鏡作、石凝姥命 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image鏡作、石凝姥命 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

由緒  「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式 内の古社である。
 第十代崇神天皇のころ、三種の神器 の一なる八咫鏡を皇居の内にお祀りす ることは畏れ多いとして、まず倭の笠 縫邑におし祀り(伊勢神宮の起源)、 更に別の鏡をおつくりになった。社伝 によると、「崇神天皇六年九月三日、 この地において日御像の鏡を鋳造し、 天照大神の御魂となす。今の内侍所の 神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられ た)像鏡を天照国照彦火明命として祀 れるもので、この地を号して鏡作と言 ふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明 神として称えられていた。
 古代から江戸時代にかけて、このあ たりは鏡作師…

Read the full story here


コメント

  • 『日本書紀』の岩戸隠れの段

    第一の一書には以下の記述がある。

    「故即以石凝姥為冶工 採天香山之金以作日矛 又全剝真名鹿之皮以作天羽皮吹 用此奉造之神 是即紀伊國所坐日前神也」

    即ち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴(あめのはぶき(鹿の革で作ったふいご))に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり
    日前・國懸神宮の社伝では、日矛とは矛ではなく日矛鏡という名の鏡であるとし、三種の神器の一つである八咫鏡(伊勢神宮の御神体として奉斎されているとされる)に先立って造られた「日像鏡」と「日矛鏡」の二枚の鏡の一枚と伝えている。つまり、天照大御神の御姿を型取った日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)の次に作ったのが、八咫鏡であるという内容である。

    『延喜式神名帳』にある鏡作麻気神社、鏡作伊多神社については同じく社伝に「左座麻気神者天糠戸ノ命大山祇之子也、此ノ神鋳作日之御像鏡、今伊勢崇秘大神也、右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」とみえる。

    -『神社辞典』ー
  • June 2016 編集されました
    鏡作坐天照御魂神社の祭神は、一に火明命(実は饒速日尊を指す)ともいわれ、鏡作麻気神社のほうは天糠戸命を祀るというが、越前の麻気神社との関連も考えられる。鏡作伊多神社のほうは、田原本町保津と同町宮古に近隣して合計二社があり、保津は穂積に通じて、初期段階の物部氏(あるいはこれから分岐の穂積氏)の根拠地とみられる。しかも、近世以前の保津社は、現在地の東約三百Mほどの小字・伊多敷〔イタシキ〕の地にあり、保津集落の移転に従って現在地に遷座したらしいといわれる。両社ともに、祭神は石凝姥命であり、天糠戸命との関係は父娘説、夫婦説がある(このうち、夫婦説が妥当か)。なお、『式内社調査報告』によれば、『磯城郡誌』(一九一五年刊)に記す、保津社は式内・鏡作伊多神社ではなく、同じ城下郡の式内社で、物部系の穂積氏が奉斎していた富都神社(現田原本町富本)ではないか、との見方もある。
  • 銅鐸絡みで越前国丹生郡にはもう一つ注目すべき古社がある。それは、丹生郡から分かれた今立郡にあり、須波阿須疑神社という名であり、その論社(今立郡池田町稲荷に鎮座)の祭神のなかに大野手比売命があげられ、当地開発の祖神とされることである。この「野手」〔ヌデ〕が鐸すなわち銅鐸の意とみられる。もともと大野手比売は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の神で島内でも祀られているが、なぜか越前でも祀られるということは、それなりの事情があったとみられる(たんに「阿須疑」がアズキすなわち小豆に通じることだけではなかろう)。「須波」も「スワ」と訓まれて「諏訪」と解されているが、おそらく原義が「サバ(佐波)」であって、鯖江に通じるのではなかろうか。丹波国何鹿郡には類似の名の阿須須伎神社(京都府綾部市金河内町東谷)があって、往古物部氏による創祀だと伝えている。
     大野手比売という女性は海神族の倭国造ないし阿曇氏の系図に見えて、倭国造の祖・珍彦や尾張連の祖・手栗彦(高倉下)の叔母の位置におかれるが、これは小豆島の神ということにも通じよう。さて、その夫神たる「大野手比古(大鐸比古)」たる者は具体的に誰だったのだろうか。実は、上掲系図では、三輪君の祖・建日方命の妻という記事があるのだが、世代的にやや難があるうえ、越前にもあったという事情からは疑問が大きくなる。
     そして、河内国大県郡の式内社、鐸比古神社及び鐸比売神社(いま合わせて、大阪府柏原市大県に鎮座)の存在から見て、鐸比古・鐸比売とは、凡河内国造の祖・彦己曽保理命の両親たる意富伊我都命夫妻の異名にあたるのではないかとみられる。「伊我都」はイカツすなわち雷であり、越前国丹生郡には式内社の雷神社があって、その論社が大虫神社(越前市大虫町)の相殿に合祀されている事情もある。
     意富伊我都命とは、鍛冶神・剣神たる天目一箇命(天御影命)の子で、その子に上記彦己曽保理命をもつほか、三上祝や額田部連の祖・彦伊我都命(彦己曽保理命と同人の可能性もある)や山背国造の祖・阿多根命の父でもあった。意富伊我都命の兄弟には、物部氏族の祖・饒速日命がいて、これらが、わが国鍛冶部族の主体をなしていた。越前には剣神を祀る古社が多い(具体的には後述)から、天目一箇命の後裔氏族が開発者として入って丹生郡など各地に繁衍したとみられる。
     白山開基の泰澄も、そうした流れを引いていたのではないかとみられる。丹生郡麻生津(現・福井市南部の浅水の一帯)で生まれ、越智山(越前町の越知山)で修行したと伝えるが、越知山には今も独鈷水があって、巨石の割れ目から水が湧き出ている。これが、物部氏族特有のオチ水(変若水。若返りの水)であった。その出自は「三神氏」と伝えるが、近江の三上氏と同族であったか。
     その鍛冶部族に通じそうな古墳が福鉄浅水駅付近にあった鼓山古墳であり、今は消滅したが、全長四八Mの前方後円墳であった。その副葬品として鉄剣や?とともに出土した鏃をいっぱいに詰めた革製の靱二具は、全国的に珍しい遺物であった。この古墳の陪塚からは弥生時代末かと思われる甕棺を出土したが、古墳の年代は四世紀末頃と考えられると白崎昭一郎氏は記している(この段落の記事は主に『福井県の歴史』に拠る)。
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kagami1.htm
  • 『和名抄』には、摂津国菟原郡覚美郷も見えており、「覚美」はカガミで、凡河内国造の領域にある地名である。この比定地は神戸市東灘区御影あたりで、御影は鏡そのものや三上祝等の祖神・天御影神に通じ、当地には綱敷天満神社がある。近くの灘区国玉通には菟原郡式内社の河内国魂神社(五毛天満宮)があって、ともに凡河内国造が奉斎したとみられる。三上祝の系図には、崇神朝頃の人として大加賀美命という名も見える。三上祝も凡河内国造もともに、意富伊我都命の後裔氏族だから、鏡作氏の系譜も同様に位置づけるのが穏当なところであろう

    鏡作氏は近江に縁由が深い
     以上の諸事情からすると、近江の三上祝の初期分岐として鏡作氏が発生したとみるのが自然である。
  • June 2016 編集されました
    石凝姥命の系譜
    石凝姥命から始まり、その子の「天科刀見命-刀奈己利命-大諸日命(春日部村主祖)、弟の弟諸日命-大屋子命……」として、後世へつながる。一族は、大和の十市郡鏡作邑及び同郡奄知邑に住み、伊豆国田方郡に支族を分出するが、本宗は後に河内国狭山郡に遷住したことが見える。初期の上記三代は、物部氏や三上祝氏の系図には別名で現れるとみられ、その対応者を考えてみると、①石凝姥命は天目一箇命(天御影命)の妻神、②天科刀見命は意富伊我都命と同人、③刀奈己利命は神武朝の人とみられ、おそらく彦伊賀都命と同人となろう。その子の代に早くも鏡作氏は分岐したことになる。②及び③の各人が名前に「刀」の文字をもち、①及び③が「凝、己利」(コリで、金属塊の意味)の文字をもつことに留意され、初期歴代の命名はまさに鍛冶部族たることを顕現する。
    出典 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kagami1.htm
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。