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大倭氏の祖である椎根津彦(宇豆毘古)は、神武天皇東征の際、吉備国高島宮を出発した後、速吸門(はやすいのと)で出会った海人である。速吸門は、一般に豊予海峡といわれるが、東征するのには地理的に戻ってしまう。書紀ではそれを修正して、椎根津彦の伝承を宇佐に至る前に記していて、こちらを正しいとする説が主流であるが、椎根津彦は吉備海部直の祖でもあり、応神天皇の吉備行幸の際に膳夫を勤めたのは、吉備津彦の子孫、吉備御友別である。…
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この地は古く、住之江とも呼ばれる有明海の最奥の海辺であった。杵島山は古くは島であったとされ、杵島(きしま)の名は五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名とされる。
社地は杵島山より突出した岬の突端、稲佐山の中腹の台。山門からは有明海を眼前に望む。
北方の岬には、五十猛神の妹神、抓津姫命(つまつひめ)を祀る「妻山神社」が鎮座する。社領には弥生中期の甕棺墓群、このあたりが拠点的な甕棺墓域の南西端。太古には栄えた地であったとされる。
そして、麓の八艘帆ヶ崎(はっすぽ)には、五十猛神の上陸伝説を残す。神代、五十猛神は抓津姫命らととも韓地よりここ焼天神に着岸し、杵島全山に播種したとされる。
肥前、杵島では素戔嗚尊の子神、五十猛神はこの岬に上陸した「稲佐(いなさ)神」とされた。
出雲では高天原より派遣された建御雷神と天鳥船神が上陸した浜が「稲佐(伊那佐、いなさ)の小濱」であった。そして国譲り神話の舞台ともされる。
五十猛神は稲佐(伊那佐、いなさ)や鹿トーテムの民を通じて国譲り神話の建御雷神と重なっている。
建御雷神は国譲りにおいて「建御名方神」を諏訪に追いつめる。伝承では建御名方神が諏訪の湖まで逃れた折、大鯰が現れて建御名方神を背に乗せて対岸まで渡したとする。故に「鯰」は建御名方神の眷属とされる。
阿蘇の主神、健磐龍命が別名、武五百建命であり、科野国造ともされる阿蘇と諏訪の拘わりがあった。
阿蘇の古い民が「狗人」とされ、鯰をトーテムとする。そして、健磐龍命よりも先に阿蘇に下向した「草部吉見命」の後裔氏族ともされる。諏訪大社上社大祝の系譜は、その草部吉見命(会知速男命)を「建御名方神」の後とする。
また、阿蘇の古い民が奉祭する「蒲池媛」が、有明海沿岸の「與止日女(よどひめ)」などに習合して、これら鯰をトーテムとする比売神の足跡は、中南九州の狗人が有明海沿岸から九州北部域へと領域を拡げた痕跡ともされる。
五十猛神は、筑紫の国魂として筑紫神社に祀られる。この社の後背に「基山」が聳え、山上には五十猛神が在ったとされる。基山(きやま)も、五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名。
基山の五十猛神は、南に向かい合う高良山の神と石を投げ合ったとする「礫打伝承(つぶてうち)」を残し、それは戦さの記憶とされる。
基山と高良山に挟まれた小郡のあたりは「隈」地名が集中する神祇。古層の「隈(熊、くま)」地名は、忌避された狗人の住地に与えられた名。
北九州市八幡西区山寺町
神武天皇の磐境神籬が現存していた ここは岡田の宮あと
祭神 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと) 神武天皇(元王子神社)
社伝
王子神社は神武天皇が日向の国より東征の途上、
筑前のこのところにおいでになり一年間政務をみられた宮居の地で、
境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。
古事記に出て来る岡田の宮があった所で、かつては王子神社という名でした。
王子の名の由来は、神武天皇がまだイハレビコ皇子だったからだそうです。
現在は一の宮神社に合祀されています。
当時の磐境神籬(いわさかひもろぎ)が復元されていて、
古代の姿を直接見る事が出来ます。
礫石で円と四角が作られて、天神と地祇を祀った事が分かります。
大伴金村(おおとも・かねむら)が、初めに担ぎ上げようとした人は丹波国に居た「仲哀天皇の子孫」倭彦王だったのですが、この人は大臣達が迎えに送り出した「兵」の姿を遠望し、自分を攻め殺しに来たと思い込み、慌てて山中に隠れてしまい会う事すら出来ませんでした。
そこで大伴大連たちは、更に論議を重ねた結果「男大迹王(おおどのおおきみ)」の推戴を提案、これに物部大連や許勢大臣たち群臣もみな賛成したため、次の天皇として越前国三国の地に居た「応神天皇の五世の孫」を迎えることに決めたのです。
椎根津彦命─志麻津見命─武速持命─邇支倍命─飯手宿禰─御物宿禰─市磯長尾市宿禰
大和神社(天理市)の神官家市市磯氏。
久比岐国造(新潟)の青海氏
明石の国造(兵庫)などが椎根津彦命を祖とします。
祭神 大和大国魂神、八千戈神、御歳神
祖神 宇豆毘古(珍彦命、椎根津彦)
椎根津彦神社(大分県北海部郡佐賀関町)
祭神 椎根津彦、武位起神、稲飯神 他
黒日売(くろひめ)
尾張氏系16代仁徳天皇の采女。吉備海部直祖の乙日根の娘。市磯長尾市の曾孫。
記に「天皇、吉備の海部直の娘、名は黒比売、その容姿端正しと聞こしめして、喚し上げて使いたまいき」とある。それが仇となって、皇后の石之日売命(いわのひめのみこと・磐之媛命。武内宿禰の孫で、葛城襲津彦の娘)の嫉妬をかい、実家の吉備に逃げ帰る。
天皇は黒日売が忘れられず、皇后に嘘までついて黒日売の実家まで会いに行くが、その時、黒日売側は天皇に「大御飯(おほみけ)」を献じている。伝承の類似から、この姫は吉備氏の吉備兄媛と同一人物とされているが、大御飯を献じるというのが、吉備兄媛の兄の御友別が、応神天皇に「膳夫として饗を供した」という記述に重なり、信憑性がある
市磯長尾市の5世孫。同族の尾張氏系16代仁徳天皇の即位前紀、韓国へ遣いに出ているところを、倭の屯田についての質問に答える為、淡路の海人八十人を水手として仁徳から賜った出雲臣の祖、淤宇宿禰に呼び返された。淡路は親戚の阿曇氏の本拠地の一つである
17代履中天皇(父は仁徳、母は葛城磐之姫命)の即位前紀、履中の同母弟、住吉仲皇子の叛乱に荷担した。因みに、親戚の阿曇浜子も住吉中皇子に荷担している。浜子は目の縁に入墨をされ、吾子籠は妹の日之媛を履中の采女に差し出して死罪を免れた。倭直が宮中に采女を奉るのは、この時に始まったとある。しかし、上記の黒日売は、履中の父の仁徳の采女なので、倭氏はその前から、宮中に采女を出していたことになる。
采女氏(うねめうじ)は、「采女」を氏の名とする氏族。姓(かばね)は始め采女臣、後に采女朝臣。穂積真津の次男・采女宮手を祖とする、穂積氏から分かれた氏族である。采女の統括を担当した伴造氏族。
海神綿積--豊玉玉依穂高見
振魂----武位起----珍彦----志麻津見--武速持-- 大鐸比売 八玉彦 ---邇支倍--飯手宿禰--御物宿禰--市磯長尾市
『日本書紀』に、応神天皇が吉備に来られた時に兄弟子孫を料理番として奉仕させた。 天皇は御友別命が畏まり仕えまつる様子をご覧になって喜び、 吉備国を割いて、御友別命の子達に治めさせられた。
川島県を割いて長子の稲速別(下道臣の祖)に、 上道県を中子の仲彦(上道臣・香屋臣の祖)に、 三野県と弟彦(三野臣の祖)に、 波区芸県を御友別命の弟・鴨別(笠臣の祖)に、 苑県を御友別命の兄・浦凝別(苑臣の祖)に、 織部を兄媛に賜った。
御友別命等 を祀る神社
吉備津神社 岡山県岡山市北区吉備津931
多祁伊奈太岐佐耶布都神社 福山市山野町上原谷262
若建彦命:わかたけひこのみこと
若建吉備津日子:わかたけきびつひこ
……
第七代天皇・孝霊天皇の子。『古事記』では、母は阿礼比売命の妹・蠅伊呂杼。『日本書紀』では、母は絚某弟。
『古事記』では、大吉備津日子命と共に吉備国を平定し、大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖となった。
『日本書紀』では吉備臣の祖とある。
吉備氏族
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kibi1g.htm
稚武彦命の実名は彦狭島命とされるが、稚武彦命については、その父を大吉備諸進命(『記』に孝安天皇の子、孝霊天皇の兄弟と記す。別名があったか)とするが、その兄とされる吉備津彦命と大吉備諸進命との関係にも不明点がある。吉備津彦命の実名は彦五十狭芹命で「イサセリ」は諸進に通じそうであり、大吉備建比古とも称して、その妹大吉備建比売は建緒組命の妻となって武貝児命などを生んだものか。
吉備津彦命・稚武彦命兄弟の実際の系譜は不明な点が多く、淡路の御井宮に坐したという和知都美命(安寧天皇記に皇子の子とされる)を外祖父とし、能登・毛野氏族や彦坐王と近い親族関係があったものとみられる。この氏族が大王族・磯城県主族と密接な親姻族関係をもったという事情から見て、吉備地方古来の氏族とするよりも、四道将軍伝承はともかく、大和から播磨西部を基地として進出した氏族とみるほうが妥当と思われる。
この氏族は吉備・西播磨地方中心の地方豪族であり、日本武尊の遠征に随行した吉備武彦命兄弟等の業績もあって、応神天皇などの后妃を輩出し、吉備国造となって大いに栄えた。吉備国造一族は瀬戸内の要衝を押さえ、塩・鉄の生産を基盤に巨大な諸古墳を築造し、朝鮮外交にも活躍したが、五世紀中葉以降には大和朝廷に対する叛乱を数度起して敗れ、吉備氏の勢力は大きく衰え、系譜も下道系統のものへ一本化されてしまった。吉備国造自体も五つの小国造(上道、下道、三野、加夜、笠)に細分化された。一族の五県分封もこれに関係するが、部族連合から同一先祖をもつ形で吉備系譜を架上・造作したという説には問題がある。
九州の国前国造(豊後国国埼郡)、葦分国造(肥後国葦北郡)も吉備一族とされるが、この二国造は吉備氏族として疑問も多少あり、様々な見地から十分な検討を要する
ニ上山の神なら、本来は2座のはずですが、延喜式では大1座とあるため、明神大社としても意見が分かれています。しかし、当地の豪族であった伊弥頭国造の氏神だったと考えられ、2柱のカミは、本体は夫婦神ではなくて、ヒコ神(主神)と奉仕するヒメ神という形態を取ることが多く、イミズ神もそのような神であったため1座とされているのでしょう。越国の5世紀ころには、若狭、角鹿、三国、江沼、加我、加宣、羽咋、能登、伊弥頭、久比岐、高志、高志深江、佐渡の13の国造が存在しており、小矢部川(射水川)河口のワタリノ津をもつ伊弥頭氏は中核的な存在であり、能登で生産された塩を東日本へ運ぶさいにも、重要な役割を果たしたに違いありません。また、となりの砺波郡に盤居した礪波(トナミ、利波)氏も同族であるといわれています。
これを見ると、宇豆毘古は尾張・海部氏ともつながりがあり、安房神社近くの香取神社は香取神宮が尾張・海部・和邇氏と関係していた頃の名残りだったということなのかもしれない。
珍彦:うずひこ
椎根津日子:しいねつひこ
槁根津日子:さおねつひこ
宇豆彦/宇豆毘古:うづひこ
推根津彦:しいねつひこ
……
『古事記』に、神武東征の途中、速吸門で亀の背に乗り釣をしながら羽ばたくようにやって来た国神。 海道をよく知っていることから天皇に仕へ、槁根津日子の名を賜った。倭国造の祖
『日本書紀』には、珍彦とあり、水先案内として椎根津彦の名を賜わった。 また、天香山の土を取って来るなど天神地祇の神祭を助け、 兄磯城を討つ策りごとに功があり、倭国造になった。
『姓氏録』大和国神別には、神知津彦命・宇豆彦・椎根津彦の名がみえ、 大和宿禰の祖とあって、大和国造に任じられ、大倭直の始祖となる。
『先代旧事本紀』には、天津日高日子穂穂手見命の孫とある。 同じく『先代旧事本紀』に、彦火火出見損尊の御子で、鵜葺草葺不合命の次の武位起命が、大和国造の祖とあるが、 武位起命の御子だろうか。
御祭神
青海首椎根津彦神 合祀 大山祇命
聖武天皇の御宇、天平3年(731)の建立という。
嘉祥3年(850)日吉神社の大光坊智真によって
山王社を勧請し、相殿に祀った。
故に、江戸時代には山王社と呼ばれていた。
明治四年の『神祇志料』では、椎村御垣明神、
明治九年の『特撰神名蝶』では、御垣山王とある。
相殿の大山祇命は、 大正九年に合祀した無格社・山神社の祭神。
御祭神 椎根津彦命 大國魂命
配祀 賀茂別雷命 多多須玉依姫命 賀茂建角身命
JR加茂駅の東300mにある加茂山公園。
首の祖とされる。
また、大國魂命は、同じく椎根津彦命を祖とする大倭國造が代々祀ってきた神。
元は、青海神社だけだったが、延暦13年(794)、京都の賀茂別雷神社・賀茂御祖神社を勧請し、3社別殿の構成となった。
「猿田彦命は綿津見神の子・宇都志日金析命(うつしひがなさくのみこと)、穂高見命とも同神である」と、新説を著したのは宝賀寿男氏。
『和珥氏 中国江南から来た海神族の流れ』(12年、青垣出版)
浦凝別 苑臣(苑県) 稲速別 下道臣(川島県)
御友別 仲彦 上道臣・香屋臣(上道県) 弟彦 三野臣(三野県)
鴨別 笠臣(波区芸県)
『書紀』応神二二年三月条にも「兄媛者、吉備臣祖御友別之妹也」とみえるように、御友別は吉備臣 の祖として位置づけられていた
神武東征の折、速吸門で合流し、海路を案内したツクシの国守。
椎の竿の末を持たせてタケヒトの船に引き入れたので、椎根津彦。
飛鳥の地では、神武の夢の告げにより、蓑笠姿の翁に扮して香具山の埴を採ってくる。その功により大和国造となる。
初代大和神社の斎主のナガヲイチは、この人の七世の孫という。
市磯長尾市。 オイチ(大市)を治める守。
ミマキイリヒコ(10代崇神天皇) の時、チハラメクハシ姫、オオミナクチ、イセヲウミの三人が同じ夢を見て、これを天皇に上奏する。天皇も同じ夢を見ていたので夢合わせだとして、その夢の告げ通りにオオクニタマ (大和神社) の斎主にされ、同時にオオタタネコもオオミワ神 (大神神社) の斎主とされる。
この二人、オオタタネコはミマキの時代には衰退していたオオモノヌシ家の子孫。シナガオイチはシイネツヒコの子孫で、シイネツヒコがタケヒトのヤマト討ちの大功によりヤマトの国造に処されて以来、やはり冷遇されていたのだと思われる。このあたりはいろんなことを想像させてくれる。
アメヒボコが来日した時にオオトモヌシと共に播磨に派遣される。
クエハヤの対戦相手のノミのスクネを、出雲 (島根県松江市大庭町、神魂神社) まで呼びに行く。
奈良県天理市新泉町星山、大和 (オオヤマト) 神社
■「箸中(ハシナカ)大市(オイチ)」
★シイネツヒコ (倭国造) の七世孫という。
綿積豊玉彦─振魂─武位起─椎根津彦─志麻津見─武速持─邇支倍─飯手─御物─市磯長尾市
★『書紀』市磯長尾市(いちしのながおち)。
★『書紀』倭国市磯(いちし)邑。穴磯邑の大市の長岡岬 (現・狭井神社)。
ヤマト(倭)国造の祖であるウヅヒコを古事記は明石海峡出身
とするのに対して、書紀は豊後水道とするところ。
始祖伝説 -- 明石国造の祖は
古事記によれば明石海峡の国津神ウヅヒコ(サオネツヒコ)
日本書紀によればシイネツヒコ。
海道を熟知していたと書かれている。
彼は、土地の伝説によれば青い海亀に乗って
神戸市東灘区青木(おうぎ)の浜に上陸したという。
まさに浦島太郎。今は上陸地点から真北にある
六甲山中腹、阪急岡本駅北方の山に祭られている。
この神社が古来船乗りたちが重んじていた
「灘のひとつ火」。 保久良神社である。
海道を遠く離れた新潟県の頸城(久比岐国造)も彼を
始祖にあおいでいる。 天橋立には彼の銅像がある。
海道 -- 古語では「わたつみち」。
北海道(きたのわたつみち)と言えば、日本海沿岸を
行くルートを指した。
天正4年の播州府中記は明石氏が明石郡司(ぐんじ)家からでたことを伝え、
明石氏が古墳時代の明石国造家ともつながりがあることを示唆しています。
明石国造は奈良県の倭(やまと)国造、新潟県の頸城(久比岐)国造と同族であり
共通の先祖をまつる神社を、その勢力圏内(六甲山麓)にかかえています。
彼らは古墳時代を代表する水行勢力のひとつと言っても、そうはずれてはいますまい。
ちなみに今年の大河ドラマの主役、直江殿の先祖も頸城郡直江庄の出身であり
「あかし」「やまと」「くびき」をつなぐ線の延長線上にいるのかもしれません。
明石氏は天正3年(1575)夏、領主明石越前守は岩屋神社で雨乞いの儀式を
とりおこなったと伝えられます。 これには古墳時代の王者の面影があります。
蘇我蝦夷が雨乞いをさせたが、微雨のみで効が見られなかった。
その後、皇極女帝が自ら天に祈ると、突如大雨が降った(日本書紀 皇極元年)
明石氏が最終的な本拠とした枝吉城は明石郡衛の北西約80メートルの
ところに位置する。 郡衛の裏山といってもよいところである。