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和知津見命 « 古代史&フォーラム by tokyoblog
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May 2015
December 2018 編集されました
カテゴリ:
古代氏族
和知津見命 « 古代史&フォーラム by tokyoblog
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宗像・安曇
コメント
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May 2015
十市郡倉橋村
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、十市郡倉橋村, 今井谷村, 横柿村, 北山村, 西口町, 多武峯, 鹿路村, 飯盛塚村, 八井内町, 針道村, 百市村, 南音羽村, 北音羽村, 下居村, 下リ尾村, 粟原村が合併し多武峰村が成立。
1896年(明治29年)3月29日 - 所属郡を磯城郡に変更。
1954年(昭和29年)3月3日 - 安倍村、朝倉村とともに桜井町に編入され、消滅。
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May 2015
倉梯の九頭神社
ご祭神 正勝吾勝々速日天之忍穂耳命 栲機千々姫命
鎮座地 奈良県桜井市下字九頭子(奈良交通バス停「赤鳥居」下車)
九頭龍神社(桜井市倉橋)
桜井市下と倉橋に鎮座する九頭神社と九頭龍神社その距離わずか50m。この二社で 夫婦神とされている。ともに本殿はなく、磐座 ...
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May 2015
水取連は、「新撰姓氏録~左京神別上~」に「速日命の六世孫、伊香我色乎命の後なり。」とある。饒速日尊の子孫ということは物部氏系であるが、
水取臣(もいとりのおみ)の祖は、和珥氏の米餅搗大使主命の曾孫の五十足であるから、和珥氏の春日臣市河を祖とする物部首と混同されたのかもしれない。
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May 2015
吉備津神社の社家は、古来賀陽氏が務めた。賀陽氏は、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔にあたる仲彦命が賀夜国造となり、さらにその子孫の高室のとき賀陽臣をたまわり、高室は吉備津神社に奉仕したという
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May 2015
その後吉備と倭王権とは徐々に軋轢を生じるようになった。孝安の皇子として「大吉 備諸進命」がみえる(孝安記)ことから、卑彌呼歿後に吉備を抑えようとする倭王権 の動きがあったことが窺える。
孝霊記に孝霊の二皇子(大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命)が播磨を起点に吉 備を平定した(崇神紀では四道将軍としての吉備津彦)とあるように、吉備津彦によ り平定され、吉備は倭王権に組み込まれた。
▶ のち吉備津彦の後裔と在地氏族が結びつき再び大をなしたが雄略の御代に没落した。
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May 2015
吉備津神社の社伝によると、吉備津彦の五世孫の「加夜臣奈留美命」が茅葺宮に社殿を 営み祖神として吉備津彦を祀ったのに始まると云う。この「加夜臣奈留美命」と「出雲国 造神賀詞」にみえる大穴持命の御子神である「賀夜奈流美命」との関係については、こ れ迄に様々な検討が加えられているが、世代の不整合もあり明解は与えられていない。
(注)「出雲国造神賀詞」では、大穴持命が国土を天孫に譲り出雲へ去るに当たり、己命の和魂と御子 の御魂を大倭國に留めて皇室の守護とすべきことを誓っており、「賀夜奈流美命」の御魂は飛 鳥の神奈備に坐すとされる。
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May 2015
加夜臣奈留美命は、孝霊(第七代)の皇子である吉備津彦の五世孫とされるので、 垂仁(第十一代)か景行(第十二代)と同世代ということになる。崇神紀(六十年 条)や垂仁紀(二十六年条)に記される出雲神宝検校の年代に相当する。
加夜臣奈留美命は賀夜国造・賀夜臣の系譜に顕れない。皇別
吉備津神社社伝は、社の創祀者の名(加夜臣奈留美命)を大穴持命の御子神(賀夜奈流美命)に仮託することにより、出雲の大和への服属、及び吉備が出雲族に連なる地祇系賀茂族の支配地であったことを伝えるものか?
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May 2015
式内社 大和國高市郡 加夜奈留美命神社
御祭神加夜奈留美命
境内 式内社大和國高市郡 瀧本神社
末社九頭神社 九頭神
九頭神があらわれる!
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May 2015
式内社 大和國高市郡 飛鳥坐神社四座
並名神大 月次相嘗新嘗
御祭神事代主神 高皇産靈神
飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)
大物主神
境内 式内社
大和國高市郡 飛鳥山口坐神社 大 月次新嘗
摂社 飛鳥山口神社
大山津見乃神 久久乃知之神 猿田比古神
奈良県明日香村にある。橿原神宮から、甘樫丘を抜けて更に東の突き当りの鳥形山に鎮座。
「日本紀略」によれば、「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷二同郡同郷鳥形山一依二神託宣一也」とあり、元は賀美郷の甘南備山に鎮座していたとある。甘南備山の場所は、当社の西北700mの雷岳か、あるいは、明日香村橘と稲淵の境あたりと考えられているが、所在地は不明。
そこから天長六年に現社地へ遷座したが、当時は、もう少し南、酒船石の辺りではなかったかとも。
現在の祭神は、事代主神・高皇産靈神・飛鳥三日比売神・大物主神の四座だが、異説も多い。
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May 2015
飛鳥の神奈備は、賀夜奈流美神社のあたりの十市だったか?
『出雲國造神賀詞』に、「賀夜奈流美命乃御魂乎飛鳥乃神奈備尓坐天皇孫命能近守神登貢置天」飛鳥の神奈備に坐て、皇孫を守護した神。天長六年(829)、飛鳥神奈備が、鳥形山に移り飛鳥坐神社となっても、その本霊は、当地に残ったと考えられている。
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May 2015
ただし、飛鳥から小原・東山を経て多武峯に登る小道の側にある天神社跡がカヤナルミ神社の古社地という説もあるらしい。
何処か?
江戸時代には葛神と呼ばれていた
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May 2015
加夜奈留美命神社
柏森(かやのもり)の集落北東の小高い森に鎮座。社前を稲 淵川が流れる。祭神は加夜奈留美命。旧村社。 江戸時代には葛神と称したが、カヤノモリ とカヤナルミが類似するため、「大和志」が「延 喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」にあ て、以後式内社に治定されている。加夜奈留美 命は飛鳥の神奈備に坐して、皇孫の守護をした 神で(「延喜式」出雲国造神賀詞)、「五郡神社記」や 「大神分身類社鈔」は高照姫命のこととする。 「延喜交替式」「類聚三代格」には「賀屋鳴比女」と も記し、天太玉神・櫛玉神・臼滝神とともに飛 鳥神の裔神とみえる
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May 2015
豊国造は豊国(現・福岡県行橋市周辺、 又は大分県)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、伊甚国造(千葉)と同祖である宇那足尼(うなのすくね)を国造に定めたこと
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May 2015
天照神社は六ケ岳の南麓にあるが、その東北麓には剣神社がある。この剣神社は、直方市大字下新入字亀丘に属する。由緒によると、筑紫国造の田道命が成務天皇のとき、筑紫物部をひきいて祀った神社で、倉師大明神と呼ばれたという。さてこの倉師大明神は鞍手郡名の発祥の神社と称せられている。
『鞍手町誌』は、鞍手の郡名のおこりを種々穿整しているが、それによると、鞍手町新北の熱田神社(もとの剣神社) の神官である金川家の家譜には、闇路公の文字がみえるという。またおなじ鞍手町の長谷にある鞍橋神社を土地の人はくらじさんと呼んでいる。さらに伊藤常信の著す『倉久村春日神社社記』によると、神功皇后が朝鮮に出兵したとき、倉久の春日神社でしばらく休憩し、そのとき馬の鞍を楠にかけた。この楠は昼なお暗く繁茂していたが、その木が倒れて明るくなったから、暗出郡と名づけたという。もちろんこれらは伝承にすぎない。『日本書紀』欽明天皇十五年(五五四) の条に、弓の上手な筑紫国造がおり、国造の放った失はするどく、敵兵の乗った馬の鞍の前輪と後輪とを射通した。そこで鞍橋君という、とある。『日本書紀』 には、鞍橋、これを矩羅月貳という、と註記してある。岩波古典大系本の『日本書紀』の頭註には、クラジはクラハシの転であり、鞍の端から端まで射通したことによるあだ名であろう、といっているが、『日本書紀』の原註にクラジと読ませている以上、むしろ、鞍橋をクラジにあてたとみるほうが正しいと思われる。
この鞍橋君は大和朝廷が百済と同盟して新羅とたたかったとき奮戦したのであるが、その戦闘には竹斯物部莫奇委沙奇なども加わっている。竹斯は筑紫であるから、おそらく筑紫物部は遠賀川の流域に播踞していたと思われる。前にみたように直方市下新入の剣神社は筑紫国造の田道命が筑紫物部をひきいて祀った神社で、倉師大明神と呼ばれたというから、筑紫国造として勢威を張っていた鞍橋君もまたそれと関係があったのであろう。『鞍手郡誌』には「現に郷内に鞍橋君を祀りし黒治社の廃址あり」と述べている。『旧事本紀』 の「国造本紀」によると田道命は阿倍氏と同族で大彦命の五世の孫となっており、物部氏とは深い緑由をもっている。また剣神社のある鞍手町新北はさきに述べたように贅田物部の居住地である。『聖徳太子伝』には「物部守屋の次男片野目の連の四男辰狐の連を筑前鞍手に流す」とある。物部守屋は用明天皇二年(五八七) に蘇我馬子にほろぽされた。この『聖徳太子伝』は文保二年(一三一八) の著作で、内容は信じがたいといわれるが、物部一族を鞍手郡に流したというのは、鞍手郡が物部一族の根拠地であったからであろう。こうしてみれば、倉師、闇路、黒治、鞍橋と書いて、すべてクラジと読ませているのは、物部氏につながりがある名前とみなければならぬ。ここにおいて想起するのは、「神武紀」に高倉下、または兄倉下・弟倉下の名前が登場することである。『旧事本紀』「天孫本紀」には、ニギハヤヒの子の天香語山命は天降ってから手粟彦命、またの名は高倉下命と記されている。これを尾張氏系譜とみる説もあるが、私はそれをとらない。なぜなら、河内国北河内郡のニギハヤヒが降臨したという伝承の磐船の地に倉治の地名があるからである。倉下は物部氏の一族の名であり、それが筑紫物部の本拠である鞍手の郡名の起こりと関係があると私は考える。鞍手の地名は、『続日本紀』に、天平十二年(七四〇)、藤原広嗣みずから大隅・薩摩・筑前・豊後などの国軍あわせて五千人ばかりをひきいて、鞍手道より往く、とあるのがはじめてとされている。
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May 2015
景行紀
景行天皇は十二年九月に周防国佐波にいて、九州に賊が多くいることを警戒し、三名の部下に偵察させた。多臣の先祖の武諸木、国前臣の先祖の菟名手、物部君の祖の夏花である。
景行紀によると、景行天皇は十二年九月に周防国佐波にいて、九州に賊が多くいることを警戒し、三名の部下に偵察させた。多臣の先祖の武諸木、国前臣の先祖の菟名手、物部君の祖の夏花である。この三名はいずれも九州の土豪と見られる。多氏の同族に大分君があり、また物部氏は豊前の企救郡と関係がふかい。景行帝は豊前国の長峡県にいって、行宮を建て、そこを京と呼んだ。「和名抄」の豊前国京都郡で、今の行橋市あたりである。ところで、国前臣の先祖と記されている菟名手が景行帝の命で形勢を探るために、豊前国の仲津郡の中臣村にいったときに、白い鳥に出会った。白い鳥は餅になり、さらに芋となった。菟名手が朝廷にそれを奏上したところ、天皇はよろこび、菟名手に豊国直のカバネを賜ったと「豊後国風土記」にある。仲津郡の中臣村は「和名抄」の仲津郡仲津郷で、福岡県行橋市草場や福富など今川の流域とされている。豊前国の国府もみやこ町国作にあった。国作は豊国直もしくは豊国造の住んだところとされる。そこの国作神社について「地名辞書」は「古事記」に見える豊日別、あるいは豊国直菟名手を祀ったのであろうと推測している
神功皇后摂政前紀に、筑前の那珂川の水を引いて神田を潤そうとして、潅漑用の溝 (ウナデ) を掘ったという記事がある。つまりウナデは田の用水の溝を指す。
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May 2015
茨田堤(まむたのつつみ)もきずいている。豊国直菟名手は田に水を引く溝を作ったことからつけられた名であろう
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May 2015
景行天皇
挾杪者は船頭のこと、菟田の人、伊賀彦であるが、注に「他にみえず」とあり、この役割のみで終わる。菟田と伊賀は山中を想像させるが、船頭をするくらいであり、航海術を心得た人間であるはずだ。倭からそのような人間がここに船頭として現れていることに注目しておきたい。祝(はふり)とは、後の神職のことであるが、ここでは災いを祓う役割であろう。伊賀彦はその役割を果たし、岡垣の高倉神社(岡垣・遠賀・水巻町:北九州あれこれ)の下社として作られた岡湊神社(芦屋:北九州あれこれ)において両神とともに祭られることとなる。菟田の人、伊賀彦は海人族であった。
ホツマツタエでは
『オシヤマが オトタチバナを スケ妻に ワカタケヒコと イナリワケ アシカミカマミ タケコガヒ イキナガタワケ ヰソメヒコ イガヒコ等 生む』40文
伊賀彦王。ヤマトタケとオトタチバナ姫の第7子
300年頃、神功皇后従者の倭國菟田伊賀彦
伊賀彦は筑紫に残って阿閉臣となり、その子が、350年頃成務紀で筑紫国造日道命となりました。(伊賀臣伊賀彦宿禰の後ではない)
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May 2015
穂積氏の祖・忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘媛(おとたちばなひめ)は一男を生んだ。
稚武彦王命(わかたけひこのみこのみこと)[尾津君、揮田君(ふきだのきみ)、武部君らの祖]、
次に稲入別命(いないりわけのみこと)、
次に武養蚕命(たけこがいのみこと)[波多臣らの祖]、
次に葦敢竈見別命(あしかみのかまみわけのみこと)[竈口君(かまのくちのきみ)らの祖]、
次に息長田別命(おきながのたわけのみこと)[讃岐君らの祖]、
次に五十日彦王命(いかひこのきみのみこと)[讃岐君らの祖]、
次に伊賀彦王(いがひこのみこ)、
次に武田王(たけたのみこ)[尾張国の丹羽建部君の祖]、
次に佐伯命(さえきのみこと)[三川の御使連らの祖]、である。
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May 2015
『先代旧事本紀』7巻天皇本紀では、景行天皇の項で穂積氏忍山宿禰の娘の弟橘媛が稚武彦王を生むとあり、また成務天皇の項で弟橘媛が9男(稚武彥王命・稲入別命・武養鷲命・葦敢竈見別命・息長田別命・五十目彦王命・伊賀彦王・武田王・佐伯命)を生むとある。
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May 2015
近江の沙沙貴山君
大彦命の子孫
1阿倍臣 武淳河別・・・171年、一大率着任。のち埼玉県北武蔵を封國。
意宇比跪其児多加利足尼(おおひきみこ・さわかるすくね)[稲荷山鉄剣]
意宇比跪:大率(おおひき)、其児:箕児(みこ)、多:さわ:沢さんの義。
狩野という船・・・多加利は、さわかり。
軽野という船・・・多加利は、さわかる。(利は音転してル音)
加利:狩野、または軽野という船の名前です。また、孝元の軽境原宮の軽。
2膳臣 彦稲腰別・・・171年、卑弥呼の膳夫。のち若狭國を封國。
稲荷山鉄剣の二刀:錬り別作らしむ。武淳河別と一対の刀。
3阿閉臣・・・伊賀彦。
4狭狭城山君・・・167年頃、棄て児(赤子)を大彦が拾う。後述。
5筑紫国造・・・
350年頃、國造本記・成務朝、筑紫国造:阿閉臣同祖大彦5世の日道命。
400年頃、仁徳紀の松津國造は、佐賀駅南の小津で、物部金連。
七海注記:日道命は、狭狭城山君の5世と看做します。
6越国造・・・頚城國造、深江國造も大彦の系統。
7伊賀臣・・・伊賀彦宿禰。
167年頃生まれた沙沙貴山君は、少彦名、菟夫羅姫の後裔から外れていません。
これを近江の沙沙貴山神社の由緒が証明していました。
沙沙貴山君の4世は、阿閉臣伊賀彦命、5世は、筑紫国造日道命でした。
そして、645年の安倍倉橋麻呂、平安時代の安倍晴明と子孫がつながっていました
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May 2015
阿閉臣 伊賀彦 弟橘媛の子
その阿倍氏系伊賀氏が本拠地とする伊賀上野には、なんと同名の高倉神社がある。こちらは尾張氏の高倉下命を祀っているのだ。この福岡の高倉神社のある遠賀郡は崗県主熊鰐の本拠地である。阿倍倉梯麻呂の項で詳しく述べたが、倉梯→高橋→高倉と阿倍氏&尾張氏の関わりの深さをみれば、この大倉主が高倉下命の別名である可能性もあるのではないか?
高倉神社(三重県上野市西高倉)
祭神&祖神 高倉下命、倭得玉彦命
社家 尾張氏
創建は阿倍氏系11代垂仁天皇の御代、高倉下命の七世の孫である倭得玉彦命がこの地に住し、先祖を祀り、その氏神としたことに始まる。倉庫守護神として近隣の人々に崇敬されている。
直ぐ近くには、阿倍氏の祖・大彦命を祀る、伊賀国一の宮・敢国神社(三重県上野市一之宮)があるのも興味深い。伊賀上野といえば、阿倍氏の支族である伊賀氏の本拠地だ。
興味深いことに、同名の高倉神社が福岡県遠賀郡岡垣町にある。こちらは遠賀郡の総社で、祭神は大倉主神と菟夫罹媛(つぶらひめ)命を倭国の菟田(うだ・宇陀)の人・伊賀彦を祝としてこの地に祀らしめたことが、仲哀天皇(息長氏系14代)筑紫行幸の段に見える。
初代祝(はふり・神主)は宇陀の「伊賀彦」。倭国の宇陀といえば、当に阿倍氏の本拠地・倉梯山の所在地であり、阿倍氏の支族に伊賀氏がいることから、伊賀彦は阿倍氏の人と考えられる。「倉梯」は高倉に架ける梯子(はしご)のことであり、何か関係があると思ってしまうのは私だけではあるまい。
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May 2015
大麻神社
所在地:善通寺市大麻町上ノ村山(祭神 天太玉命)丸亀京極家編纂の「西讃府誌」に「相伝ふ弟橘姫(おとたちばなひめ)は讃岐人穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘なり」という記述があり、弟橘媛の父忍山宿弥は大麻神社の神官を務めたとされる。
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May 2015
北陸地方は、人皇第10代崇神天皇の10年(西暦88)9月、「大彦命を北陸に遣わす」の記事(日本書紀第5)を以て史上に現われた初めとする。
次いで13代成務天皇の5年(135)(ほぼ4世紀の前半)市人命を高志の国造に、大河音足に尼(竹内宿弥の孫)を伊弥頭の国造に賜った旨「旧事本紀」などに出て来るのが射水の初見である。また「古事記」によれば、第7代孝霊天皇の次子日子刺肩別の命が、後の高志の利波の臣や、越前角鹿(敦賀)の海直の祖であるといわれ、越中や越前に下られたのかもしれない。後に天平19年(746)東大寺大仏鋳造が始められる。利波臣志留志は、この日子刺肩別の末孫といわれ、天平時代にはすでに此の越中において有力な存在となるまでに成長していたものである。
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July 2015
吉備津彦命・稚武彦命兄弟の実際の系譜は不明な点が多く、淡路の御井宮に坐したという和知都美命(安寧天皇記に皇子の子とされる)を外祖父とし、能登・毛野氏族や彦坐王と近い親族関係があったものとみられる
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January 2016
予章記によると、越智氏の系譜の上古の部分は、以下のようになっています。
①孝霊天皇(太瓊尊)-彦狭島命(孝霊第三皇子)-小千御子(天狭貫王)-天狭介-
粟鹿-三並-熊武-伊但馬-喜多守-高縄
彦狭島命の母は、古事記では磯城県主の一族である蠅伊呂杼命となっており、欠史の八代の時代を担った
系譜である事が分かります。蠅伊呂杼命は和知都美命の子であり、越智(おち、おおち、おうち)の名の
ルーツはこの和知(わち)都美命ではないかと考えられます。
富家の認識では、磯城県主とは富家の倭の分家である磯城家のことであり、
祖は磯城津彦玉手見尊で、その子が和知都美命ということになります。
この磯城家の分家には、登美家があり、その分家には和仁家があります。
和仁家の系譜は、
②事代主命~玉手見命-和知都美-蠅伊呂杼-彦狭島命~①越智家
③事代主命~阿太賀田須命-和仁古-姥津媛命-日子坐王(粟鹿神社社家)-丹波道主王-
朝廷別王(砥鹿神社社家/草鹿砥家祖)
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May 2016
奈良県天理市新泉町星山、大和 (オオヤマト) 神社
「箸中(ハシナカ)大市(オイチ)」
シイネツヒコ (倭国造) の七世孫という。
綿積豊玉彦─振魂─武位起─椎根津彦─志麻津見─武速持─邇支倍─飯手─御物─市磯長尾市
『書紀』市磯長尾市(いちしのながおち)。
★『書紀』倭国市磯(いちし)邑。穴磯邑の大市の長岡岬 (現・狭井神社)。
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May 2016
海神綿積--豊玉
玉依
穂高見
振魂----武位起----珍彦----志麻津見--武速持--
大鐸比売 八玉彦
---邇支倍--飯手宿禰--御物宿禰--市磯長尾市
民磯媛 御戈
神武・綏靖・安寧を第一世代とすれば、大倭氏のその同世代はむろん珍彦と八玉彦である。崇神と垂仁は第三世代であるから、崇神紀・垂仁紀に出る市磯長尾市も第三世代の人である。したがって志麻津見以下御物宿禰までは、十市氏系図と同様、書紀の系譜に準拠した架上であろう。
したがって現存する大倭氏の系譜は、その祖椎根津彦から傍流の系統を市磯長尾市まで辿り、その後は市磯長尾市を祖とする系譜である。そこに椎根津彦氏の正系の、崇神に滅ぼされるまでの系譜は当然のことながら存在しない。残らなかった。したがって椎根津彦とその後三代の系譜はこれを搜さなければならないのである。
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August 2019
淡路島は、古事記や日本書紀に頻繁に登場し、島内にはそれに関連した場所が多くある。例 あんねい わ ち つ みみこと み い
えば、古事記には安寧天皇の孫「和知都美 命 」が淡路島の御井宮におられたと記されている。 はんぜい
また、日本書紀には、反正天皇が淡路島で生まれた際、近くに素晴らしい水が湧く井戸があり、 うぶのみや
その水を産湯につかったとされている。井戸があった場所として、旧三原町松帆の産宮神社境 うぶのみや しとおり はんぜい
内の井戸、産宮神社脇に流れる倭文川を渡ったところにある井戸が挙げられる。反正天皇の生 あわじのみや うぶのみや
まれた宮は「淡路宮」とされているが、産宮神社と産湯をとったという井戸があるこの近辺が あわじのみや
「淡路宮」ではないかと推測できる。
淡路島は、水不足に苦労した島ではある一方で、素晴らしい水が湧く島でもあった。古事記
では、仁徳天皇が朝夕2度、淡路島から水を取り寄せたとある。天皇が口にする水は「聖水」 おいしみず
であり、淡路島は「聖水」が湧く島だとされた。「聖水」は、現在の御井の清水であったのでは ないか。というのも、仁徳天皇は難波に都をおいたという記録があり、朝夕に淡路島から「聖 水」を取り寄せたとなると淡路島の大阪湾に面した側で湧いていた水であると考えられるから だ。
じゅんにん さ わ ら じゅんにん
淡路島へは、 淳 仁天皇と早良親王が流されてくる。 淳 仁天皇は、流された翌年に脱出を試
みるが失敗し捕らえられ、その翌日に亡くなったとの記録がある。捕らえられた翌日に亡くな じゅん
ったのならば病死とは考えにくい。淡路島には殺されたのではないかとの説もある。現在、淳 にん 仁天皇陵は南あわじ市賀集にあるが、明治3年につくられたものだ。志筑から郡家へ行く途中
じゅんにん じゅんにん の高島陵という墓地、三原平野に点在する 淳 仁天皇のお墓だとされる場所など、 淳 仁天皇の
お墓はここだという説が島内各地にある。
万葉集で兵庫県下の風景を詠んだ歌は 80 首ほどあり、その内、18 首が淡路島を題材にして
いる。しかしながら、淡路島に上陸し淡路島を詠った歌は1首もない。明石海峡を渡る際に、 また、対岸から詠った歌ばかりである。万葉集によく詠われた場所というと、松帆の浦、野島、 慶野、浅野の滝がある。
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August 2019
『仁徳記』 ここに天皇、その黒日売に恋ひたまひて、大后を欺きて曰りたまはく、「淡道島を見むと欲ふ」とのりたまひて幸行しし時、淡道島に坐して遥に望けて歌曰ひたまはく
おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔の島も見ゆ さけつ島見ゆ とうたひたまひき。
この歌に登場する島々を一度に見るように解すると、都合のいい場所は諭鶴羽山や分水嶺の養宣上だろう。
仁徳天皇は洲本港付近から東を見ると、友ケ島が見える。淡島と淤能碁呂島が見える。
運河を通り抜けて松帆湊に出ると、まず眼前に小豆島が見える。現在はオリーブの産地だが、オリーブが育つ場所には檳榔(ビンロウ)が育つと言う。さけつ島とは三つに分かれている家島群島と見ていいのだろう。
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1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、十市郡倉橋村, 今井谷村, 横柿村, 北山村, 西口町, 多武峯, 鹿路村, 飯盛塚村, 八井内町, 針道村, 百市村, 南音羽村, 北音羽村, 下居村, 下リ尾村, 粟原村が合併し多武峰村が成立。
1896年(明治29年)3月29日 - 所属郡を磯城郡に変更。
1954年(昭和29年)3月3日 - 安倍村、朝倉村とともに桜井町に編入され、消滅。
倉梯の九頭神社
ご祭神 正勝吾勝々速日天之忍穂耳命 栲機千々姫命
鎮座地 奈良県桜井市下字九頭子(奈良交通バス停「赤鳥居」下車)
九頭龍神社(桜井市倉橋)
桜井市下と倉橋に鎮座する九頭神社と九頭龍神社その距離わずか50m。この二社で 夫婦神とされている。ともに本殿はなく、磐座 ...
水取臣(もいとりのおみ)の祖は、和珥氏の米餅搗大使主命の曾孫の五十足であるから、和珥氏の春日臣市河を祖とする物部首と混同されたのかもしれない。
孝霊記に孝霊の二皇子(大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命)が播磨を起点に吉 備を平定した(崇神紀では四道将軍としての吉備津彦)とあるように、吉備津彦によ り平定され、吉備は倭王権に組み込まれた。
▶ のち吉備津彦の後裔と在地氏族が結びつき再び大をなしたが雄略の御代に没落した。
(注)「出雲国造神賀詞」では、大穴持命が国土を天孫に譲り出雲へ去るに当たり、己命の和魂と御子 の御魂を大倭國に留めて皇室の守護とすべきことを誓っており、「賀夜奈流美命」の御魂は飛 鳥の神奈備に坐すとされる。
加夜臣奈留美命は賀夜国造・賀夜臣の系譜に顕れない。皇別
吉備津神社社伝は、社の創祀者の名(加夜臣奈留美命)を大穴持命の御子神(賀夜奈流美命)に仮託することにより、出雲の大和への服属、及び吉備が出雲族に連なる地祇系賀茂族の支配地であったことを伝えるものか?
御祭神加夜奈留美命
境内 式内社大和國高市郡 瀧本神社
末社九頭神社 九頭神
九頭神があらわれる!
並名神大 月次相嘗新嘗
御祭神事代主神 高皇産靈神
飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)
大物主神
境内 式内社
大和國高市郡 飛鳥山口坐神社 大 月次新嘗
摂社 飛鳥山口神社
大山津見乃神 久久乃知之神 猿田比古神
奈良県明日香村にある。橿原神宮から、甘樫丘を抜けて更に東の突き当りの鳥形山に鎮座。
「日本紀略」によれば、「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷二同郡同郷鳥形山一依二神託宣一也」とあり、元は賀美郷の甘南備山に鎮座していたとある。甘南備山の場所は、当社の西北700mの雷岳か、あるいは、明日香村橘と稲淵の境あたりと考えられているが、所在地は不明。
そこから天長六年に現社地へ遷座したが、当時は、もう少し南、酒船石の辺りではなかったかとも。
現在の祭神は、事代主神・高皇産靈神・飛鳥三日比売神・大物主神の四座だが、異説も多い。
『出雲國造神賀詞』に、「賀夜奈流美命乃御魂乎飛鳥乃神奈備尓坐天皇孫命能近守神登貢置天」飛鳥の神奈備に坐て、皇孫を守護した神。天長六年(829)、飛鳥神奈備が、鳥形山に移り飛鳥坐神社となっても、その本霊は、当地に残ったと考えられている。
何処か?
江戸時代には葛神と呼ばれていた
柏森(かやのもり)の集落北東の小高い森に鎮座。社前を稲 淵川が流れる。祭神は加夜奈留美命。旧村社。 江戸時代には葛神と称したが、カヤノモリ とカヤナルミが類似するため、「大和志」が「延 喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」にあ て、以後式内社に治定されている。加夜奈留美 命は飛鳥の神奈備に坐して、皇孫の守護をした 神で(「延喜式」出雲国造神賀詞)、「五郡神社記」や 「大神分身類社鈔」は高照姫命のこととする。 「延喜交替式」「類聚三代格」には「賀屋鳴比女」と も記し、天太玉神・櫛玉神・臼滝神とともに飛 鳥神の裔神とみえる
『鞍手町誌』は、鞍手の郡名のおこりを種々穿整しているが、それによると、鞍手町新北の熱田神社(もとの剣神社) の神官である金川家の家譜には、闇路公の文字がみえるという。またおなじ鞍手町の長谷にある鞍橋神社を土地の人はくらじさんと呼んでいる。さらに伊藤常信の著す『倉久村春日神社社記』によると、神功皇后が朝鮮に出兵したとき、倉久の春日神社でしばらく休憩し、そのとき馬の鞍を楠にかけた。この楠は昼なお暗く繁茂していたが、その木が倒れて明るくなったから、暗出郡と名づけたという。もちろんこれらは伝承にすぎない。『日本書紀』欽明天皇十五年(五五四) の条に、弓の上手な筑紫国造がおり、国造の放った失はするどく、敵兵の乗った馬の鞍の前輪と後輪とを射通した。そこで鞍橋君という、とある。『日本書紀』 には、鞍橋、これを矩羅月貳という、と註記してある。岩波古典大系本の『日本書紀』の頭註には、クラジはクラハシの転であり、鞍の端から端まで射通したことによるあだ名であろう、といっているが、『日本書紀』の原註にクラジと読ませている以上、むしろ、鞍橋をクラジにあてたとみるほうが正しいと思われる。
この鞍橋君は大和朝廷が百済と同盟して新羅とたたかったとき奮戦したのであるが、その戦闘には竹斯物部莫奇委沙奇なども加わっている。竹斯は筑紫であるから、おそらく筑紫物部は遠賀川の流域に播踞していたと思われる。前にみたように直方市下新入の剣神社は筑紫国造の田道命が筑紫物部をひきいて祀った神社で、倉師大明神と呼ばれたというから、筑紫国造として勢威を張っていた鞍橋君もまたそれと関係があったのであろう。『鞍手郡誌』には「現に郷内に鞍橋君を祀りし黒治社の廃址あり」と述べている。『旧事本紀』 の「国造本紀」によると田道命は阿倍氏と同族で大彦命の五世の孫となっており、物部氏とは深い緑由をもっている。また剣神社のある鞍手町新北はさきに述べたように贅田物部の居住地である。『聖徳太子伝』には「物部守屋の次男片野目の連の四男辰狐の連を筑前鞍手に流す」とある。物部守屋は用明天皇二年(五八七) に蘇我馬子にほろぽされた。この『聖徳太子伝』は文保二年(一三一八) の著作で、内容は信じがたいといわれるが、物部一族を鞍手郡に流したというのは、鞍手郡が物部一族の根拠地であったからであろう。こうしてみれば、倉師、闇路、黒治、鞍橋と書いて、すべてクラジと読ませているのは、物部氏につながりがある名前とみなければならぬ。ここにおいて想起するのは、「神武紀」に高倉下、または兄倉下・弟倉下の名前が登場することである。『旧事本紀』「天孫本紀」には、ニギハヤヒの子の天香語山命は天降ってから手粟彦命、またの名は高倉下命と記されている。これを尾張氏系譜とみる説もあるが、私はそれをとらない。なぜなら、河内国北河内郡のニギハヤヒが降臨したという伝承の磐船の地に倉治の地名があるからである。倉下は物部氏の一族の名であり、それが筑紫物部の本拠である鞍手の郡名の起こりと関係があると私は考える。鞍手の地名は、『続日本紀』に、天平十二年(七四〇)、藤原広嗣みずから大隅・薩摩・筑前・豊後などの国軍あわせて五千人ばかりをひきいて、鞍手道より往く、とあるのがはじめてとされている。
景行天皇は十二年九月に周防国佐波にいて、九州に賊が多くいることを警戒し、三名の部下に偵察させた。多臣の先祖の武諸木、国前臣の先祖の菟名手、物部君の祖の夏花である。
景行紀によると、景行天皇は十二年九月に周防国佐波にいて、九州に賊が多くいることを警戒し、三名の部下に偵察させた。多臣の先祖の武諸木、国前臣の先祖の菟名手、物部君の祖の夏花である。この三名はいずれも九州の土豪と見られる。多氏の同族に大分君があり、また物部氏は豊前の企救郡と関係がふかい。景行帝は豊前国の長峡県にいって、行宮を建て、そこを京と呼んだ。「和名抄」の豊前国京都郡で、今の行橋市あたりである。ところで、国前臣の先祖と記されている菟名手が景行帝の命で形勢を探るために、豊前国の仲津郡の中臣村にいったときに、白い鳥に出会った。白い鳥は餅になり、さらに芋となった。菟名手が朝廷にそれを奏上したところ、天皇はよろこび、菟名手に豊国直のカバネを賜ったと「豊後国風土記」にある。仲津郡の中臣村は「和名抄」の仲津郡仲津郷で、福岡県行橋市草場や福富など今川の流域とされている。豊前国の国府もみやこ町国作にあった。国作は豊国直もしくは豊国造の住んだところとされる。そこの国作神社について「地名辞書」は「古事記」に見える豊日別、あるいは豊国直菟名手を祀ったのであろうと推測している
神功皇后摂政前紀に、筑前の那珂川の水を引いて神田を潤そうとして、潅漑用の溝 (ウナデ) を掘ったという記事がある。つまりウナデは田の用水の溝を指す。
挾杪者は船頭のこと、菟田の人、伊賀彦であるが、注に「他にみえず」とあり、この役割のみで終わる。菟田と伊賀は山中を想像させるが、船頭をするくらいであり、航海術を心得た人間であるはずだ。倭からそのような人間がここに船頭として現れていることに注目しておきたい。祝(はふり)とは、後の神職のことであるが、ここでは災いを祓う役割であろう。伊賀彦はその役割を果たし、岡垣の高倉神社(岡垣・遠賀・水巻町:北九州あれこれ)の下社として作られた岡湊神社(芦屋:北九州あれこれ)において両神とともに祭られることとなる。菟田の人、伊賀彦は海人族であった。
ホツマツタエでは
『オシヤマが オトタチバナを スケ妻に ワカタケヒコと イナリワケ アシカミカマミ タケコガヒ イキナガタワケ ヰソメヒコ イガヒコ等 生む』40文
伊賀彦王。ヤマトタケとオトタチバナ姫の第7子
300年頃、神功皇后従者の倭國菟田伊賀彦
伊賀彦は筑紫に残って阿閉臣となり、その子が、350年頃成務紀で筑紫国造日道命となりました。(伊賀臣伊賀彦宿禰の後ではない)
稚武彦王命(わかたけひこのみこのみこと)[尾津君、揮田君(ふきだのきみ)、武部君らの祖]、
次に稲入別命(いないりわけのみこと)、
次に武養蚕命(たけこがいのみこと)[波多臣らの祖]、
次に葦敢竈見別命(あしかみのかまみわけのみこと)[竈口君(かまのくちのきみ)らの祖]、
次に息長田別命(おきながのたわけのみこと)[讃岐君らの祖]、
次に五十日彦王命(いかひこのきみのみこと)[讃岐君らの祖]、
次に伊賀彦王(いがひこのみこ)、
次に武田王(たけたのみこ)[尾張国の丹羽建部君の祖]、
次に佐伯命(さえきのみこと)[三川の御使連らの祖]、である。
大彦命の子孫
1阿倍臣 武淳河別・・・171年、一大率着任。のち埼玉県北武蔵を封國。
意宇比跪其児多加利足尼(おおひきみこ・さわかるすくね)[稲荷山鉄剣]
意宇比跪:大率(おおひき)、其児:箕児(みこ)、多:さわ:沢さんの義。
狩野という船・・・多加利は、さわかり。
軽野という船・・・多加利は、さわかる。(利は音転してル音)
加利:狩野、または軽野という船の名前です。また、孝元の軽境原宮の軽。
2膳臣 彦稲腰別・・・171年、卑弥呼の膳夫。のち若狭國を封國。
稲荷山鉄剣の二刀:錬り別作らしむ。武淳河別と一対の刀。
3阿閉臣・・・伊賀彦。
4狭狭城山君・・・167年頃、棄て児(赤子)を大彦が拾う。後述。
5筑紫国造・・・
350年頃、國造本記・成務朝、筑紫国造:阿閉臣同祖大彦5世の日道命。
400年頃、仁徳紀の松津國造は、佐賀駅南の小津で、物部金連。
七海注記:日道命は、狭狭城山君の5世と看做します。
6越国造・・・頚城國造、深江國造も大彦の系統。
7伊賀臣・・・伊賀彦宿禰。
167年頃生まれた沙沙貴山君は、少彦名、菟夫羅姫の後裔から外れていません。
これを近江の沙沙貴山神社の由緒が証明していました。
沙沙貴山君の4世は、阿閉臣伊賀彦命、5世は、筑紫国造日道命でした。
そして、645年の安倍倉橋麻呂、平安時代の安倍晴明と子孫がつながっていました
その阿倍氏系伊賀氏が本拠地とする伊賀上野には、なんと同名の高倉神社がある。こちらは尾張氏の高倉下命を祀っているのだ。この福岡の高倉神社のある遠賀郡は崗県主熊鰐の本拠地である。阿倍倉梯麻呂の項で詳しく述べたが、倉梯→高橋→高倉と阿倍氏&尾張氏の関わりの深さをみれば、この大倉主が高倉下命の別名である可能性もあるのではないか?
高倉神社(三重県上野市西高倉)
祭神&祖神 高倉下命、倭得玉彦命
社家 尾張氏
創建は阿倍氏系11代垂仁天皇の御代、高倉下命の七世の孫である倭得玉彦命がこの地に住し、先祖を祀り、その氏神としたことに始まる。倉庫守護神として近隣の人々に崇敬されている。
直ぐ近くには、阿倍氏の祖・大彦命を祀る、伊賀国一の宮・敢国神社(三重県上野市一之宮)があるのも興味深い。伊賀上野といえば、阿倍氏の支族である伊賀氏の本拠地だ。
興味深いことに、同名の高倉神社が福岡県遠賀郡岡垣町にある。こちらは遠賀郡の総社で、祭神は大倉主神と菟夫罹媛(つぶらひめ)命を倭国の菟田(うだ・宇陀)の人・伊賀彦を祝としてこの地に祀らしめたことが、仲哀天皇(息長氏系14代)筑紫行幸の段に見える。
初代祝(はふり・神主)は宇陀の「伊賀彦」。倭国の宇陀といえば、当に阿倍氏の本拠地・倉梯山の所在地であり、阿倍氏の支族に伊賀氏がいることから、伊賀彦は阿倍氏の人と考えられる。「倉梯」は高倉に架ける梯子(はしご)のことであり、何か関係があると思ってしまうのは私だけではあるまい。
所在地:善通寺市大麻町上ノ村山(祭神 天太玉命)丸亀京極家編纂の「西讃府誌」に「相伝ふ弟橘姫(おとたちばなひめ)は讃岐人穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘なり」という記述があり、弟橘媛の父忍山宿弥は大麻神社の神官を務めたとされる。
次いで13代成務天皇の5年(135)(ほぼ4世紀の前半)市人命を高志の国造に、大河音足に尼(竹内宿弥の孫)を伊弥頭の国造に賜った旨「旧事本紀」などに出て来るのが射水の初見である。また「古事記」によれば、第7代孝霊天皇の次子日子刺肩別の命が、後の高志の利波の臣や、越前角鹿(敦賀)の海直の祖であるといわれ、越中や越前に下られたのかもしれない。後に天平19年(746)東大寺大仏鋳造が始められる。利波臣志留志は、この日子刺肩別の末孫といわれ、天平時代にはすでに此の越中において有力な存在となるまでに成長していたものである。
予章記によると、越智氏の系譜の上古の部分は、以下のようになっています。
①孝霊天皇(太瓊尊)-彦狭島命(孝霊第三皇子)-小千御子(天狭貫王)-天狭介-
粟鹿-三並-熊武-伊但馬-喜多守-高縄
彦狭島命の母は、古事記では磯城県主の一族である蠅伊呂杼命となっており、欠史の八代の時代を担った
系譜である事が分かります。蠅伊呂杼命は和知都美命の子であり、越智(おち、おおち、おうち)の名の
ルーツはこの和知(わち)都美命ではないかと考えられます。
富家の認識では、磯城県主とは富家の倭の分家である磯城家のことであり、
祖は磯城津彦玉手見尊で、その子が和知都美命ということになります。
この磯城家の分家には、登美家があり、その分家には和仁家があります。
和仁家の系譜は、
②事代主命~玉手見命-和知都美-蠅伊呂杼-彦狭島命~①越智家
③事代主命~阿太賀田須命-和仁古-姥津媛命-日子坐王(粟鹿神社社家)-丹波道主王-
朝廷別王(砥鹿神社社家/草鹿砥家祖)
「箸中(ハシナカ)大市(オイチ)」
シイネツヒコ (倭国造) の七世孫という。
綿積豊玉彦─振魂─武位起─椎根津彦─志麻津見─武速持─邇支倍─飯手─御物─市磯長尾市
『書紀』市磯長尾市(いちしのながおち)。
★『書紀』倭国市磯(いちし)邑。穴磯邑の大市の長岡岬 (現・狭井神社)。
海神綿積--豊玉
玉依
穂高見
振魂----武位起----珍彦----志麻津見--武速持--
大鐸比売 八玉彦
---邇支倍--飯手宿禰--御物宿禰--市磯長尾市
民磯媛 御戈
神武・綏靖・安寧を第一世代とすれば、大倭氏のその同世代はむろん珍彦と八玉彦である。崇神と垂仁は第三世代であるから、崇神紀・垂仁紀に出る市磯長尾市も第三世代の人である。したがって志麻津見以下御物宿禰までは、十市氏系図と同様、書紀の系譜に準拠した架上であろう。
したがって現存する大倭氏の系譜は、その祖椎根津彦から傍流の系統を市磯長尾市まで辿り、その後は市磯長尾市を祖とする系譜である。そこに椎根津彦氏の正系の、崇神に滅ぼされるまでの系譜は当然のことながら存在しない。残らなかった。したがって椎根津彦とその後三代の系譜はこれを搜さなければならないのである。
えば、古事記には安寧天皇の孫「和知都美 命 」が淡路島の御井宮におられたと記されている。 はんぜい
また、日本書紀には、反正天皇が淡路島で生まれた際、近くに素晴らしい水が湧く井戸があり、 うぶのみや
その水を産湯につかったとされている。井戸があった場所として、旧三原町松帆の産宮神社境 うぶのみや しとおり はんぜい
内の井戸、産宮神社脇に流れる倭文川を渡ったところにある井戸が挙げられる。反正天皇の生 あわじのみや うぶのみや
まれた宮は「淡路宮」とされているが、産宮神社と産湯をとったという井戸があるこの近辺が あわじのみや
「淡路宮」ではないかと推測できる。
淡路島は、水不足に苦労した島ではある一方で、素晴らしい水が湧く島でもあった。古事記
では、仁徳天皇が朝夕2度、淡路島から水を取り寄せたとある。天皇が口にする水は「聖水」 おいしみず
であり、淡路島は「聖水」が湧く島だとされた。「聖水」は、現在の御井の清水であったのでは ないか。というのも、仁徳天皇は難波に都をおいたという記録があり、朝夕に淡路島から「聖 水」を取り寄せたとなると淡路島の大阪湾に面した側で湧いていた水であると考えられるから だ。
じゅんにん さ わ ら じゅんにん
淡路島へは、 淳 仁天皇と早良親王が流されてくる。 淳 仁天皇は、流された翌年に脱出を試
みるが失敗し捕らえられ、その翌日に亡くなったとの記録がある。捕らえられた翌日に亡くな じゅん
ったのならば病死とは考えにくい。淡路島には殺されたのではないかとの説もある。現在、淳 にん 仁天皇陵は南あわじ市賀集にあるが、明治3年につくられたものだ。志筑から郡家へ行く途中
じゅんにん じゅんにん の高島陵という墓地、三原平野に点在する 淳 仁天皇のお墓だとされる場所など、 淳 仁天皇の
お墓はここだという説が島内各地にある。
万葉集で兵庫県下の風景を詠んだ歌は 80 首ほどあり、その内、18 首が淡路島を題材にして
いる。しかしながら、淡路島に上陸し淡路島を詠った歌は1首もない。明石海峡を渡る際に、 また、対岸から詠った歌ばかりである。万葉集によく詠われた場所というと、松帆の浦、野島、 慶野、浅野の滝がある。
おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔の島も見ゆ さけつ島見ゆ とうたひたまひき。
この歌に登場する島々を一度に見るように解すると、都合のいい場所は諭鶴羽山や分水嶺の養宣上だろう。
仁徳天皇は洲本港付近から東を見ると、友ケ島が見える。淡島と淤能碁呂島が見える。
運河を通り抜けて松帆湊に出ると、まず眼前に小豆島が見える。現在はオリーブの産地だが、オリーブが育つ場所には檳榔(ビンロウ)が育つと言う。さけつ島とは三つに分かれている家島群島と見ていいのだろう。