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大和国には鳥見(登美)という地が二か所、城上郡(現桜井市)と添下郡(現奈良市)にある。長髄彦の本拠は城上郡のほ…
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金比羅五街道のひとつ丸亀街道をすすみ与北の茶道、公文山をすぎると見えてくる。
西讃府誌を編纂した秋山惟恭が祠官であった事でも有名で、神社の一角に秋山家廟がある。
神社誌によると、昔は上下櫛梨の産土神。
昔、祭祀は三日間で、總社(櫛梨神社に合祀)の御神霊、櫛梨神社の御神霊、大歳神社の御神霊の順番に御神輿に移御し行列を整えて塩入村(仲南町)の御旅所に向かう、この間には百七の鳥居があったとある。塩入村の神社
神輿渡御の際には、御旅所で一泊し翌日還御するのを例とし、祭儀は厳重を極めたが、安永年間より此の神事は中断し、大歳神社は上櫛の産土神、櫛梨神社は下櫛の産土神になったとある。
塩入までの距離は、直線で12キロ以上あり、かなり大変な神事だと想像できる。鳥居は距離から計算すると、100メートルごとにあった事になる。
式内社 大和國添下郡 矢田坐久志玉比古神社二座
御祭神 櫛玉饒速日神 御炊屋姫神
大和国添下郡の延喜式内の大社で祭神は二座であった。久志玉比古神と妃神。
神社の東側の向山が神奈備山と言えよう。ここは「迎ひ山」であり、河内からやって来た神を里人が迎えた山と言う意とか。
そうなると、饒速日命の降臨神話の白庭山と言えるのだが、当社南西1kmの地に白庭山とされる場所があるそうだ。
饒速日尊・御炊屋姫命(長髄彦の妹)から別の祭神としたのかであるが、明治政府発足天皇親政に当たり、どうも祭神が長髄彦関係では具合が悪い?
この3神は夫婦とその子供として文献上に登場する。
旧事紀によれば、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、またの名を天火明尊、また天照国照彦天火明尊、また饒速日尊と云う。妻を御炊屋姫と云い、宇摩志麻治命、またの名を味間見命、また可美眞手命と云う。
古事記では正哉吾勝々速日天押穂耳尊の子を天明命、神武天皇東征中に邇藝速日命として登場する。妻は登美夜毘賣であり、その子を宇摩志麻遅命と記す。
日本書紀では天照国照彦天火明命、後には櫛玉饒速日命、また?芸波椰卑と云う。妻は三炊屋姫、またの名を鳥見屋姫、また長髄姫、子を可美真手命、またの名を于魔詩莽耐と記す
鳥見の物部
32人の親衛隊と25の部隊を率いる将と船頭他を従えてとなる。またその25の部隊の中に興味深い記述がある。鳥見(トミ)物部〔北九州遠賀町鳥見山〕・赤間物部〔宗像市赤間〕である。〔 〕内は出自地と思われる所である。饒速日命率いる部隊の中に鳥見を名乗る部隊と宗像出身の部隊があった。
『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(天火明命)と、天道日女命(あめのみちひめ-)との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。
『新撰姓氏録』にも見え、後裔氏族として尾張氏(左京神別等)を始め、伊福部氏(左京神別下)・六人部氏(山城神別)・津守氏(摂津神別)等を挙げている。
『先代旧事本紀』の「天神本紀」には、饒速日尊の天孫降臨に従った32柱の1柱に数えられ、「天孫本紀」では、紀伊国の熊野邑(和歌山県新宮市が比定地になっている)に住み、別名を「手栗彦命(たくりひこ-)」、または「高倉下命」というとあり、以下『記紀』に載せる「高倉下」の伝承と同じ内容を記す。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。豊受姫命はこれを見て大いに歓喜びて曰し給わく「あなに愛やし。命これを田庭に植えたり」と。然る後豊受姫命は天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの御業を補佐けしめ、而して後高天原に上り給う。その後天火明命は五穀蚕桑の道を顕国(うつしくに)に起こし、大いに蒼生を幸い給う。この時国作大己貴命・少彦名命・蒼魂命は諸国を巡り視て高志国に駐り天火明命を召して曰く、「汝命、この国を領(うしは)き知るべし」と。天火明命は大いに歓びて曰く、「永世なり。青雲志楽国」と。故(か)れ此の地を名づけて志楽国と云う。(中略)天火明命は神功既に終り、徳また大いなり。美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡り視、田庭津国を経て、河内に入り哮峯に止まり、大和跡見(とみ)の白庭山に至ります。跡見酋長長髄彦の妹、御炊屋姫命を娶り、宇麻志摩遅命を生む。天火明命は高天原に在ります時、天道姫命を娶り、天香久山命を生む。天香久山命は天村雲命を生み~以下略。」(但馬故事記:吾郷清彦著より引用)
長国造族は事代主命を祖としており、「観松彦」色止命も系譜に現れる。
近江国造族は、「観松彦」香殖稲尊(孝昭帝)を祖としていて観松彦以前は
事代主命の娘や孫娘を后にしている。
櫛真知神は延喜式神名帳の京中坐神三座に久慈真智命があり大和国十市郡天香山坐櫛真命神と注がついている。この神は深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの主張もある。 またこの神の元の名は「大麻等乃知神」。
大麻止乃豆乃天神社 東京都稲城市大丸847
天香山神社 奈良県橿原市南浦町608
赤王神社 静岡県三島市大場883
日枝神社 滋賀県高島市マキノ町蛭口1487-1
金王八幡宮 境内 御嶽神社 東京都渋谷区渋谷3-5-12
稲毛神社 境内 御嶽神社 神奈川県川崎市川崎区宮本町7-7
長髄彦は祖国を去る決意をし、かねてから親 交(まさに侵攻と正反対の言葉である)があり義兄弟の契りを結んでいた安日彦アビヒコの故国に去った(日本書紀では 長髄彦は亡き者にされた、と改竄されている)。妹の三炊屋媛ミカシキヤヒメ、その夫の饒速日命、これら二人の子で長髄彦 の甥にあたる可美真手命ウマシマデノミコトをはじめ大和の国の人々に見送られて。
幕末の国学者・鈴木重胤(しげたね)がこの地に足を運び、宗像三神の衰微を嘆いたと伝えられます。村民と協力して宗像神社の再興に尽力した鈴木重胤ですが、彼は平田篤胤没後の門人とされる人物です。淡路の人で、諸国を遊歴して神道を説いた後、残念ながら江戸で暗殺されています
志貴御縣坐神社 しきのみあかたにますじんじゃ
奈良県桜井市金屋896
式内社 志貴御縣坐神社 大 月次新嘗
御祭神大己貴神
天津饒速日命 『神道大辭典』御縣の霊 『大和志料』桜井市金屋、三輪山の麓、天理教大教会の東にある。目立たない場所にあるが、山辺から長谷へ向かう場所。
古代では重要な場所だったのかもしれない。
参道に社号標が立っていたが「式内大社志貴」までしか見えず、下部は埋まっていた。
崇神天皇の皇居(磯城瑞籬宮)跡とも云われる土地だ。
創祀年代は不詳。式内社・志貴御縣坐神社に比定されている古社。
大和には、幾つかの「御県に坐す神」が祀られている。延喜式では、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布の六社。その中の一つ。
祭神は、神社明細帳では大己貴神になっているが、志貴連の祖神である天津饒速日命とする説などがある。
境内右手の垣の中には、磐座があり、二つの境内社を確認したが、詳細は不明。春日・琴平・厳島などがあるらしいのだが。
▼志貴御県坐神社 奈良県桜井市金屋西ノ垣内。旧村社。天津饒速日命を祀る。『新抄格勅符抄』に「志貴御県神十二戸」とある。例祭九月一七日。-『神社辞典』-
金屋集落の北西山手に鎮座。旧村社。祭神は 大己貴神(神社明紬帳)・御県の霊(大和志料)のほ か、天津饒速日命などの説がある。由緒はつま ぴらかでないが、拝殿右には原始信仰を物語る 磐座があり、境内は崇神天皇の「磯城瑞籬宮」推 定地とされるなど、鎮座の古さをしのばせる。 俗に「シキノ宮」と称し、大和六御県神(「延喜式」 祝詞)の一とされる。天平二年(七三○)「志癸御県」 の神戸に城上郡内で租穀一千三五一束八把を定 め、うち四束を祭神料とした(「大倭国正税帳」正 倉院文書)。大同元年(八○六)神封二戸をあてら れ(新抄格勅符抄)、天安三年(八五九)一月二七日 に従五位下より従五位上に昇叙された(三代実録)。 「延喜式」神名帳に城上郡「志貴御県坐神社大、月次 新嘗」とみえる。文明六年(一四七四)の宿院会米帳 (大宮家文書)に「七升定地子(中略)シキノミヤノ四 郎」とあり、シキノミヤは当社のことと考えら れる。「日本書紀」神武天皇二年二月二日条に、 弟磯城(名は黒速)を磯城県主としたことがみえ、 磯城県主は当社付近を中心として、のちの城上・ 城下郡に勢力をもち、大和朝廷と独自の婚姻関 係を結んだ古代豪族であった。天武一二年に連 となり、「新撰姓氏録」大和国神別に志貴連は神 饒速日命の孫日子湯支命の後裔とする。当社は この名族によって奉斎されたものと推定される。 ちなみに桜井市初瀬の与喜山のヨキは、湯支命 のユキがなまったものと考え、式内社の志貴御 県坐神社を初瀬の与喜天満神社にあてる説もあ る(皮会延経「神名帳考証」)。
-『大和・紀伊 寺院神社大事典』-
銅鐸がどんどん大きくなり、精緻化していきます。しかし、このあたりでは、階級的な社会の要素が見られません。王のような存在が認められない農村社会であり、集落の宝物としてあるいは祭祀の用具として銅鐸が作られていたと考えられています。
しかし、この銅鐸社会は突然のように終焉を迎えます。古墳時代に入ると銅鐸は全く作られず、姿を見ることさえなくなったと考えられています。古墳というと、階級社会の権化のようなものです。強い権力を持っていた個人がいて、自分のために多くの人を使い自分の墓を作らせるわけです。この時代の祭器として鏡が登場に広く普及します。