須佐之男命 すさのをのみこと
別名
建速須佐之男命:たけはやすさのを
速須佐之男命:はやすさのを
速素戔鳴尊:はやすさのを
神素戔鳴尊:かむすさのを
素盞鳴尊/素戔鳴尊/素戔烏尊
神須佐乃烏命/神須佐能袁命
須佐能袁命:すさのをのみこと
速須佐能雄命:はやかむすさのを
須賀神:すがのかみ
……
須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男…
コメント
佐須我神社の祭神は
須佐之男命、稲田宮老公神(イナダノミヤオキナノカミ)、稲田宮老婆神(イナダノミヤオミナノカミ)の3柱。
記紀の須佐之男命に纏わる出雲神話の神々であり、須佐之男命が宮殿を築いた出雲の土地は須賀(スガ)というところだった。須佐之男命が鍛冶に係る神であることは八岐大蛇伝説などからも自明であろう。
また但馬の延喜式内社に須義神社(スガ神社)がある。ー祭神は菅八幡。地名辞書によれば須義は菅(スガ)とよみ、天日槍(アメノヒボコ)の裔孫の居邑なるべし、とする。日本書紀は垂仁天皇の条において、天日槍は新羅の王子で筑紫から難波、近江、若狭を経て出石に定住した神であるとし、古事記も応神天皇の段で類似の記事を載せ、天日槍の裔孫の系図を記しており、菅神が天日槍の一統であることが分かる。谷川健一氏は菅の語源を洲処(スカ)とし、そこが砂鉄の産出地であることを立証している(「青銅の神の軌跡」集英社)。事実、菅谷、菅、菅の沢、菅田、菅野など菅の字を織り込んだ地名には製鉄遺跡を伴うところが多い。天日槍とその一統はこうした考証や持参した持ち物などによって本邦に鍛冶を伝えた神と考えられる。
以上のとおり鍛冶に係る神話に2系統あり、両系統とも鍛冶を行う土地をスガ(スカ)と呼んでいたことがわかる。
佐須我神社の周辺事情を考察すると、同社が所在する佐賀は鍛冶が行われたスガの地であったと推され、神社名への転化は志賀剛氏が指摘する通りスガに接頭語のサを付し、サスガ神社と呼ばれたものであろう。何鹿郡誌によれば佐須我神社の氏子は旧佐賀村私市にとどまらず、昔は戸田及び由良川左岸の土、土師(いずれも今の福知山市)にまで及んでいたと記す。
佐須我神社が鎮座する旧佐賀村は江戸時代から明治にかけ鉄山経営が行われていて、何鹿郡誌は、「…今其の跡を探るに金屑と思しきもの積んで山をなし、坑門は至る所に崩壊し、古墳墓亦散乱して往古の昔を偲ばしむるものなり。…」と記しており、遠い昔に鍛冶技術者集団が居邑していたとしても不思議はない。佐賀村は郡内唯一の鉄山の邑であった。そうだとすると、佐須我神社は植物のスゲが生い茂るようなところではなく、採掘した土砂に水を流し、砂鉄をより分け、たたらで鉄を精製し、武器や農工具を生産する鍛冶技術者集団たる渡来人が定住し、氏神として佐須我神社に須佐之男命を奉斎したのだろう。
雲南市の須我神社はヤマタノオロチを退治した神話で有名な素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭る神社で、素戔嗚尊が最初に居を構えた場所とされています。
雲南市の須我神社は和歌発祥の地とも言われています。
素戔嗚尊が、かの地に降り立った歳、
「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣たてる その八重垣を」
と日本で始めての和歌を詠んだと言われています。
安来市の須賀神社も同じく素戔嗚尊を祭る神社ですが、こちらは素戔嗚尊が居を構えていらしたと言うわけではなさそうです。
須賀神社という名の神社は、全国的にあり、いずれも素戔嗚尊を祭神とします。
建速須佐之男命と櫛名田比売の子
八島士奴美神(ヤシマジヌミ)
八島士奴美神と木花知流比売の子
1.布波能母遅久奴須奴神(フハノモヂクヌスヌ)
2.淤迦美神(オカミ)
3.日河比売(ヒカワヒメ) - 淤迦美神の子
母遅久奴須奴神と日河比売の子
1.深淵之水夜礼花神(フカフチノミヅヤレハナ)
2.天之都度閇知泥神(アメノツドヘチヌ)
深淵之水夜礼花神と天之都度閇知泥神の子
1.淤美豆奴神(オミヅヌ)
2.布怒豆怒神(フノヅヌ)
淤美豆奴神と布帝耳神の子
1.天之冬衣神(アメノフユキヌ)
2.刺国大神(サシクニ)
天之冬衣神と刺国若比売の子
1.大国主神(オオクニヌシ)
大国主神の別名......大穴牟遅神(オオナムチ)葦原色許男神(アシハラシコオ)八千矛神(ヤチホコ)宇都志国玉神(ウツシクニタマ)
八島士奴美神)が刺国大神の娘、名は刺国若比売を娶って生んだ子は大国主神。
ーーーーー
ニニギ命が最後に宮を建てた国が刺国でした。
スサノオ尊が、櫛名田比売と寝所で交わって生んだ神の名は八島士奴美神と言う。
この神(八島士奴美神)が刺国大神の娘、名は刺国若比売を娶って生んだ子は大国主神。
津屋崎あたりか?
津屋崎の付近を「刺国」といったのは、神功皇后の伝説で神功皇后がこの地で杖をついて休まれたことから「杖刺し→津屋崎」となったという伝説
胸刺国(宗像と刺国)から武蔵国が由来したという説から、宗像の隣か
みやじだけ
古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。
その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りしました。
古事記 上巻 ニニギ命より
「この地は韓国に向かい、笠沙の岬に真来通て、朝日のまっすぐ射す国、夕日の日が照る国である。なので、この地はとても良い地だ」と言って、底津石根に宮柱布斗斯理、高天原に氷椽多迦斯理て居住した。
数々の兵乱により古文書・宝物等を失っているため、古来の祭神は明らかとなっていない。
『紀伊続風土記』(江戸時代の紀伊国地誌)神社考定之部では刺国大神・大国主神とされており、明治に入って変更があったと見られている。社名は古くから「九頭明神」とも称されたと言い、『紀伊続風土記』所収の「寛永記」や天正17年(1589年)の棟札に「国津大明神」、慶安3年(1650年)の石燈籠に「九頭大明神」、延宝6年(1678年)の棟札に「国津神社」ともある。以上から、この「九頭」は「国主」の仮字であり、本来は地主の神とする見解がある[2]。神社側の考察では、祭神さえもわからないほど荒廃した刺田比古神社を氏子が再興した際、氏子が「国を守る神」の意で「国主神社」としたとして、また大国主命を祭神とする伝承も生まれたとしている。
一方本居宣長による説では、刺田比古神を『古事記』の出雲神話における「刺国大神」と推定している。刺国大神は『古事記』によると、大国主神を産んだ刺国若比売の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。そして『紀伊続風土記』では、刺国若比売を「若浦(和歌浦)」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘している。そのほか「さすたひこ」の音から、刺田比古神を猿田彦神や狭手彦神と見る説もある。
伝承の多い宗像、津屋崎あたりが有利ですね。
出雲に伝承がある。
大穴牟遅神(オオナムヂ、後の大国主)のたくさんの兄神たち(八十神 )は、白兎の予言通り八上比売 (ヤガミヒメ)と結婚した大穴牟遅神を憎み、殺してしまおうと企んで大穴牟遅神を伯耆 の 手間山本(手前の山麓)へ連れて行った。そして「珍しい赤い猪を山の上から追い立てるので下で捕まえろ。そうしなければ殺す」と言いつけておいて、山の麓 で待たせている大穴牟遅神へ目掛けて、兄神たちは火で真っ赤に焼いた岩を山の上から落とした。転がり落ちてくる真っ赤な岩を猪として受け止めようとしたた め大穴牟遅神の身体がたちまちその赤く焼けた岩膚にこびりついて、焼き潰されて絶命してしまう。
これを知った大穴牟遅神の母・刺国若比売(サシクニワカヒメ)は嘆き悲しみ、高天原 に上り神産巣日之命(カミムスビ )に救いを求めたところ、赤貝の神・
赤猪岩神社(あかいいわじんじゃ)は、鳥取県 西伯郡 南部町 に所在する神社 で、『古事記 』上巻、『先代旧事本紀 』第4巻 地祇本紀での因幡の白兎 の神話の続きの説話 の舞台となった場所にある。大正 6年(1917年 )現在地に創建された久清神社と、南部町内にある要害山 山頂にあった赤猪神社が、大正9年(1920年 )に合祀され現在の赤猪岩神社となった。
サダヒコ、佐田彦ではないのでしょうか?
本居宣長 による説では、刺田比古神を『古事記』の出雲神話における「刺国大神」と推定している。刺国大神は『古事記』によると、大国主神を産んだ刺国若比売の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。そして『紀伊続風土記』では、刺国若比売を「若浦(和歌浦 )」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘している。そのほか「さすたひこ」の音から、刺田比古神を猿田彦神 や狭手彦神と見る説もある。
延喜式内社 Hp刺田比古神社
草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学
http://hiborogi.sblo.jp/article/106423362.html
大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の娘である許氏の萬幡豊秋ツ姫の間に生まれた田心姫(多紀理毘売)=豊玉姫が蛤貝比売として、
同じく大幡主の子である豊玉彦の姉のアカルヒメとスサノウとの娘である市杵島姫がサキ貝比売として各々大国主のお妃となっているのです。
素戔嗚尊ー八嶋士奴美命 (母は櫛名田姫)ー大国主(母は田心姫)ー大物主(母は美保津姫)ータマネ姫ー饒速日と武日照命(父は火明命)
素戔嗚尊ー八嶋士奴美命 (母は櫛名田姫)ー大国主(母は田心姫)ー大物主(母は美保津姫)ー積羽 (八重事代主神、母は陶津耳の娘の活玉依姫)ー櫛御方命(母は三島溝咋の娘の玉櫛姫)ー阿田都久志尼命ー
天日神天照神 (陽陰連る神)ー田心姫(母は不明)
天照神 (陽陰連る神)。
日の神、天日神、天日分宮、大御神、アメノミヲヤ、イセの神 (妹背の神) とも。
斎名:ワカヒト。赤子のアマテルが自ら名のった名:ウヒルギ (大日霊貴)。
イサナギとイサナミの子。ヒルコの弟。ツキヨミ、ソサノヲの兄。
『ハヤコが三子 一はタケコ オキツシマ姫 二はタキコ ヱツノシマ姫 三はタナコ イチキシマ姫』6文
『昔 君 マナヰにありて ミスマルの 珠を濯ぎて タナキネを モチに生ませて 床酒に ハヤコを召せば その夢に 十握の剣 折れ 三割 添かみに交んで 共となる 三人 姫 生む』7文
『姫 人なりて オキツ島 サカムヱノ島 イツク島 自ら 流離ふ』7文
八島士奴美
オホナムチ。佐田大神。斎名:クシキネ。ソサノヲとイナダ姫の第五子。初代大物主。八重垣の臣。
大国主
クシヒコ、恵比寿
大物主
コモリ、18男18女を生み育て、アマテルよりコモリ守の名を賜る。父クシヒコによってか医学・薬学に明るい。
俗に子守明神といわれ、全国の子守神社の祭神はこの人である。また祭神名の水分神というのは御子守神が訛ったものと思われる。
タマネ姫。
コモリの次女。 ホノアカリムメヒトの内宮となり、クニテルとタケテルを産む。
火明命
ニニキネと木花咲耶姫(アシツ姫)の第一子。 斎名:ムメヒト。
積羽 (八重事代主神)。
コモリの次男。 三島大明神。
ニニキネのオオモノヌシ・コモリのコトシロヌシとなる。
ホオテミの時、弟のタケフツと共にイフキの宮にて四国24県を治める。
その後、筑紫に行ったカンタチ (アスカ君のモノヌシ) のコトシロとして、アスカの宮にも侍る。
ミシマミゾクイの娘のタマクシ姫との間に、クシミカタマ・クシナシ・タタライソスズ姫を儲ける。
櫛甕玉。櫛御方命。天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタノミコト)。
ツミハ(八重事代主)とタマクシ姫の子。クシナシ・タタラヰソスズ姫の兄。 斎名:ワニヒコ。
ツミハ夫妻が阿波へ帰るワニ船の船内で生れる。
叔父オオタの娘のミラ姫を娶り、アタツクシネを生む。
阿田都久志尼命。
斎名:タタヒコ。アタツクシネは幼名という。クシミカタマとオオタの娘ミラ姫の子。
神武が大和を制圧した後に、県主にされた。
神武の命によりオオミワの社を造り、即位前年の十月二一日にオオミワの神名備を祭っている。
カヌナカワミミ(綏靖天皇) のオオモノヌシ (剣臣)。
蹈鞴五十鈴媛。
ツミハ (コトシロヌシ) とタマクシ姫の娘で、クシミカタマ・クシナシの妹。
タケヒト (神武) の内宮。カンヤヰミミとカヌナカワミミを生む。
ツミハが伊予にあるとき、妻のタマクシ姫がイセに詣で、サルタヒコがたたらなす時生まれた。 神武の后となるまでは阿波宮にいた。上鈴35年生まれ。
奈良市本子守町、率川 (イザカワ) 神社
『旧事』大三輪の大神の娘となっている。
『書記』事代主神、八尋鰐になって三嶋溝樴姫、或いは云わく、玉櫛姫のもとに通い給う。そして姫蹈鞴五十鈴姫命を生み給う。
日本書紀には
磯城県主ー川派比売(綏靖天皇の妃)ー安寧天皇
事代主 ー五十鈴依媛ー 安寧天皇
古事記には
師木県主波延 ー河俣毘売(波延の妹、綏靖天皇の妃)ー安寧天皇
旧事本紀 地祇本紀
都味歯八重事代主神の女(天日方奇日方命の妹) 五十鈴依姫命 子は磯城津彦玉手看天皇(安寧)
三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』
天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。
『古事記』では河俣毘売といい、師木県主の祖先である家系の出身。師木県主波延(安寧天皇皇后、阿久斗比売の父)の妹。生没年不詳。
『日本書紀』第1の一書では川派媛といい、磯城県主の娘。
なお、『日本書紀』本文と第2の一書ではカワマタビメは登場せず、本文では五十鈴依媛命、第2の一では春日県主大日諸の娘である糸織媛が綏靖天皇の皇后とされる。
1.弟磯城黒速 、父:大物主、母:不詳
神武の大和侵攻に功績あったとして、「磯城県主」を与えられた。
子供:磯城県主葉江?川派媛?猪手?
(紀)2綏靖天皇后一書第1:川派媛。磯城県主の娘。2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
本文の2綏靖天皇后・3安寧天皇の母は、事代主神の娘五十鈴依媛となっている。
(記)河俣毘売:師木県主の祖、2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
(紀)綏靖天皇后一書第1:川派媛。磯城県主の娘。2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
本文の2綏靖天皇后・3安寧天皇の母は、事代主神の娘五十鈴依媛となっている
(記)河俣毘売:師木県主の祖、2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
2.磯城県主葉江、父:弟磯城黒速? 母:不明
記紀記事:弟磯城黒速と親子関係であったかどうかは記紀には明記されていない。
磯城県主祖と記されているのみである。事績的な記事なし。娘の婚姻関係の記事のみ。
3.太真稚彦
父:磯城県主葉江? 母:不明
子供:飯日媛
(紀)4懿徳天皇后一書第2に磯城県主太真稚彦の娘飯日媛の記事あり。
記紀には父母の記事なし。葉江の後の磯城県主と推定。
4.磯城県主大目
父:(磯城県主?)不明 母:不明
子供:細媛
(紀)7孝霊天皇后の本文に磯城県主大目の娘細媛とある。
(記)7孝霊天皇后の記事に十市県主大目の娘細比売とある。
記紀で磯城県主・十市県主と表記が混乱している。この辺りで磯城氏から十市氏が派生siたものとも思える。「和州五郡神社記」の十市氏系図には大目は記載されていない。
氷川神社は、出雲国造と同祖である武蔵国造が祀った神社です(国造(くにのみやつこ)と読み、神に仕えるとともに県知事としての役割をしていたようです)。氷川神社は、武蔵国造を賜った兄多毛比命(えたもひのみこと)が、先住者が祭祀を行っていた所に、それを尊び須佐之男命を祭神として祭り、その勢力の拡大に伴い各地に氏神として氷川神社をの分霊を移し祀ったといわれています。
大宮氷川神社・氷川女体神社・中川氷川神社の三社・三神について
現在の祭神は、須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三神ですが、維新前は、大宮氷川神社(須佐之男命:男躰社:埼玉県大宮市高鼻)・氷川女躰神社(稲田姫命:浦和市三室)・中川氷川神社(大己貴命:簸王子社:大宮市中川)とし、それぞれ見沼周辺に位置していて、別々の社殿に祀られており、もとは、氷川神社の祭神は素盞嗚命一座であり、後に、現在のように三神を祀ったようです。
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∥ ┌ 八島野尊(やしまぬの)<二代目出雲国の王>
∥ │
∥ ├ 五十猛尊(いたける)<紀国の王>
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∥ ├ 大屋津姫(おおやつひめ)<紀国>
∥ │
∥ └ 抓津姫(つまつひめ)<紀国>
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∥ 神大市比売(かみおおいちひめ)
∥ ∥
∥ ∥ ┌ 大歳(おおとし)<饒速日尊 大物主神>
∥ ∥───────────┤
∥ ∥ └ 宇迦御魂(うかのみたま)<稲荷神>
∥ ∥
∥ ∥
須佐之男尊(スサノオ)
青旗佐久佐日子命(アオハタサクサヒコノミコト)
都留伎日子命(ツルギヒコノミコト)
衡鉾等乎而留比古命(ツキホコトオテルヒコノミコト)
磐坂日子命(イワサカヒコノミコト)
国忍別命(クニオシワケノミコト)
和可須世理比売命(ワカスセリヒメノミコト)
八野若比売命(ヤヌノワカヒメノミコト)
で、男神5柱に女神が2柱です。