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和邇氏から分かれた族として春日・小野・柿本・大宅・栗田などの諸氏の名が あり、その本拠は奈良盆地の東北、山の辺の道の天理市和邇と考えられます。
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御祭神 阿田賀田須命 市杵嶋比賣命
境内式内社 大和國添上郡 和尓下神社二座
春日社および八幡社
式内社・和尓坐赤坂比古神社に比定されている古社。神亀元年(724以前から神戸が与えられたという
添上郡屈指の大社であり、三代実録にも「従五位下和爾赤坂彦神」と記載され、延喜の制においても、大社に指定されている神社。
『日本書紀』の神武天皇即位前年の箇所に「和珥の坂下に居勢の祝(はふり)という者がいる」とある
崇神天皇十年に武埴安彦の謀反を討つために大彦命が派遣され「和珥の坂に到着した」とある。
さらに大彦命と和珥氏の祖・彦国葺が派遣され忌瓮(神祭りに用いる酒などを入れる容器)を
和珥の武鐰(すき)坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦ったとある、和珥の坂、和珥の武鐰坂は、当社の赤坂のことらしい。
「和尓坐赤坂比古神社」とは和爾に鎮座する、和珥の坂の男神を祀る社ということだろうか。
当社は横穴式古墳の上に鎮座しているとも伝えられている。また、当初は和爾氏の同族・小野氏の氏寺である願興寺(廃寺、当社の東数百mに寺跡)の近くにあったとも伝えられている。
『式内社の研究』において、志賀剛氏は、当社境内の春日社および八幡社が式内社・和尓下神社二座であるとする。つまり和邇地区を上下に分けた、上和邇に当社・和爾坐赤阪比古神社があり、下和邇に和尓下神社二座が存在したと考え、下和邇の西部、谷脇寺付近にあった春日社と、下和邇の東部、太子堂付近にあった八幡社がそれに相当するらしい。この二社は大正八年、当社境内に移築されたという。
「(素盞鳴尊の)八世孫 阿田賀田須命 和迩君等の祖」
とあり、新撰姓氏録(815)には
「大和国神別(地祇) 和仁古 大国主六世孫阿太賀田須命之後也」
とある(両資料間で世代が一代違っている)。
これからみると、和爾氏は阿田賀田須命を祖とする出雲系氏族で、その一族に和仁古(ワニコ)氏があったとなるが、管見した和爾氏系譜に和仁古氏の名はみえず詳細不詳(九州肥後国に進出した和邇氏が和仁古氏を称したという-ネット資料・九州の人々)。
なお、姓氏録の河内国神別(地祇)・宗形君の項に、「大国主命六世孫吾田片隅命之後也」とあり、この吾田片隅命を阿田賀田須命と同一人物とする資料は多い(オオクニヌシ6世の孫という系譜、読みの一致からか)。とすれば、和爾氏(和仁古氏)と宗形氏とは同族となり、和爾氏は宗形氏と同じ海人族出身とする説があるのは、是によるものであろう。
古事記に、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・・・(和爾16氏)の祖なり
書紀 に和珥臣らの先祖
新撰姓氏録に
・左京皇別 大春日朝臣 孝昭天皇皇子天帯(足)彦国押人命より出ず
・右京皇別 和迩部 天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後也
・大和国皇別 柿本朝臣 大春日朝臣同祖 天足彦国押人命の後也
「大彦命と和珥氏の先祖・彦国葺を山背に遣わして埴安彦を討たせた。・・・」
とあるのみで、それよりも歴代天皇の外戚という色彩が強く、書紀によれば、開化・応神・反正・雄略・仁賢・継体など6人の天皇に妃を出したとある。
これらからみると、和爾一族の盛期は4世紀から5世紀にかけてと思われ(その後は春日氏など幾つかの氏族に別れている)、遅くとも5世紀後半頃には、当社の前身となる祭祀施設(神社の形態があったかどうかは不明)があったのではないかと思われる
橋本市胡麻生238
住吉大社神代記
住吉大社神代記に記されている丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を鎮めたとある社の後裔とされているが、住吉大社神代記は平安前期以降の偽書と言われている。
船木氏が神職をつとめていた住吉大社は、息長足姫と密接な関係があり、意気続々流は息長足姫を連想させる。また船木氏は伊勢の出で三重県多気郡多気町大字仁田156に佐那神社があり「天手力男命」を奉じていた。 これらを組み合わして題名の神名を構想したようである。まさか冗談でこんな神名を記すことはないだろうから、本気でやったのだろうが、こんな神名が通用したのか、それとも区切って記したのがいつの間にか一本になってしまったか、と言う名である。
丹生川の川上には富貴、筒香と言う地がある。タタラのフキの富貴は丹生都比売を鎮め祀った藤代の峯があるとされている所で、筒香は「つつ」が住吉の祭神を連想させるのも不思議である。
丹生川の川上は赤土の地で水銀や褐鉄鉱が出ていたようで、鉄が作られていたかもしれない。鉱脈が尽きたのか丹生都比売も播磨へ遷っているが、鉄を取る役割の船木氏も播磨へ移っている。 なお、丹生都比売は播磨から、筒川に奉じられたと播磨風土記の記載されており、本家は播磨との主張である。
紀伊續風土記 巻之四十五 伊都郡 相賀荘 胡麻生村から
○八幡宮 境内周五町
本 社 方三間
攝 社 若宮八幡宮 高良大明神 相殿 熊野三社権現 住吉大明神 牛頭天王
權五郎宮 三尺 二尺
拝殿 鐘楼 寶藏 鳥居
村中にあり 胡麻生橋橋谷慶賀野柱本馬塲細川上下妻古佐田橋本小田原等十一箇村の氏神なり 按するに本國神名帳に天手力雄氣長足魂住吉神あり即八幡宮なるへし 境内も廣大に社殿も壮麗にして荘中の大社なり 此神社三神合殿に祭れるを以って神名帳には神名をならべ奉しに今八幡宮と稱するは氣長足姫一座を指していひしより轉して世のく知る所の稱を取て略し唱ふるならん 寛文記雑記に石清水八幡宮を坂上人の勧請する由見えたり 正平二十一(1366)年の鳥居の額あり 表に八万大菩薩と記し裏に正平二十一年丙子六月日とあり 其頃坂上氏此地を領して社殿等壮麗にし神主別當等を置き石清水の祭式を又て神事を行ひしより終に古義を失ひしなるへし 其後文亀二(1502)年に坂上氏人再興す文亀の祭文に因る 天正九(1581)年春高野衆徒贄川氏を責る時當社を焼き拂ひ大に衰微に及ふ寛文雑記 其後天正十四年贄川氏の後裔贄川海部といふもの造営すといふ村民某の蔵むる文書 古は薬師堂楼門別當寺等もありしに天正以後頽廢して今礎のみ存す 又禰宣神主等神子等も昔は八人ありしに今は神主一人禰宣二人神子一人あり 寶庫に文亀二年永禄十二(1569)年の祭文を蔵む其餘行平の脇指小鍛冶の刀等の神寶あり 神主を神垣内氏といふ
内宮の二つある配神のひとつである。もうひとつは、万幡豊秋津姫。
「内宮はアマテラス(天照大神)を主祭神とし、相殿東にテジカラオ(天
手力男命、あめのてじからをのみこと)、西にトヨアキツヒメ(万幡豊秋
津姫命、よろずはたとよあきつひめのみこと)の二神を祀る。
外宮は、トヨウケ(豊受大神、とようけおおかみ)を主祭神とし、相殿
に「御伴神」(みとものかみ)を東に一座、西に二座の三座を祀る。」http://www2.plala.or.jp/cygnus/s10.html
手力男は、天照が隠れた岩戸を力ずくであけた神様です。万幡豊秋津姫とは誰なのでしょうか?このお姫様だけを検索すると、天照の長男、天忍穂耳の奥様です。普通は夫婦で祭るのが普通じゃないですか?要するに、内宮は天照の長男と奥様を祭っているのです。主祭神は天照ですが、この神様は対馬の辺りの海女族の地域神で、皇祖神として後に格上げされた、という象徴神であります。また「住吉神代記」には、手力男は住吉大神と同じようです。
参考)丹生川上天手力男意気続々流住吉大神
という事は、内宮は住吉大神とその妻を祭っている事になるでしょか。天手力男を遠祖にもつ船木氏との関連を説明しきれませんが一応記載しておきます。船木氏は伊勢に居住し、しばらくは津守氏と交代で住吉神宮を祭っていた氏族です。