松尾神社、秦氏 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
松尾神社、秦氏 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

初、秦氏女子、出葛野河、澣濯衣裳。 時有一矢、自上流下。
女子取之還来、刺置於戸上、於是女子無夫懐妊、既而生男子也・・・戸上矢者、松尾大明神 是也。

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コメント

  • 『本朝月令』所引『秦氏本系帳』の別条では、

    筑紫胸形坐中部大神、戊辰年三月三日、天下坐松埼日尾又云日埼岑。

    — 『本朝月令』「4月上申日松尾祭事」所引『秦氏本系帳』

    として、戊辰年(天智天皇7年(668年)か)に胸形(宗像)の中部大神(中都大神の誤写か)が「松埼日尾/日埼岑」に天降ったとする。この「松埼日尾」については京都市松ヶ崎説と松尾山頂説とがある。特に後者の説では、松尾山頂に残る磐座(御神蹟)の存在が指摘され、松尾大社側の伝承では中津島姫命はこの磐座に降臨したとしている。なお、上記伝承では大山咋神の記載は見えないことについて、大山咋神の鎮座は周知のことで記載の必要がなかったとも推測されるが、詳細は明らかでない。
  • 中部の例

    554

    百済、中部木刕施徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。
  • May 2016 編集されました
    天王山の酒解神社
    酒解神は古代の名族・橘氏の祖神で、当社に勧請したのは橘氏との伝承があるという。
     「当社の創建は元正天皇・養老元年(717)で、その当社は山崎の社(ヤマサキノヤシロ)と呼ばれていた。
     その後、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后・786--850)が、嵯峨の梅宮に一門の氏神として酒解神を勧請し(梅宮大社・右京区梅津フケノ川町)、また天皇ゆかりの地に酒解神を遷した」(大山崎の伝説・大意)
    というもので、ともに酒解神を祀ること、続日本後紀に“梅宮の酒解神に従四位下、並びに当社の酒解神に正五位下を授けた”と梅宮社と当社が続けて記されている
  • May 2016 編集されました
    京都市西部の梅津の地に鎮座する、四姓(源平藤橘)の1つ橘氏の氏社として知られる神社である。元々は奈良時代に南方の綴喜郡井手町付近に創祀されたといわれ、のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。

    本殿

    酒解神 (さかとけのかみ) - 大山祇神(おおやまづみのかみ)にあてられ、酒造の守護神とされる[3]。
    大若子神 (おおわくこのかみ/おおわくごのかみ) - 瓊々杵尊(ににぎのみこと)にあてられる。
    小若子神 (こわくこのかみ/こわくごのかみ) - 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)にあてられる。
    酒解子神 (さかとけこのかみ) - 木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)にあてられる。

    梅宮大社の創建は旧記等が散逸しているため詳細には明らかでないが、神社側では由緒を次のように伝える
    まず奈良時代に県犬養三千代(橘三千代、橘諸兄母)によって山城国相楽郡井手庄(現・京都府綴喜郡井手町付近)に祀られたのが創祀であるとし、その子の橘諸兄には氏神として祀られたという。さらに天平宝字年間(757年-765年)に三千代の子の光明皇后と牟漏女王(藤原武智麻呂夫人)によって奈良に移されたのち、木津川上流の桛山(かせやま)を経て、平安時代始めに檀林皇后(橘嘉智子)によって現在地に遷祀されたという。
  • 湖東の秦氏

    依智秦氏(えちはた・うじ、朴市・愛知)
    朴市秦造 田来津(えちはたのみやつこ たくつ、? 0- 天智2年(663年)8月)は、近江国愛智郡出身の豪族で天智朝における将軍。百済再興のため渡海するが、白村江の戦いに敗れ戦死する。

    依知秦秋男 えちのはたの あきお
    ?-? 平安時代前期の農民。
    近江(おうみ)(滋賀県)愛智郡(えちぐん)大国郷の人。承和(じょうわ)15年(848)に購入した墾田を,仁寿(にんじゅ)4年正税(しょうぜい)の負債のために売却している。 ことバンクより


    渡来系氏族で秦氏の一族。近江国愛知(えち)郡に移り地名を冠して朴市秦(えちはた)と名乗ったと考えられる[2]。延暦年間(782年 - 806年)、依知秦公(えちはたのきみ)と記された木簡が発見されている。上蚊野(かみがの)古墳群(愛知郡愛荘町大字上蚊野)は依智(依知)秦氏の居住が色濃く認められる地にあり、古墳時代後期における渡来系氏族の居住が契機となって本格的な群集墳を造営したものと理解されている[3]。Wikiより
  • March 2018 編集されました
    北野・上・下御霊神社の氏子団は平安時代に成立したようですが、今宮・八坂・伏見稲荷・藤森・松尾神社の氏子地域は、遷都以前の豪族の支配地域を反映しており、その痕跡が現代まで引き継がれていることは驚きです。

     後者の豪族たちはみな渡来系の者で、早く入植した八坂族は牛頭天王を祀り、その神に
    鉾を立てて、華やかな祇園祭りとして、今も中京の氏子団が続けています。
    一番遅く、恐らく6世紀後半、大和から京の深草を経て移って来た泰氏は、当初の進出拠点は京都駅の南、東寺近くで、国道1号線沿いの伏見稲荷御旅所が始めの本拠地でした。
    その泰氏が稲荷信仰を広め、神を稲荷山に祀りあげたため、以前からこの地を本拠としていた渡来系の藤森氏の神社を南に追いやり、その跡に伏見稲荷大社を造ったのです。
     その証拠が、藤森神社の氏子地域は伏見稲荷大社の社前まて達しています。このため今でも、藤森神社の祭礼に神輿を担ぐ氏子は、稲荷大社の社前まで担いできて、「土地返しや」と囃し立てるといわれています。

    八坂神社は平安京がができるずっと以前から存在している。 古代地図を見ると、この地区には「八坂氏一族」が住んでいたらしく、八坂神社とはその名残かもしれないと勝手に思っている。 また面白いのは八坂神社の氏神様が素戔嗚尊(スサノウノミコト)ということである。 素戔嗚尊は出雲神であるので、八坂氏は出雲族だったようだ。 もう一つ不思議なのは、境内に末社となっている「北向蛭子社」というのがある。 これを取り上げたのは、えびす神社には事代主系と蛭子(ヒルコ)系があるが、事代主系の総本社は今宮戎神社だが、元々は八坂神社の氏子衆が今宮戎を建てたという。 そのため今でもえべっさんの前にはここ「北向蛭子社」に参拝に来ており、それが一つの行事になっているらしい
  • March 2018 編集されました
    藤森神社
    京都府京都市伏見区深草鳥居崎町609

    主祭神 素盞嗚命
    社格等 旧府社
    創建
    伝神功皇后摂政3年(203年?)
    本殿の様式:切妻造檜皮葺

    本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命と、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇を祀り、東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)を、西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王を祀る。本殿の祭神は神功皇后による三韓征伐にまつわる神、東殿に周辺地域一帯の「地主神」と考えられる神、西殿に怨霊や厄神を宥めるための御霊神が祭られている


    本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命と、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇を祀り、東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)を、西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王を祀る。本殿の祭神は神功皇后による三韓征伐にまつわる神、東殿に周辺地域一帯の「地主神」と考えられる神、西殿に怨霊や厄神を宥めるための御霊神が祭られている
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