庵原国、庵原氏、日子八井耳、吉備津彦の末裔 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 吉備
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景行天皇の時代に、豊国を治めていた菟名手(うなで)という人が、豊前国の仲津郡(なかつのこほり)の中臣村(なかとみのむら)にたどり着くと、そこで日が暮れたので、宿を取った。明朝、白い鳥が北から飛んできて、中臣村に集まった。菟名手が従者に命じてその鳥を見張らせていたところ、その鳥たちは餅となり、また、何千株ものサトイモになった。それは冬でも花や葉を生い茂らせていた。
菟名手はそれを見て驚き喜び、「化けて芋になるなんて、いまだかつて見たことがない。本当に神徳による天地からのめでたいしるしだ」と言って、天皇にこのことを奏上した。天皇は喜んで、菟名手…

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  • 式内社 大和國十市郡 下居神社
    御祭神 彦八井耳命

    奈良県桜井市にある。浅古から倉橋へ向う道沿いに鳥居がある。そこから緩やかに登り、頂上に鎮座。創祀年代は不詳。

    式内社・下居神社に比定されている古社。祭神・彦八井耳命が皇位を弟に譲り、宮居を去って春日県へ降居したため、「下居」という。

    天安元年(857)、従五位上を授けられた神社だが、近世までは天満神社と称されたらしい。
  • 先代旧事本紀によると、成務朝に伊許保止命が阿波国造(房総半島)に任じられたという。またその孫は、伊甚国造となっている。

    伊許保止命は、出雲臣の東国分派で、新撰姓氏録では穂日命の末裔とされるが、富家の伝承によると穂日命ではなく、大名持命の子孫であると言う。

    伊許保止命は、神名帳考証によると、群馬県渋川市(上野国群馬郡)にある伊香保神であると言う。伊香保神社の祭祀を行ったと
    考えられるのは、上毛野氏の阿利真毛野氏でその元となる毛野氏は、系譜研究家の宝賀寿男氏によると、事代主の後裔である磯城県主の系譜であると言う。その証拠に、上野国の式内社には、磯城県主・事代主の一族を祀った神社が数多くある。宝賀寿男氏は、吉備族や能登国造
    もルーツは磯城県主であるとする。
  • 能登国、毛野国、阿波国の開拓者として、神門臣の伊許保止命と磯城県主~吉備族が浮かび上がってくる。

    富家の伝承では、吉備族は孝霊天皇の時代に、物部連が倭に移住してきたため、吉備国に移住し、更に同族であった出雲族に対して出雲国西部(仁多郡と飯石郡)の鉄を欲して攻撃を仕掛けたと言う。出雲国西部を支配していた神門臣家は、吉備に破れたが、東出雲側の戦は膠着状態になり、吉備と出雲は和平を結んだと言う。

    出雲国風土記を見ると、仁多郡には吉備系(丹比部臣)の人が郡司になっており、また神門郡には、式内社の加夜神社があって、吉備津神社社家と同族の-賀夜氏の居住が認められる。

    吉備と神門臣は戦の後、和平を結び同化したと見られ、垂仁・景行の時代に朝廷の軍事に協力するようになったと言う。その証拠に、神門臣と吉備氏から建部臣の姓が出ている。
  • 吉備と毛野は同族
    阿波国は、徳島であった粟国から忌部の集団が移住したと古語拾遺にある。
    古語拾遺を裏付ける事情として、阿波国(徳島)には、 天佐自能和氣神社 があって日子刺肩別尊(彦狭嶋命)を祀る。毛野氏後裔の佐自努公に関わる神社と見るのが自然で、吉備氏の
    彦狭嶋命が神社で祀られるのは、毛野氏と吉備氏が同族である事が理由と考えられる。またこの神社の近傍には、多祁御奈刀弥神社がある。
  • 宜物部 (あんぎのもののべ)

    無姓。「旧」天神本紀に、饒速日命に供奉して天降ったことがみえる。 ウヂ名の菴宜は伊勢国奄芸郡奄芸郷にちなむか。巷宜(そが)と読む場合は、大和国高市郡の曽賀、または筑前国早良郡曽我部郷に縁故のものと考えられる。

    奄智蘊 (あんちのかづら)

    連姓。奄智は大和国城下郡の奄知村の地名にもとづくか。また、雄略紀二十三年に筑紫安致臣某がみえ、筑紫に安致の地名があったことが考えられる。
  • 岡山市『吉備津神社』では、その『御竈殿の鳴釜神事』に奉仕する『阿蘇女』によって奉仕されたものと考えられる。

     王宮では、『火雷神に奉仕する玉依姫』のまつりは「崇神禍」でそうであったように「天武禍」で廃されていたが、『嵯峨天皇の810年』になって『齋王』の名で復活し、伝統的『火雷神』のまつりの事代の主『鴨氏』から迎えられた、ものと推理する。

     つまり、『阿蘇と吉備』の関係は「国造」だけでなく、「吉備の伝説」にある『温羅有鬼(有木)』の霊を弔う「阿曾女」なる「巫女の名称」からも窺われ、「和名抄・吉備国賀陽郡」に『阿曾郷』があり、現総社市の『東阿曾と西阿曾』の地域に比定されるが、

     『中世以降「阿曾の鋳物師」の本拠となり、また吉備津神社の釜鳴神事に仕える巫女阿曾女の里としても知られる』(岡山県の地名 674頁)
  • 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して静岡浅間神社といい、何れも創立は千古の昔にさかのぼる。大己貴命は少彦名神社の祭神とともに、この国土の経営にあたられた。そのご神徳により、延命長寿・縁結び・除災招福の神として信仰される。


    静岡市街地に接する賎機山(しずはたやま)の麓に以下の三社が鎮座する。

    神部神社 (かんべじんじゃ)
    祭神:大己貴命 (おおなむちのみこと) - 駿河国開拓の祖神
    崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられる。延喜式内小社で祈年の国幣に預った。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた。
    浅間神社 (あさまじんじゃ)
    祭神:木之花咲耶姫命 (このはなのさくやひめのみこと)
    全国にある浅間神社の一社。延喜元年(901年)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきた。
    大歳御祖神社 (おおとしみおやじんじゃ)
    祭神:大歳御祖命(おおとしみおやのみこと) - 倉稲魂神・大年神の母神で、神大市比売命を指す
    応神天皇の時代(約1700年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。延喜式内小社で祈年の国幣に預った。
    三社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきた。明治21年、三社別々に国幣小社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社となった。現在は一つの法人格となっている。

    鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にある。また、静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院がある
  • 『古事記』では、日子八井命について茨田連・手島連らの祖とする
    『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている

    右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
    山城国皇別 茨田連 - 茨田宿禰同祖。彦八井耳命の後。
    摂津国皇別 豊島連 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。
    摂津国皇別 松津首 - 豊島連同祖。
    河内国皇別 茨田宿禰 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。同条では、子に野現宿禰の名を挙げる。
    河内国皇別 下家連 - 彦八井耳命の後。
    河内国皇別 江首 - 彦八井耳命七世孫の来目津彦命の後。
    河内国皇別 尾張部 - 彦八井耳命の後。
  • 豊城入彦ー八綱田命ー彦狭島命ー御諸別命ー大荒田別命ー賀表真稚命ー稚彦ー阿利真公

    御諸別命の兄弟が、夏花命(後裔が物部公)
    大荒田別命の兄弟が市入別(播磨鴨国造)
  • 『日本書紀』景行天皇40年7月16日条によると、日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたという。また同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流した。そののち日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされたという

    関連して『古事記』景行天皇段では、吉備武彦と同一人物かは定かでないが、吉備臣らの祖の「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされたことが記されている[1]。

    また『新撰姓氏録』右京皇別 廬原公条では、景行天皇の時に稚武彦命の孫の「吉備建彦命」は東方に派遣され、毛人を討って「阿倍廬原国」に到ったのち、天皇に復命した日に廬原国を賜ったとする。
  • 庵原氏は廬原国造の家系である。日本書紀の伝えるところによると景行天皇の時代、日本武尊東征の際の副将、吉備建彦が蝦夷征伐の功によりこの地(駿河国)に封ぜられる。廬原国造の祖、意加部彦は吉備建彦の子、建彦は日本武尊の外舅なり、とある。以後永くこの地を治め、倭国の将としても度々歴史上に登場する。

    663年中大兄皇子の外征「白村江の戦い」では、この一族の廬原君臣が一軍の将として戦った。天智紀二年條に「大日本の救将廬原君臣が健児万余を率い、正に海を越えて至る」との記述があり、常時かなりの勢力を誇っていた。後に菴原の字を用い、後世は多く庵原の字を用いた。室町時代になると今川氏傘下に入るものの、地方豪族としての勢力は衰えなかった。「今川仮名目録」には明応の頃、庵原周防守という人物が親族間の借金問題で今川氏親に仲裁を求め、今川は貸主の庵原左衛門に周防守の料所のうち焼津郷を引き渡して分家させこれを収めたという記述があり、駿河に複数の庵原家があって一族がこの地で栄えていたことが伺える。

    1560年の桶狭間の戦いで今川勢とともに一族多数を失った後、戦国大名としての今川氏が滅ぶと一族も離散する。最後まで今川に殉じた者、甲斐武田へ仕官した者、徳川に仕官して幕臣となった者など、系譜は多岐にわたる。地元駿河が後に徳川幕府の御領となってからも庵原家は地頭として焼津郷に存続し、明治を経て昭和までこの地に系譜が残っていた。
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