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大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ) 徳島県鳴門市大麻町板東にある神社。式内社(名神大社)、阿波国一宮。 主祭…
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コメント
『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠れた時、天日鷲神とともに穀(かじ)の木を植えて白和幣(木綿)を作った神。
系統などに関しては不詳。
津咋見神 を祀る神社
(玄松子が参拝した神社のみ)
忌部神社 徳島県吉野川市山川町忌部山14
弓削神社 境内 白紙社 山梨県西八代郡市川三郷町市川大門6373
天太玉命(金工神)は天児屋根命と共に天照太神の重臣で、天孫邇邇芸命に従い高天原より葦原中(あしはらなか)つ国(豊葦原の瑞穂〔みずほ〕の国)へ降り立った神である。国家祭祀の神へ奉る種々の幣帛(へいはく)(麻、鏡、玉、矛盾、刀、斧)などを司る。安房開拓の祖・天富命の墳墓は安房神社より東北35キロメートル、清澄山の西隣の富山にあり、その廟所が清澄の妙見山であった。
清澄山の清澄寺は台密、真言の回峰行、星信仰の道場(虚空蔵求聞持法)であった。54代仁明天皇の承和3年(836)に慈覚大師円仁が来山し、虚空蔵求聞持法を修し、祠堂25、僧坊12の名刹となった。円仁は清澄寺の前嶺に露地檀を築き求聞持法を修したので露地山と称し、独鈷を投じた山を独鈷山といい、南嶺に棲む怪物を法力で退治して鶏山、不動明王を安置して金剛山、北嶺に浅間菩薩を祀って浅間山(富士山)と命名したと伝える。
清澄寺縁起によりますと清澄山は光仁天皇の宝亀2年(771)に不思議法師が開創され、山中の老柏の木を伐って虚空蔵菩薩を彫って仮の小堂を建てたのが始まりといいます。本尊は虚空蔵菩薩であることから、山林仏教の修行地ともいわれています(高木豊)。この小堂は朽ち果て中絶しましたが仁明天皇の承和3年(836)に比叡山の三代座主の慈覚大師円仁が東国遊化のときに再興しましたので、宗派は山門慈覚流の天台宗で比叡山の末寺になります。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index45.html
日蓮聖人の仏門の入り口は清澄寺で、清澄寺は天台宗でありましたが密教と浄土教をとりいれていた寺でした。当時の清澄寺は日蓮聖人が「清澄寺の大堂」(『種々御振舞御書』983頁)と言われているように大本堂を中心に支院にあたる房がたくさんあったようです。日蓮聖人が十七歳に書写した『授決円多羅義唐決』の奥書に「清澄山道善房」で執筆したと書かれていますように、清澄寺の山中に道善房があり、日蓮聖人はこの道善房の房主を師匠として給仕することになりました。
清澄寺では日蓮聖人をどのような待遇で入山を許可したのでしょうか。一つの説に清澄寺の主であった道善房法印は、はやくから日蓮聖人の素質をしり、日蓮聖人を弟子にむかいいれようと父母に申しでていたという説があります。そうしますと直接的な入山は道善房の誘引であり、それに父母と日蓮聖人が同意したことになります。確かに父母が健在でしたので無常を感じての出家ではなく、幼少から才智英敏であったのを嘱望され故郷の期待があったのも事実と思われます。
高木豊先生は日蓮聖人が清澄寺に登った理由として、地方武士の子弟教育を近隣寺院にゆだねた当時の風習から「登山は清澄寺で初等教育をうけるためと考えてもよい」という説をのべています。はたして親からすすめられて初等教育をうけるためだったのか、先に述べたように領家から荘園の諸問題に対処できる教育をうけさせるために所望されて入山された、という動機が考えられましょう。しかし、結果的にみますと出家し入山より20年後に立教開宗をされました。この事実からしますと純粋に出家をめざして清澄寺に入山したと思われます。つぎにあげる御遺文はこのところをのべています。
「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此願を立」(『破良観等御書』1283頁)
鷲子山上神社(とりこのさんしょうじんじゃ)は、 栃木県那珂川町と茨城県常陸大宮市の県境に鎮座し、大同2年(807)阿波国から天日鷲命を勧請し創建、その後に大己貴命と少彦名命が合祀されたと伝わります。
歴代領主や権力者達からも崇敬され鎌倉時代には源頼朝が社殿修理料を寄進し、その後周辺を支配した武茂氏の崇敬社となり社殿の再建や社領の寄進などを行っています。
江戸時代に入ると幕府の庇護となり社領20石の朱印状を渡し除地免税地100石を認めていました。
又、水戸藩主、徳川光圀が2度参拝したとされ"鷲子山十景七奇"を選定、9代藩主斉昭がその碑を建立しました。
2度ですよ!!
式内・式外の入部ニ詳ナリ… 御子達ハ宇賀ノ御霊ノ神ツヅイテ祭ル (阿波志より)
祭神一座 賀之比賣命
古事記云 羽山戸神 娶 大気都比売神 生 夏高津日神、亦名 夏之賣神 按 阿波國魂 大粟姫ノ御子ナリ
阿波誌には「賀志波比売神社、夏之売命を祭る、見能潟に在り俗に津峰権現と号す、別当千福寺」。
古事記に曰、羽山戸神 大宣都比賣を娶て夏高津日神 亦名 夏之売神を生む、述者の按に羽山戸は伊予の大山祇今云う三島の神是なり、大宣都姫は阿波の国主也、当社は山の麓に在りしを所の郷民に因て今の山上に遷す、是は年歴久しからずと尤も麓の社も猶存せり、此社真に古し、樹木繁茂せり、毎年臘晦の夜竜燈あがる」と。
延喜式神名帳、阿波国阿波郡の「建布都神社」論社。
祭神 建布都神、経津主命、大山祇命、事代主命。
建布都神は武御雷之男神の別名であり、「旧事本紀」によれば石上神宮の神とも同神であるとのことです。
「阿波国続風土記」記載の内容
郡村ニ在り郡村ハ和名抄當郡拝師(波也之)郷ノ内ナルベシ山城国葛城郡上林郷アリ
伴氏神社アリ河内国志紀群伴林氏神社アリ河内国林宿禰ハ大伴室屋連男御物宿禰之後
ナルガ河内国若江郡弓削神社ハ弥加布都神佐自布都神ナル事三大実録ニ見エ姓氏録左京
マタ河内国弓削宿禰ハ天日鷲翔矢命ノ後ナル由見エタリ林ハ日鷲ノ転ニテ郡モ翔ト近ク
聞ユ御物宿禰ハ拝原郷ニ成長シテ室家(屋)連ノ家ヲ續シナルベシ
河内国弓削宿禰ハ天日鷲翔矢命ノ後ナル由見エタリとか「山城国葛城郡上林郷」を引き合いに出して林ハ日鷲ノ転ニテ
と断定してある
河内国志紀群の「伴林氏神社」は天日鷲命の伴?
祭神として祀られている神社は富山県東砺波郡井波町高瀬の高瀬神社及び石川県羽咋市寺家町の気多神社ぐらいしか見当たらない。神社伝承を頼りにこの神の実態を探ることはできないので、子孫の行動をもとに推定してみることにする。
二人の子がいるが1人は天神立命で、この子孫が葛城氏・賀茂氏となっている。今一人の天三降命の子が宇佐津彦である。宇佐津彦は神武天皇が東遷時宇佐にやってきた時に天皇を歓待している。饒速日尊のマレビトとなる前に宇佐地方を統治していたとおもわれる。
天活玉命は葛城氏の祖となっている。葛城氏は葛城山の高天彦神社を始原とし、この神社は高皇産霊神を祀っている。この神社周辺は高天原と呼ばれている。天活玉命は饒速日尊と共にマレビトとして大和国にやってきた。天活玉命の任地は葛城地方だったのであろう。
天活玉命の孫に鴨建角身命がいる
天活玉命の系図を示すと下のようになる。
┏━天神立命━━陶津耳命
天活玉命┫ (鴨建角身命)
┗━天三降命━━宇佐津彦
宇佐津彦は神武天皇と同世代であり、鴨建角身命は2世前であり、上の系図では世代が合わない。天神立命は別命天背男命とも呼ばれており、饒速日尊の天孫降臨時阿波に降臨した天日鷲命の父である。また、天活玉命は饒速日尊と共に天孫降臨に参加している。このように天活玉命関係の系図は年代が全く一致しないのである。
1.天太玉命が忌部首の祖神である
2.同神には 1天日鷲命=阿波国忌部氏の祖 2手置帆負命=讃岐国忌部氏の祖 3 彦狭知命=紀伊国忌部氏の祖4 櫛明玉命=出雲国玉造氏の祖 5 天目一箇神=筑紫国、伊勢国忌部氏の祖
の五柱の神々が従ったとありますが、日本書紀神代上第七段一書第三には、天石窟に「日神」が籠った時、すなわちアマテラスの磐戸隠れの時に、
下枝には、粟国の忌部の遠祖、天日鷲が作ける木綿を懸でて、乃ち忌部首の遠祖、太玉命をして執り取らしめて、広く厚く称辞をえて祈み敬さしむ。
とありますので、恐らく「天太玉命(あまのふとだま)」と「五柱」の神々は親子ないしは異名の同神、そして「五柱」の神々はそれぞれ兄弟か異名の同神である可能性が高いと考えられます(関東の皆さんには浅草・鷲神社の祭神としてお馴染み)。斎部(忌部、いんべ)氏とは言うまでもなくヤマト朝草創期にあっては中臣氏と同等あるいは同氏を凌ぐほどの存在感を誇った祭祀族で上の記事に見られるように九州から四国、山陰、近畿一円に勢力圏をもっていました。そして、天日鷲命の後裔氏族として天語連、多米連、田辺宿禰および同神と見られる天日鷲翔矢命の後裔に物部弓削宿禰、委文宿禰、美努宿禰更には鳥取部連などが確認できます。語呂合わせではありませんが、少彦名神が「常世」の国に弾かれて飛んでゆく前に居た処が「淡島・粟島」で、加太淡島神社を始め各地のアワシマ神社がスクナヒコナを祭神としていることも合わせて勘案すると、天太玉命と同じ神様ではないかと推理される天日鷲命こそが少彦名か?
少彦名神の別名を天日鷲翔矢命と言います。その後裔氏族には物部弓削宿禰がいました。忌部氏が物部氏と同族であるのなら祭祀を束ねるのと同時に「武器」モノノグの生産にも携わり天孫族の機動部隊を構成していたのではないでしょうか?日本書紀が神代下第九段(天孫降臨)一書第二の中で、
即ち紀国の忌部の遠祖、手置帆負神をもって、定めて作笠者とす。彦狭知神を作盾者とす。天目一箇神を作金者とす。天日鷲神を作木綿者とす。
と列記していますが天日鷲神は本当に「木綿(布)」作りだけに励んでいたのでしょうか?徳島県吉野川市にある種穂忌部神社には興味深い伝承が残されています。『天日鷲命の本名は天日鷲翔矢命といい弓矢の名手で、占いの矢を高天原から放ったら種穂山に突き刺さった』のだそうです。古事記も日本書紀本文も、この神様については珍しく口裏を合わせたように一言も伝えていません。
大麻比古大明神、種穂大権現 粟耕作なされ、田口大明神へ捧げ給い、国家安全を祈らせ給う。日本粟最初の山なる故、大粟と号す。是、阿波国の始まり承り伝う。
八前の伴神とは、大久保の牛頭天王、大埜地の腰ノ宮、上角の都々姫の神、中津の天王ノ宮、野間の妙見宮、白桃の妙見宮、谷の天平および北名の某社という。
大粟山で国造家として一宮大粟神、即ち大宜都比売命の祠官として奉仕にあたりました
宮主と称し国造家と称して南北朝の初頃まで大粟山庄で大粟神の奉仕を行っていた。
平城天皇の大同三年五月九日に左少弁従五位下 田ノ口息継が阿波国司に任ぜられ、子孫が公領の荘園化とともに阿波に土着し豪族となった。
名西郡桜間城を本拠地として名西山分大粟山に勢力を伸ばし、埴生女屋神の祠官を兼ねた頃から威勢が強くなり田口氏が奉仕したことから田口神社とも称えられるようになったのであります。
田口氏の勢力は平家滅亡により共に衰える。
祭官奉仕している間に鎌倉幕府から派遣された佐々木氏が承久の乱に勤めて滅び、小笠原長清が代わって守護となったのが滅びへの道に続くのでした。
これには積羽八重事代主神の后神として「粟国魂 大宜都比売命」の名が見え、その別名として「大阿波女神(おおあわめ)」、「阿波女神(あわめ)」、「阿波波神(あわわのかみ)」、「阿波神」、「天津羽羽神(あまつはは)」、「天石門別八倉比賣神」、「天石門別豊玉姫神」と記載されているのです。
大宜都比売命 即ち阿波咩命の系図「阿波女社宮主系」が「粟国造 粟飯原系図」であり、こちらが一宮神社所蔵であった。
大宜都比売(阿波咩命)は粟国造粟凡直等所産神是也 。皇子の若室神は粟国造祖也。
祖神を阿波咩命とし、其始祖を若寶神(若室神)と為す。
若寶神(若室神)より天磐門之神、健豊神、健忽神となす。
若寶神(若室神)より多久里彦神、八倉主神、宇賀主神、畠多神等数世の諸神相継ぎ、後を佐人と言ふ。
佐人より加田彦、於志翁、屋邦男、岩肩彦、豊長彦、里利天、興利彦、田理彦、豊茂理、豊成、兼諸、経宗、忠成、忠宗、宗長、宗信、宗國、宗麿、宗堅、宗統、昌宗、時宗、宗行の二十世を経て祖神より二十四世を国造家宗成と言ふ。
宗成に至り祭神を以て神禄付属を祭官小笠原宮内大輔長宗に傳へしと知る。
一宮氏
入田邑或ハ神領村ニ住 修験名東名西二郡触頭良蔵院ハ上古者大粟姫ノ国造ノ家也、然ルニ小笠原弾正少弼従四位下侍従〈東鑑曰阿波ノ弥太郎長経〉阿波ニ来テ大西ニ住シテ四代目小笠原蔵人太郎左衛門佐長義ノ舎弟一宮宮内大輔四郎長宗是一宮氏ノ元祖也、粟国造ノ養子トナリテ名東名西二郡ノ守護ヲ兼テ凡六千貫ノ地ヲ領シ鎌倉エ参勤ス(阿波志より)
「伊勢国造。橿原の帝[神武天皇]の御世に、天降る天牟久怒命(あめのむくぬのみこと)の孫 天日鷲命(あめのひわしのみこと)を勅し賜いて国造に定む、
即ち伊賀伊勢国造(いがいせのくにのみやつこ)の祖。
伊賀市下阿波の「阿波神社」
「阿波神社」の由緒や御祭神は文献によってばらばらで、はっきりしません。
御祭神は、稚日女神 猿田毘古命 火産靈命ですが、
『神名帳考證』では「天日方奇日方命」
『大日本史』では「天太玉命」
『特選神名牒』では「事代主神」
『伊水温故』では「猿田彦命」「神功皇后」
『三國地誌』では「神功皇后」です。
『三重縣神社誌』では、「阿波の君」の祖、「息長田別命(おきながたわけのみこと) 」が御祭神、となっています。
『旧事記天皇本紀』で「息長田別命阿波の君等の祖」と記されます。
息長田別命は「倭建命(やまとたけるのみこと)」の御子ですが、母方の血統は不明と言われます。
倭建命には6人の御子がいますが(古事記)、「又一妻[あるみめ]の子、息長田別王」と息長田別命だけ、母の名が記されていません。
御次男、帶中津日子命(仲哀天皇)の皇后が神功皇后です。
「息長宿禰(おきながのすくね)」「息長帯(おきながたらし)」の血統から別れたから「息長田別(おきながたわけ)というのです。
母の名は記せないわけがあったのでしょう。
この神社は、中世に郷士「阿波越後」なる人物が、阿波国から「杉尾白鬚神」を遷迎合祀し、江戸時代「杉尾大明神」と称していたそうです。徳島には、忌部の故郷、吉野川市鴨島町牛島の字「杉尾」に「式内社 阿波國麻殖郡 秘羽目神足濱目門比賣神社2座」とされる「杉尾神社」があります。「杉尾白鬚神」が、どの神社の神か今のところ不明なのですが、地名からみて当社の可能性があります。
その他、徳島県内には平成の現在、「杉尾」と称する神社が22社存在します。
また、現在は違う社名になっているが、もとは杉尾大明神と称した、というような神社が他にも複数あります。
隠岐の国造と阿波南方長の国造がその祖を同じくしていること。
隠岐開発の祖神を祀る玉若酢神社宮司の憶岐家は隠岐国造の子孫で国造以来連綿として社家を伝え出雲大社の千家紀伊国造の紀伊家(東大平泉博士調査)と共に全国三家の一として稀に見る家系を有している。
応神朝の頃観松彦伊呂止命五世孫十挨命が隠岐国造となり九世孫韓背足尼命が長(現在阿波国南方那賀川流域を中心とする所)の国造となり祖先の観松彦神社を奉祀したといわれている。
註.旧事記造本紀に
「軽島豊明朝御代観松彦伊呂止命五世孫十侯定賜億岐図造」
「長国造志賀高穴穂朝御世以観松彦伊呂止命九世孫諱背足尼定賜国造」
◎長は允恭記に阿波国長邑とあり,和名抄に阿波国那賀郡の名見え云々
又隠岐家には大化の新制になる駅鈴を伝え隠岐倉印と共に国宝に指定されている。
光格天皇は隠岐家より駅鈴を借上げ即位の式列に加えられ返還の砌の下賜の辛檐も伝えている。阿波における三木家が天日鷲命の裔として歴代の即位式に献上する荒妙の事故と対照的でもある。
(現宮司隠岐豊伸氏は本県立川島高校前身麻植中出身)
承久の変に配流の後鳥羽上皇の行在地や火葬塚の遺蹟は阿波における土御門上皇の遺蹟と同じであり御父子の間柄であらせられる。
先代旧事本紀第十巻国造本紀には、「粟国 軽嶋豊明朝御世。高皇産霊尊九世孫千波足尼定賜国造」「長国志賀高穴穂宮御世。観松彦色止命九世孫韓背足尼定賜国造」とあり、阿波国には、粟国と長国の二国があり、それぞれ国造がヤマト王権によって任命されている。
長国は吉野川南方とされ、長国の範囲は、現在の海部・那賀・勝浦・阿南・小松島・佐那河内・徳島市南部の一部と考えられている。
長国造は長国(現・徳島県の那賀川流域中心、徳島市・佐那河内村・小松島市・勝浦郡・那賀郡・阿南市・海部郡)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)の9世孫である韓背足尼(からせのすくね、韓背宿禰)を国造に定めたことに始まるとされる。韓背足尼の後裔は長姓を称して国造を世襲し、支流の大海路命の後裔は長宗宿禰の姓を名乗り、後の長宗我部氏と続く。長公系譜では建日別命(たけひわけのみこと)は長国造・長我孫・都佐国造の遠祖であり、長氏は三輪氏と同族で事代主命(ことしろぬしのみこと)の神裔に位置付けられている。諸説を統合すると観松彦命が神武天皇の東征に抵抗した長髄彦(ながすねひこ、那賀須泥毘古)であり、韓背足尼はその子孫との説もある。
長国の本拠地は定かではないが、大化の改新後に粟国と合併して阿波国となり、国府は現・徳島市国府町になったという。また古墳等の史跡も見つかっていないが、名東郡佐那河内村にある御間都比古神社は初代国造・韓背足尼が祖神である御間都比古色止命(観松彦色止命)を祀ったと伝えられる。
八桙神社から那賀川をはさんで直線距離で六・五kmのところに、事代主命を祭る延喜式内小社の事代主神社とされる生夷神社(いくいじんじや)がある。生夷という名から事代主命が生まれた地であると伝えられる。事代主命は大国主命の子であり、父の国譲りに同意した神である。延喜式神名帳には、阿波国に事代主神社が二座記されており、阿波市市場町伊月の事代主神社が比定社となっている。その他には大和国二座とされているだけで、国譲り神話の出雲国には一座もない。国譲りの際に、事代主命は、三津之前で釣りをしていたとされ、鳴門市北灘町には「三津」の地名がある。
また、大国主命のもう一人の子の建御名方命は、石井町浦庄諏訪の延喜式内小社多祁御奈刀弥神社に祀られている。建御名方命は国譲りに抵抗したため建御雷命に敗れ「諏訪」に敗走する。多祁御奈刀弥神社の所在地は、まさにその「諏訪」なのだ。さらに、建御名方命の母の沼河比売は、高志国の出身である。吉野川を挟んで石井町の対岸に上板町には「高志」の地名がある。建御名方命は母の故郷に逃れたのである。
勝占神社から東へ二km、小松島市中田町の小山に延喜式内小社の建島女祖神社(たけしまめおや)がある。神社由緒には、八八三年従五位上の埴生女屋神とあり建嶋女祖命下照姫を祭るとある。古事記では下照姫は、大国主命と宗像三神の田心姫(たきりびめ)の娘とされている。
長国にみられる前方後円墳に五世紀以前のものはなく、三世紀前半までさかのぼる前方後円墳がある粟国とは様相を異とする。これは、長国地域が五世紀になりようやくヤマト王権に帰順したことをにおわせる
武布津神が出雲を平定して天照大神に奉告するため事代主神を道づれにして阿波へ来た。一行は讃岐の志度に上陸して日開谷を過ぎて伊笠山麓付近に来た。その時忌部族は、高天原族等の不意の浸入を咎めてこぜりあいがあったが、やがて忌部族長 天日鷲命は武布津神のために休憩所を今の香美に建て、事代主神を自分の妹 阿波(あわめ)の館に迎えた。
香美 武布都神社
また、武布都神に連れてこられた事代主神は伊笠山南麓の地である上喜来蛭子の事代主神社。そして伊月(伊着き: 伊笠山から着いたの意味?:本来は斎(いつき))にも事代主神社がございます。
(伊月 事代主神社)
そうなんです。きちんと伝承に応じた場所にそれぞれ武布都神と事代主神が今も祭祀されているのですよ。ちなみに忌部族頭領 天日鷲命は浮島八幡宮、妹の阿波咩(天津羽羽神)は八条神社で祭祀されていたのは皆様ご存知の通りです。
ーー古文書に
伊月の事代主神、粟嶋の天津羽羽神を挙げて阿波嶋村これ阿波国の名所なれば必ず二神は伊月村、粟嶋村の二村ならん
浮島八幡宮は川島町二つ森の上にある雀獄遺跡からの移遷
カモで考えれば何故か阿波町にカモがあるんですよ。
(阿波町伊勢鎮座 古賀茂神社)(阿波町新開鎮座 賀茂神社)
旧郷社
御祭神
別雷命 市杵島姫命 品陀和気命 天照皇大神
合祀 式内社
阿波國美馬郡 横田神社
阿波國美馬郡 田寸神社
徳島県三加茂町(現東みよし町)にある。
三加茂駅から西へ1Kmほど進み、
町役場の辺りで、加茂谷川に沿って1Km南下した場所にある、
丘の上に鎮座。
境内入口の鳥居は北側にあり、参道の階段を上ると境内。
境内の南側にも入口はあるようだが。
階段を上ると、右手に東向きの社殿がある。
社殿の正面、階段を上って左手に、石の垣に囲まれて
葵の葉が祀られている。
あるいは、そこで育てられているのかもしれない。
葵という植物を、初めて眼にしたが、
その葉は、葵の紋そのままの形で、少し感動した。
境内には、朱の燈籠が並び、緑の木々の中で、非常に鮮やかだった。
境内の様子や社殿の佇まいを見ていると、
女性的な雰囲気が感じられたのは、何故だろう。
創祀年代は不詳。
社伝によれば、
貞観二年以前に、京都上賀茂神社から勧請された神社。
「百錬抄」によると、上下の賀茂神社に対し、
寛治四年(1090年)頃に、御供田六百余町が寄進されたが
当地にも、その寄進された御供田があったという。
その後、当地は福田荘となり、上賀茂神社の社領となったという。
明治の神社合祀によって、
当社境内には多くの神社が合祀されている。
式内・田寸神社の論社である、山根の田寸神社も合祀されていたが、
元の地の小祠に祀られている。
同じく、式内・横田神社に比定される、中村の横田神社も、
元地に小祠が残っている。
拝殿の左右に、それぞれ3社の境内社がある。
左には小祠が三つ並んでいるが社名は未確認。
右の三社は、右から、国瑞彦神社、天神地祇社、豊受大神宮社。
国瑞彦神社には、以下の26社が合祀されていると記されている。
鎮守神社・幸神社・宇賀比神社・八幡神社・若宮神社・八将神社・
山塚神社・木神社・友與志神社・市坪神社・荒神社・高良神社・
市杵島姫神社・熊丸鎮守神社・杉尾神社・松尾神社・毘沙門神社・
古塚神社・稲荷神社・藤木神社・厳神社・若宮神社・奥森末神社・
日吉神社・日之出神社・会川八幡神社。
また、天神地祇社には、以下の27社が合祀されている。
奥成山神社・熊丸山神社・谷奥山神社・秋葉神社・奈良神社・
三島神社・愛宕神社・山神社・出雲神社・両皇神社・神通神社・
神通龍神社・神通大山祇神社・神通愛宕神社・速大神社・妙見神社・
榧森神社・天満宮・荒神社・蛭子神社・大谷山神社・井神社・
境神社・金毘羅神社・伊勢神社・奥谷神社・奥森神社。
『式内社調査報告』には、
国瑞彦神社に35社、天神地祇社に19社合祀されているとある。
大麻比古命は阿波忌部の祖。天白羽鳥命は神風とともに伊勢国に入り、五十鈴宮に奉仕した麻績連の祖。天羽雷雄命は倭文連の祖とあります。
次に真ん中から少し左、大麻比古命の次世代の系譜に繋がります。大麻比古命は磯根御氣比賣命を娶り、千鹿江比賣命と由布津主命のニ柱が誕生します。千鹿江比賣は今千貝大明神是也とあり、由布津主命は又名を阿八別彦(アワワケヒコ)とされます。
由布津主命は天止美命(天富命)と定め、さらに由布津主命は青和幣、白和幣を使用して荒妙を調達し、これは阿波国から麻、木綿、和幣の織物を用意させたものであると記録しているのです。
また、由布津主命は其の地(阿波国を指す)に天日鷲命を祭祀する忌部神社、父、大麻比古命を祭祀する社建てて崇拝したとあります。 まさに忌部神社と大麻比古神社のことですね。(この伝承から考えれば由布津主命が大麻比古神社を創建したことになりますね。)
その後「天止美命亦科由布津主命而更覚美土而可…(天富命と由布津主命はさらなる良き場所を見つけるため… ) 」とあり、太占の結果から阿波忌部族を率いて東土に移動を決定したことが記載されています
阿波から東国に移動した由布津主命は天桅弓、天羽羽矢を用いて諸国の神達を平定していきます。手中に入れた領土を整備し、五穀豊穣も得られたことから土着の百姓も歓喜し、由布津主命の領土は拡大していきました。この業績からの由布津主命の美称として「阿八別彦命(アワワケヒコ)」と云う御名が生まれと言えるでしょう。
阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国となった故に総国と言われました。穀の木の生育したところをは結城郡と言れ、阿波忌部が住んだところは安房郡と呼ばれました。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てたのが現在の安房神社なのです。
天止美命(天富命)はその創祀の際、天太玉命が天上から持ち来たった神宝を納め、その神宝を娘である飯長姫命に奉仕させます。飯長姫命は由布都主命と結婚し、これが安房忌部氏の祖としています。 「阿八別彦命御合天止美命之子飯長姫命而所生子名訶多々主命是之安房忌部首之元始也。(阿波別け彦と飯長姫が夫婦となり訶多々主命が生まれた。是、安房忌部党首の元始なり。」ですね。
上古、長國と云われる地は名東郡の南端より勝浦と那賀両郡に跨っておりました。
そして皆が知るところ、その名東郡南端にあたる佐那河内村に長國造の祖、観松彦色斗命を祀る御間都比神社が鎮座しているのであります。
実は御間都比古神社は名東郡佐那河内村長峯に鎮座していたのです。そう、名東郡といえば昔は名方郡にあたります。
それは「長國造ノ祖が粟國の区分である名方郡に祀られている」という摩訶不思議な事例を指しているのであります。
そして続いてこうあります…
「長國ノ号ハ此 長峯 ヨリ出デタル由云 (中略)… 色斗命ノ孫世々此地ニ住シテ國造ニ任シ長峯ノ地名ヲ称シテ長國造トモ冂國トモ号(ナヅ)ケシナリ」
「其後郡ヲ置カレテ國号ノ元地ナル長峯ハ名方郡ニ属キ次ハ勝占神社ノ坐ス地ニテ勝浦郡ト改メ置カレ残地ニ長國ノ古名残リテ那賀郡ト云ヘル也」と。
名方郡佐那河内村の長峯から「長」を採用、そして色斗命の子孫が代々当地に住して國造として治めたため「長國造」と名付けたとあります。
そして長峯のある佐那河内村は名方郡へ、勝占神社が鎮座していた場所を勝浦郡とし、残りのエリアに昔の名残りで那賀郡としたそうです。
長國の國号の「ナガ」とは佐那河内村の「長(ナガ)峯」からだったのです。
「勝浦郡ノ生夷谷(イクヒナ)ノ奥ニ八重地ト云フ地アルハ若シクハ 八現彦ノ由緒アル地ニ非ル欤尚後人考フ可シ國造本紀(都佐國造)ニ 志賀高穴穂朝御代長阿比古同祖三嶋溝杭命九丗孫小立足尾定賜國造トアルモ同系也 伹 都佐國造長阿比古同祖ト云ヘレハ事代主後ト云ヘキニ」
これは即ち長國造と土佐國造は積羽事代主命の後裔で同祖であると説いているのであります。
ここで先ほどの引用文「勝占神社ノ坐ス地ニテ勝浦郡ト改メ…」が効いてきます。わざわざ勝占から郡名を採用したのは事代主命を祀る重要な社であったからです。
そしてここから驚くべき結論が書かれております。
「粟國造 都佐國造ハ同祖 粟凡直 長直モ一系ナリシヲ属地ニ依テ 粟凡直 長直ニ分レテ異姓ヲ称スルナル可シ天津羽羽神 阿波女神 同神 當阿波國十郡中麻植美馬等ノ三郡ヲ除キ残ル七郡ヨリ土佐國ヲカケテ皆本来人種ハ此神之氏子ナリ 八倉比賣大神ノ當國第一尊ニ坐ス事ヲ知ル可シ 土佐國一宮 阿波國一宮ハ夫婦ノ御神也」
粟凡直一族と長直一族も同族。
よって長國造の祖が現在も名方郡で祀られており、そしてさらに昔を遡ると粟凡直と長直は大宜都比売命と積羽八倉事代主命の夫婦を祖としているのです
手力男神ーー 粟一宮の粟女神、大宜都比売命
現在の「天石門別八倉比賣神社」は、佐那河内村の天手力男命の娘である栲幡千千姫命こと、事代主神を夫に持つ阿波の国魂「大宜都比売命」を祭神とし、二代目 天照大神である「壹与」、そして一宮大明神 阿波女社系も複合されたとても格式が高い「元」「天石門別豊玉比賣神社」なのであります
今に伝える神山の笑子岩。高根山にあり、高根山が高根山と呼ばれる所以です。高根山は「(味鉏)高日子根山」。なのです。
大宜都比売命が夫である味鉏高日子根命(事代主神)を敬うために作製を指揮した伝承がありますが、記録では岩肩彦が行ったようです。
日向と連携しつつ、大和へ入ろうとした「イワレヒコ」(神武)を補佐し(ヤタガラ
スになったという)最終的には大和への追随という形で、原初大和の建国に、深く携
わったとされています
・三好氏(小笠原氏)、一宮氏は粟国造家に入り、大宜都比売命の宮司を司りました。
・有持氏は田口氏(櫻間氏)の末裔。田口大明神として大宜都比売命を祭祀していた経緯があります。
・海部氏は息長田別皇子の末裔。息長田別が国府に大宜都比売命を勧請、のち海部郡に移動しました。
決めて忌部氏當国に在るは日鷲命 始めにて神武天皇の朝に来りしには非ざる也。考えるに同書に天富命 更求㓇壌分阿波斎部率往東土播殖麻殻云云 阿波忌部所居使名安房郡(今安房国云云也)と同朝に富国の忌部氏を東土に分け住めせし事あり彼れ安房国我阿波国にて言語の上同称なり…
古代において阿波忌部の祖神である天日鷲命の古跡が残る阿波国に、なぜ神武天皇と帯同して天富命が来るのか?(安房国から阿波国を開拓する動きについて)阿波国から分けた安房国から来たことを忌部広成が知らなかっただけだという
出典、http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2017/12/10/005638