高倉下、高倉神社 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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天隠山命は高倉下命とも言われ、神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て、後御子天五田根命と共に紀伊国より讃岐に渡らせられ山河を以って国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた。

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  • 丹後國熊野郡 矢田神社
    御祭神 建田背命
    配祀 和田津見命 武諸隅命
    「海部直の祖たる建田背命及其御子武諸隅命、和田津見命を斎き祀れるも深き由緒の存ずる所」とある。
  • 高倉神社
    遠賀郡岡垣町高倉 (平成22年4月2日)

    この神社は、岡垣町役場の南西1.2km程の辺り、高倉の旧集落の外れに鎮座しております。

    高倉神社御由緒
    御祭神 天照皇大神・大倉主命・莵夫羅媛命
    当社は國史所載の古社にして第十四代仲哀天皇八年正月己卯朔壬午筑紫に行幸し給ひし時、岡の縣主の祖熊野周防婆歴浦(さばのうら)に参迎え海路を導き山鹿岬より巡りて岡の浦に入らむとし給ふ。時に神異あり、天皇勅して挟抄者(かぢとり)倭國莵田の人伊賀彦命を祝部としめ給ふ。神功皇后摂政二年五月午の日に此の地に神祠を建て神田千町を以って定めらる。即ち大倉主命・莵夫羅媛(つぶらひめ)二神の本宮なり。古来武人の崇敬厚く年中三度の大祭には在廳の官人をして祭儀を監察せしめられ武家執政の後も検使を遣して祭儀を援けしめられき。天文五年九州探題大内義隆公社殿の造営ありしも永禄二年大友宗麟の兵火にかかり壮麗なりし社殿も、貴重なる社宝と共に烏有に帰せしが天正十五年國主小早川隆景公之を再建、慶長十八年黒田長政公梵鐘及び鳥居の献納あり。爾来歴代の國主神田神山を寄進して崇信の念殊に厚く宝暦元年旧遠賀郡の惣社として定めらる。明治五年十一月郷社に列せられ、大正九年縣社に昇格す。現今の神殿幣殿は明治九年旧遠賀郡の造営によるものにして古は神傳院・千光院・総智院・勝業院・正覚院の六坊あり。又社家五家、巫女四家ありしも明治初年同時に廃せらる。境内には御神木として杉、楠、松、楓、柳の五樹ありしが今は神功皇后御親裁と傳へられる綾杉と楠のみ残せり。

    高倉神社の由来
    高倉区の南山麓にあって神殿は西を向き、芦屋町岡湊神社の本社で、以前は遠賀郡二十二村の総社であった。明治五年郷社と定められ、大正九年九月二十八日県社に昇格、昭和二十年官幣社に昇格される予定であったが、終戦のためなされなかった。
    祭神は大倉主命・莵夫羅媛命の二神で、中世天照大神を合祀し、左殿に氏森大神、秋葉大神、室大神、高田大神。右殿に白山大神、中山大神、山崎大神、国常立大神を合祀する。祭日は十月九日、社記は「日本書紀」を引用して「仲哀天皇が筑紫に行幸されたとき、岡の県主熊鰐はそれを聞いて、百枝の榊をとり、今の百合野で九尋の船のへさきに立て、上の枝に白銅で造った鏡を掛け、中枝は十握の剣をかけ、下枝に八尺瓊の勾玉をかけて、周防の沙歴の浦にお出迎えし、魚や塩、地図を奉献する。(これは八尺瓊の勾玉の美妙なように天下を治め、白銅鏡の明晰な如く山川海原をみそなわし、十握剣をひっさげ、天下の賊を平定くださいとの意で、神代の天照大神の故実に始まり、赤心を顕し、至誠を表現し、当時諸臣が天皇を奉迎する礼儀であった)熊鰐は海路を導いたが、山鹿岬より御船が進まなくなった。天皇は「熊鰐よ、お前は忠誠心があって出迎えに来たのだろう。それなのに船が進まないのは何故か、策略があってとめたのだろう」と吃問されると、熊鰐は「御船が進まないのは、私の罪ではありません。この浦の先に男女二柱の神がおられ、男神を大倉主命、女神を莵夫羅媛命といいますが、その神に挨拶をしないからです」と奏上した。そこで天皇は、大和の国の伊賀彦を祝部となし、祭とし祈願をされたら、御船は進むことが出来た」と。仲哀天皇は神功皇后と岡津に暫く駐まり、作戦を練られ、諸軍に命じて兵器弓矢を整備される、そこを矢矧という。熊鰐は皇后に奏上して「この県に高津峯という三面宝珠の山があります。この峯に国々を鎮護するため神々が天降っておられます。いそいであの峯に登られ、朝敵誅伐のことをお祈りください」と。皇后は悦んで高津峯に登られ、熊襲征伐のことを祈られる。間もなく岡津に帰られ、天皇と相談される。「ここは国の端で、暫くでも皇后をおく所ではありません。香椎の宮に移ってください」と。軍勢はお立ちになる。今度この九州に下られたのは熊襲征伐のためだから、敵国はまだ遠いとはいえ、隊伍を整え号令を厳格にされる。そして先ず御旗を立てられた所を旗の浦といったが、今は訛って波津の浦といい、■を残された所を小手の村といったのを、後世小の字をとり手の村という。こうして程なく香椎に入られたが天皇は宿陣されたとき海からの風が烈しかったので千本の松を植えられた。それを垣崎松原(三里松原)という。香椎で天皇は崩御されたので、皇后が代わって熊襲を伐ち平げ、朝鮮の新羅も伐ち従え、その年の十二月に御帰還される。
    この西征で、天皇、皇后は各所で祈願をされたので、御帰還後それぞれお礼をいい祭りをされた。中でも大倉主、莵夫羅媛の二神は水神で、仲哀天皇が筑紫に下られた時も神異があり、皇后が三韓を伐たれたときも神助が浅くなかったので、皇后が摂政の二年五月、午の日に勅を下して、この高倉村に御柱を建てて祭りをされる。これが高倉神社である。だから今に至るまで午の日を祭日にしている。(岡垣風土記)
  •  桂川町教委は2014年9月18日、九州大大学院の考古学研究室と発掘調査を進めていた金比羅山古墳(桂川町寿命)について、遠賀川流域で最古級、最大級の前方後円墳であることを確認したと発表した。町教委は「全体像が把握でき、古墳時代の地域間交流のあり方や(装飾古墳として知られる)王塚古墳の出現の背景を知る上で重要な成果が得られた」としている。

     町教委によると、金比羅山古墳は町内にある王塚古墳の北東約1キロの丘陵の上にあり、1935年に京都大の調査で存在が確認された。

     古墳の大きさ、形状、範囲の確認を主な目的とした今回の調査は2011年から始まった。全体の長さは王塚古墳の86メートルに匹敵する約80メートル。後円部分は直径47メートル、高さ約7メートルの3段構造で、前方部分は幅約20メートル、高さ3メートル程の2段構造であることが分かった。丘陵の地形を利用して、ほとんどの部分が地山を削り出す工法で築造されたという。

     後円部と前方部の高さの差が大きく、後円の頂部の平らな面が広いといった構造的な特徴、埴輪はにわや斜面の葺ふき石が見つからない状況などから、6世紀中頃の王塚古墳より数百年遡る3~4世紀頃の古墳時代前期に築造されたと考えられるという。

     遠賀川流域で最大級で最古級との調査結果が得られたことについて、九州大大学院の辻田淳一郎准教授(比較社会文化)は「これだけ大きな古墳が古墳時代前期にあったということは、築造できる基盤がこの地区にあり、地区の有力者が(土木技術や知識を持つ)近畿地方などとの政治的ネットワークに参加していた可能性がある」と評価している
  • 香山神社 (高浜町)

    福井県の高浜町にある。

    境内に向って左右に、同規模の社殿があり、
    本社香山神社は右手(北側)の社殿。
    左手は、摂社・牛尾神社(天日槍命・八王子命)の社殿。
    両社の間をつないだ渡り廊下のような場所に、境内社が並んで祀られている。
    境内社は、右(本社側)から、夷(恵美須)神社、熊野神社、事平神社、荒神神社、瘡神神社、稲荷神社。

    香山神社・牛尾神社ともに拝殿は無く、

    創祀年代は不詳。
    当社社号「香山」は「カグヤマ」とも「カゴヤマ」とも読まれるらしい。

    社伝によると
    神武天皇の功臣天香山命を当地方開拓の祖神と仰ぎ、香山(加来)山の霊地に鎮め給うという。また、天香山命の後裔・若犬養宿祢の氏人が養老年間(717~723)、この地に氏神として奉祀したという。

    式内社・香山神社に比定されている神社で『若狭国神名帳』に「正五位 香子山明神」にある古社。高森に鎮座しており、高森乃宮とも称される神社。

    摂社・牛尾神社は、第十一代垂仁天皇の御代、渡来帰化した新羅国王子の天日槍命の末裔が
    始祖を氏神として、延暦十年(791)頃、当地に創祀したという。こちらも『若狭国神名帳』に「正五位 杜本明神」にある古社。

    暦応元年(1338)、神意によって丹後国大川十六所大明神、天日八王子御前、
    大和国吉野蔵王権現が高森に飛遷し給もうたので、翌暦応二年、右衛門中尉助教が社殿を改築。以後、香山神社を下社高森十六所明神社、牛尾神社を上社高森天日八王子社と称するようになった。後、明治五年、社号を現社号(香山神社、牛尾神社)に改称した。

    なぜ、本社・香山神社を下社と呼び、摂社・牛尾神社を上社と呼ぶのだろうか。
    香山神社が海側に、牛尾神社が山側にあるからだろうか。
  • 犬養部(いぬかひべ)を統率した伴造(とものみやつこ)に、県犬養連(こおりのいぬかひのむらじ/あがたのいぬかいむらじ)、海犬養連(あまいぬかひのむらじ)、若犬養連(わかいぬかひのむらじ)、阿曇犬養連(あずみのいぬかひのむらじ)の四氏が存在した事が伝わっている。

    古代豪族・犬養氏は、この伴造(とものみやつこ)でである。

    若犬養宿禰、火明命十六世孫尻綱根命之後.

  • 〈村、即本居の地也、此處に今も甚目といふ家三家あるは、即この同族の氏人なり、〉

    尾張醫師甚目連公冬雄等、同族十六人賜二姓高尾張宿禰一、天孫火明命之後也と、見えたるにてあきらけし、扨尾張氏の世系は、舊事紀天孫本紀に、始祖を天照國照彦天明櫛玉饒速日尊、亦名天火明命〈實は天火明命なるを、饒速日命の亦の名として、かく同神にしたる説は、上にいふがごとし、〉として、其子天香語山命、其子天村雲命、亦名天五多底、其子天忍人命、其子天戸米命、其子建斗米命、其子建宇那比命、其子建諸隅命、其子倭得玉彦命、亦名市大稻日命、其子弟彦命、其子淡夜別命、其子乎止與命、〈國造本紀に、尾張國造は、志賀高穴穗朝、以二天別天火明命十世孫小止與命一、定二賜國造一と見え、亦天孫本紀この命の條下に、尾張大印岐女子、眞敷刀俾爲レ妻生二一男一などもあり、かゝれば古事記傳に、この命や尾張の國に、此氏人の住しはじめ也けむとあるも、げにさる事也、式帳に見えたる、愛智郡上知我麻神社は、此命を祭るといへり、又美夜受比賣命は、この命の御むすめ也、〉其子建稻種命、〈此命の御名は、古事記に建伊那陀宿禰とあるによりて然よむべくおぼゆ、日本武尊の東國を討玉へる時、供奉に從奉りて、駿河の海にて身まかり玉ひき、〉其子尻調根命、〈この命の尻調二字を、舊事紀に尻納、または尾綱ともかけるに見なれて、古事記傳及荏野册子に、尻綱根命とし、熱田尊命記集説、本國帳集説、尾張式内神社考證等には、尾綱根命とかけり、こは皆舊事紀今本の誤字に心づかざりし誤なり、古事記に、尾張連之祖伊那陀宿禰之女、志理都紀斗賣と見え、姓氏録に若犬養宿禰、火明命十六世孫、尻調根命之後也とあるによりてあらためつ、〉其子尾治弟彦連、其子尾治金連など、已下繼々に皆尾治某連とあり、〈續紀の文武紀にも、尾治連若子麻呂牛麻呂などあり、尾治といふ文字用は、當時の書ざまなるべし、〉また尻調根命の條に、品太天皇御世、賜二尾張連姓一とあれば、始め乎止與命も、國造の如くにて尾張に住るが〈たゞし此氏人の、葛城よりはじめて尾張に下り住しは、此命より今すこし已前ならむとおもふよしあれど、決ては言がたし、又日本武尊の下來坐し時に、既に此國にこの氏人の有つるを思ひて、國造に任ぜられしことの、志賀高穴穗朝とあるは、時代たがへりと、古事記傳に言たれど、必國造に任ぜられて、其國に下るにはあらず、もとより本居の其國人を、其國造に任じ玉へるぞ大方の例なる、されば乎止與命も、はやくより此國人なりつらむを、志賀穴穗朝に至りて、國造にめされしなるべし、〉其孫尻調根命に至りて、尾張連といふ姓を玉ひし也、かくて乎止與命の子孫、世々繼々に廣ごりて、國造及郡司、大領、小領などにもなりて、國中諸郷に住り、〈熱田大宮司千秋家の遠祖、及神官田島馬場などいふ家も、並此尾張氏也、〉其住處の明に物に見えたるは、熱田縁起に、日本武尊云々、到二尾張國愛智郡一時、稻種公啓曰、當郡氷上邑有二桑梓之地一、伏請大王税駕息之とある氷上〈今知多郡に屬る大高村是なり〉をはじめ、中島郡小塞〈今葉栗郡なる尾關村也、延暦元年十二月、内掃部正外從五位下小塞宿禰弓張に、尾張姓を賜へる事、續紀に見えたり、〉海部郡甚目など、其餘も猶あるべし、また山田郡小針、春日
  • 尻綱根命(しりつなねのみこと)・尻調根命(しづきねのみこと)
    建稲種命の息子。志理都紀斗売の兄で尾張針名根命の父。
    「尻」は針綱神社の「針」であり、尾張氏の「尾」である。

    志理都紀斗売(しりつきとめ)・尻綱真若刀婢命(しりつなまわかとめのみこと)
    美夜受比売の姪で、建稲種命の娘。
    12代景行天皇と八坂入姫命の子の五百城入彦命の妃となり、品陀真若王を産んだ。

    品陀真若王(ほんだのまわかのみこ)
    志理都紀斗売と五百城入彦命の子。12代景行天皇の孫。
    16代仁徳天皇の外祖父に当たる。
  • 平城京、平安京には重要な門として十二門が在る。「天子は南面す」とされ、宮城の正門となる南の大門は都大路(朱雀大路)に向かって建ち、この「重閣門」は大伴氏が守備して「大伴門」と呼ばれ、宮城の西側中央部に「藻壁門」が在りこの門は「佐伯門」と呼ばれた。久米氏から出た山部連は「陽明門」(近衛御門)、「美福門」は大伴氏の壬生連氏が守備したと云われる。この他、葛城臣氏の的臣氏(イクハオミ)は「郁芳門」(大炊御門)、玉手臣氏は「談天門」、倭建命後裔の近江の建部君氏は「待賢門」、海神氏族系若犬甘(若犬養)連氏は「皇嘉門」、伊福部(五百木部)連氏は「殷富門」、丹治比(蝮王、丹比)連氏は「達智門」、猪使連氏(安寧天皇後裔)は「偉鑒門」、海犬甘連氏(海犬養連氏、安曇連支属)は「安嘉門」を守った。「朱雀門」を入ると「応天門」「八省院」「大極殿」「内裏」と続く。
  • 前者が丹波の支配者、海部の系譜で、後者は葛木高尾張にいた、尾張氏の系譜である。ところがこの二つの系譜は、建田背命(たけだせのみこと)、以降ふたたび同じ系譜をたどる。
    尾張氏の傍流である倭宿禰が丹波の当主となる。その後笠水彦、笠津彦と続くが、丹波の当主はふたたび、尾張氏本家とも云うべき建田背命となる。
    したがって建田背命、建諸隅命(たけもろずみのみこと)、倭得玉彦命(やまとえたまひこみこと)は尾張氏の当主であると共に、丹波海部の当主でもある。そのためこれらの人物は、尾張氏と海部の両方の系譜に当主として登場する。

    旧事紀
    天香語山命は異母妹の穂屋姫命を妻とし、一男を生む。

    孫の天村雲命[亦の名は天五多底]この命は、阿偁良依姫を妻とし二男一女をk生む。

    三世の孫の天忍人命。この命は、異母妹の角屋姫亦の名を葛木出石姫を妻とし、二男を生む
    次に天忍男命。この命は、葛木土神剣根命の娘の賀奈良知姫を妻とし二男一女を生む。
  • 馬見神社と日若神社

    参考 http://lunabura.exblog.jp/14704338/

    馬見物部氏が天皇家の祖先を祀り続けていて、
    神武天皇が古遠賀地方にやって来た時に迎えに行って、
    馬を提供して家に連れて行って、馬見神社まで案内したという事です。
    神武天皇は東征の準備のためにやって来たと推測しました。

    八剣神社ではヤマトタケルに行宮(あんぐう)を建てて援助しています。
    この古物神社では、仲哀天皇と神功皇后を留めています。

    これらはすべて戦争がらみなので、天皇家は物部氏に対して、
    船、馬、武器、武人などの軍備を要請したと思っています。
  • 楯原神社
    大阪府大阪市平野区喜連6丁目に鎮座する
    祭神は、武甕槌命と大国主命

    『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「楯原社」がみえます。

    社伝に、崇神天皇の治世六年、当地の国造・大々杼名黒が国造館に奉斎していた国平大神と武甕槌命を同床共殿に祀るのは恐れ多いので、別殿を造営するよう詔を受けたことにより、武甕槌命を楯之御前社、国平大神を鉾之御前社としたのが創建といいます。 神功皇后の時代に、楯之御前社の社号を楯原神社に改めたとされます。

    武甕槌命は神去る際に孫の大々杼命へ、自らの佩剣を霊代として祀るように命じ、子孫の大々杼彦仁は神武東征にあたって、神宣によりその十握剣を持って熊野へ赴き、これを奉ったため大和平定の功が成ったといいます。
    彦仁は功績により大々杼国造に任じられ剣臣の名を賜ったとされますが、古代史上にはこのような国造の存在は確認できません。
    武甕槌命の佩剣が熊野に天降り、高倉下を経て神武天皇に献上される話は『記』『紀』に見え、石上神宮の古社伝、もしくは物部氏伝承を原資料とすると見られますが、これを元に改変したか、異を唱える内容といえます。
  • 天神社は、孝元天皇が大々杼彦仁の家に楯及鉾の御前社を拝しに来られた時、御真像を彫りこの郷に祀っていたものです


    大々杼名黒は、仲哀天皇の皇后息長帯女命は三韓御親征の時、お告げを伝えたところ、軍事がうまく行ったので、摂政は住吉御幸の時、楯の御前社と鉾の御前社の神籬を立てて祭られました。(これが住吉神社に其の社のある所以です。)皇后は楯の御前社と鉾の御前社に参拝し、その折、楯の御前社を改め、二柱の大神を楯原神宮と称し奉ることを奉告されました。

    本来の楯原神社は、付近にあった天神社を合祀し、また後に菅原道真を合祀したころから、天神社または天満宮と呼ばれるようになっていました。
  • タカミムスビの神
    古事記に書かれています。
    (タカミムスビ神=高木神)
    イワレビコの命が熊野の村に着いた時に大きな熊がほのかに、ふっと出て来て、そのまま消えてしまいました。すると、イワレビコの命は急に疲れてしまい、また率いていた軍勢も皆疲れて倒れてしまいました。

    この時、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持って、天つ神の御子が倒れている所にやって来て、その太刀を献上しました。

    すると、イワレビコの命はすぐに目が覚めて起き上がり、「長く寝たなあ。」と言われました。そして、その太刀を受け取ると、その熊野の山の荒ぶる神はひとりでに皆切り倒されました。すると惑わされて倒れていた軍勢も、みな目が覚めて起きました。

    そこで、イワレビコの命が高倉下に、その太刀を手に入れた事情を尋ねると、高倉下は、こう答えました。
    「こんな夢を見ました。天照大御神と高木の神の二柱の神が建御雷の神を召して、言われました。『葦原の中つ国はひどく騒いでいるようだ。我が御子たちが病んでいるらしい。その葦原の中つ国は、そもそもそなたが平定した国である。だから、そなた建御雷の神が天降りしなさい。』と。

    そこでお答えになったのが、『私めが天降りしなくても、その国を平定した太刀が有るので、その太刀を下ろすのがよろしいでしょう。』と。(この太刀の名は佐士布都(さじふつの)神と言い、またの名は甕布都主(みかふつぬし)と言い、またの名は布都御魂(ふつみたま)と言う。この刀は石上神宮にある。)

    そして、私にお告げになったのです。
    『この刀を降ろす方法だが、高倉下よ、お前の家の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れる。だから、縁起をかついで、朝、目を覚ました時に、一番最初に目に入るようにして、天つ神の御子に奉りなさい。』と。

    朝、目が覚めて、夢で教えられた通りに倉を見ると、本当に太刀がありました。だから、その太刀を持って献上しに参りました。」と高倉下は申し上げました。さらに付け加えて言いました。

    「その時、また、高木の神が教え諭された事には、『天つ神の御子を、これより奥の方には、入らせないようにしなさい。荒ぶる神がとても多い。今、天から八咫烏(ヤタガラス)を遣わす。その八咫烏が道案内をするであろう。それが飛び立った後から、行軍されるように。』との事です。」

    古事記
    イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、高千穂の宮で話し合いました。
    「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。
    そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

    そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年間滞在しました。さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。
  • 高倉神社(三重県上野市西高倉)
    祭神&祖神 高倉下命、倭得玉彦命
    社家 尾張氏
    創建は阿倍氏系11代垂仁天皇の御代、高倉下命の七世の孫である倭得玉彦命がこの地に住し、先祖を祀り、その氏神としたことに始まる。倉庫守護神として近隣の人々に崇敬されている。
    直ぐ近くには、阿倍氏の祖・大彦命を祀る、伊賀国一の宮・敢国神社(三重県上野市一之宮)があるのも興味深い。伊賀上野といえば、阿倍氏の支族である伊賀氏の本拠地だ。
    興味深いことに、同名の高倉神社が福岡県遠賀郡岡垣町にある。こちらは遠賀郡の総社で、祭神は大倉主神と菟夫罹媛(つぶらひめ)命を倭国の菟田(うだ・宇陀)の人・伊賀彦を祝としてこの地に祀らしめたことが、仲哀天皇(息長氏系14代)筑紫行幸の段に見える。
    初代祝(はふり・神主)は宇陀の「伊賀彦」。倭国の宇陀といえば、当に阿倍氏の本拠地・倉梯山の所在地であり、阿倍氏の支族に伊賀氏がいることから、伊賀彦は阿倍氏の人と考えられる。「倉梯」は高倉に架ける梯子(はしご)のことであり、何か関係があると思ってしまうのは私だけではあるまい。
  • 高倉下の子が天の村雲

    天五多底。天五多手。
    =天村雲命 また天五田根(あめのいたね)、 天五多手(あまのいたて)とも。
    タカクラシタとユリ姫 (イスキヨリ姫) の子。 
    アメオシヲの父。

    新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦、彌彦神社摂社、武呉 (タケクレ) 神社
    香川県高松市一宮町、田村 (タムラ) 神社
    徳島県吉野川市山川町村雲、天村雲 (アメノムラクモ) 神社
    京都府城陽市水主宮馬場、水主 (ミズシ) 神社
      

    ★『旧事』この命は、阿俾良依姫(アヒラヨリヒメ) を妻とし二男一女を生む。天忍人命、天忍男命、忍日姫命。
  • 秀真伝

    クシタマホノアカリは代嗣欲しさにアメミチ姫を娶るが、やはり子ができなかったので、アメミチ姫の兄・タクリの子であるタクラマロ=タカクラシタを養子とする。しかし后のハセ姫に憎まれ、アメミチ姫共々捨てられる。アスカを継いだニギハヤヒは、アメミチ姫を母として召すが、子のタクラマロは応じなかった。

    ナガスネヒコの妹ミカシヤ姫を后にしてウマシマチを生む。
    神武の東征に屈し神武に降伏。 
    後にウマシマチにより十種の神宝は神武天皇に捧げられる。

    タクリ (手栗彦命=カゴヤマ:アメミチ姫の兄)
    アメミチヒメ(天道日女命=クシタマ姫、アスカ君 (クシタマホノアカリ) の妻となって、子がなく、タカクラシタを養子に迎えるが、ハセ姫に疎まれて母子ともに捨てられる。ハセ姫はこの為、クシタマホノアカリの怒りを買い追放される。 
    クシタマホノアカリの死後、アスカを継いだクニテル・ニギハヤヒはアメミチ姫を母として召す。子のタクラマロは召しても来なかった。



    高倉下(タクリの子、タキコの孫に当たる)

    饒速日命(クニテル)
    ホノアカリムメヒトとタマネ姫の子。ニニキネとコモリの孫にあたる。斎名:クニテル(国照)。
    代嗣のなかったクシタマホノアカリの死後、アマテルの命でアスカ国を継ぐ(2代目カグヤマ央君)。

    火明命。 ホノアカリムメヒト
    ニニキネとアシツ姫の第一子。 斎名:ムメヒト。 
    二代目のハラ央君。


    櫛玉火明命。 クシタマホノアカリ
    オシホミミとタクハタチチ姫の長男。ニニキネの兄。
    斎名:テルヒコ。初代のアスカ央君。贈り名:アスカの神。
    ヒタカミで育つが、それまで中国の春日を治めていたヰチヂが老齢のため、オシホミミから三種、アマテルから十種を得て大和に下る。
    初めイカルガ宮、ついでアスカ宮に座す。フトタマとカグヤマツミが左右の臣を務める。
    スガタ姫 (スガタ娘) → ハツセ姫 (トヨマド娘) → アメミチ姫 (カグヤマツミ娘) と后を迎えるも実子はできなかった。
    アメミチ姫の兄・タクリ (カゴヤマ) の子のタクラマロを養子とするが、ハツセ姫に憎まれて追放される。 

  • タマネ姫。 (コモリの次女。 )
    ホノアカリムメヒトの内宮となり、クニテルとタケテルを産む。
  • 石上神宮

    記紀神話では、布都御魂剣は建御雷神たけみかずちのかみが葦原中国あしはらのなかつくにの平定に用いたとされる神剣である。神武東征の折、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、アマテラスは建御雷神を遣わそうとしたが、建御雷神は、「自分がいかなくとも、国を平定した剣があるので、それを降せばよい」と述べ、この剣を高倉下たかくらじの倉に落とし入れた。そこで高倉下は神武のもとにこの神剣を持参したところ、その剣の霊力で軍勢を毒気から覚醒させ、後の戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。

    社伝によれば、神武の治世にあっては、物部氏の祖と言われる宇摩志麻治命うましまじのみことがこの神剣を宮中で祭ったが、崇神天皇7年、勅命によって同じく物部氏の伊香色雄命いかがしこおのみことが現在地に遷し、「石神大神」として祀ったのが石上神宮の創建であるとされている。

    『日本書紀』は垂仁天皇26年秋8月3日、天皇が物部十千根もののべのとおちねに詔して、出雲国の神宝の検校を命じ、後に、石上神宮の神宝管理を任せたと記す。さらに、垂仁天皇39年冬10月には天皇の第2子の五十瓊敷命いにしきのみことが茅淳ちぬ(和泉の海)の莵砥うとの川上宮で剣一千口を造らせ、石上神宮に納めた。この後に、五十瓊敷命に石上の神宝を掌らせられたという。
  • May 2016 編集されました
    石上のフル遺跡
    布留川の両岸の石敷きの上から祭祀跡が見つかっており、そこから祭祀用土器や祭祀用玉、滑石で造られた剣形石製品などが多く出土している。特に注目すべきは、円筒埴輪10個分、朝顔型埴輪15~16個分の破片が見つかっている。通常、これらの埴輪は古墳の墳丘部に設けられて聖域を画すためのものだが、布留遺跡の中には古墳はない。そのため、祭祀の場所を囲うために用いられたようだ。しかも、この時期の埴輪としては穴が多いのが特徴で、段だらに赤とか白を色分けてしている。

    物部氏が軍事氏族であったことを示す遺品としては、1500年前の皮の中から鞘や柄など多くの木製の刀装具が60個出土している。その数は全国最多である。また、布留遺跡は、大量の管玉や滑石製の玉、ガラス製玉鋳型やかなさしを出土しており、玉造り遺跡としても有名である。さらに鉄滓や鞴ふいごの破片なども見つかっていて、鍛冶集団がいたことが分かる。

    鉄索財を飽地域から搬入し武器や農具の製館にあたって魅もたことがわかる。 地 区は 異 なるが、袖蓬内 (樋ノ下 20ドゥドゥ)地区で出丑した銑紺はその 証 左となるものである。 武器類は概ね4倣紀後半から6健紀前革ま管とみられる
  • 5ー6世紀のものが多い

    No. 資料名 時代 所蔵
    1. 布留(堂垣内)地区(1938年調査)出土遺物 5世紀
    2. 石敷遺構出土土師器壺、勾玉・臼玉/布留(堂垣内)地区 5世紀
    3. 布留(堂垣内)地区(1954年調査)石敷遺構出土遺物 5世紀
    4. 剣形石製品/豊井(宇久保)地区「土器溜まり遺構」 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    5. 豊井(宇久保)地区「土器溜まり遺構」出土遺物 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    6. 土師器甕/布留(西小路)地区土坑(L.N.22) 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    7. 剣形石製品/布留(西小路)地区土坑(L.N.22) 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    8. 布留(西小路)地区土坑(L.N.99)出土遺物 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    9. U字形鋤(鍬)先/布留(西小路)地区土坑(L.N.100) 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    10. 布留(西小路)地区土坑(L.N.100)出土遺物 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    11. 木製漆塗り把縁/三島(里中)地区 5~6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    12. 三島(里中)地区出土木製把 5~6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    13. 三島(里中)地区出土木製鞘・鞘装具 5~6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    14. 土師器高杯/杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区掘立柱建物1 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    15. 子持勾玉/杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区大溝 5~6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    16. 滑石・土製紡錘車ほか/杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区溝2 6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    17. 臼玉と玉原石/杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区竪穴建物11 6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    18. ガラス製小玉鋳型/杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区大溝ほか 5~6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    19. 鉄鉗・ガラス製勾玉、臼玉、玉原石/杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区竪穴建物群 6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    20. 砥石、鞴羽口、鉄滓/三島(里中)地区) 5~6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    21. 玉未成品、石核、?片/三島(堂ノ東・堂ノ西)地区 5~6世紀
    22. 杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区土坑出土土器 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    23. 火焔形透しの高杯/三島(里中)地区 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    24. 韓式系壺/杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区大溝 5世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    25. 韓式系甕/赤坂14号墳 5~6世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    26. 赤坂6号墳出土遺物 6~7世紀 埋蔵文化財天理教調査団
    27. 赤坂17・18号墳間の周溝出土遺物 6~7世紀 埋蔵文化財天理教調査団
  • 08/25編集されました
    天村雲命

    天隠山命は高倉下命とも言われ、神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て、後御子天五田根命と共に紀伊国より讃岐に渡らせられ山河を以って国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた。


    淡路島
    高倉山は、標高 266m の山です。県道 66 号線から望むことのできる淡路島北部の緑のランドマー
    クとなっています。
    山頂にある高倉神社の境内からは、大阪湾や播磨灘を一望することができ、特に日の出に色づく大
    阪湾は非常に美しい景観です。
    高倉神社は、古くから安産祈願の神社として知られ、現在も餅まきなど、地域の方に大切に守り育
    てられている神社です。

    書紀の応神天皇から允恭天皇までの記述を見ると、天皇家が淡路に海人族を擁していたことや淡路に狩場を持っていたことがわかる。

     淡路島の北部、西側の海岸線から3キロほど入った丘陵地に五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡がある。弥生時代後期の鉄器製造施設跡23棟から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。遺物として鉄鏃、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。また石槌や鉄床石、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物跡も発見され、これまでに発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては最大規模で、住居は少なく、鉄器の製造に特化した特異な遺跡である。神武王朝は淡路を支配下に置き、この五斗長垣内に鉄器製造工場を設けたのだ。九州での倭国との戦闘において証明された高い鉄器製造能力はここでも活かされたということだ。
  • 饒速日命の孫を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県吉野川市) | 妄想の阿波古代史 - 楽天ブログ
     天村雲命は,ニギハヤヒノミコトの孫で,天香語山命又名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)と穂屋姫(ほやひめ)の子である。阿俾良依姫(あいらよりひめ)を妻として,天忍人命(あまのおしひとのみこと)天忍男命(あまのおしおのみこと)忍日女命(おしひひめのみこと)を生んだ。又の名を天五多手(あめのいたて)という。
     天村雲命は,
    (1)ニギハヤヒノミコトが大倭国に天降るときに防御の人として高皇産霊神に使わされた三十二人の内の一人。「先代旧事本紀」
    (2)ニニギノミコトに命ぜられて高天原から水の種を持ち帰った。それが天真名井である。その功績として,ニニギノミコトより天二上命,小橋命という名を賜った。

     
     天村雲命は又の名を天五多手(あめのいたて)という。麻植郡には忌部郡と射立郡があり,天村雲命の名に通じる。ニニギノミコトより小橋命という名を賜ったことになっている。「小橋」と言えば,ニニギノミコトの三世孫の神武天皇は,日向時代に,阿多小橋君の女の阿比良比売を妻としている。ニニギノミコトは,ニギハヤヒノミコトと兄弟だから,ニニギノミコトが天村雲命に小橋命という名を下賜したとき,天村雲命はまだ若かった。小橋命とよばれた天村雲命の孫あるいはひ孫が阿比良比売で,ニニギノミコトの三世孫のカムヤワトイワレヒコに嫁いだとしても不思議ではない。天村雲命の妻の阿俾良依姫と阿比良比売の名にも共通性を感じる。
     天村雲神社や同じく式内社の伊加々志神社を探しているとナビに「雲宮」とか「天王原」とか何やら意味ありげな地名が見えてきた
  • 天村雲と天香山の兄弟。

    アメノカグヤマには、『先代旧事本紀』によれば「高倉下命」(たかくらじのみこと)という別名を持ちますが、『勘注系図』系図上では「熊野高倉下命」となっておりますが、『記紀』では「武甕雷神」から預かった「ふつのみたま」の剣を、神武天皇に渡した人物が「熊野高倉下」(『古事記』では単に「高倉下」)であり同一人物。

    海部氏の「本系図」は、始祖火明命から三世孫倭宿祢の間、二代が記載されておらず、ここに天村雲兄弟が位置する。どちらかの子が倭宿禰である。
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