌とこよのうたは声高く澄みとおって響き、神舞は流れるように優雅、その宴の楽しさは人の世の宴とは比べ物にならないほどだった。日が暮れていくことも知らぬまま時間がたち、やがて、嶼子しまこと乙女は夫婦になった。
月日は流れ三年がたった。嶼子しまこはいつしか故郷を懐かしく思い出すようになり、両親のことが気がかりでならなくなった。その思いは日ごとに大きくなっていくばかり。
そうして、嶼子しまこは乙女にそのことを話し、故郷へ戻ることになる。旅立ちの日、両親も親戚も切ない思いで嶼子しまこを見送った。
乙女は小箱を取り出すと、嶼子しまこに渡しながらこう言った。
「こんな私のことでも、忘れずにいて下さい。この玉匣たまくしげ(※化粧箱)があれば、もう一度、ここに戻って来ることができます。ただし、どんなことがあっても開けてはいけません」
乙女と約束をして別れを告げると、嶼子しまこは船に乗って目を閉じた。すると、あっという間に筒川の里についていた。
ところがそこでは行き交う人も、家も何もかも、見覚えのあるものはない。そこで村人に尋ねると、嶼子しまこが三百年も前に一人で海に出かけたまま戻って来なかった人だとされていることを知った。
嶼子しまこは呆然として故郷を歩き回ったが、顔見知りの者には誰にも会うことができなかった。そして、気がつけば、はや十日間が過ぎ去ってしまっていた。
寄る辺もない嶼子しまこは乙女への思いを募らせ、会いたさのあまり約束のことも忘れて、玉匣たまくしげを開けてしまう。するとたちまちかぐわしい蘭のような乙女のからだが雲となって立ち上り、風に流されて青空の向こうへと消えてしまった。
嶼子しまこは、はっと我に返って、約束のことを思い出した。もはや二度と乙女にも会えなくなったことを知ると途方にくれ、涙を流しながら歌を詠むと、雲の彼方から「決して私を忘れないで下さい」と歌い応じる妻の声が聞こえてきた・・・・・。
藤大臣(とうのおとど)の没し地
大善寺玉垂宮
9月13日 神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。[高良玉垂宮縁起]
皇后の妹である衣通姫に允暁天皇が思いを寄せ、 姉を気遣って参上しようとしない姫を説得して、七日間その庭に伏して頑張った熱意にほだされて、皇居に向かうわけですが、途中
『倭の春日に到りて、櫟井の上に食(かれひく)ふ。弟姫,親ら酒を使主に賜ひて、その意を慰む』
と『日本書紀』書かれた人物です。
中臣氏と春日との関係も表していますが、中臣氏が「ひめ」を詔喚し出現さす宗教的威力を持つ祭礼氏族として、さらには神人共食の類型ともいえます。
さらにこの「いかつおみ」が媛神信仰を生じ占める役割を果たし、そこに春日の第四神比売神に結び付くとい説もあります。
このことは、春日、鹿島、香取の祭礼の主体に女性祭礼が継承されていることに結び付くと考えられます。
仲哀天皇と允尭天皇に登場するイカツオミが同一人物とすれば、2百年以上生きていたことになります。
の中臣氏については、『日本書紀』以外の記述がなく、実在性を他に立証できず、こういう人物がいたという記述が日本書紀にあるとしか言えません。
伊吉島造家の伊岐氏(伊岐直)の一族。神功皇后の四太夫の一人で、天児屋根命12世の孫にあたる雷大臣の子である真根子を伊岐直の祖とする系図や、壱岐卜部氏の氏人である是雄の賜姓記事(伊伎宿祢姓)において先祖を雷大臣とするとの記載により、中臣氏族とする。一方で、中臣氏族とする系図は仮冒で、高皇産霊神の後裔月神命の子孫である壱岐県主の一族とする説もある。姓は宿禰。
桂という地名は、天照大神の命令で月読尊が保食神を調べに天界から降りてきたとき、最初に到着した場所なのだそうだ。そこに桂の木があったので、月読尊はしばし木に寄って休息した。そこでその土地を桂の里と名づけたというのである。
ここから桂川をさかのぼると保津川に至り、さらに丹波に行き着く。月読尊が保食神に出会って殺したのは、あるいは丹波だったかも知れない。そういえば、出雲大神宮には保食神(宇賀御魂:うかのみたま)を祭る磐座もある。もちろん、出雲大神宮のそばにも月読橋、月神社(月読神社)もあるが、、、
その近くの大井神社には、まさにその通りの伝承が残るのを発見した。
大宝二年(702年)、月読尊が市杵嶋姫と一緒に亀に乗って桂川をさかのぼって来たが、流れが激しくて進めなくなり、鯉に乗り換えて在元(ありもと)渕まで来た。和銅三年、勅命によりそこに神社を建てたが、のち現在の大井神社に遷したという。亀に乗った男女の神というのは、何だか異国的だが、華やかでもある。彼らはたぶん、このあたりで休息したのだろう。
京都の西部には秦氏が大勢住み、暴れ川だった桂川の上流に大きな堰を築いて付近を灌漑し、農地を開いたという。(ただし「大井」は、現在の山城-丹波の国境付近の住民が「おおえ」の「え」を「い」と紛らわしく発音していたことから来た、という考えもある。)もともと保津川は氾濫することが多かったそうで、亀岡盆地はしばしば太古の丹波湖を彷彿とさせる光景になったという。この神社には月読尊、市杵嶋姫の他に、治水のため木股神(きのまたのかみ、又の名は御井神)も祭っている。
この神は書紀には登場せず、古事記で木俣神と書く。大己貴神の妃の一人八上姫(やがみひめ)の子供である
祭神は一方が月読命・市杵嶋姫で、もう一方が御井神と市杵嶋姫となっています。この二社の大井神社には同じ伝承が残っています。
それは「月読命・市杵嶋姫」、もしくは「御井神・市杵嶋姫」が、大堰川を二神で大亀の甲羅に乗って遡って行ったが、途中、急流になり大亀はヘロヘロで上れず、仕方なく大亀から大鯉に乗り換えて急流を上って行ったと言う話です。西暦700年代に大堰川を上って行ったそうです。
こうなると「月読命=御井神」になりますよね。そして市杵嶋姫とは夫婦と考えるのが自然だと思います。そして「市杵嶋姫=弁才天=瀬織津姫」とされています。
つまり一方は殺した相手、もう一方は結婚した相手になっちゃいます。
http://blog.goo.ne.jp/nobolook47/e/93a171016c9d628bb1a943a048898907
『日本書紀』に登場する穀物神。「うけ」は食べ物,「もち」は「持ち」の意。高天原からきた月夜見尊(ツクヨミノミコト)を,口から種々の食物を吐き出して饗応したので,汚いことをするといって怒ったツクヨミに切り殺されたが,その死体の各部分には牛馬,繭,五穀が生じていた,と伝えられる。農耕の起源を語るこの神話には,ツクヨミが保食神を殺したと聞いた天照大神(アマテラスオオミカミ)が激怒してもうツクヨミとは会わないといったために,アマテラスとツクヨミつまり太陽と月とは別のときに空に現れることになったという日月の起源を語る話も含まれており,農耕と日月との密接な関係を示す。『古事記』にみえる類話では,月夜見,保食神に当たる神が須佐之男,大宜津比売とされ,話の内容も単純だが,その方が古いだろう。
<参考文献>松村武雄『日本神話の研究』3巻,大林太良『稲作の神話』
『古事記』には伊予の二名島(いよのふたなじま)(四国)として
粟国は,大宜都比賣(おおげつひめ)
讃岐国は,飯依比古(いひよりひこ)
伊予国は,愛比賣(えひめ)
土佐国は,建依別(たけよりわけ)
を作ったと書かれています。この内粟国・讃岐国は共に食物に関係しています。
『古事記』の大宜都比賣は四つの場面に登場します。
1.国生みで伊予の二名島(四国)を生み、粟国は大宜都比賣と謂うとしています。
2.国生みの次の段階の神々の生成で、鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船と謂う。次ぎに大宜都比賣神を生みき。この次ぎに火之迦具土神を生み、伊邪那美の神は死にます。
3.天照大神の天岩戸の物語の後、速須佐之男命が大気津比賣神に食物を乞い、身体から取り出しているのを見て、穢汚しているとして殺してしまいます。殺された神の身から五穀が生じます。
4.大年神の神裔の項。大年神の子神に大山咋神や羽山戸神。この羽山戸神が大気都比賣神を娶りて生める神の名は若山咋神などの稲作関係の神々。
1,2は誕生のお話、3は殺される、4は結婚して子をなす。
複数の大宜都比賣神がいるように見えます。幾つかの伝承が混ざり込んだのでしょう。
「丹生の郷から大宜都比売命が神馬に乗って八柱の随神を率いて遷られ、粟を蒔きこの地に広めた。」という伝承があります。
この八柱神とは以下の神と考えます。
羽山戸神、大気都比売神を娶して生みし八柱の神。
・若山咋神:小山を意味する神
・若年神:若い稲を意味する神
・若沙那売神:田植えを意味する神
・弥豆麻岐神:田に水を引くことを意味する神
・夏高津日神(夏之売神):夏の日の高さを意味する神(稲の育成に不可欠、そして太陽神でもある)
・秋毘売神:秋の稲を取り入れを意味する神
・久々年神(冬年神):夏、秋に続く冬を意味する神
・久久紀若室葛根神:新嘗祭を意味する神
これら八柱の神々は生まれた順番から稲の成育を示したそれぞれ稲作になくてはならないエレメントを現した神であります。(もうこれだけで稲荷神と呼んでもいいくらい… )
祭神一座 賀之比賣命
古事記云 羽山戸神 娶 大気都比売神 生 夏高津日神、亦名 夏之賣神 按 阿波國魂 大粟姫ノ御子ナリ
阿波誌には「賀志波比売神社、夏之売命を祭る、見能潟に在り俗に津峰権現と号す、別当千福寺」。
古事記に曰、羽山戸神 大宣都比賣を娶て夏高津日神 亦名 夏之売神を生む、述者の按に羽山戸は伊予の大山祇今云う三島の神是なり、大宣都姫は阿波の国主也、当社は山の麓に在りしを所の郷民に因て今の山上に遷す、是は年歴久しからずと尤も麓の社も猶存せり、此社真に古し、樹木繁茂せり、毎年臘晦の夜竜燈あがる」と。
●祭神 御井神・市杵島姫・月読命
●創建 和銅3年(710)
その伝承とは…
この大井神社の神様、御井神と市杵島姫命が大堰川(保津川)を亀に乗ってさかのぼったところ、保津峡のあたりで急流にさしかかり、その急流を上がれずにいたので、鯉に乗り移って川をさかのぼりました。
そして、現在の亀岡市河原林勝林島に上陸したそうです。(今でもこの地域にも同じ神様が祀られる大井神社があります。)
そのことから、大井神社の氏子は鯉が当社の「神使」(神の使い)であることから、氏子は鯉を食べることを禁忌とし、端午の節句に鯉のぼりを上げることもないのです。
祭神 月読神
「延喜式神名帳」に名神大社に列した古社である。別項で詳しく述べるが、月読命は御饌津神である豊宇気毘売神とも関係が深く、「書紀」の一書では「青海原の潮の八百重を治める神」とされている。月読神社は、私見では壱岐を発祥としており、鹿児島県にも多く、京都嵐山の松尾大社の摂社は、壱岐から勧請された。こう考えると、月読命は隼人系の神なのかもしれない。
毎年10月14日、25年程前に隼人舞の復活を試みて始められたという、「大住隼人舞」が奉納される。月読神社一帯は古くから大住と呼ばれていて、「大隅」の名残と考えられ、大隅隼人の移住地だった可能性が指摘されている。
(長野県佐久市望月字御桐谷(みとや)
望月宿入口交差点と御桐谷交差点との中ほど、望月歴史民俗資料館の西北に位置する。古代の望月牧の南隅に鎮座していたのである。
御祭神は天忍日(おしひ)命、天道根(みちね)命、月読命の三柱である。
「玄松子の記憶」(http://www.genbu.net/)が大伴神社の社伝として、
祭神・天忍日命は大伴氏の祖神で、大伴武日命とも呼ばれている。祭神が馬に乗ってこの地へ来られ、鎮座。乗って来た馬を種馬として駒の改良繁殖をはかリ、この地は、多数の馬を産する地となって、信濃国最大の望月牧へと発展したという
山田の集落は、南北に細長い丘陵上に形成されており、最も北側に当社は鎮座する。いつの頃か、比叡山近く坂本の日吉大社を勧請したものとみられる。
当社は、本殿に大山咋神、西の相殿に白山比売神を祀る。
集落内には延暦寺の末寺とされる山田山吉祥寺や、堂や石塔などが多く、一帯は玉名地方の天台宗の拠点的な地域だった。丘陵全体が「玉名の比叡山」とも呼ばれる。
亀岡市に鎮座する大井神社は松尾大社と深い係わりを有する古社であるが、その神の遣いは鯉であるとされ、今でも氏子たちは鯉を食することを禁じている。
双葉葵の神紋で有名なのは、葵祭で有名な京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)です。つまり賀茂氏(かもし)の紋です。しかし、この日吉大社の大山咋神の神紋も双葉葵なんです。
『秦氏本系帳』によると日吉大社の祭神である大山咋神にも全く同じ伝承が残っています。つまり加茂玉依姫が川遊びをしていると、川上から丹塗りの鏑矢(かぶらや)が流れてきて、姫はこの矢を持ち帰り、寝床に刺し置いたところ、妊娠し男子を産みます。この子(別雷命=ワケイカヅチノミコト)の父親が誰か判りませんでしたが、成人式の時「お前の父神に酒をあげなさい」と言われると、別雷命が杯を持って天に昇っていったので、父が大山咋神であることが判ったというものです。-大山咋神が鏑矢に化身していたことが判った-
つまり、大山咋神=賀茂建角身命(カモタケツノヌミノミコト-下賀茂神社の祭神)で、加茂玉依姫とは夫婦とされ、両神の子が加茂別雷命(上賀茂神社の祭神)とされています。
松尾大社は、太古の昔より、桂川畔にある松尾山の山霊を頂上付近の大杉谷の磐座(いわくら)に祀り、暮らしの守護神として信仰されていた。
そこへ、5〜6世紀頃、渡来人秦氏一族の来住があり、秦一族の首長はその松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎ、この地方の開拓に従事していった。
そして、文武天皇の大宝元年(701年)に、秦忌寸都理(ハタノイミキトリ)が現在地に神殿を創建し、松尾山の磐座の神霊を移し、「大山昨神」を主祭神として祀ったことに始まる。
「大山昨神・・・松尾に坐す鳴鏑を用つ神ぞ」(古事記)
上賀茂神社の祭神賀茂別雷命の父は、実は大山昨神ではないだろうか。
そうなれば、松尾大社の神紋と賀茂社の神紋が、同じ「ふたば葵」であって当然という事になる。
山城国風土記に、丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であるとされているから、その火雷命は大山昨神であると考えると、無理なく頷ける。
大山咋神(おおやまくいのかみ)は、妻である建玉依比売命(たけたまよりひめのみこと)との間に、のちに上賀茂神社の祭神となる賀茂別雷命(かものわけいかづちのみこと)をもうけます。