大日霊女貴、向津毘売、天照大神、素戔嗚 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
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日本書紀、古事記以前の名称は、大日霊女貴であり、諡は、撞賢木厳御魂天疎向津毘売。
宮崎県の東端、阿波岐原町で生まれたと考えられる。この地方の豪族、伊弉諾いざなぎ、伊弉冉いざなみの子として生まれる。

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  • スサノオは、ニギハヤヒを大和へ送り込んだ数年後、出雲の八雲村熊野で亡くなった。
    そのあとを継いだのが、末娘のスセリヒメである。オオクニヌシは、相続人であるこのスセリヒメの夫であった。

    したがって、スサノオが没すると、自動的に出雲から九州にかけての広大な国の長となった。
    「大国主」と呼ばれたのはそのためである。

    つまり、オオクニヌシは、養子として迎えられたのであって、スサノオ家とは血縁関係はない。
    この為、のちに日向系によって出雲の国魂神に祀り上げられた。養子に来る前のオオクニヌシの素性については、不明な点が多く、父母が誰であったかもよくわかっていない。

    生まれたのは、西暦160年頃で、出生地は現在の島根県飯石郡三刀屋街あたりか。
    スセリヒメの婿になっている。
    スサノオが死亡した時、彼は24~25歳になっていたようだ。性格は、名前とは反対に、国主としての器ではなかったらしい。
    武人というよりは学者肌であり、そのことは大国主を祀る神社に、薬の神や医学の神として伝えられている場合が多いことからもわかる。

    オオクニヌシとスセリヒメの間には、3人の子が生まれた。
    その末子が、国譲りで有名になる武御名方(タケミナカタ)であった。タケミナカタは末子であるから、正統な相続権があった。
    しかし、困ったことに、オオクニヌシは日向でも妻をもち、ここでも子をもつため、相続権をもつ者が2人現れてしまうのである。
    これが、のちに日向と出雲の相続権争いに発展する原因となる。

    スサノオが亡くなったとき、オオクニヌシもまだ若かったために、実質的な国の運営は出雲の然るべき人材が行なっていた。
    九州にも役人が置かれ、アマテラスの住む日向には、ときどき顔を見せる程度であったようだ。
    後年、日向の都である西都に滞在する期間が長くなるにしたがい、アマテラスは、大人しくて気立ての優しいオオクニヌシのことを
    すっかり気に入ってしまったらしい。

    そして、自分がスサノオの日向における現地妻になったように、愛娘の多紀理姫(タギリヒメ)を妻として与えた。
    アマテラスにはスサノオとの間に3人の娘がいたが、そのうちの長女がタギリヒメである。
    このタギリヒメは出雲名を三穂津姫(ミホツヒメ)といった。

    また、大変に美しい娘であったとみえて、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)とも呼ばれた。
    木花咲耶姫といえば、ニニギノミコトの妻神とされているが、実際は、このタギリヒメだったようである。

    タギリヒメとの間にも、3人の子が生まれた。
    高日子根(タカヒコネ)、高姫(タカヒメ)、
    事代主(コトシロヌシ)である。
    出雲名を、それぞれ武角身(タケツノミ)、
    下照姫(シモテルヒメ)、伊毘志都幣(イビシツヌ)といった。
    この末子のコトシロヌシを擁した日向族が、相続権を主張して出雲に乗り込んで来ることになる。
    なお、タカヒコネは、神武天皇の東遷の際に同行し、その功績はヤタガラスとして『記紀』にも出てくる人物である。

    オオクニヌシにとって、出雲は居心地のよい場所ではなかったようだ。
    自分は養子で、義兄たちにいじめられていたという伝承が残っている。
    また、正妻であるスセリヒメは、
    父スサノオの相続人としての気位を持っていたらしく、またスサノオ譲りの血は、末子のタケミナカタに受け継がれ、オオクニヌシはどちらかというと、彼ら母子に圧倒されてしまいがちであったようだ。
  • 天照大神の荒御魂(撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。兵庫県西宮市、西宮の地名由来の大社である廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。廣田神社はかつて六甲山全山を領地としていたが、六甲山は元は向津(むかつ)峰と呼ばれ、それが武庫(むこ)となり、江戸時代ごろより六甲(むこ)と表記され、明治以降「ろっこう」と音読みされるようになった。『元亨釈書』には空海とともに神呪寺を創建した淳和天皇妃、如意尼=真名井御前の眼前、六甲山・甲山に廣田神社祭神が出現されたことが記されている
  • 「万葉集」「持統女帝と柿本人麿の歌」

    「持統女帝」の歌(162番)と「柿本人麿」の歌(167番等)に共通して織り込まれ、古事記の歌にも四カ所に見出される

    『日之御子・日之皇子=ひのみこ』

    に、その裏付けを仮構する。

     この『日の御子』なる詩句が「作者と日時」を明確にしながら日本史に登場するのは、天武天皇と持統皇后の間に生まれた皇太子「草壁皇子」の若死した葬儀の場で、689年・持統3年に「柿本人麿」が詠んだ万葉集の次の歌になる。

     奇妙なことに、「日時」の明確な「最古」の『天皇』という表記も、この歌にあってのものとされる。

     天地の 初めの時の ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神はかり はかりし時に 天照らす 日女の命 (一に云ふ、「さしのぼる  日女の命」) 天をば 知らしめすと 葦原の瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の八重かき分けて(一に云ふ、「天雲の八重雲分けて」) 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます国と 天の原 岩門を開き 神上り 上りいましぬ (一に云ふ、「神登り いましにしかば」) 我が大君皇子の尊の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと望月の たたはしけむと 天の下 (一に云ふ、「食す国」) 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさず 日月の まねくなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも(一に云ふ、「さす竹の 皇子の宮人ゆくへ知らにす」(日本古典文学全集 萬葉集 小島憲之 他校注・訳 小学館)

     『天地の初めの時』で始まるのは「古事記」もそうで、柿本人麿が記・紀神話にかかわったとする研究者は古来、少なくないようである。「柿本人麿」については、なかんずく、梅原猛著「水底の歌」(集英社版)を参考にさせてもらうが、梅原も、『このような神話あるいは神道の成立に人麿は一役買っていたのではないか』(梅原猛著作集第11巻 469頁)と述べ、同じく「日の御子」を歌う持統女帝の次の万葉歌(162番)にも注目される。
     
     天皇の崩(かむあが)りましし後の八年の九月九日、奉為(おほみため)の御斎会(ごさいゑ)の夜、夢の裏(うち)に習ひ賜ふ御歌一首

      明日香の 清御原(きよみはら)の宮に 天の下 知らしめしし
      やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子
      いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も
      なみたる波に 潮気のみ かをれる国に うまこり
      あやにともしき 高照らす 日の御子

     天武天皇没後8年、693年に、妻の持統女帝が詠みこんだ「日の御子は、夫・天武天皇を指す」とされる。女帝にとって、「夫・天武天皇は日神の日嗣」と意識されていたものと見なし得る。

     「柿本人麿」の名は国史「日本書紀」になく、確認できる人麿のライフは、万葉歌から知られる「689年から700年まで」の11年間で、その死も「702年12月の持統女帝薨去のころ」とされ、「死を命ぜられ、石見の国で水死」などともされる。そして、「日の御子」も、これら11年の間に詠まれた「万葉歌10首」に認められる。
  • May 2018 編集されました
    「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」といふ言葉は、『古事記』の景行天皇記の美夜受比売(みやづひめ)の御歌に最初に登場する。現御神信仰は、わが國古代以来今日まで繼承されて来たてゐるのである。
    ーーー
    柿本人麻呂

    45番歌
    「やすみみし 我が大君 高照らす 日の皇子 神(かむ)ながら 神さびせすと 太敷(ふとし)かす京を置きて こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 真(ま)木立つ 荒き山道(やまぢ)を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかどり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕(ゆふ)さり来れば み雪降る 阿騎の大野に はたすすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしへ)思ひて」

    短歌

    46番歌

    訳文

    「阿騎の野に野宿する旅人は、横になって寝ることなどできようか、古のことを思うと」

    歌は草壁の遺児軽皇子(のちの文武天皇)が阿騎野に狩に出かけらた時の人麻呂の作である。軽皇子を草壁皇太子の後継たらしむべく、亡父草壁曾遊の地において狩をおこなわせたのである。それゆえ長歌は冒頭から「やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと」と最大級の賛辞で軽皇子の遊猟を表現する。「高照らす 日の皇子」という表現は、天武天皇に二例(巻二・162、167)、持統天皇に二例(巻一・50、51)ほかに一例(持統と推定される)(巻十三・3234)を見るだけであり、「神ながら 神さびせすと」も、持統天皇の吉野での国見(巻一・38)に用いられただけの表現である。
  • May 2018 編集されました
    人麻呂の長歌には、天武天皇のことをさして「高照」が使われ、皇位につかなかった草壁皇子に「高光」が使われていると、明確な区別がある。

    草壁皇子の死後、太政大臣とはいえ、実質的な皇太子として、
    「後皇子尊(のちのみこのみこと」と呼ばれた高市皇子ですが、696年に急死します。
    持統天皇はその後ようやく念願の軽皇子の立太子を成し遂げるのです。

    その時も柿本人麻呂のは挽歌をささげるのですが、ここには「高照」も「高光」も出てきません。

    その後、巻2の204に、天武天皇の皇子、弓削皇子(母は天智皇女の大江皇女)の挽歌があり、
    「高光る日の皇子」が使われます。作者は置始東人です。
  • 天武天皇の皇子、長皇子(弓削皇子の同母兄、母は天智皇女の大江皇女)が
    「高光る 吾が日乃皇子乃」と歌われます。

    歌ったのは柿本人麻呂です。

    また261番では、藤原鎌足(中臣鎌足ですよ)の娘五百重郎女が生んだ新田部皇子に、「高輝 日之皇子」が使われます。
    これも柿本人麻呂です。
  • 高光る
    Takahikaru

    記の歌謡・万葉集に見られ、大半が「日の皇子」に冠して用いられるが、「日の宮人」(記)、「日の大朝廷(おほみかど)」(5-894)に冠した例もあり、高く光り輝く意で日にかかる枕詞と考えられる。
    もっとも、万葉集には仮名書き例がなく、「高光」「高輝」「高照」の表記についてタカヒカル・タカテラスとよみ分けるか、すべてをタカテラスとよむかで古来論議がある。

    万葉集の表記例のうち、「高照」については対象が明記されない1例(13-3234)を除くと、他は天武天皇・持統天皇・軽皇子(後の文武)に限られるという顕著な特色があり、「光」「輝」の訓義ともかかわってよみ分けを考える傾向が強い。

    それによると、「高光る」の例はいずれも持統朝の作で、日の皇子とたたえられた人物も草壁(2-171、1731)、長(3-239)、新田部(3-261)、弓削(2-204)と、天武の皇子に限られている。一方、記の例でその対象されるのは倭健命、仁徳天皇、雄略天皇の3名である。
  • 持統天皇 生前  吾大王 所聞食
             吾大王 高輝 日之皇子
             吾大王 神長柄 神佐備世須登
             吾大王 高照 日之皇子
             和期大王 高照 日之皇子
             皇者 神二四座者
    文武天皇 生前  吾大王 高照 日之皇子 (軽皇子時代?)
    元明天皇 生前  天皇乃 御命畏美
             吾大王 物莫御念

    草壁日並皇子尊  即位前の皇太子
         死没後 吾王 皇子之命
             高光 我日皇子
             高光 吾日皇子
    高市後日並皇子尊 太政大臣 
         死没後 吾大王乃 所聞見為
             吾大王 皇子之御門乎
             吾大王 萬代跡
             我王者 高日所知奴 (或る書の反歌)
    弓削皇子 地位 (地位不詳)
         生前  吾王 高光 日之皇子
             王者 神西座者
    長皇子  地位  太政大臣
         生前  吾王 高光 吾日之皇子
             我大王者
             吾於富吉美可聞(わご大王かも)
             皇者 神尓之坐者
  • 草壁皇子の舎人の歌が23首続きます。
    その1首目と、3首目に「高光」が出てきて、草壁皇子を指します。

    高光る 吾が日の皇子の 万代(よろずよ)に 国知らさまし 嶋の宮はも 2-171
    (わが日の皇子が永久に国を治められるはずであったこの島の宮よ)

    高光る 吾が日の皇子の いましせば 嶋の御門(みかど)は 荒れざらましを 2-173
    (わが日の皇子が おられたならば島の宮も 荒れなかったろうに)


    この23首の歌は、大変悲しみにみちていて、舎人の心情がよく出ているというのが、一般的な評価のようです。
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