倭国大乱、卑弥呼と豊、豊比売 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
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其国本亦以男子為王 住七八十年
倭国乱 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑弥呼
卑弥呼以死
・・・
更立男王
国中不服 更相誅殺 当時殺千余人
『魏志倭人伝』

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コメント

  • 高良内町には赤星神社・富松神社があって弦田物部の祖・天津赤星を祀り、近くには物部祖神・経津主神(これも実体は天目一箇命か)を祀る楫取神社もあり、これら物部系の小社の中心が高良大社とされる。筑紫君磐井の乱にあたって、物部の族長たる麁鹿火大連が討伐に向かったのも、こうした背景があったものとみられる。
  • 久留米市域の南、三瀦(みずま)に鎮座する「大善寺玉垂宮」は、高良玉垂宮と同じく玉垂命を祀る。この地の古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が始祖を玉垂神としてこの宮に祀ったとされる。また、この社は三瀦の総社にて、高良玉垂宮の元宮ともされる。
     この玉垂命に関して、筑後国神名帳には「玉垂媛神」の存在があり、大善寺では玉垂神は女神であるともされる。
     禊(みそぎ)の介添えの巫女が「水沼(みぬま)」であり、水の女神が水沼女とされる。水沼氏は禊の巫女を出す家柄であった。そして水沼が三瀦(みずま)に変化している。
  • 玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠に纏わるもの。火(肥)の伝承において、古く、蒲池比JIS+7957が潮干珠、潮満珠を用いて潮の満ち引きを司る八代海の海神でもあった。

     高良山は古く、高牟礼山(鷹群山、たかむれ)と呼ばれ、高良山の本来の祭神は「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神)」であったとされる。
  • 大善寺玉垂宮周辺にこの高木氏族が濃密に在り、水沼氏に由来する日下部氏族に拘わったとみられる。
     のちの高木氏族が「日」の神祇、日章の「日足紋」を家紋とし、同族の草野氏(くさの)が日下部(くさかべ)の名義に纏わるとされる
  • 英彦山では高木神が自身の領域を譲った相手は「天忍穂耳命」であった。記紀神話での高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)と天忍穂耳命の婚姻に由来し、英彦山は日の御子の山「日子山(ひこさん)」とされた。
  • 遠賀川流域から香春二岳や添田の岩石山、そして英彦山へ「天忍穂耳命」の神霊が連鎖して祀られ、その域には「鷹」の神祇が重なる
     高良域に痕跡の濃い物部氏族は、天忍穂耳命と高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命の子神、饒速日命を祖とする。物部氏は高良大社において、大祝など重要な神職をつとめ、筑後域には物部氏族に拘わる社は多い。また、遠賀川流域でも物部氏族は兵伎の氏族として濃い痕跡を残している。
     高木神の裔とされる大伴、久米氏の祖神、天忍日命と天久米命は天忍穂耳命の御子、邇邇芸命の降臨を先導する。また、神武東征においては天忍日命の裔、道臣命が神武天皇に随伴し、久米氏と共に宮廷の軍事に携さわる
  • 高良山の北には筑紫平野が広がり、その向こうには基山が高良山と対峙するように聳える。基山には「五十猛神」が祀られ、基山(きやま)の名は五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名とされる。
     五十猛神も「筑紫の国魂」と呼ばれる。また、白日別神として基山山下の「筑紫神社」に祀られる

    九州北部域の拠点的な甕棺墓域には必ずといっていいほどこの五十猛神が祀られている。糸島の白木神社群、早良の神奈備、飯盛山。そして、基山、西肥前の神奈備、杵島山など
  • 卑弥呼の後を継いだ壱与と考えられる倭女王が建国直後の西晋に遣使したのは、西暦二六六年
  • May 2016 編集されました
    魏志倭人伝には、「魏朝の景初3年(239年)、倭の女王は大夫難升米等を遣わし、郡に到着、京都に朝貢することを求めた。」とあり、その年の12月の記事に「倭の女王の大夫難升米(ナシメ)、次使の都市牛利(ツシグリ)を送ってきて貢献したことを、倭の女王に知らせた。」と記している。
    引き続き、「女王を親魏倭王となし、金印・紫綬を仮し、難升米を率善中郎将に、牛利は率善校尉となし、銀印・青授を仮した。」とする。
    「大夫難升米」に関しては、正始6年(245年)と正始8年(247年)にも名前が記されている。

    籠神社に残された「勘注系図」から宇那比姫命の周辺を見ると、父親は「天登米または建斗米命」であり、兄弟には「建多乎利」や「建田背命」がいて、「建田背命」の子は「建諸隅命」亦の名[由碁理(ユゴリ)]がいる。
    さらに「建諸隅命」の子に「大倭姫」亦の名「天豊姫」がいる。

    宇那比姫命の父親の「建斗米」タケトメと兄弟の「建多乎利」タケコリが気になる。
    魏志倭人伝には、伊都国の官を「爾支」と記載する。倭氏の「邇支倍」がいますが、、、。
    倭氏の系図では、珍彦(椎根津彦命)の後、志摩津見、武速持、邇支倍、と続く。邇支倍は孝安の時代3世紀中頃の人である。
  • 後漢末(157年ごろ)には5600万人を超えるまで中国の人口は回復しますが、再び食料難や社会秩序の乱れなど社会不安の高まりから、大規模な農民の反乱として歴史に残る「黄巾の乱」(184年)が起きます。それをひとつの契機として後漢は崩壊し、中国大陸に3人の英雄が君臨してしのぎを削る三国志の時代に入ります。

    このことが、また想像を絶する人口減少という悲惨な結末を招き、短期間のうちに三国の戸籍登録総数は1000万にも満たなくなりました。そしていつしか三国時代の戸籍登録数は818万人という驚くべき数まで激減したのです。晋や魏、呉など、各国政府高官らによる「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」というような表現も古文書に散見されるため、戸籍登録の誤差は多分に考慮したとしても、実人口の激減は確実視されています。その後、西晋の統一下(280年)においても、人口数は戸籍上1600万までしか戻りませんでした。また609年、隋による戸籍登録では、人口数は4600万人まで回復するも、それでも600年以上前の人口数にさえも戻ることができなかったのです。

    確かに戸籍上の人口が激減した背景には、戦乱による戦死者や、戦火を逃れて戸籍を外れる私民が大勢いたことなど、さまざまな政治要因が絡んでいることでしょう。しかし、それだけで、短期間に総人口が7分の1に減少するというような極端な理由は説明できません。その背景には前述したとおり、東夷による大規模な民族移動があったに違いないのです。まず、「黄巾の乱」(184年)が起きた後の大陸における3世紀の動向に注視してみました。大陸の北部には長い年月を経て遊牧民族が拠点を持っていましたが、この動乱に乗じて武力を増大し、華北へ向かってその影響力を伸展し、大勢の民が移動する動きが生じました。それは、秦氏らを中心として民族が、列島に向けて総結集する号令がかかるときでもあり、また、実際に日本列島の人口が突如として急増したときとも重なります。

    歴史的な人口崩壊が大陸で発生し、遊牧民族が華北へ移動しはじめた直後の3世紀後半、かたや日本列島では応神天皇が詔を発し、神の都の造営を同胞に呼びかけたのです。このタイミングはもはや偶然とは思えません。
    それまで大陸の湾岸を北上し、朝鮮半島にかけてまで広範囲に民族移動を展開していた東夷、そして秦の末裔、信望者がこぞって、日本を目指した結果、列島では人口が急増。また、多くの遊牧民族が北方より華北方面へ流入し、中には列島まで渡来した遊牧民族も一部、含まれていたのではないかと想定されます。
    こうして4世紀初めから大陸は、「五胡十六国」時代と呼ばれる、中国華北を中心とした複数国家の分立と興亡が繰り返される混乱の時代に突入し、隋が国家を統一する589年までの間、長期にわたり、およそ分裂と争いが繰り返されることになります。
  • 晋書に、泰始二年11月巳卯 倭人の使者が入貢した記事がありますから、266年になります。この後、倭国のことは中国の史書には現われません。
    次に記録されるのは、同じく晋書と宋書に「倭國在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年,」で始まるもので、良く知られる倭国王讃・珍・済・興・武が、413~478年の間に使いを送って貢物を献じたとあります。ほぼ150年間の空白があります。
    何故、中国の史書から消えてしまったのでしょう
  • 魏志倭人伝
    其(正始)八年(247)、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀
    魏志扶余
    正始(240-249)中、幽州刺史毌丘儉討句麗、遣玄菟太守王頎詣夫餘
  • 3世紀なかば、幽州刺史・毋丘倹も領土的野心の持ち主だった。
     まず、公孫淵討伐では司馬懿に従った高句麗を離反させ、玄菟太守・王頎に攻撃させる。その際、夫余を脅して軍糧を提供させる。高句麗の都を陥した後、王を追撃するという名目で沃沮に侵入、略奪・殺戮を繰り返す。穢は高句麗と同族なので討伐する。韓の支配層を離間・挑発させ、怒った韓が帯方郡に殴込みをかけたことを懲して韓国を攻撃、これを滅ぼす。

    ・幽州刺史毋丘倹討句麗、遣玄菟太守王頎詣夫余、位宮遣大加郊迎、供軍糧。<夫余伝>
    ・景初二年、太尉司馬宣王率衆討公孫淵、宮遣主簿大加将数千人助軍。正始三年、宮寇西安平。其五年、為幽州刺史毋丘倹所破。<高句麗伝>
    ・句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千余級。<東沃沮伝>
    ・楽浪太守劉茂・帯方太守弓遵、以領東穢属句麗、興師伐之。不耐侯等挙邑降。<穢伝>
    ・部従事呉林以楽浪本統韓国、分割辰韓八国以与楽浪。吏訳転有異同、臣智激韓忿、攻帯方郡崎離営。時太守弓遵・楽浪太守劉茂興兵伐之。遵戦死、二郡遂滅韓。<韓伝>
    ・正始中、倹以高句驪数侵叛、督諸軍歩騎万人出玄菟、従諸道討之。句驪王宮将歩騎二万人、進軍沸流水上、大戦梁口。宮連破走。倹遂束馬縣車、以登丸都、屠句驪所都、斬獲首虜以千数。<毋丘倹伝>
    ・幽州刺史毋丘倹討高句驪。夏五月、討穢・貊、皆破之。<少帝紀>

    …というように、高句麗・沃沮・穢・韓が毋丘倹によって次々と滅ぼされている。
     さて、残る東夷諸国は倭国と挹婁のみ。次は倭国かもしれない。
     そんな中、毋丘倹の忠実な部下で、高句麗を征伐したあの王頎が、帯方太守に赴任した――。
  • 後漢の人口
    140年:969万8630戸 4915万0220人 (後漢書・郡国志)
    (途中省略)
    157年:1067万7960戸 5648万6856人 (晋書・地理志)

    蜀の人口
    221年:20万戸 90万人 (晋書・地理志)
    263年:28万戸 94万人 (「三国志・蜀志・后主紀」注引「蜀記」、通典・食貨七)
    ※三国志の引用では「領戸二十八万、男女口九十四万、帯甲将士十万二千、吏四万人」とあるので、合計108万2千人と計算する人もいる。

    魏の人口
    263年:66万3423戸 443万2881人 (「後漢書・郡国志」注引「帝王世紀」、通典・食貨七)
    呉の人口
    242年:52万3千戸 240万人 (晋書・地理志、通典・食貨七)
    263年:93万2千戸 (「後漢書・郡国志」注引「帝王世紀」)
    280年:52万3千戸 256万7千人 (「三国志・呉志・孫晧伝」注引「晋陽秋」、晋書・武帝記、通典・食貨七)

    晋の人口
    280年:245万8969戸 1616万3863人 (晋書・地理志、通典・食貨七)
    282年:252万0865戸 (晋書・地理志)

    何故こんなに人口が変動するのかというと、それは把握できた戸数・人口は納税者の人口で、人頭税逃れで扶養家族の数を誤魔化したり、流民化した分の人口が不明だからです。実際の人口はこれよりも多いはずです。

    時代を140年と282年で区切ったのは、これらの年次には地域別の人口、または戸数の文献上の数字が残っているからです。学者によって戸籍外人口の見積もりは異なりますが、趙文林、謝淑君著「中国人口史」(1988年)による推定に従うと、現中国国境域(台湾を含む)内の推定人口は:

    140年:5061万人 (後漢支配地域はベトナム北部等を含む5213万人)
    157年:5813万人 (後漢支配地域はベトナム北部等を含む5966万人)
    188年:5978万人
    221年:1408万人 (魏682万人、蜀132万人、呉315万人、その他278万人)
    263年:1885万人 (魏954万人、蜀185万人、呉258万人、その他389万人)
    280年:2090万人 (西晋支配地域は1644万人、その他446万人)
    282年:2117万人 (西晋支配地域は1664万人、その他453万人)

    と、文献よりもましとはいえ、相変わらず西暦200年前後でのカタストロフィックな人口減を認めていますが、最近の研究者はこれよりも緩やかな人口変動を推定しているようです。

    さて西暦140年の戸数、人口ですが、趙文林らの推定により文献値を修正すると:

    遼東:6万4158戸 28万1714人 (「二十」が原文より脱落と推定)
    玄莵:9594戸 4万3163人 (「九」が原文より脱落と推定)
    遼東属国:2万5千戸 12万5千人 (六域からの推定)
    楽浪:6万1492戸 29万7050人 (「五万」を「九万」の誤記と判断)
    交趾:16万0665戸 84万人 (原文には記載なし、総数からの除算と按分等により推定)

    西暦140年から西暦188年の間の人口増加率は18%と推定しており、
    董卓政権成立時における後の公孫氏の支配域は90万人、士氏の支配域は100万人
    趙文林らの説に従うと、直後に人口が1/4程度に減少したとしていますが、最近の研究者はそこまでの人口減に賛同していませんし、遼東は辺境の地ですので、そこまでの人口減少は発生していないと思われます。またベトナムは人口が順調に増えたと思われます。

    一方西晋時代の282年の戸数は、
    遼東:5400戸
    玄莵:3200戸
    昌黎:900戸
    1戸6.6人としても合計6万2700人ですが、扶余・段部・慕容鮮卑等の推定人口60万人を加えて66万人

    公孫氏の最大時の支配域の推定人口は、大体50万~100万人、士氏の最大時の支配域の推定人口は、100~150万人といったところということになります。
  • 『後漢書』東夷伝には次のの記事があります。

    自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國,人長三四尺。 (中華書局版『後漢書』2822頁)
    女王國より東に海を渡り千余里で拘奴國に至る。皆倭種といえども女王に属さず。女王國より南に四千余里で朱儒國に至る。人長は三、四尺。

     『魏志』倭人伝の内容から知りうることは、狗奴國は「卑弥呼の境界」の南にあって、王の「卑弥弓呼」と重臣の「狗古智卑狗」がおり、卑彌呼とは、もとより不和であって対立したということですが、『後漢書』では、倭人伝の認識を改め、書き換えられています。

     すなわち、『魏志』倭人伝では、女王國の南に狗奴國があるとされ、その女王國の東千余里に国名が示されない國があって倭種とされます。また、魏志倭人伝の「其の」は女王國を指しますので、女王國の南に、狗奴國のほかに侏儒國もあるとされます。

     これに対して『後漢書』では、女王國の東千余里に拘奴國があると書き改められます。魏志倭人伝では国名不詳の國であったものがここでは国名が拘奴國であると明らかになっています。朱儒國はあらためて“女王國”の南であると示され『魏志』倭人伝において混乱していた拘奴國と朱儒國の位置関係が、拘奴國は東、朱儒國は南と明確に示されます。

    『魏志』倭人伝の「狗奴國」と『後漢書』の「拘奴國」は文字が似ていますが異なる文字です。違う国であるとの意見もありますが、『魏志』倭人伝の「侏儒國」が『後漢書』では「朱儒國」と表記されていることからすると、『魏志』倭人伝で女王國の南にあったとされた「狗奴國」は『後漢書』の「拘奴國」と同じ国でしょう
  • 馬韓では、「其北方近郡諸国差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚」(その北方、郡諸国近くはやや禮に通暁しているが、遠いところは、囚徒や奴婢が相聚っているに等しい)などと、三韓のうち、もっとも開け、豊かであり、永年、箕氏によって治められていた馬韓でさえこの有様である。他の二国は推して知るべしである。

    辰韓の地に鉄だけは産出したので、濊人、韓人、倭人(半島南端の倭国=狗邪韓国および列島の倭国)がこれを取りに来ていた。

    百済と新羅の文化は果たして倭国を凌駕した事があったのだろうか? 

    『隋書』倭国伝は記す「新羅 百濟皆以倭為大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來」(新羅や百済は皆、倭を大国としている。珍物が多く、並んでこれを敬仰し、常に通使を往来させている)。隋も唐も、「新羅と百済はともに、倭国を先端技術産物(手工業製品)が多い文化大国として敬い仰ぎみており、産物をもとめて使者を送っている」と認めていた
  • August 2018 編集されました
    崇神天皇の別称・御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)が邪馬台国の官として書かれた数人の中に弥馬獲支(みまかき)があり、両者は同一人物?

    スサノヲと天照大神のウケヒで生まれた宗像三女神を祀っているのが「水沼君」だという。「水沼」を「ミヌマ」と読むとき、これは「ミの馬」と言えるか???


    ミマがミナに通じると考えた場合

    八島士奴美の異名の表にあるように、「・・三名狭漏彦・・・」という語群がある。この部分の読みは「ミナ・サル彦」でよかろう。「ミマ、ミナ」が「三名」に対応する。「ワチ」は茅の類であり、アイヌ語 sar(サル) は葦原などを意味する。つまり、ワチは sar と同義・類義で「狭漏」に対応する。

    八島士奴美神:素戔嗚尊(スサノヲ)と櫛名田比賣(クシナダ)の間の子:日本書紀第1の一書には「清湯山主三名狭漏彦八嶋篠」「清繋名坂軽彦八嶋手命」「清湯山主三名狭漏彦八嶋野」として伝わる。

    つまり「弥馬獲支」と「三名狭漏」が同義か。
  • 建武中元2年 漢の光武帝が「委」に金印(漢委奴国王)を贈る
    楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来り、献見す。 漢書・地理誌
    建武中元2年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫 後漢書
    107 倭国王師升らが後漢に朝貢
    170頃 倭国大乱(桓霊間倭国大乱 更相攻伐 暦年無主) 両帝の在位期間は147~188年
    其国本亦以男子為王 住七八十年倭国乱 相攻伐暦年 乃共立一女子為王 名曰卑弥呼 魏書
    184 黄巾の乱
    204 公孫氏が帯方郡を設置する
    220 後漢が滅亡、魏が興る
    221 蜀が興る
    222 呉が興る
    237 公孫淵、魏と対立し「燕王」を自称する。
    238 8月 魏が公孫氏を滅ぼし、半島の支配を確立する。卑弥呼が魏に使者を派遣
    景初2年6月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝献
    景初2年12月 今以汝親魏倭王 假金印紫綬(詔書) 魏書
    239 景初3年正月1日 魏の明帝が急死、斉王・芳が即位
    卑弥呼が魏の明帝より金印(親魏倭王)を贈られる(現物が届いたのは翌年)
    又特賜汝紺地句文錦三匹 (中略) 銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤
    240 魏が帯方郡の建忠校尉・梯儁らを倭国に派遣。
    正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
    正始元年正月 東倭重訳納貢 難升米に銀印青綬を授ける 晋書・宣帝記
    243 卑弥呼が魏に使者を派遣
    其四年 倭王復遣使 大夫伊聲耆掖邪拘等八人 魏書
    244 2月~5月 魏は蜀を攻撃、倭の戦乱に介入できず?
    245 正始六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡仮授
    246 正始七年 魏、馬韓と戦う、帯方太守・弓遵が戦死。半島全体が混乱状態に陥る
    247 魏が塞曹掾史・張政を倭国に派遣
    倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素 不和
    248? 卑弥呼死去  (註:この年、日本で皆既日食)
    卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人 更立男王 国中不服 更相誅殺 当時殺千余人
    復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 国中遂定 政等以檄告喩壹與
    263 司馬昭が魏の相国に就任する。蜀が滅ぶ。
    265 8月司馬昭が亡くなる。 12月魏が滅亡、晋の建国
    266 倭国が西晋に使節団を派遣 晋書
    285 陳寿(233~297)により「三国志」が完成
  • 西暦
    中国年号
    中国史書記事内容 「」内出典

    「日本書紀」 巻九気長足姫尊記事内容

    239
    魏 景初3年
    (神功摂政 39年)
    倭の女王卑弥呼、魏に朝貢し、親魏 倭王の官爵 を授けられ、使者の難升米もまた率 善中郎将を 授けられる。 「三国志」
    この年大歳己未(つちのとひつじ)。―魏志倭人伝によると明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫 難升米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守 の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。 「日本書紀」
    240
    魏 正始1年 (神功摂政40年)
    帯方郡太守弓遵、倭国に梯?らを遣 わし、詔書 ・印綬をもたらす。 「三国志」
    魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。 「日本書紀」
    243
    魏 正始4年 (神功摂政43年)
    倭王、大夫伊聲耆らを魏に遣わ す 「三国志」
    魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫 伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。 「日本書紀」
    246
    魏 正始6年 (神功摂政46年)
    魏の少帝、難升米に黄幢を与え、帯 方郡に付して仮授させる。 「三国志」
    斯摩宿祢を卓淳国(大邱にあった) に遣わした。卓淳の王、末錦旱岐(まきむかんき)がいうには「百済王は、東 の方に日本という貴い国があることを聞いて吾らを遣わしてその国に行かせた......」 「日本書紀」
    247
    魏 正始8年 (神功摂政47年)
    帯方郡太守王?、張政らを邪馬台国 に遣わし、詔書・黄幢を難升米に授 け、また檄をもって告喩す る。 「三国志」
    四十七年夏四月、百済王は久?・弥州流・莫古(くてい・みつる・まくこ)を遣わし朝貢した。そのとき新羅の 国の調の使が久?と一緒に来た。皇太后と太子誉田別尊は、大いに喜んでいわれるのに「先王の望んでおられ た国の人々が、今やってこられたか。在世にならなくて誠に残念であった」と。群臣は皆涙を流さぬ者はな かった...... 「日本書紀」
    266
    西晋 秦始2年 (神功摂政
    66年)
    倭の女王(壱与か)、西晋に朝貢す る。倭人西晋に方物を献じる。 「晋書」
    この年は晋の武帝の秦始二年である。晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の秦始二年十月、倭 の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。 「日本書紀」
  • 邪馬台国論争の大和(畿内)説の根拠に、畿内の前方後円墳から出土する三角縁神獣鏡を卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」だとする見方がある。ただ、日本では多く出土しているのに中国では1枚も出ていない。纒(まき)向(むく)遺跡(奈良県桜井市)は範囲は広いが、吉野ケ里遺跡のように人がたくさん住んでいた跡がない。

    佐古和枝氏
    九州には、大規模な弥生集落や王墓が複数存在し、大陸系の遺物がたくさん出てくる。魏志倭人伝に記述がある国名と今の地名が一致している。卑弥呼の宮室として、吉野ケ里よりふさわしい遺跡は見つかっていない。

    ただ、九州説にも疑問がある。帯方郡からの使者は、卑弥呼と会うのが目的なのになぜ伊都国にいたのか。なぜ邪馬台国の記述が乏しいのか。

    (魏志倭人伝に記述がある)「邪馬台国に都をおいた女王」とは、卑弥呼ではない。卑弥呼と邪馬台国は無関係と考えれば、さまざまな謎が解ける。魏からの使者は邪馬台国には行っていないが、卑弥呼には会っている。
  • 「北宋」(南北朝の「宋」ではなくて、十世紀半ばに成立した「宋」)までに「三国志」を引用したものは「邪馬臺国」とあり、宋代以降に引用したものに、突然「邪馬壹国」という表記が現れるのです。その後は「邪馬一国」というものまで現れます。もし、陳寿の「三国志」に「邪馬壹国」とあったのなら、十世紀までのいずれかの正史・史書に「邪馬壹国」あるいは「邪馬一国」なる表記が現れてしかるべきではないでしょうか?それが、「ない」のです
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