庵智、物部筑紫連、馬飼臣、船氏、茨田、讃岐国造 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 播磨
庵智、物部筑紫連、馬飼臣、船氏、茨田、讃岐国造 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、景行天皇の皇子ではなく、垂仁天皇の女婿で、応神天皇や稚渟毛二俣命(継体天皇の先祖、息長>氏族の祖)等の父であり、針間国造の祖です。讃岐国造は稲背彦命の弟・千摩大別命から出ています。

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  • 景行の「先代」垂仁帝の許には三上一族の山代国造不遅の娘・綺戸辺(カニハタトベ、倭建命妃・両道入姫の母親)が嫁ぎ、丹波氏の始祖であり日本書紀がほとんど触れようとしない伝説の彦坐王にも同じ山代氏から山代之荏名津姫(又の名、カリハタトベ、品遅部の祖・大俣王の母親)が嫁入りし、三上氏直系と思われる天御影命の娘・息長水依比売命も妃として名を連ねています
  • 「播磨国風土記」(印南郡)によれば、景行帝の皇后・播磨稲日大郎姫(印南の別嬢)の父親は『丸部(ワニベ)臣らの始祖、比古汝茅』で、志賀の高穴穂の宮に御宇天皇(成務帝、景行の息子)の御代に、国の境を定めるために播磨の地に遣わされ、その折に地元の吉備比売に出会い結ばれ、印南の別嬢が産まれたと記されています。時代背景に錯綜が見られるものの、和邇氏の系譜には神功親子のために「戦った」 武振熊命の兄弟として「彦汝命」という人物が記載されていますから、吉備と大和の和邇が古くから何らかの繋がりを有していた可能性があります
  • 讃岐国造(讃岐)

    讃岐国造は讃岐国(現・香川県)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、景行天皇(12代)の皇子・神櫛皇子(かんぐしのみこ)の3世孫で針間国造と道祖の稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)の兄である須賣保禮命(すめほれのみこと、須売保礼命)を国造に定めたことに始まるとされる。国造氏族は讃岐氏で、敏達天皇の時代には凡直(おおしのあたい)姓を賜姓され、直流は讃岐公、讃岐朝臣に改賜姓し、嫡流は京都に移り和気朝臣に改賜姓したという。また神櫛皇子は新撰姓氏録では五十香彦命の別名・神櫛別命とされ、日本書紀では讃岐国造の始祖、古事記では神櫛王と書かれ、木国(紀国)酒部の阿比古と宇陀の酒部の祖とされている。
  • 讃岐公 大足彦忍代別天皇(景行)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
    酒部公  同皇子(五十香足彦) 三世孫の足彦大兄王(タラシヒコオオエ)の後なり。
    酒部公  和泉国皇別  讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。

    天皇本紀 またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。         [景行天皇の条]より
    五十河彦命は、讃岐直、五十河別の祖なり。大稲背別命は、御杖君の祖なり。櫛角別命は、茨田連の祖なり。

    「五十日足彦命」は垂仁ではなく、その次の大王景行帝の息子だとされる「神櫛皇子=神櫛王=神櫛別命」と同じ人物で「櫛角別王、五十河彦命、五十香足彦」の別名も持っていた四国の讃岐を本拠地とする豪族の祖だった。
    垂仁帝の「娘婿」として帝室の一員となった稲瀬毘古王即ち「稲背入彦命の父親」に当る人物が「五十日足彦命」に他なりません。
    垂仁帝と天津彦根命の後裔、山代氏の娘・綺戸辺との間に産まれたとされる「磐衝別命(イワツクワケ)=神櫛別命と同じ」がその亦の名で、先代旧事本紀は母親を丹波道主命の娘・真砥野媛だと伝えていますが、記紀も旧事本紀も同皇子が「三尾氏、羽咋氏らの祖」であると明記しており、三尾氏が六世紀初めに大和の実力者たちによって大王に推挙された継体帝の母親・振媛の実家であることはよく知られている。
  • 五十建速石別命は丹波道主王の孫なり。薊瓊入媛の子なり。兄を建速石別命という。速石里より貢奉る。弟を五十日足彦尊という。五十日里より貢を奉る。[丹哥府志]

    五十日足彦尊は、垂仁天皇と薊瓊入媛との皇子で、成務天皇の別名である。(中略)膽香足媛の「イカガ」は、今の五十河のことである。[丹後旧事記]

    「イカタラシヒコ」が丹後地方と大変縁の深い帝室の重要人物だった
  • 五十日足彦命を主祭神とし、大山咋命を配神として鎮座しているのが延喜式内社の石田(イワタ)神社。

    和気氏が自分たちの祖先だとする鐸石別命は、垂仁帝と丹波道主王の娘・渟葉田瓊入媛との間に産まれた皇子であり、古事記は「沼帯別命(鐸石別命)と伊賀帯日子命(イカタラシヒコ)は兄弟
  • 五十日真黒人編集
    五十日足彦の子孫で丹波国与謝の長者。三重長者。市辺押磐皇子の子の億計・弘計の二王子を匿った人物で、現在の京丹後市大宮町五十河(いかが)に居住したとされる。

    清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する
  • 「丹哥府志」に「木積神社今新熊野宮と称し億計・弘計の二皇孫を祀る。俗に高蔵(高森とする写しもある)大明神、三島大明神といふ」とある
    大宮町誌によれば
    木積神社旧蹟  久住・延利
    木積神社はもと刈安奥宮にあったが、文安五年(一四四八)八月地震と大洪水があり大被害をうけたので刈安の宮(古久住ロ)に移した。その時の洪水により衣冠姿の御神体二体(億計弘計二王子を祀る)の中一体が押し流され延利の小字一本木に漂流したのでこの地に宮を建て祀っていたが、安政年間皇守(延利)の権現山に移し高森(皇守)大明神と称し、御神体はそのまま引継がれて今日に至っている。また、久住刈安の木積神社は残りの御神体一体を祀っていたが、その後弘化四年(一八四七)さらに、現在の「中の谷」口に奉遷した。明治六年社寺改めの際時の官吏が御神体を持ち帰って白幣に改めたとあるから二王子の御神体の内一体は持ち去られた。(五十河沿革誌による)維新当時はこの例が間々あったが、丹後旧事記等では木積神社は式内社となっている
  • 宇麻志麻治命2 ー彦湯支命3 ー意富祢命4ー出石心大臣命5ー 鬱色雄命6 ー大水口宿禰7 ー建忍山垂根8[兄弟に末羅国造 矢田稲吉] ー 大木別垂根9[兄弟に弟橘媛 弟財郎女]ー穂積真津10 ー阿米11[兄弟に采女氏、采女宮手] ー十能寸12ー鎌子13 ー押山14 ー磐弓15 ー祖足16 ー咋 [兄弟に古閉] ー百足
  • 氏祖・穂積真津
    曾祖父:大水口宿禰(穂積氏遠祖)
    祖父:建忍山垂根
    父:大木別垂根
    母:不詳
    兄弟
    弟:加尼古(美濃穂積部の祖)
    妻:不詳
    長男:穂積阿米
    次男:采女宮手(采女氏祖)
    三男:穂積田狭
    四男:穂積小夫知

    氏祖・穂積真津が穂積姓を賜り、弟である加尼古は美濃穂積部の祖となった。真津の子には阿米、宮手(采女臣の祖)、田狭、小夫知がいたと伝わる。

    穂積氏の具体的な活動が記述されるのは、真津の玄孫にあたる6世紀前半の穂積押山からである。継体天皇に仕えた穂積押山は、蘇我韓子の娘・弟名子媛[3]を妻とし、継体6年に百済への使者に任命されて任那に駐在して任那加羅の哆唎の国守となり、任那のうち4県の百済への割譲に尽力したとされる。

    穂積押山の子である穂積磐弓は、欽明16年7月4日に蘇我稲目とともに吉備国の五郡に赴き、白猪屯倉を設置した。

    穂積磐弓の子である穂積祖足は、推古8年(600年)2月に任那日本府救援のため、征新羅副将軍に任じられて約1万の軍勢を率い新羅に出兵(新羅征討計画)、五つの城を攻略して新羅を降伏させた。

    飛鳥時代の穂積咋は、小乙下、大山上となり、大化元年(645年)に東国の国司に任命されたほか、大化5年(649年)には謀反の嫌疑がかかった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の逃亡先の山田寺を軍兵をひきいて包囲し、すでに自害していた石川麻呂の首を斬りおとさせた。穂積咋の子には、天武元年(672年)の壬申の乱で近江方の武将であった穂積百足、穂積五百枝の兄弟がおり、はじめ大友皇子(弘文天皇)のために兵力の動員を行う使者になったが、兄の百足が殺され軍の指揮権を奪われると大海人皇子(天武天皇)に従った。

    天武13年(684年)の八色の姓制定に伴い、穂積氏は52氏のひとつとして朝臣姓を賜り、穂積虫麻呂、穂積稲足、穂積濃美麻呂が朝臣姓に改姓した。また、持統5年(691年)に先祖の墓記を上進するよう命じられた18氏の中に穂積氏も含まれており、後に日本書紀の元となった。

    文武4年(700年)、穂積濃美麻呂は師の役行者と共に、相模国足柄下郡(現・神奈川県湯河原町)を訪れ陰陽の秘法を以て子之神社を創祀したとされ、このとき、当地で見出した「霊妙なる薬湯」が現在の湯河原温泉であると伝わる。

    穂積濃美麻呂の子である穂積忍麻呂は外従七位上となり、初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられ、この職は子孫が世襲した。

    穂積財麿は、正六位下勲八等となり、弘仁3年(812年)に大鳥居側に手力雄神を鎮座し奉った。

    奈良時代の官人・穂積老は、穂積咋の曾孫で、大宝3年(703年)に山陽道巡察使を命じられ、和銅3年(710年)1月1日には左将軍大伴旅人のもと、副将軍として騎兵、隼人・蝦夷らを率いて行進した。養老2年(718年)、藤原武智麻呂が式部卿に就任した際、式部大輔となる。養老6年(722年)に不敬の罪で佐渡島に配流されるが、天平12年(740年)に恩赦で入京を許された。その後、天平16年(744年)の難波京へ遷都の際、恭仁京の留守官を任され、天平勝宝1年(749年)8月に死去。この時大蔵大輔正五位上。

    その後、紀州熊野系の穂積氏は穂積国興の子・鈴木基行の代に鈴木を称し、藤白鈴木氏として続いた。また、宇井氏、榎本氏も穂積氏の分流と伝わり、熊野三党を形成した。
  • 劔神社(つるぎじんじゃ)は福岡県直方市下新入にある神社。旧社格は村社。

    遠賀川流域は物部氏のゆかりの地域である。倉師(くらじ)大神から高倉下を祀る神社とされる。

    祭祀の始祖は、筑紫の国造「田道の命」(孝元天皇の五世の孫)で、筑紫物部を率いて神々を祀ると云う。田道の命の橘孫「長田彦」が、神官となった。

    往古は「倉師(くらじ)大明神」と称えられ、年代は明らかではないが、六ヶ岳の東嶺「天上嶽」に鎮座していた。室町時代に入って足利義満は、高向兵部卿良舜を奉行とし社殿を造営し奉った。戦国時代には、龍ヶ嶽城主杉氏は、同社を粥田莊鎮守の宗社として崇敬し、社殿を「紫竹原」に遷座造営し熱田神宮より日本武尊を相殿に奉祀して「八劔大神」と称えた。江戸時代に入って、野火が入り社殿は焼失し、現在の「亀丘」に遷した。藩主黒田長清が再造営している。現在の社殿は、氏子中の奉讃により建立される。
  • 「三野・栗隈・岡田・長尾・鴨部・小田」という地名であり、これらは総合的に考えると、天孫族の流れを引く少彦名神後裔の鴨県主一族につながるものである。三野は、河内の三野県主(『姓氏録』所載の河内神別・美努連で、鳥取の同族)であり、三野前国造(同族に美濃の鴨県主がいる)であり、栗隈・岡田は山城の鴨県主の移動経路にある山城南部の拠点地であり(式内社の岡田鴨神社がある)、長尾・平尾などは吉備及び讃岐にもあって、鳥の「尾」に由来する地名・苗字である。そして、真鍋島には少彦名神たる松尾神に因む松尾の地名も残る。
  • 応神天皇の頃、羽曳野市の地は、百済貴須王(きす・おう)の子孫といわれる
    葛井氏・船氏・津氏の3氏が勢力を張っていました。

    注: 百済貴須王(近仇首:きんきゅうしゅ)は高句麗軍の侵攻を撃退,
         神功皇后が新羅征討に派遣した将軍・荒田別らと会見

    野中寺がある野々上あたりは3氏の中の船氏の本拠地で、
    野中寺は船氏の船史王後(おうご)が創建したといわれています。

    船史王後の祖父には王智仁(王辰爾:おう・じんに)がおり、
    柏原市・国分・松岳山古墳で発見された船史王後墓誌に記されています。
  • January 2017 編集されました
    イネヨリワケはヤマトタケルと近江のフタジヒメとの子供。
    次のタケカイヒコはヤマトタケルと吉備のオオキビタケヒメとの子供。
    次のアシカガミワケはヤマトタケルと山代のククマモリヒメとの子供。

    稲依別王(イネヨリワケ)は、犬上君(イヌカミノキミ)・建部君(タケルベノキミ)の祖先です。

    建貝児王(タケカイヒコ)は、讃岐の綾君(アヤノキミ)・伊勢之別(イセノワケ)・登袁之別(トオノワケ)・麻佐首(マサノオビト)・宮首之別(ミヤノオビトノワケ)の祖先です。

    足鏡別王(アシカガミワケノミコ)は鎌倉之別(カマクラノワケ)・小津(オヅ)・石代之別(イハシロノワケ)・漁田之別(イサリダノワケ)の祖先です。


    古事記 息長田別王

    息長田別王(オキナガタワケ)の子が杙俣長日子王(クイマタナガヒコ)です。
    このクイマタナガヒコの子供が、飯野真黒比売命(イイノマグロヒメ)、次に息長真若中比売(オキナガマワカナカツヒメ)、次に弟比売(オトヒメ)の三柱です。

    解説
    オキナガタワケはヤマトタケルとある夫人の間の子供。なぜ夫人の名前は残らなかったのでしょうか? 身分が低かったのか。残せない別の理由があったか。それとも「分からなかった」からか。

    オキナガワタケ王の子供のクイマタナガヒコ王は応神天皇の段で応神天皇の后である息長真若中比売(オキナガマワカナカツヒメ)の父親として登場。

    飯野真黒比売(イイノマグロヒメ)はヤマトタケルとオトタチバナヒメとの間の子供、ワカタケルと結ばれて子供をもうけます。この記述をするためだけに、「ある夫人」は古事記に書かれたのかも。
  • 播磨風土記に

    「又娶二其入レ海弟橘比売命一、生御子、若建王。
    ・・・娶二飯野真黒比売一、生子、須売伊呂大中日子王。
    此王、娶二淡海之柴野入杵之女、柴野比売一、生子、迦具漏比売命。
    故大帯日子天皇、娶二此迦具漏比売命一、生子、大江王」とある。

    小碓は倭建と別人である。
    『書紀』は迦具漏比売を見事に消している。
  • January 2017 編集されました
    イカタラシヒコ
    「五十日足彦命」は垂仁ではなく、その次の大王景行帝の息子だとされる「神櫛皇子=神櫛王=神櫛別命」と同じ人物で「櫛角別王、五十河彦命、五十香足彦」の別名も持っていた讃岐を本拠地とする豪族の祖だった。

    日本書紀
    次の妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生めり。
    (記は垂仁皇女の阿邪美都比売り命が稲瀬毘古王に嫁いだとする)
    その兄、神櫛皇子は、これ讃岐国造の始祖なり。弟の稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。         (景行紀、四年の条より)

    天皇本紀
    またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。    [景行天皇の条]より
    五十河彦命は、讃岐直、五十河別の祖なり。大稲背別命は、御杖君の祖なり。櫛角別命は、茨田連の祖なり。

    姓 氏 録
    讃岐公 (右京皇別)   大足彦忍代別天皇(景行帝)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
    酒部公 (和泉国皇別) 讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。
    羽咋公 (右京皇別)   垂仁天皇皇子、磐衝別命の後なり。亦名、神櫛別命なり。続日本紀に合えり。

    垂仁帝と天津彦根命の後裔、山代氏の娘・綺戸辺との間に産まれたとされる「磐衝別命(イワツクワケ)=神櫛別命と同じ」がその亦の名で、先代旧事本紀は母親を丹波道主命の娘・真砥野媛だと伝えていますが、記紀も旧事本紀も同皇子が「三尾氏、羽咋氏らの祖」であると明記しており、三尾氏が六世紀初めに大和の実力者たちによって大王に推挙された継体帝の母親・振媛の実家であることは周知の通りです。つまり「石田君」は「イシダ」と読むのではなく飽く迄も「イワタ」と呼んでこそ、書紀が暗喩で伝えたかった「真の情報」を正しく理解したことに成るのだと思います。十九世紀の初め頃相次いで上梓された地域志『丹哥府志』(小林充章ら、1763~1841年に記録)や『丹後旧事記』(基白堂著、小松国康遍、1810年頃成立)には、

    あじかまの潟:あじかの社は、いま何を祭るか村人も知らず。(中略)是より前、五十建速石別命を祭りしによりて名を「建石」という。稲浦より貢奉る。

    五十建速石別命は丹波道主王の孫なり。薊瓊入媛の子なり。兄を建速石別命という。速石里より貢奉る。弟を五十日足彦尊という。五十日里より貢を奉る。 [丹哥府志]
                        
    五十日足彦尊は、垂仁天皇と薊瓊入媛との皇子で、成務天皇の別名である。(中略)膽香足媛の「イカガ」は、今の五十河のことである。              [丹後旧事記]

    等の記述もあり「イカタラシヒコ」が丹後地方と大変縁の深い帝室の重要人物だったことが良く分かります。

    石田(イワタ)神社:
    丹後よりも京都府の八幡市(旧山城国久世郡)にある小さな神社

    苅幡戸辺の父が山背大国不遅という名の人でしたから、その娘が産んだ皇子を祀る社が山城国内にあって当然です。
    そして、今、五十日足彦命を主祭神とし、大山咋命を配神として鎮座しているのが延喜式内社の石田(イワタ)神社で、同社が建つ周辺の地名も「岩田茶屋の前」と呼ばれているのです。また、そこから、ほぼ東の方角に1.7㎞ほどの距離にも「磐裂神」を祀る石田神社(岩田辻垣内)があり、岩田の字を持った地域全体を支配していた「石田(イワタ)」一族の存在を強く印象付けます。元々、大王家には「姓」そのものがありません。「イワタ」は応神、継体など息長氏の血脈を受け継いだ帝の後裔を象徴した暗号のような文言だったのかも知れません。

    [註:速石里は与謝郡の拝師周辺一帯を指すものと考えられる。
    著名な天の橋立でも知られる地域です]
    五十日足彦命を祭神とする神社
    伊加奈志神社:伊予国越智郡。愛媛県今治市五十嵐字上ノ山甲634
    五十嵐神社:越後国蒲原郡「伊加良志神社」。新潟県三条市大字飯田2383
    五十君神社:越後国頸城郡。新潟県上越市三和区所山田字鳥居場550
    石田神社:山城国久世郡「石田神社」。京都府八幡市岩田茶屋ノ前75
    春日神社:越前国坂井郡「石田神社」。福井県鯖江市石田上町 44-1
    滓上神社:加賀国能美郡。石川県小松市中海町リ2
    八幡神社:越前国敦賀郡「石田神社」。福井県敦賀市三島字八幡6

    垂仁紀によると五十日足彦命は、石田君の祖とされる。
    春日山君、高志池君、春日部君
    垂仁記によると五十日帯日子王は、春日の山君、高志の池君、春日部の君の祖とされる。
  • 於神社 鎮座地 大野原町大字大野原
    誉田別命 (應神天皇)
    由緒
    古来椀貸塚の東腹に鎮座し中姫村の産土神と して崇敬せられたり
    伝うる所に據れば武内宿祢の裔 紀氏 この地を開拓 して住し紀氏の尊崇厚かりし社と云う
    亦 延喜式内 於神社は当社なりと伝えたり
    寛永年間 平田氏により郷社八幡神社の鎮座すると ころとなり 当社が飛地なるが故をもって 屡々八幡社と境 界を争いたるが 丸亀藩の裁くところとなり 境石を建 て紛争も絶えたち 而して今猶 当社の祭典維持等 は数町を隔てたる中姫中央部落の人々により之を取 り行われるものなり
    尚 当社は昭和二十三年五月一日宗教法人令により 中姫八幡神社に所属するものとなりたる
    例祭 十月十八日~二十日
    境内地 四十九坪八合五勺

    -社前案内板-


    香川県指定文化財 史跡 椀貸塚

    椀貸塚は周りに濠をめぐらした(現在は埋めて いる)大円墳で我が国古墳の特色を示すもので ある。羨門は南向きの横穴石室で巨岩(推定三五トン) をもって築いてある。石室の構築からみて、椀貸塚が 最も古く玄室は巨岩を五段に積み重(つめ石を使用) 天井石四枚でおおっている。玄室の高さは三つの古墳 で最も高い、後期古墳と考えられる。
    ・形状及び規模
    円墳横穴古墳 葺石あり、周濠があった
    周り 一一〇米 高さ 七米
    ・石室平面図
    ・発掘状況 玄室内は発掘済、鉄釘、須恵器出土
    ・所有者 大野原八幡神社
    ・所在地 大野原町大字大野原一九一三番地
    -大野原八幡宮境内案内-
  • December 2017 編集されました
    讃岐国造
    景行天皇の息子である神櫛王(神櫛皇子)

    この伝承は『日本書紀』に景行天皇の時代のこととして見えますが、注意が必要なのは神櫛王その人が国造になったのではなく、「讃岐国造の始祖なり」と書かれていることです。               その子孫は『日本書紀』履中天皇の条に、履中天皇の妃の兄(鷲住王)として登場します。
    『日本書紀』には誰がいつ最初の讃岐国造になったか、記されていません。また『古事記』には、讃岐国造のことは記事に見えません。

    797年(延暦16)に完成した『続日本紀』で、791年(延暦10)のこととして寒川郡(現在のさぬき市)の凡直千継という人が、「自分の先祖である星直が敏達天皇(在位571~586年)の時代に国造の仕事を継いだ」と述べ、ウジ名を凡直(凡讃岐直)から讃岐公へと改称した記事に見えます。
    また『日本三代実録』(901年、延喜元)には、彼らが神櫛命の子孫であると書かれています。

    こうしたことから、
    神櫛王から鷲住王を経た後、ようやく星直の先代が讃岐国造に任じられたことが推測されます。
  • もう一人の讃岐国造

    861年(貞観3)に多度郡(現在の善通寺市)の佐伯直豊雄らが提出した上奏文の中に、国造のことが書かれているのです(この記事は、『日本三代実録』に記されています)。
    ヤマトタケルの従者だった大伴健日が、東国平定の功により讃岐を賜り、その子孫・大伴倭胡が、允恭天皇の時代(5世紀中頃)に初めて讃岐国造に任じられ、その子孫は孝徳天皇の時代、つまり大化改新の時に国造でなくなった、というのです。

    神櫛王系の伝承は、8~9世紀の複数の史料に見えることから、一応信頼できる内容をもっています。大伴健日系の伝承は、かなり遅い時期の史料だけに見えるものであることから、かなり疑わしい内容であると言わざるを得ません。
    讃岐の佐伯氏(佐伯直)は、大伴氏から分かれた佐伯氏(佐伯連)とは関係がないとの説が有力で、真偽は不明ですが『日本書紀』景行天皇の条では、ヤマトタケルが熱田神宮に住まわせた蝦夷(ヤマト政権に従わない東国の人々)たちを播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5国に移住させ、佐伯部としたという伝承が残っています。

    佐伯直はこの佐伯部の管理を職掌としたというのが有力な説ですから、大伴健日系の話は『日本書紀』の記事に触発されて9世紀に創り出されたとの見方がある。
  • 多度郡と那珂郡に因支首(いなぎのおびと、善通寺市稲木町)が居住していたことから、この地域に県稲置の存在が推測される
  • 欽明十三年に中臣連鎌子、敏達紀・用明紀に中臣勝海大夫(かつみのまえつきみ)、中臣磐余(いわれ)連。推古紀には中臣宮地連(みやどころのむらじ)烏摩呂(をまろ)、中臣連国が登場。舒明紀にはいると中臣連弥気(みけ)。そして皇極、孝徳紀に欽明紀に登場した中臣鎌子が再び登場する。その間九十年。同一人物なのか、同名の別人なのか。しかも皇極紀においていつの間にか中臣鎌子はあの有名な中臣鎌足となって蘇我馬子を倒すのである。そのあと中臣徳、中臣連正月、中臣連押熊、中臣鎌足連と登場していくのであるが、中臣氏の不思議をあげると鎌子だけではない。あの物部守屋と蘇我馬子が仏教受容問題をめぐって争ったという重大な局面において何故か中臣氏は全く登場することもないのである
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    大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)の子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられます。
  • 五十日真黒人
    五十日足彦の子孫で丹波国与謝の長者。三重長者。市辺押磐皇子の子の億計・弘計の二王子を匿った人物で、現在の京丹後市大宮町五十河(いかが)に居住したとされる。

    京都府八幡市の石田神社
    祭神--五十日足彦命・天照大神・大山咋命
    相殿--饒速日命・惟喬親王
    岩田大将軍の神社という。JR学研都市線・大住駅の北約3.3kmに鎮座する
    (資料では、当社鎮座地を“岩田・茶屋の前”とあるのが多いが、社頭の社標にも「岩田大将軍鎮座」とある)
    式内石田神社明細帳(1889-明治中期、当社神職・和田氏が鎌倉以降の諸史料に記す当社縁起をまとめたもの)には、
    「延暦6年(787・奈良末期)3月11日に、山階の石田神を久世郡石田荘に遷座するようにとの神託があり、ついに当地へ勧請した」とあるという。この縁起によれば、当社は奈良末期・山階(山科)からの遷座となるが、当社に対する神階授叙の記録などなく、確認不能。また“山階の石田神”が何処の神なのか不詳。神名帳考証などがいう伏見の石田神社(現天穂日命神社、下記)ともとれるが、今の伏見区に石田と称する神社はみえない。

    当社の主祭神・イカタラシヒコ命は、垂仁天皇と山城の苅幡戸辺(カリハタトベ)の間に生まれた皇子で、日本書紀・垂仁34年条に
     「五十日足彦命、是子石田君の始祖なり」
    とあり、石田君なる氏族がその始祖を祀ったのが当社の始まりと解される。
  • 山科の岩屋神社
    醍醐山の北に連なる高塚山(485m)の北西麓、岩屋(いわや)神社の社殿は、大宅中小路町(おおやけなかこうじちょう)という地名にあるが、めざすところの奥之院の地名は大宅岩屋殿(おおやけいわやでん)。社殿から奥之院まで、朱塗りの鳥居が並ぶ杉木立の山道を、東におよそ20分ほど上って行かなければならない。

     『角川日本地名大辞典』によれば、大宅(おおやけ)は、「藤原鎌足(614~669)の陶原(すえはら)館跡伝承地で、白鳳期の寺院跡大宅廃寺もあり(大宅鳥井脇町)、古くから開けた地であることが知られる。地名の由来は、もと公(おおやけ)村と称していたのを鎌足が大宅村と改めたとも(府地誌)、陶原館が「大屋家(おおやけ)」と称されたことに由来するともいう。」とある。
     大宅廃寺については、鎌足の私邸を寺とした山階寺(やましなでら、山階精舎)であったという説。この地を地盤とする豪族、大宅氏の氏寺とする説がある。

    ◎◎◎
     社伝によれば、発祥は仁徳天皇31年(343)、奥之院の陰陽2つの巨石を、磐座として祀ったことが当社の起源とされている。境内から奈良時代以前の土器が出土しているというから、社殿が建てられる以前の古墳時代には、周辺地域の産土神として崇拝されていたのだろう。
     後年の平安時代初期、宇多天皇の寛平年間(889~898年)には、「陽岩」に天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を、「陰岩」に栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)を、また、岩の前の小社には、大宅氏の祖神として饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀ったとある。
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    醍醐寺

    祖師堂二は、真言宗を開いた弘法大師・空海と、その孫弟子で、醍醐寺を開創した理源大師・聖宝とが祀られています。弘法大師の誕生日である6月15日には、降誕会が行われます。

    開山・聖宝は、天長9年(832)讃岐の塩飽諸島の本島(現在の香川県丸亀市本島正覚院)に御誕生、承和14年(847)16歳の時、真雅僧正の室に入り得度・出家されました。以来、東大寺の東僧坊南第2室に住し、元興寺の願暁阿闍梨・円宗阿闍梨に師事し、三論を学び、東大寺平仁阿闍梨のもとで法相を修学されました。さらに東大寺玄永阿闍梨に華厳を、真蔵阿闍梨のもと律を学ばれました。この間、金峯山をはじめ霊山に抖櫢し峰中修行を実修し大きな祈りの世界を感得されました。
    当時、日本仏教の主流は、中国から請来された厖大な経論や注疏を解釈し、教理を構成することでありました。聖宝は、この風潮の中で、なにより教理を実践することの重要性を思惟し、教理を実践する具体的な方法を模索されました。40歳になられた貞観13年(871)、師僧・真雅僧正より「無量壽法」を受法されました。道場を荘厳し、行者は威儀を正し阿弥陀如来を観想することに始まる修法の世界は、聖宝の心に教えと祈りの真の融合と映り、これを包括し、深めていくことに教理の実践の道を見出されました。それは、教相と事相を確立し、伝授という具体的な礼儀を通して伝承する姿です。峰中修行で感得された大きな祈りの世界。無量壽法を通して得た修法の世界。この二つは聖宝の祈りの世界に於いて大切なことです。
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