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「倭国」から「日本」へ 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國で記述される607年に俀國王多利思北孤から派…
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(斉明五年)秋七月丙子朔戊寅、小錦下坂合部連石布・大山下津守連吉祥を遣し、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。<斉明紀>
同天皇の世、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等の二船、呉唐の路に奉使さる。・・・(略)・・・(閏十月)廿九日、馳せて東京に到る。天子、東京に在り。卅日、天子相見て問訊ふ。「日本国天皇、平安なるや不や」。・・・(略)・・・十一月一日、朝、冬至の会有り。会の日に亦観ゆ。朝す所の諸蕃の中、倭の客最も勝れたり。後、出火の乱に由りて、棄てて復検へられず。十二月三日、韓智興の[イ兼]人・西漢大麻呂、枉げて我が客を讒す。客等、罪を唐朝に獲て、已に流罪に決す。前に、智興を三千里の外に流す。客の中に伊吉連博徳有りて奏す。因りて即ち罪を免されぬ。事了りて後、勅旨すらく「国家、来年、必ずや海東の政有らむ。汝等倭の客、東に帰ること得ざれ」と。遂に西京に匿めて、別処に幽へ置く。戸を閉めて防禁し、東西にすること許さず。困苦、年を経る。<伊吉連博徳書、斉明紀五年七月条所引>
さて、ここでは、「日本」と「倭」が使い分けられている。まず、この点に着目しよう。伊吉連博徳は、「日本」の使者だ。これは唐帝に接見した時の唐帝の言葉から明らかだ。一方で、これとは別の「客」がいる。韓智興・西漢大麻呂だ。「枉げて我が客を讒す」とある。讒言の内容は、ここには書かれてはいない。だが、明らかに伊吉連博徳らのグループとは別の「客」だ。伊吉連博徳自身が「我が客」と言っているのがそれである。韓智興・西漢大麻呂は、「我が客」ではないのである。「客の中に伊吉連博徳有りて」とあるから、「客等、罪を唐朝に獲て、已に流罪に決す」とあるのは、伊吉連博徳らの一行だ。
「事了りて後」とあるが、この後の「幽閉事件」が先の「讒言事件」と関わりがあるとみることは、文脈上、自然だろう。「国家、来年、必ずや海東の政有らむ。汝等倭の客、東に帰ること得ざれ」とは、唐側の言い分だ。さて、では、この「讒言」の内容はどんなものだったのだろうか。古田はこれを「大義名分の衝突」と見た。岩波大系本では、「(「海東の政」に関わる)唐の軍事機密を知った」という讒言だと見ている。私は岩波大系本のように、「海東の政」に関わる問題としてみるほうが自然だろうと思う。だが、より重要なのは、伊吉連博徳ら日本の使者とは別の客が唐に来ている、という事実だ。これもまた、「九州王朝」の存在を示唆する史料の一つである。(ここで「倭客」の語が、伊吉連博徳らと韓智興らの両方を指していると見なされる点は、「倭」と「日本」の問題を語る上で注目しても良いと思う)
斉明5年(659)7月条の「本文」は
「秋七月丙子(へいし)の朔(つきたち)にして戊寅(ぼいん)に(=7月3日)、小錦下(せうきむげ)坂合部連石布(さかひべのむらじいはしき)・大仙下(だいせんげ)津守連吉祥(つもりのむらじきさ)を遣(つかは)して、唐國(もろこし)に使(つかひ)せしむ。仍(よ)りて道奧(みちのく)の蝦夷(えみし)男女(をのこめのこ)二人を以ちて、唐天子(もろこしのみかど)に示(み)せたてまつる」
と書き出す。
天子問曰「此等蝦夷國有何方」。
《これらの蝦夷国は、いづれのかたにありや》。
使人謹答「國有東北」。
《国は、東北に有り》。
天子問曰「蝦夷幾種」。
《蝦夷は幾種(いくくさ)ぞや》。
使人謹答「類有三種。遠者名都加留、次者名麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳、入貢本國之朝」。
《類(たぐひ)、三種(みくさ)有り。遠き者をば都加留(つがる)と名(なづ)け、次は麁蝦夷(あらえみし)、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名く。今しこれは熟蝦夷なり。歳毎(としごと)に本国の朝(みかど)に入貢(まゐりたてまつ)る》
天子問曰「其國有五穀」。
《その国に五穀ありや」。
使人謹答「無之、食肉存活》。
《無し。肉を食らいて存活(わたら)ふ》。
天子問曰「國有屋舍」。
《国に屋舍(やかず)ありや》。
使人謹答「無之。深山之中、止住樹本」。
《無し。深山の中にして樹本(このもと)に止住(すま)ふ》。
天子重曰「朕見蝦夷身面之異、極理喜怪。使人遠來辛苦。退在館裏。後更相見」。
《朕、蝦夷の身面の異なるを見て、極理(きは)めて喜び怪しぶ。使人、遠来辛苦あらむ。退(しりぞ)きて館裏に在(はべ)れ。後に更相見(またあひみ)えむ》。
蝦夷男女二人は独特な髪型に結い上げていたのか、目許・口許に黛を使用していたのか、毛深い肌を露出していたのか、特異な衣装を纏っていたのか、高宗は異文化の一端に触れて満足したようだ。これにて謁見終了。
「十一月一日、朝有冬至之會。會日亦覲。所朝諸蕃之中、倭客最勝。後由出火之亂、棄而不復檢」。
《十一月一日、朝(みかど)に冬至の会あり。会の日にまた観(まみ)ゆ。朝(まゐ)ける諸蕃の中に、倭客最も勝(すぐ)れたり。後に出火の乱に由りて、棄ててまた検(かむが)へず》。
冬至の祝賀で遣唐使は翌日もう一度天子に謁見した。どうもこの日は列国の遣使が招かれていたようで、倭国の遣使吉祥たちの見栄えが一番よかったと我が田へ水を引いている。その後は「出火の乱」があって、そのために捨て置かれ、再度のお目通りはなかった。
斉明7年(661)5月条の本文はこう書き始める。
「丁巳 耽羅始遣王子-阿波伎等貢獻」
《5月23日、耽羅(たんら)、始めて王子-阿波伎(あはき)等を遣(まだ)して貢獻(みつぎたてまつ)る》。
耽羅王は王子の阿波伎を大和王朝へ初めて派遣し、強大化した新羅へ靡くかそれとも大和朝廷に靡くか、生き残りの模索をした??
大業4年
608年 翌年(大業4=608年)に、文林郎の裴清を遣わした。百済に渡り、竹島に至り、南にタンラ国を望みながら、都斯麻国を経てはるか大海中に在り。また東へ壱岐国へ至る。また竹斯国に至る。また東へ秦王国に至る。その人華夏に於けると同じ。夷州といいながら、疑ってもよく明らかになしえない。
それからまた十余国を経て、海岸に到達した。竹斯国より東はすべて倭国に属している。
倭王は小徳「阿輩台」以下数百人を遣わし、儀仗の礼で出迎えた。10日ほど後、今度は大礼「歌多比」の騎馬隊を遣わし、都へ案内した。
倭王はたいそう喜び『大隋国は礼儀の国と聞いている。・・(中略)。願わくば大国維新の化を聞きたいものだ』と裴清に言った。
裴清いわく『ですから、徳高き皇帝の使いとして
参ったのです。皇帝のお言葉を伝えます』と。
朝命が済んだ後、裴清へ答礼の宴が催され、やがて、倭国の使者とともに裴清は帰任した。
・倭国の使者・・・書紀では「小野臣妹子」である。さらに推古紀では隋の煬帝からの国書を披露して、その中に登場する使者「蘇因高」を小野妹子だとしている。しかしそうだとすると、なぜ隋書には「使者・蘇因高」と書かれていないのか疑問が湧く。同一人物が2回も朝貢使にやって来て、しかも中国名すら与えられているというのに、その名が書かれず仕舞いというのはちょっと解せない。
・返書の紛失・・・書紀の推古紀16年条の6月、「小野妹子は隋から隋国使・裴世清らと帰ってくる途中、百済で百済人によって皇帝の返書を強奪された」と記すが、それにしては同じ条の8月に裴世清は都入りし、倭国王の前で持参した国書を読み上げているのは不可解。妹子の貰って来た皇帝の返書とこの裴世清が読み上げた国書とは別物なのだろう
これによると倭国が日本国に替った年代がはっきり書かれている。天智九年である。天智の最後の前の年である。白村江から八年くらい、この時、倭国が替って日本国というようになったと、こう書いてある。