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武寧王は王墓の墓誌石によると在位二十三年に六十二才で死去したという。生誕は461年と言うことで、書紀の記事とあっている。書紀によれば501年39歳の時王として即位するために百済に倭国から戻った。
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筑紫君磐井」は、大伴金村の子ではないか!もし、そうであれば記紀が磐井の出自を明かさない理由も納得できる。また、大伴金村の子供たちと、磐井と葛子親子には共通点が見られる。
系譜を見ると、金村の長男「磐(いは)」は、宣化2年までで消息を絶ちその子孫も不明。ところが、二男の咋子は、父金村が失脚した後も活躍し続け、旅人や家持らの先祖になっている。
これは、磐井が殺されて命脈を絶ったの対して葛子が罪を免れたことを反映しているのではないか
つまり、「磐井=大伴磐」、「葛子=大伴咋子」という仮説
磐井は輝かしい倭国の伝統を背負い任那倭国府の筆頭として韓地の経営を父王から任されるという立場にいた。若い磐井には重すぎる荷である。磐井の成人を待つかのように父王は磐井を韓地に送った。
磐井王子は筑紫での平穏で豊かな日々を奪い取られて突然、凄惨な戦闘の日々の中に投げ込まれてしまった。友と筑紫野で猪や都にを追った頃が懐かしい、王子々と呼ばれ、皆からかしずかれてはいるが鬱々とした気持ちは晴れなかった。 磐井は三十才になろうとしていた。梅の花が内庭で咲いている。早朝であるから倭国、任那御所の中は静まり返っている。目覚めて間もない磐井は麗しい日射しの為だろうか思索の中に沈んでいる。「思えば、宋国が傾き始めて
から全ては狂い始めたのだ。西方の脅威が去った高句麗は野望を南に向けた。それまでは群小国であった新羅は高句麗の力を得て倭国に逆らうようになった。
出典
http://lunabura.exblog.jp/22277202/
「熱田神社からいただいた資料に磐井の名があった」という聞いたその日に伺う事になりました。
参拝のあと、宮司さん宅で系図を見せていただきました。
磐井ナル-葛子-鞍闇君-初メ 新分鄕 新延 鞍闇君の戦功に依りて賜ハル
系図の空いた場所には「○鞍闇君は葛子の弟なり?」とメモ書きされていました。
系図には鞍闇君は「筑紫国造」と書かれているのですが、磐井の末裔がどうしてそのような身分になって活躍したのかという問題も葛子が筑紫君になったことを考えると、充分に有り得ることです。
父の聖明王が援軍をみずから率いて向かう途中、佐知村(さちすき)の馬飼の奴婢に斬られてしまいます。
そして自分たちも包囲されて身動きできなくなった余昌たち。その城内に筑紫国造がいて、敵将を狙って射殺したために敵は退却。余昌たちは城塞から脱出して助かります。
このとき、余昌は「くらじ君」の名を与えました。
これを読んで初めて知ったのですが、倭国軍は百済と行動と共にしています。
実はこの話の前にも、百済王は何度も「筑紫」に援助を頼んでいます。
これは欽明天皇15年の話です。
すると、筑紫君一族は北部九州の管理者として存続し、百済救援軍として海を渡っていたことになります。(この時、筑紫君薩夜麻を帰国させるために尽力したのは、上陽?(かみつやめ)郡の大伴部博麻(おほともべのはかま)でした。大伴部博麻は倭国の危機的状況「唐が倭国を襲撃する計画」をいち早く知らせるために我が身を売ってその資金で薩夜麻を倭国に返したと書紀に書かれています。筑紫君の本拠地として、福岡県の筑後地方八女辺りが残っていたのです。)