垂仁天皇、野見宿弥 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 崇神ー仲哀
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野見宿弥
新撰姓氏録や続日本紀(天応元年六月条)によると、天穂日命(あめのほひのみこと)の十四世の孫であり、崇神紀六十年の条に出て来る飯入根(いいいりね)(甘美乾飯根(うましからひね))の子、鵜濡渟(うかつくぬ)(宇賀都久怒(うかづくぬ))の子である。

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  • 「古事記上巻系譜」では・

    建速須佐之男命-八島士奴美神(八島篠)-布波能母遅久奴須奴神(布葉之文字巧為)-⑤深淵之水夜礼花神-淤美豆奴神-⑦天之冬衣神-大国主神-⑨鳥鳴海神-⑩国忍富神-⑪速甕之多気佐波夜遅奴美神-⑫甕主彦

    富家が伝える系譜は・・
    諏訪家の祖、建御名方は、向家の祖、八重波津身(事代主)の子神。

    富家
    クナト大神-八島篠-布葉之文字巧為-⑤深淵之水夜礼花-淤美豆奴-⑦天之冬衣-八重波津身(事代主)-⑨鳥鳴海-⑩国忍富-⑬田干岸円味-⑮布忍富取成身-⑯簸張大科戸箕-弩美宿祢-飯入根
  • 次のようなものがあります。・・・『三輪山南東(初瀬の西方)には出雲という地名が残り、
    出雲国に出自をもつ野見宿禰(ノミノスクネ)の伝承地

    狭井川北方にも「出雲屋敷」という地名が伝承され、さらに三輪山北西にはかつて「出雲荘」という荘園があった。』・・・。
    野見宿禰の伝承で最も有名なのは、
    『垂仁天皇の命により、当麻蹴速(タイマノケハヤ)と角力(日本書紀では捔力)で互いに蹴り合って腰を踏み折って勝ち、当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えられ、朝廷に仕えました。』
    という伝承でしょう。ここから、野見宿禰は相撲の祖とされているのです。両国国技館の近くには「野見宿禰神社」があります。

    また、
    『野見宿禰は、出雲から100人の土器製作の工人を大和に連れてきて、垂仁天皇に、殉死の代わりに埴輪を埋めるよう進言し実現させた人。』・・・という話も有名です。ここから、野見宿禰は土師氏の祖とされています。その後、土師氏はいくつかに別れ有能な人々を輩出(はいしゅつ)しますが、菅原道真もその流れ、つまり野見宿禰の子孫とされています。

    野見宿禰が本拠地としたところは、大和の桜井市あたりだとされています。
    桜井市には、オオクニヌシの和魂(ニギタマ)を祭る大三輪(大神)神社があり、オオクニヌシは大和の神奈備山である三輪山に鎮座しているとされています。


    播磨が出雲と大和を結ぶ古道の通り道だったことは、「龍野神社の社域に野見宿禰の塚がある。播磨國風土記によれば、この地で野見宿禰が没し、出雲人達が、龍野神社のある的場山中に揖保川から人を連ねて石を運び宿禰の塚を築いたという。出雲人が野に立つ-立つ野-「龍野」、という地名由来である。」と指摘されることから分かります。
    つまり、野見宿禰は出雲国から垂仁天皇に召され大和に土地を得たばかりではなく、播磨を通って出雲と大和を行き来していたのです。

    野見宿禰が活躍したのは垂仁天皇の時代だということです。垂仁天皇と出雲のかかわりは、天皇の息子のホムチワケ皇子が大きくなっても物が言えず、天皇が皇子を出雲大社に参拝させたところ、その帰りに斐川の求院あたりで、白鳥を見て物が言えるようになったということです。そのお礼に、垂仁天皇は、出雲大社の大修繕を命じたとされています。

    垂仁天皇が野見宿禰を大和に招いたのは、出雲に力持ちがいると聞いて当麻蹴速(タイマノケハヤ)と力くらべをさせようといった単純なものではなく、もっと深い理由があったと考えられるのです。

    出雲の野見宿禰が、大和に招かれ、所領をもらい、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、土師氏は代々天皇の葬儀を司さどったとされる伝承は、野見宿禰が優秀だったと言うことだけではなく、出雲がいかに有力で優秀な国であり、大和は、埴輪作りのみならず、神祭りや、葬礼などといった出雲の文化を野見宿禰をつうじて受け入れたということではないでしょうか。
  • 崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
    崇神王朝は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝ともよばれている。水野祐は古王朝と呼称した。この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれることもある。この名称はこの時期に限られており、後代に贈られた和風諡号とは考えられない。
    崇神天皇の名はミマキイリヒコイニエ、
    垂仁天皇の名はイクメイリヒコイサチ
    である。他にも
    崇神天皇の子でトヨキイリヒコ・トヨキイリヒメなどがいる。

    イリは主として身分・祭祀を中心とした相続権に関わり、ワケは少なくとも初期では財産相続権に関わる制度であったと言えるであろう。
    垂仁天皇の時代、狹穂姫の生んだホムチワケにはワケの名号が与えられている。ワケの制度を採用したいま一つの、そして最も重要な理由は、領土の拡張にあると考えられる。

    垂仁期の拡張政策
    冬十月の乙卯の朔に、群臣に詔して日はく、「今反けりし者悉に誅に伏す。畿内には事無し。唯し海外の荒ぶる俗のみ、騷動くこと未だ止まず。其れ四道將軍等、今急に發れ」とのたまふ。丙子に、將軍等、共に發路す。
     十一年の夏四月の壬子の朔己卯に、四道將軍、戎夷を平けたる状を以て奏す。是歳、異俗多く歸て、國内安寧なり。[以上、崇神紀]

    拡張政策は応神期まで顕著である。
  • イリ王朝、ワケ王朝、継体以降の3王朝説

    水野は、古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、半数に満たない15代であることに注目し、その他の18代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘した。そして、15代の天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成して考察を展開した。仮説では、記紀の天皇の代数の表記に合わせると、第10代の崇神天皇、第16代の仁徳天皇、第26代の継体天皇を初代とする3王朝の興廃があったとされる。崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在し、現天皇は継体王朝の末裔とされている。

    影響力を持ったが、疑問視されている説である。
  • 岡田英弘の王朝交代説

    河内王朝
    播磨王朝
    越前王朝
    舒明天皇以降の、「日本建国の王朝」

    岡田は、雄略天皇に比定される倭王武が487年に中国の南朝宋に送った上表文にいう「祖禰(そでい)」を「「祖父である禰」の意味」だと解釈、禰(でい)を倭王武の祖父の名だと解釈した。岡田は、この解釈にもとづき、宋書にみえる倭の五王と『日本書紀』の歴代天皇を次のように比定している


    禰(仁徳天皇)┬賛(履中天皇)
           ├珍(反正天皇)
           └済(允恭天皇)┬興(安康天皇)
                   └武(雄略天皇)
    仁徳天皇以降を河内王朝としている。


    播磨王朝は、岡田英弘が提唱した日本古代史の時期区分の学説。
    播磨で「発見」された顕宗天皇・仁賢天皇の兄弟と、顕宗天皇の子武烈天皇の三代

    越前王朝は、継体天皇を初代とし、今上天皇まで至る現皇室の直接の祖とされる。
    中国資料『隋書』は、倭国を訪問した隋使裴世清が、「オホキミと号し、妃や太子がいる男王と会見した」と記録している。そこで、推古天皇、聖徳太子の実在に疑念を持ち、「推古天皇と舒明天皇の間に、もうひとつ皇統の断絶があるのではないか」と岡田は指摘している


  • 崇神天皇
    江上波夫は、この「ミマキイリヒコ」の「ミマキ」は、朝鮮半島最南部の任那(ミマナ)の「城」(シロ=キ)、すなわち「任那の城の王」を意味するとし、崇神天皇を、朝鮮半島を経て大陸から移動し日本列島を征服した騎馬民族の王だとした(騎馬民族征服王朝説)しかし「ミマ」「ミマナ」は古代日本語で「高貴な人」を意味する言葉でもあり、「ミマキ」と任那を結びつける実証性はきわめてとぼしい。現在では崇神天皇を大陸由来の人物とする江上説を信奉する人間はきわめて限られている。

    開化天皇の第二子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。

    御真津とは、御間城とは
    皇后:御間城姫(みまきひめ、御真津比売命) - 大彦命(孝元天皇の皇子)女
    皇子:活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、垂仁天皇)

    豊城とは
    妃:遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ) - 紀伊国荒河戸畔女
    皇子:豊城入彦命(とよきいりびこのみこと) - 上毛野君・下毛野君等祖
    皇女:豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと) - 初代斎宮

    八坂とは、ヌナキとは
    妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、意富阿麻比売・葛木高名姫命) - 建宇那比命女(『先代旧事本紀』天孫本紀)
    皇子:大入杵命(おおいりきのみこと、大入来命) - 能登国造祖
    皇子:八坂入彦命(やさかいりびこのみこと) - 八坂入媛命(景行天皇の皇后・成務天皇の母)父
    皇女:渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと、沼名木之入日売命)
    皇女:十市瓊入媛命(とおちにいりびめのみこと)
  • 景行天皇
    イリがある

    夫:景行天皇
    子:成務天皇・五百城入彦皇子・忍之別皇子・稚倭根子皇子・大酢別皇子・渟熨斗皇女・渟名城皇女・五百城入姫皇女・麛依姫皇女・五十狭城入彦皇子・吉備兄彦皇子・高城入姫皇女・弟姫皇女
  • 入彥五十狹茅天皇
    イクメイリヒコの「イクメ」は地名かと思われます。先代旧事本紀・天孫本紀などに「活目邑(イクメムラ)」という記述があります。
    崇神天皇(御間城入彥・ミマキイリヒコ)の「ミマキ」も地名なんでしょう。多分。よく「任那」の城が「ミマキ」で崇神天皇は任那から来た帰化人で朝鮮人だ!という説が見られますが、それは間違いでしょう。

    たくさんのイリ彦がいて、家族も国内ですから、居住地付近の地名でしょう
  • 播磨が出雲と大和を結ぶ古道の通り道だったことは、
    「龍野神社の社域に野見宿禰の塚がある。播磨國風土記によれば、この地で野見宿禰が没し、出雲人達が、龍野神社のある的場山中に揖保川から人を連ねて石を運び宿禰の塚を築いたという。出雲人が野に立つ-立つ野-「龍野」、という地名由来である。」
    と指摘されることから分かります。
    つまり、野見宿禰は出雲国から垂仁天皇に召され大和に土地を得たばかりではなく、播磨を通って出雲と大和を行き来していたのです。

    龍田神社
     奈良県生駒郡斑鳩町龍田。旧県社、聖徳太子が法隆寺を建立しようとして龍田明神(龍田大社)の神誨を受け、この地に堂塔を建立し、本宮の分霊を勧請し、平群郡神として祀られた。本宮に対して新宮、または新龍田ともいう。法隆寺から当社に別当坊を置き、例祭には三〇人の僧侶を供し、龍田三十講ともいわれたという。祭神は大社と同。例祭も同じく四月四日。
    -『神社辞典』-

    新竜田社 法隆寺の坤(南西)、六、七町の竜田町にある。
    祭神二坐 竜田彦神・竜田姫神 太子が法隆寺を建てる時、瑞見して(勝地を教え、守護神となる)神約があり、法隆寺の鎮守とした。
    -『和漢三才図会』-

  • タケミナカタが風神の性格を持つ神だったからだと考えられ
    ます。『古事記』ではタケミナカタが風神であるとは何らふれられていませ
    んが、古くから諏訪大社は風の神として信仰されてきたのです。

     『日本書紀』の持統天皇五年(691年)八月の記事には、

    「使者を遣わして、龍田風神、信濃の須波(すわ)、水内等の神を祭ら
    しむ」

    とあります
    龍田風神が奈良県生駒郡三郷町の龍田大社,
    須波は『延喜式』に見える諏訪郡の南方刀美神社、
    水内は健御名方富命神別神社に比定されています。

    龍田大社が風神を祀ることは、『日本書紀』の天武天皇四年(675年)
    四月の記事に、

     「小紫美濃王、小錦下佐伯連広足を遣わして風神を竜田の立野に祠らし
    む」

    と、あることからも明白ですが、
    天武四年に龍田大社が創建されたことを物語っています。
  • 健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)は、長野県長野市長野にある神社。式内社(名神大社)論社で、旧社格は県社。通称として「城山県社」「水内大社」「彦神別神社」とも。

    『延喜式』神名帳には信濃国水内郡に「健御名方富命彦神別神社 名神大」と記載されたが、その後所在がわからなくなっている。次の3社が論社とされているが、現在に至っても比定の決着はついていない。

    1. 健御名方富命彦神別神社 (長野県長野市大字長野字本城東2411、位置) - 旧県社、通称「水内大社」・「城山県社」。
    2. 健御名方冨命彦神別神社 (長野県長野市信州新町大字水内斉宮3154、位置) - 旧郷社、通称「水内神社」・「水内大社」。
    3. 健御名方富命彦神別神社 (長野県飯山市大字豊田字伊豆木原3681-1、位置) - 旧県社、通称「五束神社」。
    文献では、持統天皇5年(691年)に天皇の命で信濃国に「水内神」を祀らせたとする記述があり、これが文献上初見とされる。『延喜式』神名帳に「水内神」の記載はないが、健御名方富命彦神別神社が水内郡唯一の大社であることから、この「水内神」は健御名方富命彦神別神社を指すと考えられている。

    1は、善光寺東方の丘上に鎮座するが、明治11年(1878年)までは善光寺境内にあり「年神堂八幡宮」と称していた。延文元年(1356年)成立の『諏方大明神画詞』では、「年神堂が諏訪大社の分座であり持統天皇5年に記載のある水内神である」としている。また、江戸時代末期の『芋井三宝記』には「年神堂八幡宮は、風祭等の存在からして御年神でなく健御名方富命彦神別神社であり、当地に善光寺如来が来たため仏式になって神名を失い、八幡宮とも誤り称されるようになった」と記している。当地は科野国造・金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えられ、善光寺の位置からは善光寺平が望めることから古社の所在地としてふさわしいと考えられている。なお、善光寺の大本願境内にあった斎藤神官家に諏訪社があったとされ、これが式内社後身とする説もあ



    創建は不詳。『延喜式神名帳』には名神大社として「信濃国水内郡 健御名方富命彦神別神社」の記載があり、当社はその論社とされている。現在に至っても比定の決着はついていない。

    明治11年(1878年)までは善光寺境内にあり「年神堂(歳神堂)八幡宮」と称していた。延文元年(1356年)成立の『諏方大明神画詞』では、「年神堂が諏訪大社の分座であり持統天皇5年に記載のある水内神である」としている。また、江戸時代末期の『芋井三宝記』には「年神堂八幡宮は、風祭等の存在からして御年神でなく健御名方富命彦神別神社であり、当地に善光寺如来が来たため仏式になって神名を失い、八幡宮とも誤り称されるようになった」と記している。当地は科野国造・金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えられ、善光寺の位置からは善光寺平が望めることから、古社の所在地としてふさわしいと考えられている。
  • June 2016 編集されました
    大枝神社(京都市西京区)
     阪急京都線・桂駅の西約4kmに鎮座する。
    桂駅西側のバス停から西5・桂坂中央行(時間2本)に乗車、桂坂口下車。すぐ横の交差点を西へ、府道142号線を約5分ほど行った右側(北側)山麓に鳥居が立つ。社名は“オオエ”と訓む。

    ※由緒
     創建由緒・年代等の詳細は不明だが、社頭に掲げる案内(大枝神社奉賛会)によれば、「康保4年(967)施行の延喜式には、神社の名前として『乙訓郡 大井神社』と記載されている。 現在の祭神は高美計神(タカミケ神)である。この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている」とあり、式内・大井神社の後継社と称している。

    新撰姓氏禄(815)に、
     「右京神別(天神) 大枝朝臣 土師宿禰同祖 乾飯根命七世孫大保度連之後也」
        (土師宿禰--右京神別 天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也)
    とある氏族で(渡来系氏族との説あり)、伝説的人物・野見宿禰(垂仁紀)を出した土師氏(ハジ)から別れたという。

     一族から桓武天皇の母・高野新笠(タカノニイカサ、?--790・光仁天皇中宮、母方が土師氏)が出るに及んで、続日本紀(797)桓武天皇・延暦9年(790)12月1日に、天皇の詔として
     「朕は即位して10年になるが、亡くなった人を追尊して称号を贈ることをしなかった。そこで、母方の祖父・高野朝臣乙継と祖母の土師宿禰真琴にそれぞれ正一位を追贈する。
     また祖母の氏である土師氏を改めて“大枝朝臣”とするように。・・・」
    とあり、同年12月30日条には、
     「正六位土師宿禰諸士(モロジ)らに『大枝朝臣』の氏姓を賜った。
     その土師氏にはすべてで四つの系統があり、中宮(高野新笠)の母親の家は毛受(モズ)の系統に属していた。そこで、毛受の系統の土師氏には“大枝朝臣”を賜い、その他の三つの系統の者には“秋篠朝臣”や“菅原朝臣”を名乗らせた」
    とあり、桓武の母・高野新笠が出た系統が大枝氏という。
  • 野見宿禰神社 (兵庫県たつの市)

    出雲墓屋伝承地に建てられ、神社敷地内に野見宿禰の塚がある。龍野公園内にある境内には明治大正時代の力士84名および行司が寄進した玉垣が残る。この地で病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされている。

    野見宿禰は力士の始祖と伝える人物。『日本書紀』によると,強力を誇る当麻蹶速に対抗できる者として出雲国から召し出される。そして勝利し、大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられました。また、,埴輪を考案して殉死の悪習に代えて墳墓に立てることを提言したともいわれています。
    皇極天皇元年(642年)百済(くだら)の王族の使者をもてなすため、健児(こんでい)に相撲を取らせたことが 『日本書紀』 に書かれています

    石の扉には、野見宿禰と関わりのある出雲大社千家氏の家紋が刻まれています。
  • 野見宿禰の古墳
    的場山のふもとに整備された公園から、山腹を巻くように続くなだらかな山道を登ると、10分ほどで野見宿禰墓の下に着く。そこからは、石積みの長い階段を登らねばならない。息を切らして上り詰めた場所が、野見宿禰墓と言われる古墳である。古墳の前には、鳥居と石作りの扉があり、周囲には山道が巡っていて一回りすることができる。この山道が古墳の形を忠実になぞっているならば、野見宿禰墓は円墳ということになりそうだ。古墳の背後からのびる道は、的場山への登山道である。
  • 『古事記』では師木の玉垣宮、『日本書紀』では纏向の珠城宮にて統治された。

    『古事記』では、垂仁天皇は、 沙本毘古命の妹・佐波遅比売命(沙本毘売命)を娶って、品牟都和気命を生んだ。沙本毘売命は、兄・沙本毘古命の謀反により兄と共に亡くなった。
    また、丹波比古多多須美知能宇斯王の娘・氷羽州比売命を娶って、 印色入日子命、大帯日子淤斯呂和気命(のちの第十二代天皇・景行天皇)、大中津日子命、倭比売命、若木入日子命を生んだ。
    また、氷羽州比売命の妹・沼羽田之入毘売命を娶って、沼帯別命、伊賀帯日子命を生んだ。
    また、沼羽田之入毘売命の妹・阿耶美能伊理毘売命を娶って、伊許婆夜和気命、阿耶美都比売命を生んだ。
    また、大筒木垂根王の娘・迦具夜比売命を娶って、袁耶弁王を生んだ。
    また、山代の大国之淵の娘・苅羽田刀弁を娶って、落別王、五十日帯日子王、伊登志別王を生んだ。
    また、その大国之淵の娘・弟苅羽田刀弁を娶って、石衝別王、石衝毘売命(布多遅能伊理毘売命)を生んだ。
    印色入日子命は、血沼池・狭山池・日下の高津池を作り、鳥取の河上宮に坐して河上部を定め剣一千口を作らせて石上神宮に納めた。
    大中津日子命は、山辺之別・三枝之別・稲木之別・阿太之別・尾張国の三野別・吉備の石无別・許呂母之別・高巣鹿之別・飛鳥君・牟礼之別等の祖。
    倭比売命は、伊勢の斎宮。
    伊許婆夜和気命は、沙本の穴太部之別の祖。
    阿耶美都比売命は、稲瀬毘古王に嫁いだ。
    落別王は、小月之山君・三川之衣君の祖。
    五十日帯日子王は、春日山君・高志池君・春日部君の祖。
    伊登志別王は、伊登志部を定めた。
    石衝別王は、羽咋君・三尾君の祖。 布多遅能伊理毘売命は、倭建命の后となった。

    『古事記』では、沙本毘売命の遺言により美知能宇斯王の娘、 比婆須比売命(氷羽州比売命)、弟比売命、歌凝比売命、円野比売命を呼びだし、 比婆須比売命、弟比売命だけを留めて、あとの二人は醜いために送り返したとある。 円野比売命は恥じて、山代国相楽で自害した。

    『日本書紀』では、垂仁天皇は、 彦坐王の娘・狭穂姫を皇后とし、誉津別命を生んだ。誉津別命は大きくなっても物を言われなかった。
    狭穂姫は、兄・狭穂彦王の謀反により、兄と共に亡くなったので、丹波の五人の女を後宮に入れた。
    一番上は日葉酢媛といい、新たに皇后として、五十瓊敷入彦命、大足彦命(のちの第十二代天皇・景行天皇)、大中姫命、倭姫命、稚城瓊入彦命を生んだ。
    次は渟葉田瓊入媛といい、鐸石別命、胆香足姫命を生んだ。
    第三は真砥野媛といった。
    第四は薊瓊入媛といい、池速別命、稚麻津媛命を生んだ。
    第五は竹野媛といったが不器量のため里に返され、恥じて葛野で自害した。
    また、山城の苅幡戸辺を召されて、祖別命、五十日足彦命、胆武別命を生んだ。五十日足彦命は石田君の祖。
    また、綺戸辺を後宮に入れて、磐衝別命を生んだ。磐衝別命は三尾君の祖。
  • 大枝真妹の娘である高野新笠が,女御として朝廷に仕えたときには,平城京のすぐ西側に位置する菅原伏見に住んでいたといいます。菅原伏見といえば,野見宿禰が垂仁天皇から拝領し,土師臣の官職をいただいた由緒あるところ。つまり,土師氏の出発点は,ここ菅原伏見であること。ですから,野見宿禰を召し抱えた垂仁天皇の御陵は,ここ菅原伏見にあり,その名も「菅原伏見東御陵」と呼ばれています。近鉄西大寺駅から近鉄電車に乗って南に迎えば,唐招提寺や薬師寺の手前の右側に立派な御陵がみえてきます。
  •  東山粟田口の将軍塚

    写将軍塚青龍殿の大舞台から「糺の森」(ただすのもり) を望む。賀茂川がまっすぐに将軍塚の方へ流れてきています。
    高野川と合流してのち南方向へ流れが変わり鴨川となります。賀茂川と高野川の合流地点のすぐ北が下鴨神社です。

    将軍塚は、和気清麻呂が山部王(桓武天皇)をこの山上にお誘いし、京都盆地(山背国葛野郡宇太村)を見下ろしながら都の場所にふさわしい旨進言したと伝わる場所です。山部王(桓武天皇)は和気清麻呂の勧めに従って延暦十三年(794年)平安建都に着手されました。そして、平安京遷都後に桓武天皇は「山背」の呼び名を「山城」に変えました。

    山部王の母は、和乙継(やまとのおとつぐ)と土師真妹(はじのまいも)の娘・高野新笠(たかののにいがさ)。
    父は天智天皇の孫の光仁天皇。和氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族で、もとの氏姓は和史(やまとのふひと)。
    高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。
    「高野」は地名で、現在の「高の原」あたり、神功陵古墳がある。高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。
  • 『日本三代実録』 「能義神」の記載

    『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、延喜元年(901年)に成立した歴史書である。

    《卷十四貞觀九年五月二日庚子》○二日庚子。出雲國從五位下能義神。屋神並授從五位上。

    《卷二十貞觀十三年十一月十日壬午》○十日壬午。雷電。』授武藏國正五位上勳七等秩神從四位下。從五位下椋神從五位上。飛騨國正五位下水無神正五位上。出雲國正五位上湯神。佐往神並從四位下。從五位上能義神。佐草神。揖屋神。女月神。御譯神。阿式神並正五位下。從五位下斐伊神。智伊神。温沼神。越中國從五位下楯桙神並從五位上。(太字は 私)(八六七)

    貞觀9年(867年)に「從五位下能義神」、貞觀13年(871年)に「從五位上能義神」とある。この「能義神」が、能義神社の「野城大神」か、支布佐神社の「天穂日命」を表わしたものか、あるいは、切川神社の「野見宿禰」なのか、定かではない。


    能義神社の境内社に「野美社」がある。「野見社」とは書かずに「野美社」と書かれてある。
    これは、「能美」→「野美」ではなかろうか?ちょっと悩ましい表記だ。
            
    祭神は、時代によって変わるものである。現実の祭神をもって、歴史を語ることはできない。
    ただ、能義郡の地域も、出雲臣の勢力が強かった地域であることは間違いない。
    出雲臣といっても、おそらく一系ではなく、何系もあったと思われる。
  • 肥前国の能美郷の由来

    因幡国以外の能美郷には、どんな意味があるのか。『肥前国風土記』には、『能美』の由来が書かれている。

     "能美の郷。 郡の役所の東にある 昔、纏向の日代の宮で天下を治めになった天皇(景行天皇)が、行幸になった時に、この里に土蜘蛛が三人いた。兄の名は大白、次兄の名は中白、弟の名は少白である。この人らは、とりでを造って隠れ住み、降服を承知しなかった。そのとき、天皇の従者、紀の直らの祖先の穉日子(わかひこ)を遣わして、罰し全滅させようとなさった。それで大白ら三人は、ただ、頭を地につけて、自分達の罪を述べて、ともに命乞いをした。これによって能美の郷という。"(中村啓信 監修・訳注『風土記 下 』角川ソフィア文庫)
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