気比神宮 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
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気比神宮(福井県敦賀市曙町) 越前国一宮
祭神 伊奢沙別命(気比大神・御食津神)
仲哀天皇、神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉妃命、武内宿禰
社家 気比氏
神祇伯大中臣意美麿がその祖とされているが、吉備氏の支族である角鹿氏・…

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  • 越前國敦賀郡 信露貴彦神社
    住所:福井県敦賀市沓見62-12
    御祭神:邇々藝命 日本武尊
    御由緒:
    当社は往昔より白木大明神尊称し、区内の村社久豆彌神社は姫神に座すと云い、俗に当社を男ノ宮と称え奉っている。推古天皇十年に創立し、延喜式神名帳には越前國敦賀郡信露貴彦神社とあり。
    『敦賀郡神社誌』より引用

    創建:推古天皇十年(602年)
    社格:式内社
    神社は男ノ宮と称されている。同区内には久豆彌神社があり、姫神の木花開夜姫命を奉っている。対して当社は彦神の邇々藝命を奉っている。なので、当社を男ノ宮、久豆彌神社を女ノ宮と称するということである。

    神社誌によると、もともと信露貴彦神社は現在より南方の位置に、久豆彌神社は現在より東北の位置にそれぞれ鎮座していたそうである。理由は不明だが、両社とも現在の位置と真反対方向に遷座したのだ。だから久豆彌神社付近の者は信露貴彦神社の氏子で、信露貴彦神社付近の者は久豆彌神社の氏子という面白いことになっている。

  • 住所:福井県敦賀市白木字上取10-4
    神紋:左三つ巴
    御祭神:彦波瀲武鵜草葺不合尊
    御由緒:
    当社は俗に白木明神、又は鵜羽大明神と尊称し奉って延喜の制の式社である。白木神社は新羅城の新良貴氏祖、稻飯命を祀ると伝え、或は白城宿禰を祀るとも云えど、こは恐らく附曾の説であろう。白城は新羅の神なるべしと言われているが、新選姓氏録に、新良貴彦は瀲武??草葺不合尊男稲飯命之後也、是於新良貴國即為國主稲飯命者新羅國王之祖也とある。
    惟うに天日矛の後裔此國に留り、其の遠祖葺不合尊、又は稲飯命を祀りしによれるものにて、地名シラキは日槍族の新羅人の住みしことあるにより起り、其の祖神を祀りしとの立説があれば、今は明細帳並にこの説に従う。
    『敦賀郡神社誌』より引用
  • 神社誌ではアメノヒボコ(新羅の神)の子孫が、此の地に移り住み、そして新羅王の祖であるという説があるウガヤフキアエズの子、稲飯命を祀った言われている。新羅=シラキである。

    敦賀市内沓見には、古代敦賀に来た都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の臣達が敦賀に留まり、一方は沓見に、もう一方は白木に移り住んだという伝説が残っている。

    白木と沓見には新羅風の風習が残っていたり、沓見にも信露貴彦神社(シロキヒコ)があることから、あながち嘘とは言えない。
    ではツヌガアラシト御一行は新羅人かと言うと違う。
    意富加羅という伽耶の小国の出身である。
  • 『先代旧事本紀』国造本紀で、膳氏ゆかりの国造が無いか調べると、若狭国造がある。

    若狭国は、小浜港を抱える福井県南部であり、ヤマト王権の日本海出入り口として、「御食国(みけつくに)」であったとされる。皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料を貢いだと推定される国であった。

    〝若狭国造(わかさのくにのみやつこ)
    允恭朝の御代に、膳臣(かしわでのおみ)の祖・佐白米命(さしろよねのみこと)の子の荒砺命(あらとのみこと)を国造に定められた。〟

    この膳氏であるが、ウィキペディアで調べると、 → ウィキペディア 膳氏

    〝始祖は『日本書紀』・『高橋氏文』・『新撰姓氏録』によると、 孝元天皇の皇子、 大彦命(おおびこ の みこと)の孫にあたる磐鹿六鴈命(いわか むつかり の みこと)。『古事記』では大毘古命の子、比古伊那許士別命(ひこいなこじわけ の みこと)を祖としている。『新撰姓氏録』左京皇別・和泉皇別によれば、阿倍朝臣と同祖ともある。膳大伴部の伴造として朝廷の供御を主宰した。

    始祖の磐鹿六鴈は、景行天皇の東国巡幸に隨行し、 上総国において 堅魚や 白蛤を調理して天皇に献上し、その功により以後天皇の供御に奉仕することを命ぜられ、また膳臣の姓を賜ったという。〟

    また、〝684年(天武天皇13年)膳臣一族は朝臣の姓をいただき、『新撰姓氏録』左京皇別及び『高橋氏文』では天武天皇12年に氏の名を高橋氏と改めたと記されている。〟(太字強調は私)

    ウィキペディアの記事だけを見ると、「孝元天皇の皇子・ 大彦命の末裔」ー阿部氏の系譜としか、出て来ないが、『新撰姓氏録』(816年)を見ると、物部系も存在するのがわかる。※若桜部は、膳臣余磯(あれし)が賜った由来のもの。

    左京   皇別    高橋朝臣  朝臣 阿倍朝臣同祖大稲輿命之後也
    左京   皇別    膳大伴部     阿倍朝臣同祖大彦命孫磐鹿六雁命之後也
    右京   皇別    若桜部朝臣 朝臣 阿倍朝臣同氏大彦命孫伊波我牟都加利命之後也
    摂津国  皇別    高橋朝臣  朝臣 阿倍朝臣同祖大彦命之後也
    和泉国  皇別    膳臣    臣  阿倍朝臣同祖大鳥膳臣等。付大彦命之後
    右京   神別 天神 高橋連   連  饒速日命七世孫大新河命之後也
    右京   神別 天神 若桜部造  造  饒速日命三世孫出雲色男命之後也  ※四世孫 物部長真胆連
    山城国  神別 天神 高橋連   連  饒速日命十二世孫小前宿祢之後也    
    河内国  神別 天神 高橋連   連  饒速日命十四世孫伊己布都大連之後也  
    和泉国  神別 天神 若桜部造  造  饒速日命七世孫止智尼大連之後也  
    ※止智尼大連は、物部 十千根命のこと

    「若桜部」の由来の『日本書紀』履中天皇の条を見ると、
    膳臣の余磯(あれし)→稚桜部臣
    物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)→稚桜部造になったことがワンセットで述べられている。

    また、宮内省内膳司に仕えた膳氏の末裔である高橋氏が安曇氏と勢力争いした際、古来の伝承を朝廷に奏上した家記『高橋氏文』(逸文)によれば、景行天皇に高橋氏の遠祖・磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)が、膳の姓を賜った話と同時に、若湯坐連らの始祖・物部意富売布連の子の豊日連に火を鑚らせた話、そして、斎火を鑚っている大伴造は、物部豊日連の後裔であるということが述べられている。
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