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364年 百済人久氏ら、卓淳国を尋ね、倭国との通交を求とめる。 366年 倭国の斯摩宿禰、卓淳国へ行き、使者を百済におくる。 367年 千熊長彦を遣わして新羅を責める。 369年 新羅を攻め、比自体(ひしほ)以下の7国を平定し、比利以下の4邑を降伏させる。 372年 百済の肖古王、久氏らを倭国に遣わし、七枝刀1口・七子鏡1面をおくる。 382年 襲津彦を遣わし、新羅を攻める。 390年 神功皇后没年(日本書紀269年)
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『神功紀』九年冬十月三日の条に「新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は、微叱己知珍干岐(みしこちとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・かとり絹を沢山船にのせて軍船に従わせた。」とある。一方、『三国史記』には、実聖王元年(402)3月に倭国と通好して、奈勿王の子・未斯欣を人質としたが、納祗王(ヌルジワン)二年(西暦418年)の秋に王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ったと記している。
新羅本紀第三 実聖王 尼師今の七年(西暦408年)条には、実聖王は倭人(日本人)が対馬に基地を設置して、武器と資材・食糧を貯えて、新羅を襲おうと準備しているという情報を手に入れた。王は、倭(日本)が動き出す前に精鋭の兵を選び、敵の兵站基地を撃破しようと思ったが、部下の未斯品が諌めて言った。「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません。」これに従って王は思いとどまった。
である。正統 竹内文書より
滋賀県 郷社「浅野神社」高島市津町角川95
郷社「津野神社」高島市今津町北仰316-1
・祭神:紀角宿禰・角疑魂神・武内宿禰
村社「坂本神社」高島市マキノ町上開田609-2
・祭神:木角宿禰命