葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしま
う。
『古事記』によると、須佐之男神と櫛名田比売の子が、八島士奴美神。
八島士奴美神と木花知流比売の子が、布波能母遅久奴須奴神。
布波能母遅久奴須奴神と日河比売命の子が、深淵之水夜礼花神。
深淵之水夜礼花神と天之都度閇知泥神の子が、淤美豆奴…
コメント
古代における祭祀の形です。
1. 出雲大社境内遺跡からは、祭祀の用いたと考えられる勾玉や臼玉が
発見されました。これらは4世紀後半のものと推測されるものでしたが、
勾玉は松江市の花仙山産の瑪瑙製。臼玉は滑石製でした
2. 一方、三輪山麓の三輪馬場山ノ神祭祀遺跡からも、碧玉勾玉と滑石製
の臼玉が発見されているのです。この遺跡からは、他にも素文鏡、土製
模造品、石製模造品などが発見されていますが、磐座(いわくら)と目
される巨石露頭の基部から大量の祭祀遺物が発見されています。
また、これらの出土品は、これも4世紀後半と見られるものでした。
3.これと共通性を持っているのが、福岡県の沖ノ島の宗像大社沖津宮祭
祀遺跡から発見された遺物です。
ここで発見されたのは、鳥文縁方格規矩鏡に硬玉製の勾玉、滑石製の
勾玉、そして碧玉製の勾玉に、それから、やはり滑石製の臼玉でした。
そして、やはり、岩の上で祭祀を行ったと見られ、これらの出土品も
まあ4世紀後半と推測されるものだったのです。
このように、出雲と三輪、そして沖ノ島に共通した祭祀遺跡とそこか
らの出土品が見つかったことは、神話・伝承に歴史的事実が下敷きとし
てあることをうかがわせるのです。
沖津宮(おきつみや) 田心姫神(たごりひめ)
中津宮(なかつみや) 湍津姫神(たぎつひめ)
辺津宮(へつみや) 市杵島姫神(いちきしまひめ)
古事記では
多紀理毘売命、またの名を奥津島比売命は胸形(宗像)の奥津宮に坐す。
市寸島比売命、またの名を狭依毘売命は胸形の中津宮に坐す。
多岐都比売命は胸形の辺津宮に坐す
となっている。
古事記には
大国主命、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売命を娶って生める子は、
アジスキタカヒコネの神、次にタカヒメノミコト、またの名をシモテルヒメノミコト
である。
大和葛城の鴨の坐す神で、三輪氏と同じくオオタタネコを始祖とする
鴨君が祭祀する神ですから、出雲・沖ノ島・大和(三輪と鴨)が結び
ついているわけです
天の真名井で、お互いの持ち物を交換して、その持ちものを天の真名井で清めます。狭霧が立ち込める中でも判るように、口笛を吹いて人を呼び集めます。集まった人数で勝敗を決めるらしいです。
アマテラスに集まった人の名は、天忍穂耳命、天菩比命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須比命です。スサノオに集まった人の名は、多紀理比売(胸形の奥津宮)、市寸島比売命(胸形の中津宮)、多岐都比売命(胸形の辺津宮)です。アマテラスのほうが、人数が多いので、アマテラスが私の勝ちだと言いますと、アマテラスの持っていた持ち物は、スサノオノ持ち物ですから、スサノオの持ち物にあこがれて集まったから、自分の勝ちだと宣言しました
この次に書かれていることが重要なのです。
多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す。
次に市寸島比売命は、胸形の中津宮に坐す。
次に田寸津比売命は、胸形の辺津宮に坐す。
この三柱の神は、胸形君等のもち拜く三前の大神なり。
故、この後に生れし五柱の子の中のに、天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり。
次に天津日子根命は、凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等が祖なり。
武日照(たけひなてる)命の、天より将(も)ち来たれる神宝(かむたから)を、出雲大神の宮に蔵(おさ)む。是を見欲(みまほ)し。
という天皇の詔があり、それが原因で出雲臣一族の間で争いが起こり、出雲振根が誅殺されてしまう、という記述があります。武日照命の注に、「一に云はく、武夷鳥(たけひなとり)といふ。又云はく、天夷鳥(あめひなとり)といふ」とあります。
上総国望陀郡。金鈴塚古墳など小櫃川下流域の木更津市内にある祇園・長須賀古墳群は、馬来田国造が造営したと考えられている。
ホムツワケに鵠を献上して名をあげた鳥取造(連)の祖先である角凝魂命三世孫、天湯河桁命(アメノユカワタナ)は天津彦根命の別名であると考えられる。
ホムツワケに同行した曙立王の祖母・山代之荏名津比売も天津彦根命の子孫、山代(山背)国造長溝の娘である。祖父は和邇・息長と関係の深い彦坐王。
垂仁帝には山代(山背)国造の大国不遅の娘二人(苅幡戸辺、綺戸辺)が嫁ぎ、姻戚関係にもあった。
(日本書紀が、誉津別命に白鳥を献上したのが鳥取造の祖『天湯河板挙』とのみ記して、通常、神名に着ける『命』の尊称を故意に避けているように見えるのは、オオクニヌシの国譲り前段で、義父に媚びて葦原中国の主になった反逆者・天稚彦[天若日子]にも命の一文字が与えられていない編集方針と一致していると思われます。
また、垂仁帝と『角凝魂命の三世孫』が会話できるはずは有りません)
兄弟たちはまだ諦めず、今度は裂いて楔で止めた大木の隙間に無理やり入らせて、楔を外してはさみ殺してしまいました。二度も騙される大穴牟遅神。
しかし、兄弟たちはまだ彼の命を狙っています。このままではまた殺されてしまうでしょう。母は息子を紀伊国の大屋毘古神オホヤビコのカミの屋敷に逃がしました。しかし兄弟たちはそれを追い、弓に矢をつがえて大穴牟遅神の引渡しを要求します。モテない男の嫉妬は怖いです。大屋毘古神は木の股の間からこっそり大穴牟遅神を逃がし、「須佐之男命がいらっしゃる根の堅州国かたすくにへ行きなさい。きっと大神がなんとかしてくださるでしょう」と言いました
「岡の宮」の通称があるほか、「吉宗公拾い親神社」を称する。
主祭神は次の2柱。
道臣命 (みちおみのみこと)
大伴氏祖。『古事記』によると、神武天皇の東征において先鋒を務めたという。
大伴佐氐比古命 (おおとものさでひこのみこと)
『日本書紀』では「狭手彦」と表記。大伴金村の子で、『新撰姓氏録』によると道臣命十世孫とされる。朝鮮半島に派遣され武功を挙げたという。
刺田比古神社は数々の兵乱により古文書・宝物等を失っているため、古来の祭神は明らかとなっていない。『紀伊続風土記』(江戸時代の紀伊国地誌)神社考定之部では刺国大神・大国主神とされており、明治に入って変更があったと見られている。社名は古くから「九頭明神」とも称されたと言い、『紀伊続風土記』所収の「寛永記」や天正17年(1589年)の棟札に「国津大明神」、慶安3年(1650年)の石燈籠に「九頭大明神」、延宝6年(1678年)の棟札に「国津神社」ともある。以上から、この「九頭」は「国主」の仮字であり、本来は地主の神とする見解がある。神社側の考察では、祭神さえもわからないほど荒廃した刺田比古神社を氏子が再興した際、氏子が「国を守る神」の意で「国主神社」としたとして、また大国主命を祭神とする伝承も生まれたとしている。
(現代語訳)
そこで須佐之男命は、妻の櫛名田比売と、寝所で夫婦の交りを始めて、生んだ神の名は八島士奴美神という。また大山津見神の娘の、神大市比売という名の神を妻として生んだ子は、大年神、次に宇迦之御魂神の二柱である。兄の八島士奴美神が、大山津見神の娘の、木花知流比売という名の神を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神である。この神が、淤迦美神の娘の、日河比売という名の神を妻として生んだ子は、深淵之水夜禮花神である。この神が、天之都度閇知泥神を妻として生んだ子は、淤美豆奴神である。
この神が、布奴豆奴神の娘の、布帝耳神という名の神を妻として生んだ子は、天之冬衣神である。この神が、刺国大神の娘の、刺国若比売という名の神を妻として生んだ子は、大国主神である。この神のまたの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八干矛神といい、またの名は宇都志国玉神といい、合わせて五つの名がある
キサガイヒメは赤貝を、ウムギヒメは蛤を神格化したものと考えられている。『古事記』『出雲国風土記』の両者において神産巣日之命(神魂命)と関係を持ち、前者では神産巣日之命に派遣されて大国主神の治療に従事、後者では神魂命の御子神であると記されている
別々に登場し、ともに神魂命の御子神とされる以外の関連性は明示されていない。キサカヒメ命は加賀の神埼で佐太大神(佐太神社の祭神)を産み(嶋根郡加賀郷条と加賀神埼条)、ウムカヒメ命は法吉鳥(ほほきどり ウグイスのこと)と化して法吉郷(現在の島根県松江市法吉町周辺)に飛来、その地に鎮座したと記す(同郡法吉郷条)。
『出雲国風土記』のキサカヒメ命の出産の説話には、『古事記』の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)が比売多多良伊須気余理比売を出産する説話や、『山城国風土記』逸文の玉依日売が可茂別雷命を出産する神話などの、いわゆる丹塗り矢型神話との類似性が窺われる。
大山津見──木花知流比賣
├───布波能母遅久奴須奴
素盞嗚尊──八島士奴美 ├───深淵之水夜禮花
淤迦美──日河比賣 ├─────淤美豆神
布怒豆怒──天之都度閇知泥神 ├─────天之冬衣神
刺国大──布帝耳神 ├─────大国主
刺国若比賣