大伴家持 陸奥国出金詔書 久米御県神社 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
大伴家持 陸奥国出金詔書 久米御県神社 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み …

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コメント

  • 天平勝宝9年(757)1月、大伴一族にとって頼みの綱だった橘諸兄が74歳で没した。紫微内相に昇叙した仲麻呂の専横は目に余るものがあった。諸兄の子・橘奈良麻呂は反藤原の大伴、佐伯氏に呼びかけて仲麻呂暗殺計画を練った。その中心人物に叔父の大伴古麻呂がいた。しかし、その年の7月、計画が露見して関係者443人が逮捕され、厳しい処罰を受けた。橘奈良麻呂をはじめととする首謀者は、獄中でむち打たれ拷問に耐えきれず絶命したという。
  • 橘奈良麻呂の変では、大伴・佐伯氏の多くが連座しているが、なぜか家持は何ら咎めを受けた形跡がない。それどころか、事件の後、兵部大輔から右中弁に遷任されている。思うに、仲麻呂にすり寄って身の危険を回避したのだろうか。だが、位階は天平21年(749)に叙された従五位上のままだった。家持が次の正五位下に昇叙されるのは、宝亀元年(770)になってからで、実に21年後のことである。

    こうした事実から、藤原仲麻呂がいかに大伴宗家の家持を警戒していたか分かろうというものである。一族の将来を考えるなら、自分自身が反藤原勢力の先頭にたって仲麻呂追い落としを謀るべき立場にある。それができずに、方々の屋敷の饗宴に招かれて、家持は歌を披露している。彼にとって、そうした作歌活動は仲麻呂の対する目くらまし以外の何者でもなかったであろう。
  • 家持の最後の歌

    天平宝字2年(758)6月、家持は因幡守に選任された。太政官事務局の一つ右弁官局の次官の要職・右中弁から見れば、地方の国守への赴任は明らかに左遷人事だった。その屈辱を噛みしめながら、翌月には彼は都を落ちていった。そして、翌年の正月、因幡国庁の新年の賀宴に臨み、『万葉集』最後の歌を詠んだ。42歳を迎えた新年のことだった
  • その後の家持はさまざまな政争に関係するようになる。

    因幡から帰京した翌年の天平宝字7年(763)、藤原宿奈麻呂(のちの良継)、佐伯今毛人、石上宅嗣らとともに、恵美押勝(=藤原仲麻呂)暗殺計画に連座したため、現職解任のうえ京外追放に処せられている。

    天応2年(782)閏1月、氷上川継(ひかみのかわつぐ)の謀反に連座して左大弁兼春宮大夫を解任、京外追放となっている。嫌疑が晴れて元の官位に服したのは5ヶ月後。

    延暦4年(785)8月、家持は陸奥按察史鎮守将軍として東北に出征中に多賀城で没した。68歳だった。彼の葬儀は多賀城で盛大に執り行われ、家持は遺骨となって平城京に帰還した。その年の9月22日、長岡京で桓武天皇の第一の寵臣である中納言の藤原種継(たねつぐ)が何者かに射殺されるという事件が起きた。厳しい詮議の末、皇太子早良(さわら)親王を天皇に擁立しようとする一派の犯行と判明し、その陰謀に春宮大夫の家持も関係していたことが明らかになった。

    その結果、都に戻ってきた家持の遺骨は埋葬を許可されず、官位も姓名も剥奪された。家持の官位が元の従三位に復するのは、それから21年後の延暦26年(806)3月である。桓武天皇が病に伏し、その病気平癒のため延暦4年の事件に関わって罰せられた者を、生没にかかわらず元の位に叙すことを許したためである。
  • 大伴家持は万葉集の最後を歌を詠んでから更に26年も存命であった。

  • 19歳から42歳までの23年間数多くの歌を作り続けた『万葉集』最大の歌人が、その後の26年間歌を詠むことを自ら禁じたのは何故なのだろうか?
  • 大伴氏の姓(カバネ)は、古代氏姓制度での最高位である“臣”(オミ)とともに朝政に関与する“連”(ムラジ)であったが(雄略朝で大伴室屋が大連となって朝政を主導した)久米氏のそれは格下の“直”(アタイ、国造級に与えられる姓)でしかなかった。

     陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首に

       大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれて) 仕へし官(ツカサ、職柄) 海行かば水漬く屍(水びたしの屍) 山行かば草生す屍(草むした屍) 大君の辺(ヘ・お側)にこそ死なめ 顧みはせじ(後悔はしない) と言立て(誓って)・・・
    との歌を挙げ、
    大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれていることから、
     「家持ちが自家の祖先の名を取り違えたとは思われず、かかる名が大伴の遠い神祖の名でありえたのは、そもそも最初から久米氏が大伴氏に属していた消息を物語ってはいないだろうか」という(大意)。

     ただ、この西郷氏の論は、初期大和政権時代以降の史料によるもので(宣長がいう久米氏衰微以後の史料)、それ以前から久米氏が大伴氏に属していたことを証するものではないとも思われ、本居宣長説を全否定することには疑問があり、

    久米氏が、大伴氏の祖・道臣命が築坂邑を与えられると同時に、その近くの久米邑を与えられたのは、久米氏が大伴氏と並ぶ氏族であったことを証するともとれる。


     当社は、社名に“御県”(ミアガタ)を名乗るが、御県とは朝廷直轄地で、朝廷に蔬菜などを納める“吾が田(アガタ)”が転じて“ミアガタ”となったといわれ、後に行政区画の単位となり国県の県の字を充てたという(延喜式祝詞教本・1959)。
     その久米御県に守護神として鎮座するのが当社だが、日本の神々4(2000)は、
     ・延喜式に載る祈年祭(トシゴヒノマツリ、旧暦2月におこなわれた五穀豊穣の祈願祭)祝詞には、御県神社として高市(タケチ)・葛木(カツラギ)・十市(トヲチ)・志貴(シキ)・山辺(ヤマノベ)・曾布(ソフ)の6社がみえるが、当社の名はみえないこと
     ・延喜式神名帳で、これら6社はすべて大社として遇せられ、祭神一座であるが、当社のみは小社であり、しかも三座であること
     ・当社について、正史に神階・奉幣の記録が全くない
  • May 2018 編集されました
    久米寺
     縁起によれば、聖徳太子の弟・来目皇子による建立というが、これは寺格をあげんがための附会の説で、本来は、当地を本拠とする久米氏が氏寺(私寺)として建立したものという。
     当寺の建立時期は不詳だが、境内にある古い塔の址、出土した瓦の様式などから、奈良時代前期にはあったと推測されるという。

     のた、弘法大師・空海が若いとき当寺を訪れ密教教典である大日経を発見し、密教招来のための渡唐を決心し、また帰国後の空海が当寺に於いて弟子たちに密教教典を講義したともいう。

    開基は聖徳太子の弟に当たる来目皇子(くめのみこ)。薬師如来のおかげで眼病を治した皇子が、推古天皇2年、その功徳に感謝して当寺を創建したと伝えられています。

    一説には、古代ヤマト王権において軍事部門をつかさどっていた久米部の氏寺であったともいわれています
  • 大和国久米寺の住所にもなっている久米という地名。

    久米寺の本堂裏には、益田池に残る益田池碑があります。天長年間(824~834)、”朝廷の農業奨励を目的とする広大な貯水池を築造する” という旨の弘法大師空海の宸筆(しんぴつ)が見られます。久米川の曲流地には益田池の堤跡が史跡として残されており、水を貯めた場所が久米寺の近くにあったことが分かります。


    大同2年(807)、弘法大師空海が弟子たちと宝塔内において、初めて真言密教を宣布したことにより「真言宗発祥の地」とも言われます。空海は唐へ渡る前に、ここ久米寺で大日経を感得し、その後唐へ渡って密教を持ち帰り、真言宗の開祖となったいきさつがあります。
  • May 2018 編集されました
    聖徳太子の実弟
    久米寺の歴史を語る上において、来目皇子は欠かすことの出来ない人物です。久米寺創建にまつわる逸話をここに記しておきます。

    来目皇子は7歳の時、目の病に罹ってしまいます。

    兄である聖徳太子の薦めで、今の久米寺所在地において病気平癒の薬師如来に祈願します。そうすると、来目皇子の左手に如来が降臨し、その光に照らされた皇子の両目はすぐに治ったと伝えられます。完治した皇子は自らを来目皇子と称し、久米寺を建立したというエピソードです。

    「雄略紀」には既に、「来目水(くめかわ)」という記述が見られます。クメ・クマ・コメは古代においては同じ意味を持ち、「隅」や「曲」を表します。クメは檜前(ひのくま)川の曲流地の地形語ではないかと『奈良の地名由来辞典』にも記されています
  • 久米寺ゆかりの弘法大師空海

    若き日の空海は深い悩みの中にいました。
    あらゆる経典や書物を読みあさっても一向に満足することが出来なかったといいます。東大寺大仏殿に参籠した時、「願くは三世十方の仏達、我に不二を与え給え」と祈ったところ、夢の中に異人が出現します。

    「茲に経あり、大日経と名づく。これ汝が求むる所なり、大和の国高市郡久米寺の東塔下にあり」と告げられました。

    久米寺へ向かった弘法大師空海は、東塔心柱の下に経文を探り当てます。これこそが大日経であり、それまで抱いていた様々な疑問はこの経典によって解かれました。しかしながら、どうしても解けない部分があったため、それを解読するために入唐を決意したと伝えられます。
  • 久米寺山門近くに鎮座する久米御縣(くめのみあがた)神社。

    垂仁天皇27年紀に「是歳屯倉を来目邑に興す」とあり、かなり早期からこの地にあったものと思われます。江戸中期から明治初年にかけては、天神社・天満宮と呼ばれていた時期もありましたが、明治中期以降は、元の久米御県神社に戻っています。屯倉(みやけ)とは「御家(みやけ)」の意味で、朝廷の直轄領のことを指します。大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積していた倉を屯倉と言い、久米御縣神社の名前にもある「縣(あがた)」とも通じるものがあります。
  • May 2018 編集されました
    阿田都久志尼命。

    クシネがどこの県主にされたのか、ホツマツタヱには記載がない。記載がないのは、"記載する必要が無いほど当り前な場所" ということで、"橿原宮が所在する県" ということなのだと思われる。橿原市久米町に 久米御縣神社 があって、祭神の一人に「天櫛根命」という人がいる。これは「アタツクシネ」を指すと思われるので、クシネは久米県の県主だったと考えたい

    斎名:タタヒコ。アタツクシネは幼名という。
    クシミカタマとオオタの娘ミラ姫の子。
    タケヒトが大和を制圧した後に、県主にされた*。 
    神武の命によりオオミワの社を造り、即位前年の十月二一日にオオミワの神名備を祭っている。 
    カヌナカワミミ(綏靖天皇) のオオモノヌシ (剣臣)。
    カヌナカワミミよりオオミワの姓を賜る。 
    アウヱモロの娘ヌナタケ姫を娶り、イイカツとヌナソ姫を生む。 
    綏靖天皇の典侍・アダオリ姫の祖父。

    ーーー
    阿多根命。阿多振命。 
    カンミムスビの孫であるアメマヒ (アマメヒトツ) の曾孫。 
    神武東征中、丹生川端に別雷山の御祖神 (ニニキネ) を写して、これを三日間祭り(奈良県宇陀郡榛原町大字高井字神定、伊豆神社)、その後に敵を討伐する。 
    神武の即位式では、月の使い(月の臣)として、ヤタ鏡をタネコ(鏡臣)に渡す役を務める。 
    大和平定の功で、賀茂の県主になる。 
    タケヒトは御祖神 (ニニキネとウガヤ) を大和でも祭るため、アメトミをして賀茂の社を、ハリハラ(榛原)の鳥見山に写させる。同時にアタネを山背の国造にして、カモタケズミの政を継がせた。
  • May 2018 編集されました
    佐渡の熱串彦神社

    開基:社伝によれば開基は貞観年間(859~76)で、当初は長江山の中腹に鎮座し、「水の尾明神」ともいわれた。延喜式神名帳で「阿都久志比古神社」と明記。

     承久年間(1219~21)に焼失。現在の社は、正徳4年(1714)に建てられた。

    祭神:阿田都久志比尼命(あたつくしひねのみこと)。
    別名 天目方奇日方命ともいい、三輪君の祖で、更に下って大鴨積命(賀茂朝臣の祖)の系譜がある。

    資料:「カモ系図考察」http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html

    なお、「阿田都久志比尼命」は誤りで、阿都久志比古命とすべきだという説もある。(資料:「にいがた百景」
    http://www.niigata −u.com/files/ngt2006b/060310b1.html

    熱串彦神社・阿都久志比古神社という社名、阿都久志比古命・阿田都久志比尼命を祭神とする神社は、全国ほかには見られない。はっきりしていることは、延喜式神名帳(927年)に書かれている「阿都久志比古神社」は、熱串彦神社ということである。

     後世の者が、ツジツマが合うよう考え出すのは当然。祭神は、「阿都久志比古命」でなく、「阿田都久志比尼命」でないかと。 後者であれば、いろいろな文献から、天日方奇日方(あめのひかたしひかた)の別名で、系譜は後世は三輪氏、さらには賀茂氏へと繋がる。
  • May 2018 編集されました
    ニギハヤヒーー天日方奇日方命(カンドミラ媛)ーーアタツクシネ(綏靖の頃、大三輪の姓)ー、、ーオオミケヌシ(開化の頃)


    ニギハヤヒ命は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が、正式な御名。
    そして、御子の天日方奇日方命は、先代旧事本紀によれば、またの名、阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと)。「くし」が、大物主家出身の証拠と見る。

    ホツマツタエでは、アタツクシネ(天櫛根命)を、天日方奇日方命と日向カンドミラ媛の間に生まれた御子とする。
    カンドとは、大和入りした神武に代り、統治を託された代王。その血が、大物主家に入っている。

    天日方奇日方命の女(ホツマでは孫)ヌナソ媛は、 r3代安寧天皇の皇后となり、懿徳天皇を生む。

    ホツマツタエには、アタツクシネについて、「大三輪社を造り、神名備を祀る。
    大三輪の姓を賜り、綏靖の大物主となる」とある。

    一族は、大物主として代々務めるが、開化天皇の時、オオミケヌシ命が、イカガシコメの立后に反対し、宮中から追放されてしまう。しかし、崇神朝に、オオタタネコが大三輪社の祀りに復帰する

  • 和爾氏本拠地
    和爾坐赤坂比古神社
    奈良県天理市和爾町
    祭神「阿田賀田須命」

    阿田賀田須という人物、これ最後の大物主ですね。
    鴨王ことクシヒガタの5世代後の人物で、おそらくモモソヒメの亭主と言われるのもこの人でしょう。
    和爾坐赤坂比古神社の祭神「阿田賀田須命」とは大物主。
    鴨王ことクシヒガタの5世代後の人物。
    崇神時代にクーデターを起こされオオタタネコにとって代わられる。
  • アタカタス命。
    出雲の伝によれば、第6代オオナモチ(主王/帝王)八束水臣津野命の御子で、
    長じて北九州地方の統治を委任される形で宗像王家として分家独立。豊国の宇佐に都した。
    その初代となり、 いわゆる宗像三女神の

    長女の多気理媛命
    、、、(出雲第7代オオナモチ、天冬衣命に嫁ぎ、八重波津身(いわゆる事代主/スクナヒコな/大物主/ほか)ほかを生む)

    二女の多宜津媛命/神屋楯媛命/高津媛命(悲劇の大王后)
    、、、は出雲の第8代オオナモチ(神門)、八千戈命に嫁ぎ、
    高彦(阿知須気高彦)、神門美良媛命(八重波津身の御子、天日方奇日方命に嫁ぎ葛城族(神(カモ)族(王族を神族と奉り、神をカモと発音した))の祖。倭国第3代天皇(大王)の后の母)ほかを生む。

    三女のサヨリ媛/市杵島媛命は渡来人某(天皇家/物部王家の始祖)と政略結婚して、ホホデミとホヤ媛を生むみ天皇家の母系の大御祖大神(出身が出雲神族なので社殿他もそれ(出雲)に倣った形式)。
    (いわゆるイザナミ。コノハナサクヤ媛。豊玉媛。天照大神(荒魂)、、、弁才天(音韻と意味は玉依/サヨリ)媛と同じ)


    出雲の第8代スクナヒコ(副王の称号)八重波津身命(富家の当主)の御子らの内、
    母親が摂津三嶋出身の生玉依媛の生んだ、天日方奇日方。妹、媛踏鞴五十鈴日女。末妹、五十鈴依媛らが一旦は母親の実家の三嶋に寓居するも
    長じては葛城に移住して出雲の本家の富家に倣った登美家(鵄(金鵄、金鳥、金長)、飛鳥、外山、、、)と号して分家独立。
  • 天日方奇日方命の登美家を頼り、
    出雲の西の王家神門臣家の高彦(阿知須気高彦/第9代スクナヒコ)の御子の多岐津彦(祖母の多岐津媛の御名を継承?)ら出雲人らが 葛城に移住してきて葛城南部に定住化。高賀茂家と号して分家独立
  • May 2018 編集されました
    多賀大社
     万物創造の神として伝えられる、伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)の二柱を祭神としています。この二神は天照大神(伊勢神宮の祭神)の親神で「延命長寿の」神さまで、夫婦の道をひらかれた「縁結び」の神とされています。
     境内には、宝物殿をはじめ、太閤橋、寿命石、奥書院庭園などの多くの文化財や伝承を有してあります。

     お伊勢七度
       熊野へ三度
      お多賀さまには月まいり
     お伊勢まいらば
      お多賀へまいれ
     お伊勢お多賀の子でござる

    多賀大社 http://www.tagataisya.or.jp/

    胡宮(このみや)神社
     名神多賀サービスエリアより、美しい自然林を散策しながら訪れることもできます。
     桜や紅葉と四季折々の素晴らしい自然が境内を彩っています。
    伊邪那岐命(イザナギノミコト)
    伊邪那岐命(イザナミノミコト)
    事勝国勝長狭命(コトカツクニカツナガサノミコト)
    の三柱を祭神とし、青龍山には崇拝の起源であります「磐座(いわくら)」が現存し、境内へ小径が続きます。天台宗敏満寺(聖徳太子建立)と共に栄えました。

    ご由緒書を転載します。
          「当社は第三十代敏達天皇の勅願、或いは聖徳太子の創祠の仁祠、或いは
           多賀大社二座の一とも伝えられ、古くは青龍山頂の『磐境』信仰にその
           起源をなし、鎌倉時代の頃から敏満寺(天台)の鎮守の神として祀られ
           て来たのである。故に当社の沿革は敏満寺の歴史の中に伺われることが
           多く、また一方多賀大社との関係も深い。申すまでもなく御祭神は天照
           大御神の御親神にましますと共に我国の国土山川草木を生成し永く群品
           の始祖と仰がれ給うのである、この二柱の大神が青龍山の聖地に御鎮座
           になり、その神格よりして寿福の神、命乞の社として崇められ、建久の
           昔、かの有名な僧俊乗坊重源が東大寺再興の砌り当社に延寿の祈願をし
           たと云はれ、殊に童子を守護し給うとして赤染衛門が願文を奉ったと伝
           えられ、江戸時代には畏くも禁裡仙洞御所の御乳人が参詣せられ皇子皇
           女の御安穏を祈願され、又授子授産の神、鎮火の神として崇敬されてい
           る。当社戦国時代元亀天正の兵火に罹ったが、将軍家密に尽力により寛
           永十五年に復興した、江戸時代には福寿院が別当として奉仕し殊に安永
           より享和の頃声海世代の時には社運隆盛を極めた。」
      住  所:滋賀県犬上郡多賀町敏満寺
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