初めてですか? 参加するには、どちらかのボタンをクリックしてください!
香春神社は香春岳の一之岳の麓にある。709年に香春岳の三つの岳に祀られる神をここに合祀したものが始まりとされる。祭神は1,辛国息長大姫大自命(大目命とするものもある)、2,忍骨命、3,豊比賣命の3神である。
Read the full story here
コメント
「昔、新羅国の神が渡ってきて、この河原に住む。名づけて鹿春の神と申す」(「豊前国風土記」)、とあって、河の瀬が清かったので、「清河原の村」といったという。香春岳の山名由来である
五二代嵯蛾天皇の御代に伝教大師が七堂伽藍を香春岳山麓に建立し、国家鎮護と安寧の析願所として、これを賀春山神宮院と名づけた(「香春神社縁起」)といわれている。
香春は、往古には清河原と呼称していたが、平安のころには賀春に改められ、元和(一七世紀)の頃からいまの香春に転化したようである。
一ノ岳の辛国息長大姫大目尊とはどのような神か?「息長大姫」という一ノ岳の神名は、「延喜式神名帳」に「尊び称えたる御名なり」とあるだけで、また「大目」は考えずとあるから、この神の正体は不詳というほかはない。この神名と似た名に息長足姫命がある。人皇九代開化天皇四代の曾孫、息長族の王息長宿禰の女で、一四代仲哀天皇の妃となった神功皇后である。しかし「太宰管内志」では、「御名の似たるによって息長足姫の御事なりという説は慎しむべき虚事か」と疑問視しており、いまでも香春の神を神功皇后とする説は聞かれない。
いずれにしても新羅国から豊前国香春に渡来してきた新羅系秦氏(息長族もその一族)の集団が、故国で祀った神を住みついた香春の地に、再祭祀したものとしか考えられない。
ニノ岳の天忍骨尊は、英彦山の主神と同じ神で、「延喜式」では〃オシホミミ〃と訓じている。つまり天忍穂耳命(「記」)である
また三ノ岳の豊比口羊尊であるが、この神の神殿は、豊比口羊尊がのちに山麓の採銅所村に下って村の産土神となられたので空殿になってしまったといわれる。文永年間(1264-74年)の頃の「同社旧記」によると、豊比口羊尊(神社)はいまは三ノ岳の麓、中採銅所にある三カ村の産土神で、古宮八幡宮の神なり、とある。
また「古宮八幡宮縁起」には、三ノ岳の神を祀り、八幡宮は相殿なり。考えれば、上古には三神ともに山上に鎮座せりと聞く。三ノ岳の東麓に〃古宮の森〃という所あり、これは古宮八幡宮の旧跡という。
またここは、〃阿曾の隈〃のことであると述べるが、現在の古宮八幡宮の社は〃高巣の森〃といわれる所にあるという。この縁起のとおりなら、豊比口羊尊が三ノ岳から最初に遷座したのは〃阿曾の隈〃であったようだ。
いや身をきよめ ひとめの神にいく
いやつかつか まつりせぬはや
という歌がうたわれる。この歌の意味は不明であるが「ひとめの神」は一つ目の香春の神だろうと云われている。これらのことは拙著「青銅の神の足跡」ですでに書いている。
五世紀末に雄略天皇の許に医者として呼ばれた「豊国奇巫」は、587年に用明天皇の病床に呼ばれた「豊国法師」につながっている(呼んだのは蘇我馬子で、この年、神仏闘争が起きて、物部氏が滅ぶ)。前者の「奇巫」という呼称は中央政権が仏教を認識する以前だったからそう呼んだにすぎないだろう。後者の「法師」とは僧集団が豊前に居て、その中から「法医」として優れた者がわざわざ召し出されたと解すべきだろう。それに対して、当時、都の飛鳥にいた法師は高句麗僧・恵便ただ一人であった。
古代、物部氏を凌駕した蘇我氏は、武内宿禰の子・蘇我石川麻呂を祖とするが、その出自には謎が多い。 仏教擁護の蘇我氏(馬子)が用明天皇の面前で「詔に随いて助け奉るべし。たれか異なる計を生さむ」と言った時、 皇弟の穴穂部皇子が豊国法師なる人物を引いて内裏に入ってきたという記録がある。
この豊国法師とは、豊の国の法師であり、豊の国では、正式に百済から仏教が入って来る以前から仏教が伝わっていたと思われる。 つまり、豊の国は、当時、文化的先進地域であった。
また、用明天皇の名前は「橘豊日(タチバナノトヨヒ)」といい、豊後地方に用明天皇に関わる「炭焼き長者」伝承も残っている。
さらに、蘇我氏が絶頂期にあった六世紀~八世紀の天皇家には、
豊御食炊屋天皇(トヨミケカシキ:推古)
豊聡耳(トヨサトミミ:聖徳太子)
天豊財重日足天皇(アメノトヨタカラカシヒ:皇極、斉明)
天万豊日天皇(アメノヨロズトヨヒ:孝徳)
天之真宗豊祖父天皇(ヤマトネコトヨオオジ:文武)
日本根子天津御代豊国成媛天皇(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ:元明)
天国押開豊桜天皇(アマクニオシハラキトヨサクラ:聖武)など
多数の天皇・皇后・皇子の名に豊の字が用いられている。澤田洋太郎氏は、この「豊王朝」を「蘇我王朝」と見ている。
この鉱物を採掘した〝香春(かわら)〟には、現在も石灰石の採掘が行なわれている香春岳がありますが、かつて、このあたりから搬出された銅は、東大寺の大仏建立にも多く使われ、宇佐神宮に奉納する銅鏡を代々鋳造したという記録が残されています。
辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命 日本三代実録によると、豊比賣命を辛國息長大姫大目命としている。http://kamnavi.jp/toyo/kawara.htm
彩銅所に香春神社の祭神の豊比賣命を祀っていた元宮とされる阿蘇隈社の後裔の古宮八幡神社がある。 この地域の古来からの神は豊比賣命であるから、辛嶋氏が祀った神は豊比賣命であったろう。後世、秦氏がわざわざこの香春へ遷座させている所から見ると、豊比賣命こそ香春の最重要な神であったと思われる。
社頭説明では忍骨命を天孫の忍穗耳之命としているが、竜骨(石灰石)を示している神である。
三代実録には、豊比賣命を辛國息長大姫大目命としているが疑問である。韓国から渡来した金属精錬(息長)の女神で、天目一箇神と同じくか精錬にかかわる巫女神と言えよう。
辛國息長大姫大目命は、息長足姫(神功皇后)を連想させる名である。大目の目には目付、支配する者の意があるようだ。
第1座 辛 ( カラ ) 国 クニ 息 オキ 長大 ナガオホ 姫 ヒメ 大自 オホジ 命 ミコト
第2座 忍 ( オシ ) 骨 ホネノ 命 ミコト
第3座 豊比賣 ( トヨヒメノ ) 命 ミコト
当神社は前記3柱の神を奉斎せる宮祠にして、遠く崇神天皇の御宇に創立せられ、各神霊を香春岳上頂3ヵ所に奉祀せしが、元明天皇の和銅2年に、一の岳南麓に一社を築き、三神を合祀し香春宮と尊称せらる。延喜式豊前の国一の宮六座の内の三座なり。
2、祭神の御身分
第1座 辛国息長大姫大目自命は神代に唐土の経営に渡らせ給ひ、崇神天皇御代に歸座せられ、豊前国鷹羽郡鹿春郷の第一に岳に鎮まり給ひ、第2座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、その荒魂は第二の岳に現示せらる。第3座豊比賣命は、神代天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ、各々三神三峰に鎮座し、香春三所大明神と称し崇め奉りしなり。
3、御神徳
本神社御祭神の御神徳は、続日本後紀に記述セル、大宰府言上に明かにして、皇室・国司・郡司・百姓の崇敬、宇佐神宮と相並びて、偉大なりしを観れば、御神徳の鴻大なる、茲に人為を以て伝爲すべきに非ず。 (香春神社御由緒書きより抜粋)
採銅駅北6~700mの小高い所に鎮座している。祭神は都怒我阿羅斯等、三ノ岳麓の採銅所に鎮座している。祭神は天日鉾とも呼ばれ、また都怒我阿羅斯等とも呼ばれた、この新羅からの渡来系金属精錬集団の齋祀る神であり、彼らの足跡がここ香春に現人神社として残り、国東半島の東の姫島に、天日鉾の妻とされる比賣許曾神が祀られており、伊都国辺りから豊の国を通過し、瀬戸内海への拠点であったかも知れない。又同名の神社が筑紫郡那珂川町にもあり、祭神は住吉三神である。此の神社の由緒によれば、神功皇后の軍船の舳先に御代を現し玄海の逆巻く波風を鎮め、玉体を護り進路を導き無事凱旋せしめた神であるとも言われている。すなわち現人神の御鎮座の地を皇后自ら神告にてお知りになりいたく畏み奉られ、竹内宿禰をして当地に遣わし、現人明神の尊号を授けたという。又、敦賀の気比神宮にも都怒我阿羅斯等の伝説が有り、敦賀は都怒我の変節したものとも言われる神で日鉾伝説と重なりあう神である。香春になぜ渡来人は住みついたかを考えてみると、渡来人は金属精錬集団だけでなく、食糧確保の農耕集団、他からの集団を守れる戦闘武人集団、占星術や祭祀等のインテリ関係者などの人々の集団ではなかったと想定されます。玄界灘を渡り付いた所には、先人の渡来人がおり、内陸部へ異動する中で、三ノ岳山麓で、銅の鉱床が露頭していた幸運が金属精錬集団の目にとまった事だと思います。更に香春岳の三ノ岳・二の岳・一の岳の山麓は、開発が容易な水田棚田候補地であり、その麓の金辺川の河原も、集団が露営する適地だった思います。その外この地は、交通の要衝である事です
式内社 豊前國田川郡辛國息長大姫大目命神社
式内社 豊前國田川郡忍骨命神社
式内社 豊前國田川郡豊比咩命神社
旧県社 御祭神 辛國息長大姫大目命 忍骨命豊比賣命
福 岡県田川郡にある。香春一ノ岳の南麓に境内があり、境内入口は南向き。周辺はセメント原料採掘のためか哀れな姿に。境内入口の一ノ鳥居をくぐり、参道を進 むと二ノ鳥居、三ノ鳥居がある。緩やかに登る参道を進むと、回廊付き拝殿があり、その奥にも拝殿。拝殿の後方には流造の本殿が鎮座している。
官社に列したとき、三柱を一ノ岳麓の一社に祀られたと考えられており、社伝によると、和銅二年(709)、新宮として創立したとある。
一ノ岳の神は辛國息長大姫大目命。式内社・辛國息長大姫大目命神社に比定されている。
社伝によると崇神天皇の御代に唐より帰国し、香春一ノ岳に鎮座したという。
一名を新羅神ともいい、川原に来たために、香春神、鹿春神ともいう。
ま た、一説には新羅の皇子・都怒我阿羅斯等が追って来た、白玉から生まれた女神・比売語曽神であるという。また、一説には神功皇后のことであるという。二ノ 岳の神は忍骨命。式内社・忍骨命神社に比定されている。社伝によると、天照大神の第一皇子・天忍穂耳命であるという。三ノ岳の神は豊比咩命。
式内社・豊比咩命神社に比定されている。もとは三ノ岳の阿曾隈という所に、置絢子が祀っていたといい、後に「高巣の森」古宮八幡宮の地に移り、さらに一ノ岳麓に遷座した。
「豊比賣」といえば、通常、神功皇后の妹・淀姫をさすが、社伝には、「神武天皇の外祖母(母方の祖母)」とある。ということは、神武天皇の母・玉依姫と神武天皇の伯母・豊玉姫の母、玉依姫の父である豊玉彦の后ということになる。
「豊比賣」といえば、通常、神功皇后の妹・淀姫をさすが、社伝には、「神武天皇の外祖母(母方の祖母)」とある。ということは、神武天皇の母・玉依姫と神武天皇の伯母・豊玉姫の母、玉依姫の父である豊玉彦の后ということになる。
さらに、「住吉大明神の御母」とあるから、玉依姫達と住吉の神(三筒男)は兄弟となる。
福岡県田川郡香春町にある神社。式内小社、県社。
延 喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座だが、その半分にあたる三座が香春神社にある。(残りの三座はすべて宇佐神宮内)三座は、辛国息長大姫大目 神社、忍骨神社、豊比咩神社で、もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった。和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設したのが、 現在の香春神社。古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社だった。辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年 (843年)のことだったが、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早い
香春神社(福岡県田川郡香春町)近くの古宮八幡宮(福岡県田川郡)で火明命を降臨させ銅鏡を鋳造する
・豊日別宮(福岡県行橋市・草場神社)の人々が銅鏡を携え
・宇佐神宮に神幸する
・古要神社(大分県中津市)と八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町)が傀儡子舞を奉納
※記録上は、隼人鎮魂を目的としているが…実は、「海神」の後裔「豊玉姫=台与」の御霊の鎮魂の為に捧げられた神事ではないか?(関裕二説)
1.祭神及び創立
第一座 辛国息長大姫大自命(からくにおきながおおひめおおじのみこと)
神代に唐の経営渡らせ給ひ、崇神天皇の御代に御帰国、
香春一の岳に鎮まり給ふ。
第二座 忍骨命(おしぼねのみこと)
天照大神の第一皇子にして、二の岳に鎮り給ふ。
第三座 豊比賣命(とよひめのみこと)
神武天皇の外祖母住吉大明神の御母にして三の岳に鎮り給ふ。
当神社は前記三柱の神を奉斎せる神社にして、遠く崇神天皇の御宇に創立せられ、角神霊を香春岳山頂三か所に奉祀せんが、元明天皇の和銅2年に一の岳南麓に一社を築き、三神を合祀し、香春宮と尊称せらる。
延喜式神名張に在る、豊前一の宮六座の内の三座なり。明治4年9月、郷社に列せられ、香春神社と改称。明治6年7月15日県社に列せられ、今日に至る。
忍骨命の和魂は南山(彦山)に鎮まり、荒魂は二の岳(香春岳)に示現した。
(木村晴彦「香春・英彦山の歴史と民俗」)
忍骨命の荒魂(あらみたま)が二の岳に現れたということです。
和魂(にぎみたま)が「彦山」とありますが、「彦山」とは「英彦山」のことです。
どちらも、銅が採れたという
神武天皇の外祖母住吉大明神の御母にして三の岳に鎮り給ふ。
神武天皇の母は玉依姫。その母は「海神・豊玉彦の后」です。
その后の名前が豊比賣ということになります。
そして、その子供が住吉神ということになります。
豊玉彦は安曇族です。
豊比賣は住吉族だったのでしょうか。
住吉の神は現人神社に祀られています。
1313年成立の『宇佐託宣集』によれば、
「八幡神は天童の姿で日本の辛国の城に降臨し、そこは神武天皇再臨の蘇於峯(そほだけ)である」
とあり、「辛国の城」は、秦氏の神山である豊前の香春岳である。「蘇於峯(そほだけ)」の「ソホ」は、神の降臨する聖地を意味する。
新羅の始祖王赫居世居西干(かくきょせい きょせいかんは「ソフル」の聖林(ソフル)に、加羅の初代王首露王(しゅろおう)は「ソフル」である「亀旨峰(クジボン)」に降臨した。(この国の建国神話は日本の天孫降臨とよく似ている)
平安時代初期における香春神社の社格は非常に高く、現在豊前国の一宮は、一般的に宇佐神宮とされているが、古い資料の中には香春神社を一宮と記しているものもある。
香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏である。どちらも秦氏一族である。後者の「鶴賀」は「敦賀」と同音であり、その「ツルガ」とは書紀にある「オホカラの王子ツヌガアラシト」の上陸地(福井県・ケヒの浦)にちなむものである。その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意である(「アル」=「卵」とも考えられるが。後述)。秦氏も多く居住した敦賀には気比(けひ)社がある。八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この気比の神(イザサワケ)と名を交換し合ったという、紀記に載る意味深長な伝承もある
奈良時代末期以降は、宇佐八幡宮の大宮司は大神氏、少宮司は宇佐氏、禰宜(ねぎ:祈ぎ)・祝(はふり)は辛島氏に一応固定し、各氏が世襲した。ただし、その力関係は単純ではなかった
八幡神の降神秘儀と託宣は、本来秦氏の巫女の専儀であり、それが八幡宮の禰宜だった。だからこそ、八幡宮の三神職のうち、禰宜が最高職だったのだ。ところが、この頃までには大神氏がその禰宜職まで襲うようになっていた。和気清麻呂は道鏡事件で「大隈」へ配流となったあと召還されるが、773~4年には何と豊前国司に就いている。実はこのときに清麻呂が決めたのが、八幡宮の三神職の世襲なのだった
辛島氏は、宇佐郡辛島郷(宇佐神宮の西方近隣、駅館川下流西岸部で、宇佐市の辛島・樋田・中原の一帯)に起こり姓は勝(すぐり)で、宇佐氏(君、宿祢)、大神氏(君、朝臣)や田部(勝、宿祢)などと並ぶ古代宇佐神宮の有力祠官でした(宇佐四姓と呼ばれた姓氏は宇佐・大神・田部・漆島)。
辛島氏では、欽明朝に大神比義とともに八幡神を祀る宇佐八幡宮の祝になったという乙目をはじめとして、奈良時代頃までは波豆米や与曽女などが祢宜に任じたと史料に見えますから、その有勢ぶりがうかがわれます。ところが、宝亀三年(772)の阿古米が祢宜補任、その翌年の解任を最後に辛島氏の祢宜は終わり、その後も祝や惣検校などの神官としてあったものの、中世までには辛島氏は絶えた模様で、宇佐神官には見えなくなります。宇佐郡辛島郷にはその後、漆島氏(宿祢姓で、樋田などの苗字がある)が居住したため、両氏は一般によく混同されますが、本来別氏で、漆島氏は皇別で多臣一族と称した大分国造大分君の一族です。
こうした諸事情もあってか、その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残しております。五十猛神からつながる辛島氏の系譜は、宇佐関係史料や大分県史料集などに見えますが、祢宜に任じた女性を主体とする氏族のようで、系図の良本は伝わりません。現在に残るのはきわめて不完全であり、豊都彦・宇豆彦などの歴代の名前や続柄に様々な問題があるものの、それでも、その先祖を五十猛神とする所伝は正しいとみられます
福岡県久留米市田主丸町以真江地区は、別名があり『唐島』と謂います。バス停も『唐島』と有ります。此処には秋永氏=息長氏(家紋は丸に違い鷹羽)が十数軒程あり、百済25代武寧王は筑紫の各羅島=唐島で生れたとされる。
この神は英彦山に降臨した神として、福岡では知られています。
普通は忍穂耳命と書きます。
天孫降臨の神として最初に指名されたのですが、その子ニニギノ命に譲っています。
忍骨命が英彦山と香春岳に深く関わることを伝える文があります。
「香春神社縁起」によると(略)
忍骨命の和魂は南山(彦山)に鎮まり、荒魂は二の岳(香春岳)に示現した。
(木村晴彦「香春・英彦山の歴史と民俗」)
忍骨命の荒魂(あらみたま)が二の岳に現れたということです。
和魂(にぎみたま)が「彦山」とありますが、「彦山」とは「英彦山」のことです。
この縁起から英彦山と香春岳はセットで捉えられているのが分かります。
宇佐八幡宮で教えていただいたのですが、英彦山でも銅が採れたそうです。
この二山には「銅山」という共通点がありました。
忍骨耳が天孫降臨をニニギノ命に譲った事情を古事記から見てみましょう。
次はブログ『古事記の神々』で訳した「天の忍穂耳の命」の一部です。
天照大御神は、
「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の
長五百秋(ながいおあき)の水穂(みずほ)の国は
私の御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が治める国である。」
と命じて言われ、天忍穂耳命が天降りされました。
ーー
天忍穂耳命が答えて申し上げました。
「私めが天降りしようと支度をする間に、子供が生まれました。
名前は天ニキシ国ニキシ天津日高日子番(あまつひこひこほ)のニニギノ命です。
この子を降臨させましょう。」
この御子は高木の神の娘の萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきづしひめ)と
結婚して生まれた子供で、長男が天の火明命(あめのほあかり)、
次男が日子ホノニニギの命です。
こういう事で、天の忍穂耳の言葉が受け入れられました。
忍穂耳の命はニニギノ命に勅命を伝えて、
「この豊葦原の水穂の国はそなたが治める国であると言ってお与えになった。
だから、命ぜられた通りに天降りしなさい。」
と言われました。
こうして、天の忍穂耳の命の天降りは次男のニニギノ命に譲られました。
神武天皇の外祖母住吉大明神の御母にして三の岳に鎮り給ふ。
この文の切れ目が分かりません。
「神武天皇の外祖母 すなわち 住吉大明神の御母」と解釈していいのでしょうか。
そうすると、豊比賣は神武天皇の母方の祖母ということになります。
この解釈が合っていれば、大変な情報です。
少し話が逸れますが、宇佐八幡宮の「比売神」は謎の神です。
宇佐を理解する事はこの女神を明らかにする事でもあると言って過言ではありません。
宇佐が謎めいているのは比売神とは誰か、分からないからです。
比売神=三女神=宗像三女神と普通は言いますが、
多分、歴史を探究するフクオカの人たちは、何故か首をかしげます。
この感覚は説明できないけど、不思議な現象なのです。
当社の豊比賣と同じなのか、違うのか。
それは大事な問題になります。
縁起に戻りましょう。
「豊比賣」が「神武天皇の外祖母」で「住吉神の母」とすれば誰が該当する?
母方を調べて行けばいいんですよね。
神武天皇の母は玉依姫。その母は「海神・豊玉彦の后」です。
その后の名前が豊比賣ということになります。
そして、その子供が住吉神ということになります。
豊玉彦は安曇族です。
豊比賣は住吉族だったのでしょうか。
住吉の神は現人神社に祀られています
韓地における大姫命の霊は、実に白石の玉と示し給う。
しこうして、この三山は、白石幽妙の神縁なり。
けだし、上古より、この山に臨座あり。
然る後、彼の土に渡り経営終る故、また帰座か。
この白石とは、まさに一の岳で採掘されつくしたものなのです。
日本書紀第五が、大きく影響していると思うのです。
“一書(第五にいう。素戔嗚尊が言われるのに、「韓郷には金銀がある。わが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで髭を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の毛は槙の木になった。眉の毛は、樟(くすのき)になった。そして、その用途をきめられて、いわれるのに、「杉と樟、この二つの木は舟をつくるのによい。桧は宮をつくる木によい。槙は現世の寝棺を造るのによい。
そのために沢山の木の種子を皆播こう」と。この素戔嗚尊の子を名づけて五十猛命という。妹の大屋津姫命。次に枛津姫命。この三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。その後に素戔嗚尊が熊成峰においでになって、ついに根の国におはいりにjなった。”
『日本書紀 上』宇治谷 猛 講談社学術文庫
韓浦に上陸してその後どうなったかというと、当地に残る伝承では、三神が「神別れ坂」にて分かれます。
神別れ坂 島根県大田市五十猛町
五十猛命と大屋津姫命、抓津姫命の三神が分かれた場所として石碑が建っています。
社殿によると須佐之男命が五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命と朝鮮半島からの帰途、この地に上陸、五十猛命はここに残って木種を播き殖産につとめ、湊の宮山に祀られという。また須佐之男命は大浦に留まって韓神新羅神社に祀られ、湊の近くの坂(神別れ坂)で須佐之男命と別れた姫神二柱はそれぞれ
造林や機織りなどの業をひろめ、大屋津姫命は大屋の大屋姫神社に、抓津姫命は川合の物部神社の境外社漢女(からめ)神社に祀られたという