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阿曇氏が大王家に登用されたのは宗像氏を押さえるためで、応神(在位:270年~310年)三年に海人族(海部=あまべ)を統括することになりました。そして東方の内陸に進んだ阿曇一族は八世紀後半まで栄えて、近江や山城、尾張や信濃にまで勢力を拡げて、渥美・安積・安曇川・安曇野などの地名を残しています。 しかし五世紀初め頃に、中央での海人族の統率権は大海(凡海)氏に移されました。大海氏は安曇氏から分かれた同族で、いずれも尾張氏の流れを汲む一族で…
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御祭神
誉田別尊 氣長足比賣尊 足仲彦尊 和多須美命 大鷦鷯尊
香川県さぬき市にある。
JR高徳線造田駅の西500m。
道路に面して南向きに鎮座。社前を鴨部川が流れる森。境内入口の横には稲荷神社がある。
創祀年代は不詳。
古来、和多須美命を祀り、造田明神と称していたが、
仁和二年、石清水八幡宮より八幡の神々を勧請し、
造田八幡宮となり、造田郷の総鎮守として
尊崇された神社。
和多須美命に関しては『郷社造田神社誌稿』に「豊玉姫父命ニ座ス」とあり、
和多津見命と同じ神のようだ。
よって、布勢神社、造田八幡とも呼ばれた神社だが、明治三年、造田神社と改称。
当社の特殊神事に、鳴釜神事があり、3つの釜を使用する。中央の釜が、大神の御饌を炊く釜で、残りの2つを神事に使用する。釜が鳴動すれば吉祥、無音なら凶だそうだ。
『古事記』は、宗像大社の3女神がスサノオの剣によって生まれた神
としています。
父イザナギから海原を治めよ、と言われたスサノオは亡くなった母を
恋しがり、大人になっても泣いてばかりいたので、イザナギの怒りを買
い追放されてしまいます。
その時のスサノオの行動を『古事記』は次のように伝えています。 さて、父イザナギに海原を追放されたスサノオは、
「旅立つ前に姉のアマテラス大神にご挨拶をしよう」と、思い立ち、高天の原に向かいますと、世界が地震のように揺れまし
た。
これにはアマテラスも驚き、「弟が来るのか。これはよいことで来るのではあるまい。きっとわが国を奪い取るつもりにちがいない」と、考え、みずから武装してスサノオを待ちました。そして、やって来たスサノオに向かって、 「何しにまいった?」と、問いかけますと、スサノオが答えて言うことには、「僕は悪さをするつもりで来たのではありません。実は、父様から
、僕が泣いてばかりいる理由を尋ねられたので、『僕は母様の国に行きたいのです』と、答えますと、『お前はこの国にいてはならん』と、おっしゃられて追放されてしまったのです。それで去りゆく前に、姉様にことのいきさつをお話ししようと思ってやって来たまでです。決して邪心はありません」
これを聞いたアマテラスは、
「ならば、お前に心が清らかなことをどのように証明する?」
と、尋ねられました。
それに対してスサノオは、
「では、お互い、占いによって子どもを生みましょうぞ」
と、提案しました。
2神は、天の安河(あめのやすかわ)に行きますと、まずアマテラスが、スサノオの剣をもらい、それを3つに折り、天の真名井(あ
めのまない)に振りすすぎますと、それを口に含んで噛み砕きました。そして、それをふっと吹きますと、霧のようなその息吹の中か
ら3柱の女神が生まれました。
タキリビメノミコト(多紀理毘売命)またの名をオキツシマヒメノミコト(奥津島比売命)、
イチキシマヒメノミコト(市寸島比売命)またの名をサヨリビメノミコト(狭依毘売命)、
タキツヒメノミコト(多岐都比売命)
の3神です。
今度はスサノオの番です。スサノオはアマテラスの左の髪の髪飾りの珠をもらいますと、それを天の真名井に振りすすぎ、口に含ん
で噛み砕きました。そして、それをふっと吹きますと、霧のようなその息吹の中から1柱の神が生まれました。
マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)
です。
次に右の髪の髪飾りの珠をもらいますと、これも口に含んで噛み砕きました。そして、それをふっと吹きますと、霧のようなその息吹の中からまた1柱の神が生まれました。
アメノホヒノミコト(天之菩卑能命)
です。
3つ目の珠も同じようにしてふっと吹きますと、
アマツヒコネノミコト(天津日子根命)
が生まれました。
4つ目の珠からは、
イクツヒコネノミコト(活津日子根命)
が生まれました。
5つ目の珠からは、
クマノクスビノミコト(熊野久須毘命)
が生まれました。
こうして5柱の神が生まれたのでした。
大化の改新(645)によって国郡の制が布かれると、全国七大社に神領が設置され、宗像は九州では唯一の神郡として宗像大社の神領に定められた。胸形君は神主として神社に奉仕するとともに、神郡の大領をも兼帯しその行政をつかさどった。皇室との関係も深く、胸形君徳善の女尼子娘は天武天皇の妃となり、高市皇子を生んだと伝えられている。
天元二年(979)、大宮司職が設けられ、宗像(胸形から改め)氏による権威体制が確立した。源平の争乱を経て鎌倉時代になると、宗像大宮司家も次第に武士化し、時代に翻弄されながらも宗像氏は戦国時代末まで勢力を維持しつづけたのであ
氏族 神社 その祭神
安曇族ーー住吉神社 現人神社(あらひとじんじゃ) 福岡県筑紫郡那珂川町仲
御祭神 住吉三神
(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
志賀海神社 、福岡県福岡市東区志賀島
主祭神の3柱は「綿津見三神(わたつみさんしん)」
左殿:仲津綿津見神、左殿相殿:神功皇后
中殿:底津綿津見神 中殿相殿:玉依姫命
右殿:表津綿津見神 右殿相殿:応神天皇
怡土族ーー高祖神社 福岡県糸島市高祖1578
御祭神 天津日高彦火々出見命(火遠理命(山幸彦)、玉依比売命、
息長足姫(神宮皇后)
弦田物部氏ーー赤星神社 福岡県久留米市高良内町759番 御祭神 筑紫弦田物部祖天津赤星
水沼氏ーー弓頭神社 福岡県久留米市三瀦町高三瀦521 御祭神 国乳別皇子(景行天皇の皇子)
弓削氏ーー後藤寺春日神社 田川市宮尾町
御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
布都主命(ふつぬしのみこと)
豊櫛弓削遠祖高魂産霊命
天津児屋根命
姫大神(ひめおおかみ)
二田物部ーー磯光天照神社 福岡県鞍手郡宮田町磯光字儀長
御祭神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(天火明)『先代旧事本紀』では、物部連の祖である饒速日命 と同一神としている。
馬見物部ーー嘉穂馬見神社(宇麻美神社) 福岡県嘉麻市馬見
御祭神 伊弉諾尊、天津彦火瓊瓊杵尊、 木花咲哉姫命(大山津見の女(むすめ)日本一の美人神)
まず吾田について。
「古事記」では、
・邇邇芸命が笠沙御前で「神阿多都比賣」(別名 木花佐久夜毘賣)を娶る。
「書紀」正文では、
・「鹿葦津姫」(別名 神吾田津姫 あるいは、木花開耶姫)を娶る。
一書第五では、
・「吾田鹿葦津姫」を娶る。
このように阿多と吾田は「アタ」の音に当てた文字であり、同一の地名、つまり市来から南に下った今の金峰町阿多の地名のことである。
「姓氏録」は二通りの表記をしている。
・和仁古
大國主六世孫阿太賀田須命之後也
・宗形君
大國主命六世孫吾田片隅命之後也
このことからカタスと読むべきもののようにも思われる。 だが、大神神社摂社の神坐日向神社(みわにますひむかい神社)の祭神の一に、飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)が祀られていて、カタスミの神名もあります
月読神社
京都・松尾大社の南、約1kmのところに月読神社がある。(京都市西京区)創建については書紀に記事がある。
顕宗天皇紀
・三年の春二月の丁巳の朔に、阿閉臣事代、命をうけて、出でて任那に使す。是に月神、人に著りて謂曰はく、「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔造せる功有します。民地を以ちて、我が月神に奉れ。若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏し、奉るに歌荒樔田を以ちてす。(歌荒樔田は、山背国葛野郡に在り)壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍へまつる。
このように、西京区の月読神社は、壱岐の月読神社を勧請したのである。
月読神社(西京区)
もう一つは京田辺市大住の月読神社。
隼人舞発祥の地の碑が立っている。拝殿に掲げられた由緒書に、鹿児島・桜島の月読神社、大隅半島串良町の月読神社との関連が書かれていた。
宗像大社の伝承
つまり大国主命と多紀理姫の子供が鴨族の事代主神となるわけである。
「八重事代主は三島の溝咋の子の玉櫛姫と結ばれて、櫛御方命(和邇彦)と櫛無(那珂彦)を生んだ」という。
讃岐の金比羅宮に八重事代主が祀られ、那珂郡と呼ばれて、櫛無神社がある。
宇佐神宮の記録
「神武天皇東征の折、菟狭津彦・菟狭津媛、菟狭川の川上に一柱騰宮を造営する。」
宇佐国造は宇佐(菟狭)国(現・大分県宇佐市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると神武天皇(初代)の時代、大伴氏の祖・高魂尊(たかむすびのみこと、高皇産霊尊)の裔孫である宇佐都彦命(うさつひこのみこと、菟狭津彦)を国造に定めたことに始まるとされる。日本書紀によると、宇佐津彦と宇佐津姫(うさつひめ)の2人が祖とされ、また天神本紀(先代旧事本紀)によると、宇佐神話の中の3女神・天三降命(あめのみくだりのみこと)が祖とされている。国造氏族は宇佐君(うさのきみ)であり、宇佐氏の伝承では宇佐都彦命を祖とし、当初は大神氏と共に宮司に補せられてたが、大神氏が衰えた後は大宮司を世襲し、代々、宇佐八幡宮の神主家として存在したという。宇佐神宮は、分祀が全国に2万4千以上もある八幡社の総本社で、主祭神は応神天皇だという。
宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐2859 三女神はおそらく宇佐神宮で養育され(?)、成人してからは、おそらく宗像大社を拠点にして(?)、母の早子が八岐大蛇の化身であったことを恥じてそれぞれ流浪の旅に出た。一番目の沖津島姫竹子(たけこ)は沖つ島(滋賀県竹生島)へ、二番目の江ノ島姫湍子(たきこ)は相模江ノ島(神奈川県江ノ島)へ、三番目の市寸島姫田奈子(たなこ)は厳島(広島県厳島)へ。
罪を償ったのち、田奈子姫(市杵島姫)は、伊吹戸主命(月読尊の子)の妻となって、伊予津彦、土佐津彦、宇佐津彦を生み、宇佐に住み、宇佐にて神となられた。その後、厳島の宮に、「悪しきを忌み、良きを知る」という意味の「厭う(いとう)」神として祭られた。
「宇佐にて神となった」とあるから、亡骸は「宇佐」に納められたという推測が妥当であると思うが、しかし平成9年夏に九州を一周したときのことを思い返すと亡骸は宗像大社か宗像大社ゆかりの場所に納められているようなイメージが伝わってくる。
【神社の祭神】
一之御殿(八幡大神)
誉田別命(応神天皇)
二之御殿(比売大神)
多岐津姫命(たぎつひめのみこと)
市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)
多記理姫命(たぎりひめのみこと)
三之御殿(神功皇后)
息長帯姫命(おきたらしひめのみこと)
①父:天三降、伊吹戸主命(異説多し)母:市杵島姫(異説あり)
②妻:菟狭津姫(異説あり)妹:菟狭津姫(異説あり)子供:常津彦・菟狭津姫(異説有)
③古事記:神武天皇東征伝:神武が日向より筑紫に出発して豊前の宇佐に着いた。この時
その土の人、名は宇沙都比古・宇沙都比売の二人が一足謄宮(あしひとつあがりのみや)を造って御饗(みやえ)を献じた。
日本書紀:神武が甲寅年10月東征に出発。はじめ、早吸之門(はやすいのと)に到り一人の漁夫にあった。珍彦(うずひこ)という国神であると名乗り、天皇を導かんことを申し出た。天皇は彼に椎根津彦の名を賜れた。倭直部らの祖である。その後、筑紫国の菟狭に着いた。菟狭国造祖である菟狭津彦・菟狭津媛が、菟狭の川上に一柱謄宮(あしひとつあがりのみや)を造り饗を奉った。天皇はこれを喜び、菟狭津媛を侍臣の天種子命に賜妻した。この天種子命は中臣氏の祖である。
国造本紀:宇佐国造。神武朝、高魂尊の孫宇佐都彦命を国造と定め賜う。
託宣集(三所宝殿条)には
「 一御殿 人皇十六代応神天皇の御霊、八幡大菩薩也
二御殿 人皇第一神武天皇御母玉依姫の御霊也
三御殿 人皇第十五代神功皇后の御霊也」
とあり、託宣集が成立(1313年)した鎌倉時代以前には、第二殿の“比売大神は玉依姫”という説が信じられていたらしい。
ここでいう玉依姫とは、記紀神話で高天原から天降った天孫ニニギの子・ヒコホホデミ(山幸彦)と海神の娘・トヨタマヒメの間に生まれたウガヤフキアヘズを、姉・豊玉姫に代わって養育し、後にその后となって神武天皇他4皇子を生んだとされる妹神を指す。いわば、記紀神話を取り入れることで、比売大神を皇統譜に結びつけたものである
「けだし玉依姫なる御名をもって、終古ただ一人の貴き女性のみに属すとすることは、最も容易に訂正し得べき誤りである」
と記し、その例として、神武の母以外に、三輪山の神・オオモノヌシの神妻・活玉依姫(イクタマヨリヒメ)と京都・上賀茂神社の神・別雷命(ワケイカズチ)の母で、下賀茂神社に祀られる多々須玉依比売(タタスタマヨリヒメ)を挙げ(妹の力」大正6年1917)、玉依姫は神武の母だけでないことを強調している(「妹の力」大正6年1917)。
「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」
と述べている。(略)
(ウィキペディア)
『古事記』は「此の三柱の神は、胸形君等の以[も]ちいつく三前の大神なり」と記していましたが、「胸形君等」の「等」には、物部氏同族の水沼[みぬま]氏ばかりでなく、物部氏そのものが「第二大宮司」として関わっていたことは重要におもえます。『先代旧事本紀』が宗像祭祀の内部にも通じていたのは、ここに物部氏も深く関わっていたからだとみるしかないようです。
中央祭祀の視点からいいますと、宗像三宮祭祀は横並びであるはずもなく、その中心となる宮は、天応元年(七八一)に辺津宮惣社(総社)が創設されるように、また地勢的にいっても辺津宮(高宮)でした。その高宮の姫神をタキツヒメ(タギツヒメ)と記していたのが『古事記』でしたが(『先代旧事本紀』はセツヒメ)。
祭神 事代主神 高比売神 御年神であり、
事代主神、高比売神は大國主大神の御子神で國土経営に大神を輔けて力を尽くした。
後世大年神の御子御年神を合祀して 三歳社という。
高比売と御歳神は、別神。
事代主命
父:大国主命 母:神屋楯比売 (高津姫)
子供:蹈鞴五十鈴姫(1神武天皇后)・五十鈴依姫(2綏靖天皇后)・天日方奇日方
別名:都味歯八重事代主。 恵比寿さん 同母兄弟:高照姫
三輪氏考参照 賀茂族の中心的神。
五年春三月戊午朔、於二筑紫一所居三神、見二于 宮中一、言、何奪二我民一矣。吾今慚レ汝。於是、禱 而不レ祠。(中略)冬十月甲寅朔甲子、葬二 皇妃一。 既而天皇、悔下之不レ治二神祟一、而亡中皇妃上、更求二 其咎一。或者曰、車持君行二於筑紫国一、而悉校二車 持部一、兼取二充神者一。必是罪矣。天皇則喚二車持 君一、以推問之。事既得実焉。因以、数之曰、爾 雖二車持君一、縦検二校天子之百姓一。罪一也。既分二 寄于神一車持部、兼奪取之。罪二也。則負二悪解除・ 善解除一、而出二於長渚崎一、令二祓禊一。既而詔之 曰、自レ今以後、不レ得レ掌二筑紫之車持部一。乃悉 収以更分之、奉二於三神一。
この記事からは、かつて車 持部として王権への奉仕が義務づけられていた人々が、 宗像神に神戸として寄進されていたことが推定される であろう。この記事は、宗像神の祭祀を王権が主催し ていたことを直接に示すものではないが、応神天皇41 年2月是月条において、兄媛が宗像神に奉られたとあ ることとともに、王権と宗像神の密接な関係を示す記 事であることは指摘できる。
倉敷市本町12-1(平成21年8月21日)
この神社は倉敷駅の南東、倉敷の中心部・美観地区の鶴形山山頂に鎮座しています。参道入り口からは石段の参道が続き、登り切ったところに神域を守護する前宮が祀られています。そこから少し平坦な参道を進むと、左側に石段が造られ、直登したところに注連柱が建ち、狛犬が居ます。その上に建つ随神門内にも端正な木製神門狛犬が居ますが、金網の中で余り良くは見えません。
境内中央には入母屋造りの大きな拝殿が建ち、幣殿・中門・本殿と続いて建立されていますが、どの社殿も彫刻が施され、華麗且つ荘厳そのものです。
広い境内には沢山の境内社が祀られ、又、蓬莱思想に基づいた日本最古の鶴亀様式の古代庭園とも伝えられる天津磐境の他、盤座・磐境が点在し、能舞台、絵馬殿等も建立されています。
倉敷の総鎮守という事で神社も素晴らしい佇まいを見せていますが、それと共に緑豊かな森も癒し効果満点、ゆっくりと散歩なども良いかもしれません。
御祭神:多紀理毘賣命、多岐都比賣命、市杵嶋比賣命
祭礼日:5月5日・藤祭、5月第3土・日曜日・春季例大祭、10月第3土・日曜日・秋季例大祭
境内社:荒神社、菅原神社、倉敷護国神社、城山稲荷社、戎・大黒、火産巣霊社
由緒:倉敷の古名は「阿知」であり、当社は倉敷総鎮守の神社である。
これは、日本書紀応神記(4世紀)に「阿知使主(あちのおみ)が韓国より17県の人達を率いて帰化してきた」とあり、阿知使主の一族がこの地に住み着いて、養蚕・絹織・縫製・鉄文化等の先進技術を伝え、広め、大いに栄えたことに由来している。
また、社記には神功皇后三韓征伐の途中、暗闇に航路を見失われ宗像三女神に祈願された時に、三振りの剣が雷鳴と共に天空から明るく輝いてこの地に降ったため、応神天皇の御代に妙剣宮(妙見宮)と称してこれを祀ったと記されている。
古来この一帯は吉備の穴海と称され、内海深く湾入し社地は内亀島という小島であったため、海の交通交易の守護神である宗像三女神を奉斎したとも伝えられている。
室町末期、慶長、元和の頃から祭祀は当地草分けの有力者の木綿襷組(ゆふだすきぐみ)が交代執行し、江戸中期に観竜寺の別当が管理し、神仏混淆して明治に至ったが、同2年神仏分離令により妙見宮を阿智神社に復号した。
当社は倉敷の中心部、美観地区の鶴形山の頂上にあり、広い境内には蓬莱思想に基づいた日本最古の鶴亀様式の古代庭園とも伝えられる天津磐境の他、盤座・磐境が点在し、中腹の斎館の風雅な庭には陰陽の盤座のほか水琴窟もある。また、能舞台、絵馬殿、芭蕉堂等もあり、本殿北側の「阿知の藤」は曙藤では日本一大きく古く、倉敷市の市花でもあり、県の天然記念物に指定されて、毎年5月5日の藤祭には多くの人で賑わう。
(「岡山県神社庁公式サイト」より)
宗像は宗像以前に古い神社があった、その根源は中津市の薦神社、そして、現在は宇佐市に入っている安心院の佐田大神(母親はいちきしまひめ=弁財天様、父親は支那津彦=草部吉見=春日大社)です。そして、佐田大神が福岡の筑後川の方に移動して、朝倉市佐田町、今は民族の大移動で、忘れ去られてしまっているが、現在は日枝大社又は松尾大社にご祭神として祭られている
冬十一月、大伴坂上郎女、帥(そち)の家より上道(みちだち)して、筑前国宗形郡名児山を超ゆる時に作る歌一首
大汝命(おおなむち)少彦名(すくなびこな)の 神こそは 名付けそめけめ 名のみを 名児(なご)山と負ひて 我(あ)が恋の 千重(ちへ)のも一重(ひとへ) 慰めなくに(万6-963)
【通釈】国造りをされた大国主命と少彦名命の二柱の神が、初めて名付けたというが、心が「なごむ」という名児山の名を負っているばかりで、私の辛い恋心の千分の一も慰めてはくれないよ。
【語釈】◇冬十一月 天平二年。◇帥 大宰帥大伴旅人。◇名児山 福岡県宗像郡の通称ナチゴ山であろうと言う。
【補記】旅人より一足先に大宰府を発ち、京へ帰る時の歌。この「恋」の対象ははっきりしないが、離れてゆく筑紫の地への名残惜しさ、あるいは残して来た旅人たちへの恋しさ、また長い旅路を前にしての都恋しさなど、さまざまな思いが交錯していたのではないかと推察される。
同じき坂上郎女、京(みやこ)にのぼる海路(うみつぢ)にて浜の貝を見て作る歌一首
「大伴坂上郎女 千人万首」より
昭和11年佐賀県発行の「佐賀縣史蹟名勝天然記念物調査報告」
475Pには、佐賀県側からの見解ではあるものの
“本来の沖津宮、中津宮、辺津宮とは対馬、壱岐、加部島(壁島=田島)であり、宗像大社は佐賀県唐津市呼子の正面に浮かぶ加部島の田島神社の分社でしかない”
といった趣旨の事が書かれているのです。
第三の「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の御許山に降臨し宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐神宮では本殿二之御殿に祀られ、この日本書紀の記述を神社年表の始まりとしている。八幡神の比売大神である。
別称の「道主貴」の「ムチ」は「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は道主貴のほかには大日孁貴(オオヒルメムチ、天照大神)、大己貴命(オオナムチ、大国主)のわずかしか見られない
祭神
市杵島姫命(いつきしまひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
崇峻天皇2年(589年)、国司越智益躬(小千宿祢益躬)が、筑紫国の宗像大社から門島の森に比咩大神(宗像三女神)を勧請し、門島比咩神社(かどしまひめじんじゃ)や門乃神社と称した。
伊都岐島大明神は「正体不明の神様」となりました。
戦国時代になり、棚守房顕が活躍する時代になると、棚守は毛利氏に頼んで、京都の神道の研究家である吉田兼右を厳島神社に招きます。依頼料のお金は毛利が払いました。吉田兼右は厳島神社の神事を、整え、そのついでに厳島神社の祭神を正体不明の神ではなく、宗像三女神の1柱の「市杵島姫神(イチキシマヒメカミ)」のことだとしました。理由は「伊都岐島大明神」と「市杵島姫」は音が似ているから。
●その時に厳島神社の客神社に祀られていた神様の中に「宗像の神」がいましたし、平安時代から宮島島内には宗像の神が祀られていました(厳島神社内ではないが)。
歴史書(日本書紀・古事記)に登場しない伊都岐島大明神は正体不明でよくわからない神様となり、厳島神社の客神社に祭られていた宗像三女神の「市杵島姫」と名前がよく似ているので「同一神」とされ、この時、市杵島姫と入れ替わった。
宗像大社は天孫を助け奉る神
天孫降臨の話が出来上がったのは奈良時代のはじめでした。その頃は三女神の話が出来上がっていました。宗像氏は高市皇子を通して祭祀に関わるようになったのですね。それまで、宗像氏は三女神を祀っていたのでしょうか。それは分かりませんが・・・
宗像大社の西側の「名兒山」の名を名付けたのは、「オオナムチ命とスクナヒコナ命」でした。
「おおなむち すくなひこなの神こそは 名付けそめけむ 名のみを 名兒山と…」いう大伴坂上郎女の歌があります。奈良時代にはこのように詠まれ、人々の認識だったのです。では、
この辺りで信仰されていた神は、古代にはオオナムチとスクナヒコナだったのではありませんか。
時代が変わり宗像氏が入って来て、三女神に御祭神が変わったのかもしれません。または、宗像氏はもともとオオナムチ命を祀っていた、ということでしょうか。
そういえば、宗像氏の祖先神は「大国主命」でしたね。初めは祖先神を祀っていたけれど、古代に天皇家とのかかわりにおいて御祭神を変えたということでしょうか。
「昔、此の川(筑後川)の西に荒ぶる神がいて、路行く人の半ばが殺されていた。祟る由を占うと『筑前の国宗像郷の人・珂是古(カゼコ)をして吾が社を祭らせよ云々』とあった。
そこで珂是古なる人物を探し出して、神の社(姫社社)を建て、荒ぶる神(女神)を祀らせると、路行く人も殺されなくなった」(大意)
との伝承があり、この珂是古と物部阿是古は同一人という。
水沼氏の祖が物部阿是古かどうかは不詳だが、北部九州には物部系氏族が多数居たといわれることから(○○物部と称したらしい)、水沼氏はこれら物部氏系氏族と結びつくことで大和朝廷と結びつき、宗像三女神の祭祀にかかわったものと思われる。
(水沼氏は元々は筑紫君磐井に属していたが、その反乱に際して、早くから討伐軍である物部氏に与力することで、磐井没落後勢力を広げたともいう)
この水沼氏と宗像氏との関係について、大和岩雄氏は、宗像三女神の祭祀権は6世紀末から7世紀前半頃に水沼氏から宗像氏へと移ったとして、
・雄略紀にみる水沼氏の伝承は服属伝承だから、中央政権が沖ノ島祭祀にかかわったのは雄略朝で
・その時期(5世紀後半)は沖ノ島の第Ⅰ期岩上祭祀から第Ⅱ期岩陰祭祀に移行する時期と略重なる
・宗像女神を祀る水沼氏は、筑紫君磐井の乱後、物部氏の支援をうけて三瀦郡から宗像郡へと進出し、宗像大社の祭祀に携わったが
・用明天皇2年(587)に物部宗本家が滅びたため、中央の後楯を失って衰頽し、代わりに鞍手郡(天正年間-1573--92以前は宗像郡に所属)を本貫とする宗像氏が7世紀初頭頃(沖ノ島祭祀Ⅲ期頃)に海岸部へ進出し、宗像大社の祭祀権を握ったのであろう、
という(大略、神社と古代王権祭祀・2009)。