倭国、新羅、百済の冠位の比較 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
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冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、日本で604年に制定され、605年から648年まで行なわれた冠位である。日本で初めての冠位・位階であった。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けるものである。七色十三階冠の施行により廃止された。

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コメント

  • 682年(天武11)8月、官人の考選に族姓を重んじる。
    683年(天武12)9月、倭直(やまとのあたい)など38氏に連の姓を授ける。
    684年(天武13)10月、守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・息長公・羽田公・酒人公・山道公など13氏に真人の姓を授ける(公は「きみ」と読む)。
    684年(天武13)11月、大三輪君など52氏に朝臣の姓を授ける。
    12月、大伴連など50氏に宿禰の姓を授ける。
    685年(天武14)6月、大和連など11氏に、忌寸の姓を授ける。
  • 隋書俀国伝
    内官には12等あり、一を大徳といい、次に小徳、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大礼、次に小礼、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信、員に定数なし
  • 北の新羅
    四世紀初めに建国し、倭国と高句麗の争いに巻き込まれ、ときには倭国の敵となつたり、ときには倭国に人質を派遣して朝貢した「北の新羅」(隋書にみえる新羅)は国号も消え、高句麗に属し統一されたのです。

    三国史記地理ニに、冥州郡(江原道)地名は【高句麗の地名であつたのを景徳王の時代に改名
    した】としています。
    冥州は穢の古国(古今郡国志)なので、ここが高句麗の地名ということは「北の新羅」は高句麗に吸収され、地名も高句麗の地名に変更されたということが分るのでした
  • 隋書にある新羅の構成国には「辰韓」がありました。この国のの南には倭が接することは、
    中国史にも書かれていました。つまり北の新羅の南には倭人国があつたのです。

    国境を境に接していた国が、高句麗に吸収されるという重大な局面になつていきました。このために倭国は中国の漢人王朝に朝貢し、外交努力をします。
    また高句麗も北朝の魏・南朝の宗の両方に朝貢して、対抗したのでした。

    五世紀代、中国史書に現れる倭国王は五人、讃・珍・済・興・武の一字名をもつて表現され、讃と珍は兄弟、珍と済の関係は親子(梁書)、済と興・武は親子です。

    ◇ 高祖(宗の武帝)の永初ニ年(421)倭讃、万里貢を修む。 除授を賜うべし」

    ◇ 太祖(宗の文帝)の元嘉二年(425)倭王讃が表を奉り方物を献ず」。

    ◇      〃 元嘉十五年?(438)讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献し、自ら使持節都督
    倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられん
    ことを求める。詔して安東将軍・倭国王に除する。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国
    将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに許す。

    ◇ 元嘉二十年(443)倭国王済、使を遣わして奉献す。 また以て安東将軍・倭国王となす。

    ◇ 元嘉二十八年(451)使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東
    将軍は元の如く、ならびに奉るところの二十三人を軍郡に除する。

    ◇ 世祖(孝武帝)の大明6年(462)済死する。世子興、使を遣わして貢献す。 世祖(孝武帝)
    詔していわく、「倭王世子興、代代すなわち忠、藩を外海になし、化をうけ境を安んじ、恭しく貢職
    を修め、新たに辺業を受け継いだ。宜しく爵号を授け、安東将軍・倭国王とせよ」と。

    ◇ 順帝の昇明二年(478)興死して、弟武立つ。みずから使侍節都督倭・百済・新羅・任那・
    加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す.使を遣わして表を奉る 
    詔して、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に除した。

    ◇ 南済高帝建元元年(479)新たに進めて除す。使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
    六国諸軍事安東大将軍倭国王 武の號を鎮東大将軍と為す。南済書

    ◇ 梁高祖武帝天鑑元年(502)高祖即位して(倭王)武の號を征東将軍に進める。梁書
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