諏訪神社、御名方と宗像 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
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諏訪神社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。

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コメント

  • 四道将軍の一人、孝元天皇の皇子、大彦命が派遣され、続いて日本武尊が派遣され、出雲系の子孫が追放された後、統治の為に国造となって赴任したのが科の臣や武水別命なのである。科の臣の森将軍塚は長野県で一番大きく古い前方後円墳である。そして建御名方一族の霊を慰めるために崇神天皇の命により諏訪大社や湯富神社を建てている
  • 多族古代氏族系譜集成に「神武天皇―神八井耳命―武宇都彦―武速前命―敷桁彦命―武恵賀前命―武諸木命(多臣祖)」とある。
    武がついているのが
    神八井耳の系譜
  • 武水別命の子は印波国造に、弟の武沼田命は長狭国造に、また武五百建命は始め信州の国造に派遣されていたが子供の建稲背命(科の臣))に信州の統治を任せ、自分は九州方面に転出している。阿蘇氏と成り、その子孫が阿蘇を開拓した阿蘇神社の神官の家である。
  • 諏訪明神の分身かと考えられる「神」

    『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚(おさな)き児の宮」とある。

    「中の宮」は岐阜県垂井町の南宮大社のことで、金山彦命を祭り、宝物には刀剣類が多く、通称「鞴祭(ふいごまつり)」と呼ばれる金山祭がある。神社近くの地名も鉄に関わりある地名がいっぱいで、宇都宮精秀(きよひで)宮司さんは「南宮のもうひとつのルーツ」として参拝のしおりに特別寄稿している。注目すべきは、現在の韓国で「南宮」と名乗る人達が大勢いて、南宮氏は製鉄に関係あるともいわれている、とある。

    「稚き児の宮」は三重県伊賀市、伊賀一の宮の敢国(あえくに)神社のことである。祭神は大彦命、児を表すのは手の俣から漏れ落ちた少彦名(すくなひこな)神のことをいい、それは鉄砂(砂鉄)を表しているそうであるが、驚くことに、相殿に諏訪神社があり、甲賀三郎をお祭りしている。その前の池を地元の研究家は諏訪湖だという。いずれにしてもこの地は、地名の語源から推測しても、鉄処である事は間違いない。近くには渡来の「鉄の貴人」と読める「荒木須智神社(白髭神社)」があり、製鉄に関わりある葛原(固め原)姓にまたびっくりした記憶がある。
  • 但馬一ノ宮でもある粟鹿神社がある。
    粟鹿神社の社家は日下部宿禰であったが、最近発見された『粟鹿大明神元記』という、和銅元年八月に但馬国粟鹿神社の神主(祭主)神部根が勘注上申した案文の写しでは、粟鹿神主は古代神部氏が奉斎していたことが知られ、系図を見ると素戔鳴尊より五世に大国主命がみえ、さらに太田々弥古命に連なっており、また、太田々弥古命の子太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となり併せて粟鹿大神祭主となったと記されているという。そうすると粟鹿神社の神主神部氏は、大三輪氏と同族であり、出雲神族ということにもなるわけである。祭神は彦火々出見尊、あるいは日子坐王とされているが、摂社をみると厳島神社の市杵嶋姫命・床浦神社の大己貴命・天満宮の菅原道真など出雲神族系の神が多く
  • 神奈川県横須賀市緑ケ丘34にある 諏訪大神社の由緒(神社庁の記事より転載)

    「康暦二年(一三八〇年)足利義満の頃、三浦貞宗が横須賀の鎮守として、
    長峯城の城口当る当地古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請した。
    三浦貞宗が中心になり城下の横須賀村の人々によって祭られていたが、三
    浦氏が滅亡後祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。
    慶長八年(一六〇三年)、徳川家康に将軍宣下して慶長十一年(一六〇六年)、
    平和な世になったので、代官長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、
    社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬を受け(棟札文による)以来
    永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。
    健御名方命は、山神で狩猟と経済によって山を生活の場とした部族の祖神であったが、
    後にこの部族の経済的発展に伴って農耕の神ともされた。
    元来、山神で狩猟において射的の上手な部族の神だったので、後に武士からも崇敬
    された。もと出雲の国から周防(山口県)に行き、伊勢から美濃を経て信濃に入り、
    蝦夷の牙城をおとして諏訪の神となった。上諏訪から勧請し、ご神体矢に神霊を祀っ
    てある。」
  • 富家-隠岐・長国造-諏訪上社-百家系図稿出雲分流系譜から

    菅ノ八耳-兄八島士ノ身-深渕ノ水遣花-天ノ冬衣(日御崎神社社家祖)-事代主-鳥 鳴海 -国押富-田干岸丸身-布惜富取成身-簸張大科度箕(天日腹大科度美神=観松彦香殖 稲尊)- 建美奈命-会知速男命-真曽我男命-武国彦命(建大臣命-諏訪国造)-弟武彦-伊許 保止(加夫刀比古)
    -伊許呂止(建許呂)~加米乃意美命(周防国造祖)
  • 大和国には鳥見(登美)という地が二か所、城上郡(現桜井市)と添下郡(現奈良市)にある。長髄彦の本拠は城上郡のほうであったが、添下郡のほうも無縁ではなく、長髄彦の勢力範囲であった。この二つの鳥見にはそれぞれ式内社があり、城上郡の等弥神社、添下郡の登弥神社があげられる。後者は富雄川東沿岸の奈良市石木町に鎮座するが、その祭神のなかの一人に登美建速日命という神があり、同社の他の祭神からみて、この神が本来の祭神で登美彦すなわち長髄彦にあたると考えられる。中田憲信編の『諸系譜』第六冊所収の「長公系譜」には、建日別命という者が見えるが、この者こそ登美建速日命ではないかと考えられる。
    同系図では、建日別命は長国造(阿波南部)・長我孫や都佐国造(土佐)の遠祖であり、事代主神の孫に位置づけられる。その父を天八現津彦命(一云、観松比古命)とするが、又名の観松比古命は、「国造本紀」の長国造及び意岐国造の条には観松彦色止命と見えており、阿波国名方郡の式内社、御間都比古神社(ミマツヒコ。名東郡佐那河内村下モノミ石に鎮座)の祭神でもある。観松彦命は事代主神の子とされること、その子に「登美」に関係ある者がいること、その後裔に長国造・長我孫を出したことなどを考え合わせると、神武に立ち向かった長髄彦その人であろう。そして、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だということになる。
    長国造の領域は阿波国那賀郡の那賀川流域が中心であったが、その周辺には、勝浦郡の式内社の事代主神社や、名方郡の式内社の多祁御奈刀弥神社(タケミナカタトミ。名西郡石井町浦庄字諏訪に鎮座し、諏訪神たる建御名方命・八坂刀売命夫妻を奉斎)など三輪・諏訪一族に関係が深い古社が存在しており、これらの社も長国造一族が祀ったとみられる。
    「観松彦」とか「天八現津彦」とかいう呼称は、大和の支配者の美称にふさわしい。大和朝廷第五代の天皇である孝昭天皇の和風諡号が観松彦香殖稲尊とされることも想起される。観松彦の下の「イロト(色止・伊呂止)」が弟を意味する語であることで、長髄彦が事代主神の後継者であっても実際には子ではなかったとすると、兄・事代主神に対する「弟」の意味で妥当か(この意味で、建御名方命にもあたるか。後述)。
  • 信濃地方では、建御名方神と妃・八坂刀賣神と、 諏訪神の御子の中で特に信濃国の開発に偉大な功績を残された十三柱の御子神を合わせて十五社明神と呼ぶ。

    十三柱の御子神は、1.建御名方彦神別命、2.出早雄命、3.妻科比賣命、4.池生神、5.須波若彦命、6.片倉辺神、 7.蓼科神、8.八杵命、9.内県神、10.外県神、11.大県神、12.意岐萩命、13.妻岐萩命。
  • 「阿蘇氏系図」から分かることは、6世紀に科野国造となったのは、前宮に住んでいたタケミナカタの子孫の大祝ではなく、天津族の王族の麻背君だったということですから、タケミナカタの子孫たちはこの頃までに長い間に渡って開拓してきた信濃国を全て天津族に奪われてしまったようです。富氏が一子相伝で伝えてきた「大国主一族と天津族との長い抗争の歴史」にはこの諏訪での抗争も含まれているのでしょうか?


    出典
    http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/42671815.html

    「神氏」は「生神」として上社の大祝になったタケミナカタの子孫達が「神族」として名乗って来た氏族です。

    阿蘇氏系図から麻背君は天津族の王族で崇神天皇の子の神八井耳命(タケミカヅチ)の子孫のようだと推理しましたが、この系図の県王のところには「五世孫大気麻呂賜姓金刺連 其玄孫貞長賜姓不太朝臣」と添え書きがあるそうですから、やはり麻背君はタケミカヅチ(建借間命)の子孫で「オオ氏」だった。

    しかし、平安時代に上社の大祝になった「神氏・諏訪氏」の初代とはこの乙頴の9世孫の有員のようです

    「金刺連」となった「オオ氏」の一族で、下社の「御衣木祝」家の一員だった有員は、上社の大祝になって(なるために?)「神氏」の一族の「諏訪氏」を名乗ったようです。タケミナカタの子孫の「神氏」だとか、桓武天皇の子孫だとか、清和源氏の源満快の子孫だとかと名乗っていたという諏訪大社大祝の「諏訪氏」は、そのいずれでもなくタケミカヅチの子孫だった。
  • 「阿蘇氏系図」で説明されていた

    この「神日本磐余彦(神武天皇)」から始まる系図には、その後裔の「金弓君」が欽明天皇の金刺宮に供奉して金刺舎人直姓となり、その子の「麻背君」が金刺宮に仕えて科野国造になり、「麻背君」の子の倉足が諏訪評督に、その弟の乙頴が諏訪大神大祝に任じられたと記されていると書かれていました。「麻背君」の兄の系統は伊那郡の主帳や大領に任じられていたそうです。

    これを見ると諏訪祭政体を始めたのはタケミナカタと洩矢神ではなく「麻背君」の子の倉足と乙頴で、その時期も2~3世紀ではなく、6世紀の欽明期か用明期だということのようなので、それでは守矢史料館のしおり」に記されていた「神長官の話」はウソだということなのだろうか?と訳が分からなってしまったのです。
    この「麻背君(金刺氏)」はタケミナカタや守矢氏とは全く関係のない天津族の王族の子孫だということは読み取れますね
    http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/42670223.html
  • ▼宗像と諏訪

    神社側では、宗像大社の神紋は楢、諏訪大社の神紋は梶としている。その神紋を観察すると、
    宗像大社の神紋は楢の木が、あたかも二本の根を伸ばしてそびえ立っているようだ。
    諏訪大社の神紋は梶の木が、あたかも二本の根を伸ばしてそびえ立っているようだ。。

    筑紫の宗像神社と信濃の諏訪神社の神紋はよく似ている。また、出雲の多久神社(島根県平田市大船山山麓)の神紋は「梶の葉」である。祭神は、多伎都比古と天御梶姫。
    「出雲国風土記~楯縫郡」、神名樋山。郡家の東北六里一百六十歩。・・・嵬の西に石神が在る。高さ一丈、周り一丈。往の側に小石神が百余許在る。古老が伝えて云うには、阿遅須$枳高日子命の后、天御梶日女命、多宮村に来坐して、多伎都比古命を産み給う。
    阿遅須$枳高日子は大己貴と多紀理姫の子。
  • 守矢家の七十八代を継承された守矢早苗さんの「守矢神長家のお話し」には、『この塚(神長官裏古墳)について、祖母の生前、「用明天皇の御世の我が祖先武麿君の墳墓です。」と説明をしていた』と書かれている。
    この塚とは、神長官裏古墳と呼ばれ、茅野市教育委員会により、築造年代は7世紀頃と推定されている。また、武麿君とは、物部守屋(用明天皇2年(587年)没)の次男であり、物部守屋が蘇我馬子により滅ぼされた際に、武麿君は諏訪・守屋山に逃れたという。

    また、守屋家の祖先武麿君が初代洩矢神であるとのことである。
  • 諏訪大神は武勇の神・武門武将の守護神として信仰され、古くは神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり、平安時代には関東第一大軍神として広く世に知られた。」としている。
    上記の持統天皇五年の勅使に関しては、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。
  • クナトノ大神について富當雄氏はいろいろな知識を持ち、前から住んでいた人に鉄のとり方や布の織り方、農耕の方法を教えた。出雲人に戦いの歴史はなく、人々に生活をよくしてあげることで、自然についてきたのであって、クナトノ大神は王に推されたといい、また「出雲神族の血脈は、戦いに向いていない。われわれの祖先は、武力ではなく高い文明で諸国を支配したのだ。武士化した諏訪氏が没落したのは、当然なのだ。」という。
  • 信濃の出雲神族は焼畑とかかわっている可能性があるのである。佐治芳彦『謎の列島神話』によると、焼畑関係の民俗語彙に輪作用の休眠地を指す「クナ」があり、クナドノカミのクナで神聖にして不可侵の地を表し、現在も「クナ」を地名とした場所が中部地方の山地に多く残っているという。高橋輝雄『縄文と弥生をつなぐ神の発見』でも、輪作三年目の焼畑をクナバタとかクナサクといい、長野県では焼畑の地味が衰えて休ませている焼畑地のことをクナスといっているが、村境の道の神といわれるクナドの神も、この言葉に関係するものだろうという

    伊藤堅吉・遠藤秀男『道祖神のふるさと』によれば、明治時代に近くの小村を集めて久那土村と称したものであり、その語源が道祖神の古名からきていることは疑いないという。小学校も大正時代までは岐小学校と書かれていたといい、諸方で縄文遺物が掘り出され、石棒が出土祭祀されているが、これが岐神と結びついて信仰されてきたのが、村名決定にまで延引作用してきたのであるという。諏訪の隣の甲斐には、もはや出雲神族の祖神であるということは忘れ去られていたかも知れないが、明治になっても村名となるほど、クナトノ大神への信仰が根強く残っていたということである。同書によると、道陸神・道録神・塞神・幸神・道神・岐神・衢神・久那土神・船戸神など道祖神の名の雑多さを現地の人たちがどう考えてきたのか、約四千例の調査結果からいうと、全体の90%の人々が「どなたを祀ったものやら」と首をかしげることになるという。祭神を答えた残りの10%から各県別の相違や類似点をひろいあげてみると、山梨県笛吹系では一様に猿田彦命と天鈿女命、長野県の諏訪と接する天竜系でも猿田彦命と天鈿女命、神奈川県足柄系では一部で伊弉諾神・伊弉冉神と伝えているという
  •  諏訪大社にクナトノ大神の信仰があってもよさそうであるが、クナト・クナドの名前を見出すことは難しい。諏訪神家は生き延びるためにクナトノ大神の信仰を放棄せざるを得なかったということであろう。諏訪では、御左口神も竜蛇神、山神、風水神などの縄文的な神性とともに、塞の神的・道祖神的要素もあるといわれている。クナトノ大神も竜蛇神であるから、共通するものも多かったわけであるが、諏訪大社の御室神事の一つである御占神事は、現人神である大祝と神長が向かい合い、大御立座神事で神使となって周辺の村落を回る15才の童男を出す郷を選ぶものであるが、神長官だけでも神事は執り行われたが、大祝だけでは神事は行えなかったという。御左口神がクナトノ大神と土着の神の習合したものであったとしても、クナトノ大神が土着の神を吸収したというより、土着の神にクナトノ大神が吸収されたという形である。
  •  諏訪神社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。龍田は大和の龍田神社、須波は諏訪神社、水内は善光寺付近の水内神社のことである。これによれば、須波神は風神としても信仰されていたことがわかる。
     その後、大同元年(806)神封戸七戸が寄せられ、貞観七年(865)諏訪郡の水田三段が社田として寄せられた。『延喜式』の神名帳には「信濃国諏方郡 南方刀美神社二座」とあって、ともに名神大社とされている。次に神階を見ると、承和九年(842)五月、南方刀美神に従五位下、同年十月、建御名方富命前八坂刀売神の従五位下が授けられてより、以後次第に累進して、天慶三年(940)建御名方富命が、永保元年(1081)八坂刀売神が、ともに正一位に達した。また、平安時代以来、諏訪神社は信濃国の一宮とされ、のちに仏教の影響から特に上社は南宮大明神・法性大明神とも呼ばれた。

     下社の神主家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたものと伝えられる。のち武力を蓄え、名字を諏訪と称し、また手塚ともいい、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。以後代々下社大祝職を継いできたが、戦国時代に断絶し、支族の今井氏が入って武居祝と称し、大祝を名乗ることはなかった。
     上社の神主家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。出自については、建御名方命の後裔という説によれば、出雲神族の分かれと考えられ、大和の大神神社の社家大三輪家と同系だろうか。平安時代中期以降、神家の嫡男が大祝を継ぐ例となった。この頃から一族が繁栄して信濃国内に多くの庶家を分出し、大祝家を宗家とする武士団を形成、東国屈指の勢力を誇り、世に神家党といわれた。
  • 諏訪湖を挟んで上社と下社があり、下社(秋宮・春宮)は諏訪湖の北側にあります。

    下社の御祭神は、男神の建御名方神(たけみなかたのかみ)、妃神の八坂刀売神(やさかとめのかみ)、兄神の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)です。
    「建御名方神」は軍神として有名です。また、農耕神・狩猟神として信仰されているだけでなく、風の神ともされています。元寇(13世紀における2度にわたるモンゴル軍の日本襲来)の際には、“神風”を起こしたとする言い伝えもあるのですよ。

    そんな歴史的な背景や伝承をふまえて、まずは、下社の秋宮(あきみや)の見どころをご紹介しますね。
  • 千尋社の御祭神は不明であるが、興味深いのが平城天皇から大同年間(806~810)に下賜されたとされる売神祝印(めがみほふりいん)がそれから600年以上経った文明15年(1483)に千尋池の水の中より見つかったという。
    ちょうどこの頃、下社の大祝(諏訪大社の最高位の神官。オオホフリと読むそうだ)が科野(信濃の旧国名)国造家の金刺氏から木曽御嶽系の武居氏に移り変わったあたりだそうだ。

    金刺氏は上社の大祝である諏訪氏と争いがあり、諏訪氏との戦いに敗れた後に武田氏にめっためたにされて滅亡したらしい。
  • August 2017 編集されました
    蘇我氏に敗れた物部守屋の次男武麻呂が逃れて諏訪に土着したと伝えられ、その子孫が守矢一族の先祖なのだそうです。
    「神長家裏古墳」は、守矢家の伝承によれば物部武麻呂の墳墓ということになっているそうです。

    石段に立ち目の前の御射宮司(ミサグシ≒ミチャグチ)社を見つめる。視線を南に移して見上げると尾根の頂に守屋山が見える。守矢家の庭には小さな円墳もある。守屋山は諏訪大社のご神体とされている山だ。だから諏訪大社、4社には本殿がない。

     『神長家裏古墳』と言われているこの古墳は、守矢家の伝承によれば物部守屋の次男である武麻呂の墳墓ということになっている。物部守屋が蘇我馬子に敗れた際に、武麻呂は今の守屋山に逃れたそうだ。そして武麻呂の子孫が守矢一族ということになっている。杖突峠を下る途中に守屋神社があるが、守屋山の山頂にある祠を奥宮とすれば、拝殿ということになる。今は見る影もない小さな社殿だが、床下には竪穴式の石窟があって、昔は石棒が収められていて、ミチャグチ信仰の強い影響を受けていることが解る。

    諏訪には他の地域と異なる独特の信仰、御柱、神長官守矢家の伝承などが伝わっています。

    明治維新の時、廃仏毀釈だけでなく、地域独特の信仰も廃絶させられました。つくづく残念に思います。
    守矢神長官も諏訪大社から排斥され、七十七代続いた歴史から降ろされてしまいました。
  •  御射宮司社の西隣には、建御名方神の末裔とされ神氏と称されてきた生き神さま、大祝(おうふぉうり)一族の御廟がある。そこには加工されていないいくつもの自然石が立ち竦んでいるように、必ずしも整然と言えず立っていた。
    ひと目で古い墓地だと判るその場所には、枝を八方に大きく広げた古い桜の木があり、カジの木の古木が、あり、カジの木の葉は、大祝家の家紋に使われ、同時に諏訪大社の社紋である。

    神氏・諏方家霊廟

    この御廟には、15代に亘る大祝の神霊が眠っておられる。神氏・諏訪氏は、頼重公で直系は滅びたが、従兄に当たる頼忠が大祝職を継承し、戦国の世が徳川家康により収められると、初代高島藩主となる。その時、諏訪氏は『ごんべん』を消して“諏方”と名乗るようになる。その新生諏方家の御廟が、元々守矢神長家のこの土地に移ったのは歴史の皮肉でもある。過去碑には、“大祝諏方家歴代霊誌”とあり、15代それぞれの名前が刻まれ、名前の下には“彦神霊”と刻まれている。
  • August 2017 編集されました
    科野大宮社 (しなのおおみやしゃ)

    科野大宮社は上田市常田にある信濃国府の総社であったといわれる古社。旧社格は県社。

     現地説明板より
    『 市指定記念物(天然記念物)
     〈文化財保護条例第5条の規定により左記の通り指定する。〉
    一、種別    記念物(天然記念物)
    一、名称  科野大宮社の社叢
    一、所在地   上田市大字常入 字上常田723-1番地
    一、指定年月日 昭和44年5月9日

     科野大宮社は、大己貴命と事代主命を祭神とする。延喜式にはないが、それ以前からの古社で、国分寺との関係も考えられ、あるいは信濃国府の総社であったかとも思われる。境内は、東西49m、南北38m、面積2142平方メートルで、社叢の30余本のうち主のものは、けやき4本(枯死した神木一本を含む)、すぎ3本、むろ2本、大いちょう1本などがある。

     昭和47年3月10日 上田市教育委員会  』

     現地説明板では、“あるいは信濃国府の総社であったかとも思われる。”と控えめだが、恐らく総社であったのだろう。それは、有力な古社であるにも関わらず式内社でないことが挙げられる。


    科野大宮社は歴代藩主に崇敬され上田城の鎮守でもあった。現在の社殿は、万延元年(1860)の上田城主・松平忠礼の再建によるものだという。
    拝殿の向拝の上の神紋や幕の神紋は「根梶」と云うらしい。本殿にもこの神紋がついていた。拝殿の屋根の上の方の紋は「五三の桐」であった。これは上田城主であった松平氏の家紋である。

    「根梶」も梶紋の一つであるようだ。梶紋は諏訪梶と云われるように諏訪社の関係社の神紋であるという。一昨日、松原湖の「松原諏方神社」(下社)の本殿で大きな「立穀(梶の一枚葉)」の神紋を見た。

     古い資料によると、梶は“穀”や、“栲”とも表記され、諏訪を治めていた藩主、「諏訪氏」や、関係の一族の家紋としても使われていたという。
     諏訪大社では上社も下社も共に梶の葉を紋としているが、上社と下社のそれぞれの梶紋には微妙な違いがある。
     上社の梶紋は「諏訪梶」と呼ばれ、木の根に当たる部分が4本、これに対して下社の梶紋は「明神梶」と呼ばれ、根に当たる部分が5本となる。
    この神紋の違いは、本来上社と下社は別々の神社であったことの名残だと云われている。事実、諏訪大社が現在の様に一つにまとまったのは明治時代のことだという。中世には、上社は諏訪氏(後に諏方氏)、下社は金刺氏が大祝を務めていた。大祝(おおほり)とは諏訪明神の子孫といわれる現人神で、大社の長として神事等を司った。
    尚、「諏訪大社」という社号を名乗るようになったのは戦後の昭和23年からである。

    品種改良が進む前の古代の蚕はカジの葉もよく食べたのではないかと想像する。
    この地域には諏訪神・建御名方の伝承がある。千曲川左岸の上田市神畑の加美畑(かばたけ)神社や上田市下之郷の生島足島神社の由来によると、建御名方命が出雲から諏訪市に移住する途中、加美畑神社の地にまず一時的に滞在し、次に生島足島神社の地に滞在して、これらの地域に農業と養蚕を教えたと言われている

    科野大宮社は古来「総社大宮」「科野国魂神」と称したといわれ、中世には「大宮諏訪大明神」と称したと伝える

    科野大宮社は上田城の鎮守でもあった。真田氏による上田城築城以来、当社は城の鎮守と定められ、信濃国分寺三重塔と当社は藩費をもって修繕したという。寛文9年(1669)頃の城下町古地図には「常田村大宮」と記載されている。
    上田の領主は戦国時代から幕末にかけて、真田氏→仙石氏→松平氏と変わったが、当社は一貫して上田城の鎮守として保護されたようだ。社名を現在の「科野大宮社」に改めたのは明治に入ってからだという。
    総社らしく、子安社、熊野社、皇太神宮、社宮社、神明社、天神社、三峰社、六所明神社、駒形稲荷社などの多くの境内社が並んでいた。

    昔から常田村と房山村には祇園天王の社があって、常田村は横町伊勢宮(当社の北約1km)の境内に、房山は山口の天王屋敷(当社の北約2km)にあった。この両社の祭礼(祇園祭)には両村ともに獅子踊りをしていた。
    この地域に古くから祇園天王への信仰があったことが分かる。一般に祇園天王といえばスサノオのことである。

     科野大宮社の主祭神は大己貴命と事代主命となっている。相殿神として健御名方富命 が祀られている。一応、記紀の神話の中では大己貴(大国主)と事代主命、健御名方富命は親子となっている。

     科野大宮社の鳥居を入ると、左に大きな石碑がある。

    「科野大宮の碑」の原文
    『 科野大宮  大勲位彰仁親王 篆額
     崇神天皇の七年詔して国ツ社を定めたまふ科野ノ国造建五百建命令を奉じて大己貴命事代主命を祀る社を創建して以て当国鎮護の社となす爾来国造県主租賦を奉じて以て祭を修む科野は後信濃と改めたりしも社に科野と号するは其の旧を存せしなり常田は古須波と稱す社の地高く平かにして傍らに国衙あり故に須波ヶ岡と号し又国衙台と曰ふ天武天皇十三年都を科野に遷さんと欲す小紫三野王小錦下采女朝臣筑羅を遣はして地形を相せしむ二人岡に至り圖を製し社に祈る果して吉なり還りて奏し為に神戸を置く其の社を摂する六所と曰ふ国司祀典を修む文治中常田は八須波絛院璋子内親王の荘田たり故に常田の荘と稱す内親王華表を山上に建つ社を距ること南三百歩ばかり鳥居場と稱するは旧址なり康安二年二月鎌倉管領足利基氏彗星を祓除す其の書科野大宮と記す大宮の稱たる已に久しきなり旧記に云く社域南北八丁東西六丁と承平の乱将門兵を起す京に入らんと欲し道をここに取る他田ノ真樹は小県に国造たりし他田ノ大鴨の裔なり平ノ貞盛を助け将門を国衙台の下常田の河原に撃ちて大いに之を破る社域之が為に荒廃す享禄天文の間本郡の豪族上田常田海野真田の諸氏隣郡村上氏の族と封地を争ふ戦闘して止まず天正元年再び之を建つ真田氏徳川氏と數々戦うに及びて頽廃し復修むる者なし而して修理の費祭祀の料は盡く租賦に取る古例を修るなり毎年正月十五日藩主自ら奉幣の典を挙げ明治の朝に至りて廃す常田の諸氏其の事跡の煙滅せんことを恐れ余に請ひて梗概を叙し銅碑に鐫りて以て後に伝へしむと云う
    明治二十二年十一月 枢密院顧問官正三位勲一等伯爵副島種臣撰

    付記 この碑文はもと漢文を以て記され銅碑に刻まれていたが太平洋戦争酣なるに及び昭和十八年八月政府の銅鉄回収運動に応じて献納した今回有志相謀り再建の議成り広島大学名誉教授正四位勲二等文学博士手塚良道氏並にその門下文学士小林勝人氏を煩し国文に書き改め石に刻って長く伝えるものである

    横関豊龍書 藤澤群黄刻
    (碑裏面)昭和三十三年四月二十九日建   』

     この碑文から分かったことをまとめてみる。
     崇神天皇の7年、科野の国造、建五百建命(たけいほたつのみこと)に大己貴命と事代主命を祀る社を創建させた。
     科野は後に信濃と改めたたが、神社の名はそのまま科野と号した。
    常田は古須波(こすわ・いにしえすわ)と称す。社地は高くて平で傍らに国衙があった。故に須波ヶ岡(すわがおか)と号し又国衙台(こくがだい)と云った。
     
     天武天皇13年(684)都を科野に遷そうとした。小紫の三野王(みぬおう)、小錦の下采女朝臣筑羅(しもうねめあそんちくら)を遣わして地形を観させた。二人は岡に至り地図をつくって社に祈ったら吉と出た。
     還って報告して、神戸(かんべ)を置くことになった。神戸となった所が六ヶ所で国司が祀典を修めた。


     承平の乱(939~941)を平将門が起こした。上京しようとしてこの道を通ろうとした。他田ノ真樹(おさだのまき)は小県(ちいさがた)の国造で他田ノ大嶋(おさだのおおしま)の後裔であった。平ノ貞盛を助けて将門を国衙台の下、常田の河原にて撃ち、大いにこれを破る。社域がこの戦いで荒廃した。
     
     享禄に請い願って梗概を銅碑に刻んで後に伝へようと云う。

     まず、科野の国造、建五百建命(たけいほたつのみこと)が大己貴命と事代主命を祀る社を創建したという。
     この建五百建命は神武天皇の子であるとされる神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫にあたる。神八井耳命の子健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、勅命により山城国の宇治から阿蘇に下って阿蘇一帯を開拓して治め、阿蘇君の祖になっている。その健磐龍尊の子が建五百建命で、阿蘇から科野に赴任して来たとき、一緒に来た阿蘇の人々が、上田市の塩田平を開拓して住んだのかもしれない。ここは現在も「古安曽(こあそ)」という地名が残っている。
     また、「阿蘇氏系図」によると、健磐龍命の子の稲背命が科野国造の初代であり、八世の孫の金刺舎人麻背君がまた科野国造になったとされている。
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     信濃国府は古来上田市にあったとされるが、付近には信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡も残っているので確かであろう。上田市の国府は神科台地上と推定されているが、国府跡は発見されていない。平安時代初期に松本市へ移されたとされる。松本市の伊和神社は科野大宮社と同じく信濃国総社と推定されている。

    常田村を古須波(こすわ)、社地のある場所を須波ヶ岡(すわがおか)と云ったことは、10世紀に作られた「和名類聚抄」によっても確かめられる。
     信濃国には十郡があり、その内の小県(ちいさがた)郡は、さらに八郷に分れていた。その八郷は、童女(おうな:旧東部町)、山家(やまが:現真田町)、須羽(すは:現上田市の千曲川北岸一帯)、跡部(あとべ:現青木村)、安宗(あそ:塩田平南部一帯)、福田(ふくだ:塩田平北部一帯)、海部(あまべ:現丸子町)、餘部(あまるべ:現武石村、現和田村、現長門町)である。
    従って、10 世紀頃までは、上田旧市街地一帯は須羽(すは)郷と呼ばれていた。
     科野大宮社の直前に寄った荒神宮は上田市諏訪形にあった。諏訪部という地名もある。須羽郷と建御名方が最後に辿り着いた諏訪とは無関係なのだろうか。
     中世には、諏訪下社は金刺氏が大祝を務めていた。その金刺氏は科野国造家より出ている。金刺氏から出て塩田平の手塚に移り住んだ手塚太郎金刺光盛は後に源平の合戦で木曽義仲の重臣として活躍する

    出雲の佐太神社を調べているとき、佐太御子大神(=猿田毘古大神)が出雲の国譲り後、出雲の統治を任され、旧勢力の意見も聞き民主的な合議制の政治を行って混乱を防いだというような記事を読んだことを思い出した。後に猿田彦一族は滋賀や伊勢に移ったようである。そして伊勢において伊勢津彦命との確執が伝承される。伊勢津彦命の亦の名を「出雲建子命」(いずもたけこのみこと)と言い、「信濃国水内郡」に移ったという伝説がある。
     長野市豊野に伊豆毛神社(いづもじんじゃ)があり、出雲族の足跡が窺われるのも気になるところだ。


     天武天皇13年(684)都を科野に遷そうとした。小紫の三野王(みぬおう)、小錦の下采女朝臣筑羅(しもうねめあそんちくら)を遣わして地形を観させたという。
     「小紫」「小錦」は冠位である。大化3年(647)に制定された「十三階の冠位」は、「大織・小織・大繍・小繍・ 大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒・建武」の順になっていた。
     天武天皇が都を科野に遷そうとしたことは、「日本書記」にも見える。天武天皇14年(685)10月の条に、天皇は軽部朝臣足瀬(たるせ)らを信濃に派遣し行宮を造らせ、天皇の死で実現は見なかったものの、束間(つかま)の湯に行幸しようとしたことが記されている。有馬・道後温泉と並ぶ古湯で、東国経営の拠点として把握される束間の湯の地は、現在の美ヶ原温泉郷か浅間温泉のいずれかにあたると推定されている。
     上田の地にも視察には来たが、結局候補地は松本の温泉地になったということだ。

     承平天慶の乱は、平将門が常陸国の国司である平国香を討ったことから始まった。国香の息子である平貞盛は、将門の謀反を朝廷に訴えるために京都へ向かった。貞盛が京都へ向かったことを知った将門は、後を追いかけて、信州上田の国分寺河原付近で追いついた。この時の戦火で信濃国分寺や科野大宮が焼失したという。この戦いに勝って京にのぼった貞盛は、朝廷へ将門の謀反を訴え、朝廷の宣旨を受け朝廷側に付いた藤原秀郷らによって攻められ、将門は朝敵として討ち死にしたということだ。
     平貞盛を助けて戦った他田真樹(おさだのまき)は、初代科野国造の建五百建命の末裔と考えられる。建五百建命の末裔は科野氏(直)になり、後に他田氏(舎人)になっている。

    北信東信は早くから帰化人が入った。それに比べ中信南信の古代は諏訪族や安曇族を抜きには考えられない。
     諏訪王国の歴史の起点とされる5世紀中葉の上社境内の神宮寺フネ古墳は、その出土品や築造様式からみて信濃では特異な非大和朝廷的墓制と考えられている。諏訪族は「伊勢風土記」によれば風雨神を祀る伊勢の海人との関係があるという。
     安曇族は、全国各地に分布を見るが、信濃はその北限だという。信濃における安曇族の歴史は穂高神社に代表される。穂高神社“榊立神事”が行われる聖域には3~7世紀の遺跡が群集していて、4世紀間にわたり姫川を遡り波状的に開拓されたとも考えられる。また、同地域内上原古墳出土の出雲石製管玉・同原石・水晶玉などからして、出雲地方からの移住集団だとも考えられている。
     安曇族は穂高神社の祭神「宇津之日金折命」(うつしほがねさくのみこと)の名称から、長野市氷鉋斗売神社一帯および佐久地方などに分布し、さらに海神を祀る下伊那郡阿智村神坂神社一帯にもその存在が推定される。安曇族は諏訪の国を包囲するように分布しているようにも感じる。

     諏訪国が信濃国より分離されたのは721年(養老5年)であり、731年(天平3年)には再び復帰した。信濃国府は、まず上田に置かれたが、8世紀末には松本に移された。私はこの陰に坂上田村麻呂らの将軍の活動があったのではないかと考える。松本地方には田村麻呂の伝説が多い。在来の勢力が再編成され、大和朝廷にとってより安定した地域になったのであろう。坂上氏は渡来系だ。この渡来系の坂上氏に与力した帰化人勢力がこの地域にはいたとも考えられる。そして安曇野から安曇族の存在が薄くなり、代わって仁科氏の勢力が強くなるのもこの頃からである。
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    諏訪大社の建御名方神が842年(承知9年)に無位より従五位下、867年に従一位、894年に正一位へと昇進したことは、古代東国政策下における信濃国のあり方が変わったことを象徴するものだろう
  • カイコは桑の葉で一番良く育つが、桑の葉しか食べないのかというとそうではない。シャ(ハリグワ)、コウゾ、カジノキ、カカツガユなど桑科の植物を食べるという。しかし、繭を作るまで育つのはコウゾなどほんの2~3種類で、いずれも桑には遠くおよばないという。

    「梶」は木綿(ゆふ)の原料である楮
     「梶の葉」は、信州の一宮である諏訪大社の神紋として有名なものである。諏訪氏は諏訪大社上社の大祝から武士化したもので、その家紋は「梶の葉」であった。

    梶葉紋の起り
     『諏訪大明神絵詞』によれば、神功皇后が新羅征伐のとき、諏訪・住吉の二神が、梶葉松枝の旗を掲げて先陣に進んだとあり、また、安倍高丸が謀叛したとき、坂上田村麿が伊那郡と諏訪郡との境、大田切という所で梶葉の藍摺りの水干を着て、鷹羽の矢を負い、葦毛の馬に乗った諏訪大明神に行き遭ったことが記されてある。しかし、絵詞は室町時代はじめの作であり、坂上田村麿の時代に神紋があったとは思われないが、梶葉紋が諏訪大社の神紋として周知のことであったことが分かる。
     このように、梶の葉紋は諏訪大社の神紋として、平安時代から始まった。

    現在、七夕では竹や笹に飾りを付ける。ところが昔は、梶の葉や枝が用いられたのだ。梶の木が、神社の境内などに多く生え、主として神事に用いられたり、供え物の敷物に使われたりした。さらに和紙の原料にも用いられたともいうが、最近では山村でもないかぎり見られなくなった。しかし、現在も神木として尊ばれている。信州の諏訪神社では、いまも神紋に梶を使用している。梶紋は最初神社関係のひとが使ったようだ。神官、社家、氏子の人々などだ。紋の形は、「抱き梶」「一葉梶」が多い。(丸に梶)
  • October 2018 編集されました
    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦─武五百建


    孝元天皇は孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天皇だという。原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。雀部家の記録は、持統天皇が記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。 他に春日臣、安部氏、穂積氏等十六家の系図が没収の憂き目にあっているらしい。記紀編纂時、不都合な事は隠蔽してしまおうとしたのであろ う。

    雀部家系図

    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┌─武五百建
    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┼─健磐龍命
    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦└─武恵賀前──孝元天皇
    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦──(崇神朝)
     この系図には矛盾がいくつかある。健磐龍命は神八井耳命の子で神武天皇の孫である。武恵賀前が崇神朝の頃の人物であることははっきりしているので、孝元天皇の父が武恵賀前であることはあり得ないことである。

     ところが、愛知県犬山市の大縣神社には武恵賀前命は神八井耳命の孫とされている。この神社の伝承の通りならば、年代的に一致する。しかし、武恵賀前命が崇神朝の人物であることは他の資料からも明らかなので、ここでは、孝元天皇の父の武恵賀前命は武速前の間違いであるとする
  • October 2018 編集されました
    長野県諏訪市にある諏訪大社は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波の多祁御奈刀弥神社から移遷された、と社伝にあるそうだ。その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ石井町諏訪に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。


    この山川町に「天村雲神社」が二つあることです。山川町村雲にある「天村雲神社」のほかに、山川町雲宮にも「天村雲神社」がある。ここの神社の隣村には山川町中須賀がある。なんと両方の「天村雲神社」の隣にはいずれもスサノオノ命が居を構えた「須賀」の地があるのだ。この二つの神社は2kmしか離れていない。一体これはなにを意味しているのだろうか。これらの神社が出来た平安時代の昔から両方の部落で本家争いを繰り返していたのだろうか。ここに住んでいた人たちにとって「天村雲神社」とは、一体どんな存在だったのだろうか。

     いろいろ調べているうちに面白いレポートに出くわした。徳島有機農業推進協議会の活動報告の中にこんな話がのっていた。

     「式内社天村雲神社」は「忌部神社」の摂社であり、忌部氏は天皇家の祭事を上古の時代から司っている。ここ「天村雲神社」の上流には銅や鉄などを産出する鉱山があり、戦前まで実際に採掘されていた。上古の時代に忌部一族がここで「天叢雲剣」を造り、天皇に献上していたのではないか、と想像している。なんともすばらしい活動報告である。

     また、他の資料には、「忌部神社」の神官家のひとつに「村雲家」があることからも、阿波忌部族と天村雲神、ヤマト王権の成立と阿波忌部族との密接な関係を窺がうことが出来るとしている
  • October 2018 編集されました
    阿波の大国主と事代主

    建島女祖命神社(たつしまめおやのみことじんじゃ)
    『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 勝浦郡「建嶋女祖命神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

    創祀年代は不詳。社殿裏の中田山を中心に、付近には多くの古墳があり、これまで土取工事などに伴い、勾玉、須恵器、刀剣、鏡、玉類が出土している。

    平安時代前期、『日本三代実録』元慶7年(884年)12月28日に従五位下から従五位上の神階を授けられた埴生女屋神が当社のこととする説がある。

    社名からも御祭神は建嶋女祖命であり、これが埴生女屋神と同神なのか、あるいは、埴安姫命、下照姫命、沖津比女命、伊邪那美命などとする説がある。

    須佐之男命の娘である須勢理毘売(すせりびめ)がいて、彼女も目の前に現れた大国主命に一目ぼれをしてしまう。彼女は父、須佐之男命が大国主命に課す難題を克服できるよう助言を続ける。そして最後には須佐之男命から須勢理毘売をめとって国作りをせよ、との指令を受けて黄泉の国から戻ってくる。

     大国主命は稲羽の国の八上比売との結婚の約束もあり、彼女を迎えに行くが、八上比売は須勢理毘売の嫉妬を恐れて、大国主命との間に生まれた御井神(みいのかみ)を返して逃げてしまう。

     大国主命は次に沼河比売(ぬなかわひめ)に結婚を申し込みに行く。しかし須勢理毘売はこれにも大いに嫉妬するので大国主命は彼女をやんわりとなだめて出掛けていく場面がある。もてもての神様も女性問題では苦労しているところがほほえましい。

    でも、大国主命はそんなことではへこたれず、次に多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)との間にも子供をもうける。この多紀理毘売命との間には兄神と妹神の2柱が生まれる。この妹神の名は妹高比売命(いもたかひめのみこと)、またの名を下光比売命(したてるひめのみこと)といい、今回尋ねた建島女祖命神社のご祭神である。この神社は延喜式内社としてはわが国に唯一つしかない神社であるとされている。

     大国主命はさらに次々と結婚を続けていく。次に出会う女神は神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)であり、この神様との間では事代主神(ことしろぬしのかみ)が産まれ、さらには八島牟遅能神の娘、鳥耳神との間にも子供をもうけていく。このようにして大国主命には子孫が永く続いていくことになる。

    ご祭神は大国主命の娘神であり、国譲りの場面に現れる事代主神や建御名方神の異母姉にあたる神様である。そしてこれら大国主命一族を祀る神社はこの地の周辺に点々と配置されているのである。この神社がある小松島市中田の山側には事代主神を祀る生夷神社があり、南の阿南市には父神である大国主命を祀る八鉾神社が祭られている。事代主神社もこの辺りにはよく見かける。そして今回訪れた神社もこれら出雲の神々を祭る神社群のひとつなのである。建御名方神社もすでに書いているように徳島市の北に存在しており、信州諏訪神社の勧請元神社となっている。
  • 甲斐国造

    塩海足尼の墳墓かとみられる古墳よりも先に造られた首長用の古墳がこの地区にはあると考えられ、その場合、築造者一族は、国造設置の景行天皇朝よりも前の時期から甲斐に来ていたことを意味する。甲斐の主要古社の創祀も、垂仁朝とするものが散見する。甲斐近隣の信濃(科野国造)や武蔵の秩父地方(知々夫国造)では、崇神朝に国造設置がなされたと「国造本紀」に記されるから、甲斐でも、同じ崇神朝とまではいかなくとも、垂仁朝ごろには塩見宿祢の父祖が到来した可能性がある。そうすると、それに当たるのが「国造本紀」に見える臣知津彦公で、その場合、垂仁朝の狭穂彦とほぼ同世代の人物となろう。狭穂彦は大和で乱を起こし戦死するから、その近親の例えば同母弟・ヲサホ(小狭穂彦。『記』の袁邪本王)にあたる者の実名が臣知津彦ではないかということでもある。
     ちなみに、袁邪本王は、『古事記』に葛野別・近淡海ノ蚊野別の祖と見えるが、葛野別は山城国葛野郡の氏とみられ、近江国愛智郡の蚊野別は後に軽我孫君となった。この事情から、父の彦坐王と共に滋賀県愛知郡愛荘町蚊野の軽野神社の祭神とされるほか、同県長浜市木之本町川合の佐波加刀神社(伊香郡の式内社)の祭神のなかに名を連ねる。サホヒコや志夫美宿祢王などの兄弟も佐波加刀神社に祀られ、サホヒコは同じ愛荘町蚊野外の御霊神社に祀られるが、袁邪本王との混同もあったかもしれない。太田亮博士は、甲斐の塩海・塩見はシブミ(渋見)に通じると説くが、これが妥当するのなら『記』にサホヒコの兄弟におく志夫美宿祢王が塩海足尼にあたりそうでもあるが、一応、サホヒコと塩海足尼とは一世代の差異があるとみておく。志夫美宿祢は「佐々君」の祖と見えるが、この氏については不明である。
  • シキ県主とは同じ訓みでも三輪氏族の磯城県主のほうだとみられ、そのほうが祭神関係も、甲斐の神部神社への流れも自然となる。太田亮博士の『姓氏家系大辞典』シキ条17項にも、「駿河の志貴氏」とあげて、「駿河府中惣社神主にして、……伝説に拠れば、志貴県主の後にして、崇神朝、神部神社勧請の際、神主となり、後に惣社を氏とすると云ふ」と記述される。この惣社神主家の祖先は、崇神朝頃に甲斐国造の祖と同行して東国に来たもので、甲斐下宮地の神部神社の称大神君氏ともども、皆が磯城県主同族なのであろう。ただ、分岐が崇神~景行朝という早い時期では、本来の姓氏は別にあって、志貴県主姓も大神君姓も、出自から後世に称した姓氏であろう。
  • 富家伝承
    天孫族は伊勢に攻め込み、王の伊勢津彦は建御名方富命が統治する信濃へ逃れた。
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